第38話 健司との朝
朝食を食べていると、健司が来た。今日も休診日ではないはずだが、往診の合間を縫って来てくれたらしい。
『おはよう』
手話で挨拶する健司。たった二日で、かなり流暢になっている。
そして、健司からかすかに香る石鹸の匂い。清潔で、爽やかな香り。医師らしい。
でも、その奥に、健司特有の匂いもある。優しくて、温かくて、安心できる匂い。
『今日は風神社ね』
『はい。風の欠片があるはずです』
三人は村の北にある風神社へ向かった。
道すがら、チヨは村の香りを胸一杯に吸い込んだ。
朝の炊事の煙、畑の土の匂い、野花の香り。そして、近づいてくる雨の匂い。
空気が湿り気を帯びて、独特の匂いを放っている。もうすぐ雨が降る。
■風神社への道のり
山道を登りながら、チヨは自然の香りに包まれていた。
杉の木の清々しい香り、苔の湿った匂い、土の深い香り。山には無数の香りが満ちている。
ふと、甘い香りが漂ってきた。
立ち止まって辺りを見回すと、山百合が咲いていた。純白の花が、朝日を受けて輝いている——もちろん、色は見えないが。
『きれい』
ルカが手話で伝える。
チヨは花に顔を近づけ、深く香りを吸い込んだ。
濃厚で、官能的でさえある山百合の香り。野生の花の力強さと、繊細な美しさを併せ持つ香り。
『いい香りでしょう?』
健司が手話で尋ねる。
『素晴らしい香り。忘れられない』
本当に、忘れられない。この香りを胸に刻んで、たとえ嗅覚を失っても覚えていよう。
その時、風が吹いた。
風は様々な香りを運んでくる。遠くの田んぼの青い匂い、誰かの家の味噌汁の匂い、そして——
『煙?』
チヨは眉をひそめた。
普通の煙ではない。何か、不吉な匂いが混じっている。
健司も気づいたようで、心配そうに辺りを見回している。
でも、すぐに風向きが変わり、その匂いは消えた。




