第37話 ルカの優しさ
「おはよう」
振り返ると、ルカが立っていた。もう声は聞こえないが、口の形と、覚えたての手話で挨拶してくれる。
『おはよう。コーヒー、ありがとう』
チヨも手話で返す。二日でかなり上達した。
『チヨ姉ちゃんの好きな豆で淹れたよ』
ルカの手話はまだぎこちないが、一生懸命さが伝わってくる。
コーヒーカップを手に取り、香りを深く吸い込む。
ブルーマウンテン。チヨが一番好きな豆。上品で、バランスの取れた香り。
『美味しい?』
ルカが心配そうに見つめる。
『とても美味しい。香りも最高』
本当だった。味覚はまだあるから、コーヒーの味も楽しめる。でも、この香りが感じられるのは今日まで。
ルカはホッとしたように微笑んで、自分もコーヒーを注いだ。
姉妹で並んで、静かにコーヒーを飲む。
その時、ルカが使っているシャンプーの匂いに気づいた。花のような、優しい香り。
『ルカ、新しいシャンプー?』
『うん。ジャスミンの香り』
ジャスミン。清楚で上品な花の香り。ルカによく似合っている。
『いい香り。ルカらしい』
ルカが照れたように俯いた。
この香りも、もう二度と感じられない。妹が選んだシャンプーの香りさえも。
朝食を作りながら、チヨは台所のすべての香りを心に刻んだ。
醤油の香ばしい匂い、味噌の深い香り、炊き立てのご飯の甘い匂い。だしを取る時の、昆布と鰹節の優しい香り。
どれも、日本の朝の原風景。




