第30話 水の記憶を読む力
水に触れると、そこに宿る記憶が直接心に流れ込んでくる。
井戸の水には、村の長い歴史が刻まれていた。
最初の開拓者たちが、この井戸を掘った日。汗と涙と、そして希望。
日照りの年、村人たちが集まって雨乞いをした記憶。必死の祈りと、恵みの雨が降った時の歓喜。
子供たちが水遊びをした夏の日々。無邪気な笑い声が、水の記憶として残っている。
そして——
白装束を纏った女性が、井戸の前で祈っている姿。
それは、歴代の巫女たちだった。皆、同じように欠片を求めてここに来た。そして、大切なものを失っていった。
『水の記憶が見えます』
チヨは手帳に書いた。
健司が驚いた表情を見せた。そして、優しく微笑んで書いた。
『さすがチヨだ。失っても、新しい力を見つける』
その優しさに、胸が熱くなった。
健司からの温かい眼差し。それだけで、音のない世界も少し明るくなる。
■地上への帰還
二人は井戸から上がった。
梯子を登る時、自分の手が鉄を掴む音も、足が段を踏む音も聞こえない。ただ、振動だけが体に伝わってくる。
地上に出ると、ルカが泣きながら駆け寄ってきた。
口が大きく動いている。「チヨ姉ちゃん!」と叫んでいるのだろう。でも、その声は届かない。
チヨは手帳を見せた。
『大丈夫。でも、もう声が出ません』
ルカの顔が歪む。また大粒の涙がこぼれる。
妹が何か言っている。唇の動きを読もうとするが、早すぎて分からない。
健司が間に入って、ルカに説明しているようだ。身振り手振りを交えて、状況を伝えている。
やがてルカは頷いて、手帳に書いた。
『手話、覚える』
短い文字に、強い決意が込められている。
『一緒に覚えよう』
健司も書いた。
三人は顔を見合わせた。新しいコミュニケーションの形を、一緒に見つけていく。それもまた、絆の一つの形かもしれない。




