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第3話 ルカとの朝

そのとき、店の奥から絵の具の瓶が転がる音がした。ガラスが床を転がる澄んだ音が、静かな朝に響く。


「チヨ姉ちゃん!見て見て!」


十五歳のルカが駆け寄ってきた。チヨと同じ金色の瞳を持つ少女は、頬に青い絵の具をつけたまま、嬉しそうにスケッチブックを掲げていた。中学三年生になったばかりの妹は、最近急に背が伸び始め、子供っぽさと大人びた雰囲気が同居していた。制服のスカートから伸びる脚は、まだ少し細いが、確実に女性らしさを帯び始めている。


「ほら、今朝の霧を描いたの。紫色に見えたから」


そのページには、色とりどりの花々が咲き乱れる幻想的な風景が描かれていた。紫がかった霧の中で、光の道が伸びている。まるで異世界への入口のよう。十五歳とは思えない繊細な筆致で、霧の微妙な色合いが表現されていた。水彩絵の具が紙に滲む様子まで、計算されたかのように美しい。


ルカは寝言で呟いていた。 「夢を...写して...」 翌朝、本人は覚えていない。


「綺麗ね、ルカ。でも……」


チヨは窓の外を見やった。窓ガラスに映る自分の姿と、その向こうに広がる濃い霧。霧は不穏な渦を巻き、色合いも確かに薄い紫色を帯びていた。普段の白い霧とは明らかに違う。それは危険の前兆であり、チヨの胸に不安が広がる。


「昨夜、井戸の方から変な音がしなかった? ゴボゴボって、まるで誰かが……」


ルカの表情が曇る。思春期特有の繊細さで、姉の不安を敏感に察知したようだった。青い絵の具のついた手を、無意識にスカートで拭う。


「うん……怖かった。でもチヨ姉ちゃんがいるから大丈夫だよね?」


「ねえ、チヨ姉ちゃん。明日も一緒にいてくれる?」 「もちろん」 「明後日も?」 「うん」 「ずっと?」 「...ずっとよ」


その言葉に、どれだけの信頼が込められているか。ルカの金色の瞳が、不安と期待を同時に映している。


チヨはルカの頭を優しく撫でた。少女の黒髪は絹のように滑らかで、手の下で小さな太陽のように温かい。妹の無邪気な信頼が、チヨの心に胸を締め付けるような痛みと愛情を同時にもたらした。


「もちろん。姉ちゃんが守ってあげる」


その言葉には迷いがなかった。どんな代償を払っても、この妹だけは守り抜く——そんな決意がチヨの心に燦然と輝いていた。しかし、その代償とは何なのか。彼女はまだ、その全貌を理解していなかった。


ルカは安心したように微笑んだが、その笑顔の奥に、かすかな不安が残っているのをチヨは見逃さなかった。


スケッチブックの隅に、無意識に書かれた文字。 「夢写師」 いつ書いたのか、ルカ自身も分からない。


霧姫伝説の絵本


朝食の支度をする前に、ルカは本棚から古い絵本を取り出した。


「ねえ、チヨ姉ちゃん。これ、また読んでもいい?」


それは『霧姫伝説』という題名の、手作りの絵本だった。代々橋爪家に伝わるもので、和紙に描かれた挿絵は色褪せているが、まだ十分に美しい。


「いいよ。でも、朝ごはんの後にね」


「うん!」


ルカは絵本を大切そうに抱えながら、ページをめくった。そこには、白い着物を纏った美しい女性——霧姫の姿が描かれている。長い黒髪、優しげな表情、そして手には不思議な光を放つ宝珠。


「霧姫様って、本当にいたのかな?」


ルカが絵本を見つめながら呟く。その挿絵の中には、霧姫に仕える巫女たちの姿もあった。皆、白い装束を身に纏い、手には鈴や鏡を持っている。


「きっと、今も見守ってくれているよ」


チヨは優しく答えた。窓の外の霧を見つめながら、心の中で付け加える。——そして、私たちに使命を託している、と。


「あ、見て!」


ルカが指差したページには、「影写りの巫女」と呼ばれる特別な巫女の挿絵があった。他の巫女とは違い、その姿は半透明に描かれ、手には不思議な形をしたカメラのような道具を持っている。


「影写りの巫女って、どんな人だったんだろう」


「きっと、大切なものを守るために、自分を犠牲にした人よ」


チヨの言葉に、何か予感めいたものが含まれていることに、ルカは気づかなかった。


「我、愛さる。ゆえに我あり」 それが、影写りの巫女が遺した言葉だという。

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