第29話 両親の記憶
水面に映ったのは、若き日の両親だった。
照也と美咲が、この井戸で水を汲んでいる。まだ結婚する前の二人。照也が井戸から水を汲み上げ、美咲がそれを受け取る。その時、二人の手が触れ合った。
「あ……」
美咲が顔を赤らめ、照也も照れくさそうに笑う。
音声は聞こえる。今はまだ、聴覚があるから。
「美咲さん、いつも水汲みご苦労様」
「いえ、これくらい……」
「手伝いますよ」
「でも、照也さんは写真の現像が」
「君のためなら、いくらでも時間を作るさ」
若い父の声。チヨは初めて聞いた。優しくて、少し照れ屋で、母を深く愛している声。
場面が変わる。
今度は、幼いチヨとルカを連れた美咲が井戸に来ている。
「この井戸の水はね、特別なの」
美咲が優しく語りかける。
「水は記憶を宿す。大切な思い出も、悲しい記憶も、すべて水が覚えていてくれる」
幼いチヨが不思議そうに井戸を覗き込む。
「じゃあ、今日のことも覚えててくれる?」
「ええ、もちろん」
美咲はチヨとルカを抱きしめた。
「家族の幸せな記憶は、永遠に残るわ」
その声に、深い愛情と、かすかな悲しみが混じっている。美咲は既に、自分の運命を知っていたのだろう。
映像が消えた。
「お母さん……」
涙が頬を伝った。
「チヨ」
健司が優しく肩を抱いた。
「君のお母さんも、同じ道を歩んだんだね」
「はい……でも、お母さんは最後まで欠片を集められなかった」
チヨは泉に手を伸ばした。水は冷たく、でも不思議と心地よい。指先が結晶に触れた瞬間——
■聴覚と声の喪失
世界から音が消えた。
完全な静寂。
健司の声も、水の音も、自分の心臓の音さえも。
まるで、厚い壁に囲まれたような、絶対的な無音の世界。
「!」
声を出そうとしたが、声帯が震える感覚はあっても、音が出ているかどうか分からない。
パニックが襲ってくる。
これが、完全な静寂。想像していたよりも、ずっと恐ろしい。
チヨは振り返った。健司が何か叫んでいるが、聞こえない。唇の動きから、自分の名前を呼んでいることだけは分かった。
必死に声を出そうとする。でも、やはり音が出ているか分からない。喉が震えているのは感じるが、それが声になっているのか……
慌てて、健司からもらった手帳を取り出す。震える手で書く。
『声が出なくなりました。聴覚も失いました』
健司の顔が青ざめた。彼も手帳を取り出し、素早く書いた。
『大丈夫?痛みは?』
『痛みはありません。でも……』
チヨは続きを書こうとして、手を止めた。どう表現していいか分からない。音のない世界の寂しさを。
自分の呼吸音さえ聞こえない。心臓の鼓動も感じるのに、その音は届かない。まるで、世界から切り離されたような感覚。
でも同時に、新しい感覚も芽生えていた。




