第2話 橋爪チヨと懐中時計
築百年を超えるハシヅメ写真館の古い木戸が、錆びた蝶番の音を立てて開いた。屋根瓦には苔が生え、軒下に吊るされた風鈴が微かな朝風に揺れ、清冽な音色を奏でる。その音が、霧の中で不思議な響きを持って広がっていく。店の窓際には最新のカメラが展示されていたが、その隣には代々受け継がれた特別な装置——魂写機が鎮座していた。普通のカメラとは異なり、レンズの周りには複雑な歯車が組み込まれ、内部には青く輝く水晶が埋め込まれていた。
橋爪チヨは写真館の店先に立ち、霧のアルバムを胸に抱えていた。二十二歳。肩まで伸びた黒髪を後ろで一つに結び、紺色の前掛けの下には、母から受け継いだ藍染めの着物を纏っていた。彼女の瞳は不思議な金色を帯び、朝露に光が宿ったようにきらきらと輝いていた。その目は、普通の人間には見えないものを見通す力を持っているようだった。
アルバムの革表紙を撫でながら、ページをめくる。そこには写真ではなく、光の粒子で描かれた記憶の断片が浮かび上がっていた。初代住民たちの開拓の様子、霧姫に捧げられた祭りの情景、そして両親——照也と美咲——が井戸の前で光の網を編む姿。一つ一つの映像が、チヨの胸に温かさと懐かしさ、そして使命感を呼び起こす。
「村の光を、守らなければ……」
チヨの指先が、アルバムに刻まれた古い記憶をなぞる。その指先は光を透かすように白く、確かな強さを秘めていた。皮膚の下には青い静脈が透けて見え、巫女としての力と繊細さを同時に感じさせる。
「父さん、母さんの遺した使命……私が継がなければ。あと9日、封印が完全に解けてしまう前に」
その言葉は決意というより、運命の受容だった。金色の瞳に映るのは、使命感と、抗いがたい宿命への覚悟。誰にも聞こえない独白だったが、その言葉は村の霧に吸い込まれ、どこか遠くへと響いていくように思えた。心の奥では、代償の大きさを理解していながらも、揺るぎない決意が燃えていた。
「私は思えなくなっても、愛されている限り存在するのか?」 「記憶されなくても、影響を与えた世界に私は残るのか?」
その問いに、まだ答えはない。 でも、愛する人たちを守るためなら――
チヨは懐から取り出した銀の懐中時計を眺めた。代々橋爪家の女性が受け継いできた宝物だ。蓋には繊細な花の模様が刻まれており、裏面には「橋爪家の時を刻む」という言葉が彫られていた。母・美咲から受け継いだこの時計は、巫女の使命と共に代々受け継がれてきたものだった。
時計の蓋を開ける。カチッという小さな音が、静寂の中で不思議に大きく響いた。時計の針は規則正しく時を刻んでいたが、なぜか夜の七時四十二分を指していた。
表層:時間の停止 中層:姉妹の絆 深層:愛は時間を超越するというテーマの具現化
「七時四十二分……」
チヨは時計の文字盤を見つめながら呟いた。夜の七時四十二分——宵の口の、まだ人々が起きている時間。でも同時に、現世と異界の境が曖昧になり始める刻限。母は「写し世と現世の境界が最も薄まる結節点」とだけ言っていた。
夕暮れが終わり、夜の帳が下りたばかりの時刻。月が力を持ち始め、霊的な存在が活動を始める時間。それは偶然ではなく、必然だったのかもしれない。
時計の針を見つめていると、一瞬、秒針が震えたような気がした。まるで、何かに共鳴するように。だが、すぐに元の規則正しい動きに戻る。
「この時間に、何が起きるの……」
チヨは時計を胸に抱いた。冷たい金属の感触が、着物越しに伝わってくる。いつか、この時計の真の意味を知る時が来るのだろうか。
「いつか、ルカに渡さなければ」
チヨは時計を再び懐にしまった。封印が完成する瞬間、この時計もまた重要な役割を果たすだろう。そのとき、時計の針は運命の時刻で止まり、彼女の存在が消える合図となる——そんな予感が胸をよぎった。
人生は一枚の写真。 記憶はアルバム。 忘却は褪色。 愛は永遠に色褪せない部分。