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第14話 欠片集めの朝

わたしは、色をひとつずつ手放していった。


赤も、青も、夕焼けも、あなたの笑顔の頬も。


でもそれは、恐ろしいことじゃなかった。 あなたを写すためなら、どんな色も、いらなかった。


灰色の世界の中で、 わたしの光は――まだ、あなただけだった。


光とは始まりなりすべての色を内に秘め闇を照らす希望となるされど光を失う者は新たな世界の扉を開く——『霧姫伝説・光の章』より


■欠片集めの朝


1994年5月17日、午前5時。


チヨは暗闇の中で静かに起き上がった。今日で色彩を失う。この世界を「見る」最後の日。窓から差し込む月明かりを、じっと見つめた。


月光が作り出す影の形、カーテンの隙間から漏れる光の筋、部屋の中に生まれる明暗の階調。すべてが、まだ色彩を持って輝いている。月の白い光、窓枠の深い茶色、畳の落ち着いた緑。


いや、違う。今日は色彩を失うだけだ。まだ、形は見える。でも、色のない世界とはどんなものだろう。愛する人たちの表情から、温もりが消えてしまうのだろうか。


隣の部屋で寝ているルカを起こさないよう、そっと着替えを済ませる。藍染めの着物に白い前掛け、そして首から下げた魂写機。これが今日から始まる旅の装いだ。


藍色。これが最後に見る藍色。母から受け継いだ着物の深い色合いを、心に焼き付ける。手で布地をなでると、染料が生地に染み込んでいく過程まで想像できるような、豊かな色だった。何度も洗濯を重ねてもなお、その深みを失わない、職人の技が生きた藍色。


昨夜のシロミカゲとの出会いから、一睡もできなかった。これから始まる九日間で、自分は感覚を失い、最後には存在そのものが消えてしまう。その重みが、胸を押しつぶしそうだった。


台所に降りると、朝食の準備を始める。ルカの好きな卵焼き、味噌汁、そして炊きたてのご飯。これらの味を自分が感じられるのも、あと何日だろうか。


フライパンに卵を流し込みながら、ふと手が止まった。


黄色い卵液が、フライパンの上で少しずつ固まっていく。この鮮やかな黄色も、もうすぐ見られなくなる。ルカの好きな、少し焦げ目のついた茶色い部分も。


「そうだ、今日のうちに……」


チヨは棚から古いノートを取り出した。母・美咲が残したレシピノートだ。その空白のページに、丁寧に書き始める。


『ルカの好きな甘い卵焼きの作り方』


卵3個、砂糖大さじ2、醤油少々、みりん小さじ1。焼き方のコツまで、細かく記していく。


「焼き色は、薄いきつね色になるまで。ルカは少し甘めが好きだから、砂糖は気持ち多めに」


文字を書きながら、チヨは思った。色が見えなくなったら、どうやって焼き加減を判断すればいいのだろう。でも、きっと方法はあるはず。香りとか、音とか、別の感覚で補えるかもしれない。


「あれ、チヨ姉ちゃん、早いね」


振り返ると、パジャマ姿のルカが立っていた。寝癖のついた髪を掻きながら、大きなあくびをしている。


ルカの寝間着は、薄いピンク色。頬も睡眠でほんのりとピンクに染まっている。この愛らしい色も、今日で見納めだ。瞳の金色も、髪の艶やかな黒も、唇の自然な赤みも。すべてが、あと数時間で灰色の濃淡に変わってしまう。


「おはよう。今日は早起きしようと思って」


「ふーん」


ルカは不思議そうな顔をしたが、すぐに朝食の匂いに気を取られた。


「わあ、美味しそう!」


食卓に座った妹を見ながら、チヨは心の中で誓った。この子の日常を、必ず守ってみせる。たとえ自分がどんな姿になろうとも。


「ねえ、チヨ姉ちゃん」


「なあに?」


「今日の卵焼き、いつもより黄色が濃い気がする。新しい卵?」


チヨの胸が痛んだ。ルカは何気なく色の話をしている。明日からは、こんな会話もできなくなる。


「そうね、昨日買ってきた新鮮な卵よ」


「やっぱり!色が違うと思った」


ルカの金色の瞳が、朝日を受けてきらきらと輝いている。その色を、チヨは食い入るように見つめた。母譲りの、美しい金色。朝の光を受けると、まるで液体の黄金のように輝く。

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