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第1話 霧の村と二つの影

霧と記憶に似ている。

掴もうとすれば指の間から逃げていくが、確かにそこにあることだけは感じられる。


ねえ、あなたは誰かの名前を呼んだことがある?


その声が届かなかった日。

その姿が消えてしまった朝。その笑顔を思い出せなかった夜。


わたしは、あるの。名前を呼ぶたびに、少しずつ遠ざかっていった人が。写真には残っているのに、心には触れられない人が。


記憶はね、霧のようなもの。

消えても、そこにあったことだけは……たしかに感じられる。


だから―― わたしは、写すの。

忘れてしまうあなたのために。

思い出したいあなたのために。

もう二度と、祈りが霧に沈まないように。


わたしの声が届かなくてもいい。

名前を思い出せなくてもいい。

でも、どうか―― この想いだけは、写っていて。


それが、世界にひとつ残された、わたしの"祈り"。


七時四十二分。 なぜ、この時間なのか。


夜の帳が下りて間もない時刻。

昼と夜の境界を越えた、宵の口の神秘的な時間。


「写し世と現世が最も近づく瞬間」


七時四十二分の針が止まるとき

巫女は永遠を選び

愛する者は記憶を失う

されど魂の絆は

写し世と現世を超えて続く ——『霧姫伝説』より


久遠木村の朝


1994年、梅雨を前にした5月の朝。


霧梁むりょうけん県の奥深い山あいにある久遠木くどき村を、朝靄が絹のように優しく包み込んでいた。その名の通り、夕方になると深い霧に包まれるこの村だが、朝の霧もまた格別だった。標高800メートルの山間に位置するこの地は、昼夜の寒暖差が霧を生む。朝霧は谷底から湧き上がり、まるで生き物のように村を這い回る。


世界から絵の具が流れ落ちていくようだった。


古い石畳の道は、江戸時代から変わらない。苔むした石の隙間から、名も知らぬ野草が顔を覗かせる。道の両側には、築100年を超える商家が並ぶ。瓦屋根には青い苔、軒下には燕の巣。朝露が瓦を濡らし、一枚一枚が鈍く光を反射している。


村の中央を流れる霧乃川は、清流として知られていた。川面を霧が撫でる時、幻想的な光景が生まれる。水と霧の境界が曖昧になり、まるで天と地が溶け合うような風景。川のせせらぎは霧に吸い込まれ、不思議な静寂を作り出す。


この村で生まれ育った者は、霧を読めるという。今日の霧は少し紫がかっている。それは、良くない兆候だった。空気が重く、息をするのも苦しいような圧迫感。霧の中に、何かが潜んでいるような不安が漂う。


一瞬、霧の奥に黒い外套の人影が見えた気がした。だが、瞬きをすると、そこには何もない。ただ、霧が不自然に渦を巻いているだけ。


いや、よく見ると―― その影が二つに分かれているような... 白と黒が重なって見えた。 錯覚だろうか。


ポケットベルや初期の携帯電話が都会では普及し始めていたが、ここではまだ公衆電話が主な通信手段だった。山の稜線が薄墨画のように霞み、時が止まったかのような静寂が村全体を支配していた。


古びた公民館の壁に貼られたカレンダーには、「平成六年五月」の文字。その隣には、先月行われた村祭りのポラロイド写真が飾られていた。注意深く見ると、写真の色が不自然に薄れ、人々の表情がぼやけ始めていることに気づくだろう。まるで記憶そのものが霧に溶けていくように。


写真は嘘をつかない。 しかし、写らなかったものの方が、時に真実を語ることもある。

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