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氷の教官との対峙

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裏路地でのエリアーナとの邂逅から数日が過ぎた。あの一件以来、彼女の俺に対する態度は、明らかに変化していた。以前のような遠慮がちな様子は消え、授業の合間や休み時間に、何かと理由をつけて話しかけてくるようになった。その内容は、他愛のない世間話から、授業内容に関する質問、そして時には、俺の過去や能力について、遠回しに探るようなものまで含まれていた。俺は、相変わらず素っ気ない態度で応対し、極力関わりを避けようと努めていたが、彼女の真っ直ぐで曇りのない瞳に見つめられると、完全に無視し続けることも難しくなってきていた。彼女との間に生まれた、この奇妙な距離感に、俺は内心、戸惑いを隠せずにいた。


そして、エリアーナ以上に俺の神経をすり減らしていたのが、アストリッド・ベルク教官の存在だった。授業中の視線はより鋭く、長く俺に向けられるようになっており、時には、他の生徒にはしないような、意地の悪い、あるいは本質を突くような質問を投げかけてくることもあった。俺は、その全てを、最大限の警戒心を持って受け流し、平凡という仮面を維持し続けていたが、その精神的な負担は計り知れない。いつ、彼女が決定的な行動を起こしてくるのか。俺は、常にその可能性を危惧していた。


その日は、朝から重苦しい曇り空が広がっていた。湿気を含んだ空気が、学院全体に淀んでいるように感じられる。そんな陰鬱な雰囲気の中で、午後の実技訓練が終わった直後、それは訪れた。


「アッシュフォード」


訓練場からの帰り際、背後から呼び止められた。声の主は、言うまでもなくアストリッド教官だった。俺は足を止め、ゆっくりと振り返る。彼女は、他の生徒たちが去っていくのを待ってから、俺に近づいてきた。その表情は、いつものように読み取れない。だが、氷のような青い瞳の奥に、何か決意のようなものが宿っているのを、俺は見逃さなかった。


「……何か御用でしょうか、教官」


俺は、平静を装って問い返した。周囲には、もう俺たち以外の人影はない。


「少し、話がある。私の部屋まで来い」


それは、命令だった。反論の余地はない。俺は、内心で覚悟を決めた。ついに来たか、と。彼女が、俺に対して何らかのアクションを起こす時が。


「……分かりました」


俺は短く答え、彼女の後に続いた。アストリッド教官の個人研究室兼教官室は、校舎の最上階の、あまり人が立ち入らない一角にあった。重厚な木製の扉には、彼女の名前が刻まれた真鍮のプレートが取り付けられている。彼女が鍵を開け、中に入るように促す。俺は、深呼吸を一つして、その部屋へと足を踏み入れた。


部屋の中は、意外なほど整然としていた。壁一面には、天井まで届く本棚が設えられ、難解そうな魔法理論書や、分厚い歴史書、戦術論に関する書物などがぎっしりと並んでいる。部屋の中央には、大きな執務机が置かれ、その上には書類が綺麗に整理されている。机の横には、古い剣が一本、壁に立てかけられていた。鞘には、かつて彼女が所属していたであろう騎士団の紋章が刻まれているのが見える。窓際には、いくつかの実験器具のようなものも置かれており、彼女が魔法の研究にも熱心に取り組んでいることが窺えた。部屋全体に、厳格で、無駄がなく、そしてどこか冷たい、彼女自身の性格が反映されているような空気が漂っていた。


アストリッドは、俺に来客用の硬そうな椅子を勧めると、自身は執務机の椅子に深く腰掛け、指を組んで俺に向き直った。窓の外は、相変わらずの曇り空で、部屋の中は少し薄暗い。彼女の顔には、窓からの弱い光が当たり、陰影を深くしていた。


「さて、アッシュフォード」


彼女は、静かに口火を切った。その声は、いつも通りの低く落ち着いたものだったが、その響きには、普段以上の重みが感じられた。


「まずは、最近の君の成績についてだが……座学はともかく、実技に関しては、褒められたものではないな。特に、魔力制御の精度と、身体能力の低さが目立つ。このままでは、進級も危ういかもしれんぞ」


当たり障りのない、教官としての当然の指摘。だが、俺には分かっていた。これは、本題に入る前の、単なるジャブに過ぎない。彼女は、俺の反応を窺っているのだ。


「……申し訳ありません。努力はしているつもりなのですが……どうも、昔から不器用なもので」


俺は、用意していた答えを口にした。自嘲的な笑みを浮かべて、自分の「平凡さ」を強調する。


「ふむ、不器用、か」


アストリッドは、俺の言葉を繰り返した。その青い瞳が、俺の顔をじっと見つめている。まるで、その言葉の裏にある真実を探ろうとしているかのようだ。


「君の経歴書には、出身は辺境の小さな村としか書かれていないな。それ以前は、どこで、何をしていた? 魔法や戦闘の基礎は、どこで学んだのだ?」


質問は、徐々に核心へと近づいていく。俺は、内心で警戒レベルを引き上げながら、答えた。


「……特別なことは何も。村で、独学で学んだだけです。師と呼べるような人もいませんでしたし、本格的な訓練を受けた経験もありません」


これも、あらかじめ用意しておいた嘘だ。師匠の存在を隠し、自分の能力が天性のもの、あるいは偶然の産物であるかのように見せかけるための。


アストリッドは、俺の答えを聞いても、表情を変えなかった。彼女は、机の上に置かれた書類の束から、一枚の紙を取り出した。それは、先日の魔法薬学の授業に関するレポートのようだった。


「独学、ね。では、先日の魔法薬学の授業で、君が指摘した『反転調和』における素材の色調変化についてだが……あれは、極めて高度な、そして古い知識だ。教科書には載っていないどころか、現代の魔法薬学の主流からは忘れ去られつつある理論でもある。独学だけで、どうやってそのような知識を得たのだ?」


鋭い指摘。俺は、一瞬、言葉に詰まった。あの時の発言は、やはり軽率だったのだ。


「……それは……たまたま、古い本で読んだ記述を思い出しただけです。何の根拠もない、ただの思いつきですよ」


「古い本、か。どんな本だ? タイトルは? 著者は?」


アストリッドは、執拗に食い下がってくる。俺は、冷や汗が背中を伝うのを感じながら、必死に言い訳を考えた。


「……すみません、タイトルまでは覚えていません。ずいぶん昔に、村の古道具屋で手に入れた、ぼろぼろの本だったので……」


我ながら、苦しい言い訳だと思った。アストリッドは、明らかに納得していない表情だった。彼女は、レポートを机に置くと、再び指を組み、俺を真っ直ぐに見据えた。


「アッシュフォード。単刀直入に聞こう」


彼女の声のトーンが、わずかに低くなった。部屋の空気が、さらに張り詰める。


「君は、一体何者だ?」


ついに、核心を突く質問が来た。俺は、息を呑んだ。だが、ここで動揺を見せるわけにはいかない。俺は、努めて冷静に、無表情を保ったまま、彼女の視線を受け止めた。


「……何者、と言われましても。俺は、リオン・アッシュフォードです。この学院の一生徒に過ぎません」


「ほう? 一生徒、ね」


アストリッドは、皮肉な笑みを浮かべた。


「では、聞かせてもらおうか。訓練場で暴走した魔法を、防御障壁も使わずに、攻撃的な魔力操作だけで逸らした、あの異常な技術は何だ? あれは、到底、独学で身につけられるような代物ではない。むしろ、高度な戦闘訓練を受けた者、それも、極めて特殊な流派の技のように見えたが?」


彼女は、やはりあの時の俺の行動を、詳細に分析していたのだ。俺の言い訳が通用しないことを、彼女は知っている。


「……あれは、本当に偶然です。火事場の馬鹿力というか……自分でも、どうやったのか分かりません」


俺は、あくまで「偶然」を主張するしかなかった。だが、アストリッドは、鼻で笑った。


「偶然、ね。では、先日、君が裏路地でチンピラどもを追い払った一件は、どう説明する? あれも、偶然か?」


俺は、目を見開いた。彼女もあの出来事も知っていたのだ。どこから情報を得たのか? エリアーナが話したのか? いや、彼女はそんなことをするタイプではないだろう。だとすれば、アストリッド自身が、独自の情報網を持っているということか……?


「……何のことだか、分かりません」


俺は、とぼけることにした。認めるわけにはいかない。


「しらを切るか。目撃情報もあるのだぞ。君は、複数の相手を、ほとんど力を使わずに、機転と最小限の体術だけで翻弄し、追い払った。その際の動き、状況判断能力、相手の心理を読む力……どれも、ただの『不器用な生徒』ができることではない。むしろ、熟練の工作員か、暗殺者のような動きだった、と言ってもいい」


工作員、暗殺者。彼女の口から出た言葉に、俺は背筋が凍る思いがした。彼女は、俺の過去の、あるいは師匠の影を、俺の動きの中に見ているのかもしれない。


「……それは、完全な誤解です。俺は、ただ道に迷って、偶然その場に居合わせただけで……」


「誤解、か。都合の良い言葉だな」


アストリッドは、椅子から立ち上がり、ゆっくりと俺の前に歩み寄ってきた。彼女の身長は、俺とそれほど変わらないが、その存在感は圧倒的だった。氷のような青い瞳が、至近距離から俺を射抜く。


「アッシュフォード。私は、騎士団に長く身を置いていた。様々な人間を見てきた。才能を持つ者、それを隠す者、悪用する者……君のような人間も、何人か見てきたことがある」


彼女の声は、静かだったが、有無を言わせぬ響きを持っていた。


「いいか、”力”というものは使い方によっては、多くの人々を救うこともできれば、逆に、計り知れない災厄をもたらすこともできる。私は、君のような『不安要素』を、この学院に、そしてこの国に、野放しにしておくわけにはいかないのだ」


彼女の言葉は、半ば脅しのように聞こえた。俺を、危険分子と見なしている。そして、場合によっては、排除することも考えている、と。


俺は、拳を強く握りしめた。怒りと、そしてわずかな恐怖が、胸の中で渦巻く。だが、ここで感情的になっては、彼女の思う壺だ。俺は、最後の抵抗を試みた。


「……教官。あなたは、俺を疑っている。それは分かりました。ですが、俺が何か、あなたや学院に害をなすようなことをしましたか? 俺は、ただ静かに、平凡に、この学院で学びたいだけなんです。それ以上でも、それ以下でもありません」


俺は、必死に訴えた。自分の無害さを、そして、平凡への渇望を。


アストリッドは、俺の言葉を黙って聞いていた。彼女の表情は、依然として読み取れない。やがて、彼女は小さく息をつくと、俺から少し距離を取った。


「……今のところは、な」


彼女は、静かに言った。


「だが、君の存在が、今後、どのような影響をもたらすか。それは、誰にも分からない。だからこそ、私は君を注視し続ける」


それは、事実上の宣戦布告だった。彼女は、俺から決定的な情報を引き出すことはできなかった。だが、彼女の疑念は、もはや確信へと変わっている。そして、俺に対する監視を、今後も続けていく、と。


「今日のところは、以上だ。もう行っていい」


アストリッドは、そう言って、再び執務机の椅子に腰掛け、書類に目を落とした。まるで、俺との会話は、もう終わったとでも言うように。


俺は、しばらくその場に立ち尽くしていた。全身から、どっと疲労感が押し寄せてくる。激しい心理戦は、俺の精神力を大きく削り取っていた。だが、同時に、心の奥底で、新たな決意のようなものが燃え始めていた。


アストリッド・ベルク。彼女は、間違いなく強大な壁だ。俺の自由を脅かす、最大の障害と言ってもいいかもしれない。だが、だからといって、俺は諦めるわけにはいかない。俺は、自由になるために、師匠との約束を果たすために、この学院に来たのだ。どんな困難が待ち受けていようとも、俺はこの道を歩き続けなければならない。


俺は、アストリッドに一礼すると、音を立てずに部屋を出た。扉を閉めた瞬間、張り詰めていたものが切れ、思わず壁に手をついた。額からは、汗が流れ落ちていた。


廊下は、いつの間にか、さらに薄暗くなっていた。窓の外では、厚い雲が空を覆い尽くし、まるで世界が終わるかのような、不気味な静けさが漂っている。


俺は、重い足取りで、廊下を歩き出した。アストリッドとの対峙は、俺に多くのことを教えてくれた。

自由への道のりが、いかに険しく、危険に満ちているかということ。


どんどん更新していきますので作品評価&ブックマークをお願いします!

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