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裏路地の邂逅

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その日の放課後、俺は珍しく、一人で王都の市街地をぶらついていた。理由はいくつかあった。一つは、ここ数日の学院生活で溜まりに溜まった精神的な疲労を、少しでも紛らわせたかったこと。アストリッド教官の執拗な監視の目、エリアーナの探るような視線、ゼイドのあからさまな敵意――それら全てが、俺の神経をすり減らしていた。平凡という仮面を被り続けることは、思った以上に骨の折れる作業だった。


もう一つの理由は、単純な気まぐれだ。たまには、息抜きも必要だろう。学院という閉鎖された空間から離れ、雑多な人々の喧騒の中に身を置けば、少しは気分も変わるかもしれない。そう期待して、俺は制服から普段着に着替え、当てもなく王都の大通りを歩き始めたのだ。


王都アステリアの午後は、活気に満ちていた。石畳の道をひっきりなしに馬車が行き交い、露店を広げる商人たちの威勢の良い声が響き渡る。様々な人種や身分の人々が、思い思いの服装で闊歩している。香辛料の匂い、焼きたてのパンの香り、そして人々の汗と熱気が混じり合った、独特の匂い。学院の中とは全く違う、猥雑で、しかし生命力に溢れた空気。俺は、フードを目深に被り、人混みに紛れるように歩きながら、久しぶりに肩の力を抜いた。ここでは、俺がリオン・アッシュフォードである必要はない。ただの、名もなき通行人の一人でいられる。それは、ほんの束の間ではあったが、心地よい解放感だった。


しばらく大通りを歩いた後、俺はふと、脇道へと逸れた。特に理由があったわけではない。ただ、人混みを避け、もう少し静かな場所を歩きたくなっただけだ。その道は、次第に狭くなり、建物の影が濃くなっていく。いわゆる、裏路地というやつだろう。日中でも薄暗く、湿った空気が漂っている。壁には意味不明な落書きがされ、道の隅にはゴミが打ち捨てられている。大通りの華やかさとは対照的な、寂れた雰囲気。だが、俺にとっては、むしろこちらの方が落ち着くような気もした。人目を気にせず、思考に耽るには、こういう場所の方が都合がいい。


どれくらい歩いただろうか。角を曲がった先で、俺は不意に足を止めた。前方で、何やら揉め事が起こっているようだった。三人の、見るからに柄の悪い男たちが、一人の少年を取り囲んでいた。男たちは、いずれも体格が良く、薄汚れた革鎧のようなものを身に着けている。おそらく、街のチンピラか、それに類する輩だろう。対する少年は、まだ十歳にも満たないように見える。着ている服はみすぼらしく、痩せた体は小刻みに震えていた。


「おい、ガキ。さっき俺たちの仲間が落とした財布、お前が拾ったんだろ? 正直に言えよ」


チンピラの一人が、ドスの利いた声で少年を脅している。少年の手には、古びた小さな革袋が握りしめられていた。おそらく、彼自身のなけなしの金だろう。


「ち、違う……これは、僕のお金だもん……」


少年は、涙目で必死に訴えるが、チンピラたちは聞く耳を持たないようだった。


「へえ、しらばっくれる気か? いい度胸じゃねえか」

「痛い目に遭わねえと分かんねえようだな」


男たちは、下卑た笑みを浮かべながら、じりじりと少年との距離を詰めていく。少年は、恐怖で顔を引きつらせ、後ずさろうとするが、背後は壁だ。逃げ場はない。周囲には、他に人影は見当たらない。このままでは、少年がどうなるかは火を見るより明らかだった。


面倒なことになった。俺は、内心で舌打ちした。見て見ぬふりをして、この場を立ち去るのが、最も賢明な選択だろう。俺は、自由を求めている。そのためには、目立たず、波風を立てずに生きることが重要だ。他人のトラブルに首を突っ込むなど、愚の骨頂だ。


だが……。目の前で、明らかに力の弱い者が、理不尽な暴力に晒されようとしている。それを黙って見過ごすことが、果たして「自由」なのだろうか? 師匠は、俺に「自由に生きろ」と言った。それは、自分のことだけを考え、他者を見捨てろという意味だったのだろうか?


俺の足は、その場に縫い付けられたように動かなかった。胸の奥で、何かが小さく疼くのを感じる。それは、師匠から受け継いだ正義感なのか、あるいは単なる自己満足なのか。分からない。だが、この状況を放置して立ち去ることは、どうやら俺にはできそうになかった。


とはいえ、ここで派手に魔法を使ったり、圧倒的な身体能力を見せつけたりするのは、絶対に避けなければならない。誰が見ているか分からないし、後々面倒なことになるのは確実だ。力を隠したまま、この状況を打開する方法は……?


俺は、素早く周囲を見渡した。裏路地は狭く、逃げ道は限られている。壁際には、空の木箱や、用途不明のガラクタが積み上げられている。あれを利用できるか? いや、もっと確実な方法は……。


俺は、チンピラたちの様子を観察した。三人の関係性、立ち位置、表情。リーダー格は、中央で少年を脅している男だろう。左右の二人は、やや格下といった雰囲気で、リーダーの指示を待っているように見える。彼らの注意は、完全に目の前の少年に向けられている。


俺は、深く息を吸い込み、覚悟を決めた。そして、何食わぬ顔で、彼らに向かって歩き出した。足音は、わざと少し大きく立てる。


「ん? なんだ、テメエは?」


俺の接近に気づいたチンピラの一人が、訝しげな顔でこちらを睨んだ。リーダー格の男も、不機嫌そうに振り返る。


俺は、フードを被ったまま、できるだけ弱々しく、怯えたような声を出した。


「あ、あの……すみません、道に迷ってしまって……大通りに出るには、どっちに行けばいいでしょうか?」


俺の突然の登場と、間抜けな質問に、チンピラたちは一瞬、呆気に取られたようだった。リーダー格の男が、苛立ったように吐き捨てる。


「あ? 知るかよ! さっさと失せろ、邪魔だ!」


「そ、そんな……困ります……」


俺は、さらに情けない声を出し、わざとよろめくふりをして、リーダー格の男に近づいた。そして、彼の足元に積み上げられていたガラクタの一つ――汚れた金属製のバケツ――を、軽く蹴飛ばした。


ガラン! という大きな音が響き、バケツがリーダー格の男の足に当たった。


「いってぇ! 何しやがる、この野郎!」


男は、怒鳴り声を上げ、反射的に俺の方を向いた。その瞬間、俺は、彼の注意が完全に俺に向いたのを確認し、素早く動いた。狙いは、彼が少年に手を伸ばそうとしていた、その腕。俺は、すれ違いざまに、彼の肘のあたりを、軽く、しかし的確に、指先で突いた。ほんの一瞬、彼の神経を麻痺させるための、特殊な体術の応用だ。力はほとんど込めていない。だが、効果はあった。


「ぐっ……!?」


男は、腕に走った痺れに、一瞬動きを止めた。その隙を見逃さず、俺はさらに続けた。今度は、彼の背後にいるチンピラに向かって、わざとらしく叫んだのだ。


「うわっ! な、なんだ、あんた、足元にネズミが!」


「はあ!? ネズミだと!?」


背後のチンピラは、大のネズミ嫌いだったのか、あるいは単に驚いただけなのか、俺の言葉に過剰に反応し、慌てて飛び退いた。その際、隣にいたもう一人のチンピラの足を踏んづけてしまう。


「痛え! 何すんだ、てめえ!」

「わ、悪い! だって、ネズミが……」


一瞬にして、チンピラたちの間に混乱が生じた。リーダー格は腕の痺れに戸惑い、他の二人は仲間割れのような状態になっている。彼らの注意は、もはや少年からは完全に逸れていた。


俺は、その隙に、怯えて立ち尽くしている少年の腕を掴んだ。


「……今のうちに、逃げろ」


小声でそう告げると、少年ははっと我に返り、俺の手を振りほどいて、裏路地の奥へと駆け出した。その足は、驚くほど速かった。


「あ! おい、待ちやがれ、クソガキ!」


リーダー格の男が、ようやく状況を理解し、少年を追おうとする。だが、俺は彼の前に立ちはだかり、再び、今度はわざとらしく、彼の足元でつまづいてみせた。


「うわっ!」


俺は、派手に転ぶふりをして、男の足にまとわりつくように倒れ込んだ。


「邪魔だ、どけ!」


男は、俺を蹴り飛ばそうとするが、俺は彼の足にしがみつき、離さない。その間に、少年はすっかり姿を消してしまった。


「ちっ……! あのガキ、逃しやがって……!」


リーダー格の男は、忌々しげに舌打ちし、俺を睨みつけた。他の二人も、ようやく落ち着きを取り戻し、俺を取り囲むように立つ。まずい状況であることには変わりない。だが、少なくとも、少年は助かった。


「てめえ……わざと邪魔しやがったな?」


リーダー格の男が、低い声で凄む。俺は、地面に座り込んだまま、怯えたふりを続けた。


「ひぃ……! す、すみません……わざとじゃ……」


「嘘つけ! お前、あのガキの仲間だな?」


「ち、違います……! 本当に、道に迷って……」


俺の情けない演技が功を奏したのか、あるいは、少年を逃してしまったことで、俺に構うのが馬鹿らしくなったのか。リーダー格の男は、しばらく俺を睨みつけていたが、やがて、チッと舌打ちすると、吐き捨てるように言った。


「……まあ、いい。お前みたいな雑魚に構ってる暇はねえ。行くぞ、お前ら」


彼は、仲間たちにそう告げると、俺を一瞥もせずに、裏路地の反対方向へと歩き去っていった。残された二人のチンピラも、恨めしそうな視線を俺に向けながら、リーダーの後を追っていく。


やがて、彼らの足音が完全に聞こえなくなり、裏路地には再び静寂が訪れた。俺は、ゆっくりと立ち上がり、服についた埃を払った。額には、冷や汗が滲んでいた。うまくいった、とは言い難いが、最悪の事態は避けられただろう。何より、俺の力は、誰にも気づかれなかったはずだ。魔法も使っていないし、使った体術も、常人離れしたものではない、と思わせるように偽装した。ただ、運良く相手の隙を突き、混乱させただけだ、と。


さて、長居は無用だ。早くこの場を立ち去ろう。そう思い、歩き出そうとした、その時だった。


「……リオン君?」


背後から、聞き覚えのある声が聞こえた。まさか、と思った。だが、その声の主は、俺が最も警戒している人物の一人だった。


俺は、ゆっくりと振り返った。そこには、驚きと、そして深い疑問を浮かべた表情で、エリアーナ・クレスウェルが立っていた。彼女は、どうやら近くの建物の陰に隠れて、一部始終を見ていたらしい。服装は、学院の制服ではなく、上品な街着だ。友人とでも待ち合わせをしていたのだろうか。


「……クレスウェルさん。どうして、こんなところに?」


俺は、動揺を悟られないように、努めて平静な声で問いかけた。だが、心の中は、嵐のように荒れていた。なぜ、彼女がここにいる? よりにもよって、このタイミングで。俺の、学院の外での、しかも「らしくない」行動を、またしても彼女に見られてしまった。


エリアーナは、俺の問いには答えず、心配そうな顔で俺に近づいてきた。


「あなたこそ、大丈夫だったの? 怪我は……?」


彼女は、俺の腕や足元を気遣うように見ている。その仕草は、純粋な心配からくるものだろう。だが、俺には、それが新たな尋問の始まりのように感じられた。


「……ああ、見ての通り、何ともない」


俺は、素っ気なく答えた。彼女は、俺の態度に少し怯んだようだったが、すぐに意を決したように、真っ直ぐに俺の目を見て、問いかけてきた。


「……どうして、あんなことをしたの? 危なかったじゃない。それに、あのチンピラたちを追い払った方法……あれは、ただの偶然とは思えないわ。あなたは、まるで……全てを計算していたみたいだった」


鋭い指摘。彼女は、やはり気づいていた。俺の行動が、単なる幸運や偶然ではないことに。


俺は、視線を逸らし、言い訳を探した。


「……さあな。ただ、運が良かっただけだ。それに、あのまま放っておくわけにもいかなかっただろう」


「運……? 本当にそうなの?」


エリアーナは、納得していないようだった。彼女の碧眼が、俺の心の奥底を探ろうとしているかのように、じっと俺を見つめてくる。その視線は、学院で見せるそれよりも、さらに真剣で、強い意志を宿しているように感じられた。


「あなたは、学院ではいつも無気力で、何事にも関心がないように振る舞っている。でも、さっきは違った。まるで別人のようだったわ。それに、この前の訓練場の時も……あなたは、本当は何者なの? どうして、そんなに力を隠そうとするの?」


矢継ぎ早の質問。そのどれもが、俺の核心に迫るものだった。俺は、言葉に詰まった。ここで下手に嘘をついても、彼女の疑念を深めるだけだろう。だが、真実を話すわけにはいかない。


俺は、沈黙を選んだ。エリアーナの視線から逃れるように、再びフードを目深に被り直し、彼女に背を向けた。


「……俺のことは、放っておいてくれ」


低い声で、そう告げる。それは、拒絶の言葉だった。これ以上、俺に関わるな、と。


だが、エリアーナは、引き下がらなかった。彼女は、俺の前に回り込み、再び俺の進路を塞いだ。その瞳には、諦めの色はない。むしろ、より強い決意のようなものが宿っている。


「放っておけないわ。だって、気になるもの。あなたのことが」


その真っ直ぐな言葉に、俺は思わず息を呑んだ。彼女は、俺の秘密や、隠された力に興味があるのではない。俺という人間そのものに、関心を抱いている、と。そう言っているように聞こえた。


俺たちは、薄暗い裏路地の中で、しばらく無言で見つめ合った。湿った壁、遠くから聞こえる街の喧騒、そして、俺たちの間に流れる、奇妙な緊張感。学院の中とは違う、剥き出しの感情がぶつかり合うような感覚。


やがて、俺は重い口を開いた。


「……クレスウェルさん。あんたには、関係ないことだ」


「関係なくないわ。だって、私たちは……クラスメイトでしょう?」


クラスメイト。その言葉が、妙に胸に響いた。俺は、ずっと一人で生きてきた。師匠以外に、心を許せる存在はいなかった。学院に入ってからも、誰とも深く関わろうとせず、孤独を選んできた。だが、エリアーナは、そんな俺の壁を、壊そうとしているのかもしれない。


俺は、彼女の視線から逃れるように、再び顔を伏せた。


「……とにかく、俺に構うな。俺は、あんたたちが思っているような人間じゃない」


そう言い捨てて、俺は今度こそ、彼女の横をすり抜け、足早にその場を立ち去った。背後で、エリアーナが何かを言おうとした気配がしたが、俺は振り返らなかった。


裏路地を抜け、再び大通りの喧騒の中に戻る。だが、先ほど感じた解放感は、もうどこにもなかった。代わりに、重苦しい疲労感と、新たな苛立ちが、俺の心を支配していた。


学院の外でさえ、俺は自由にはなれないのか。エリアーナ・クレスウェル。彼女の存在は、俺の計画にとって、ますます大きな障害となりつつある。彼女の真っ直ぐな瞳に見つめられるとつい感情的になってしまう。


俺は、深い溜息をつきながら、人混みの中へと紛れていった。

どんどん更新していきますので作品評価&ブックマークをお願いします!

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