古の囁きと聖炎
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レナード先輩が、黒曜石の小箱から噴出した黒い靄のような負のエネルギーに蝕まれ、苦悶の声を上げている。その指先は黒ずみ、瞳孔は開き、全身が激しく痙攣していた。セレスティア先輩の防御結界も、この種の精神攻撃には効果がないようだ。アストリッド教官が彼の肩を掴み、必死に呼びかけているが、レナードの意識は急速に混濁し、危険な状態へと陥りつつあった。
(……このままでは、レナード先輩の精神が持たない。あの石像兵の群れとの戦いの後、皆を癒した聖炎……あの時は、広範囲に、かつ魔力の消耗を抑えるために、かなり出力を絞って使った。だが、この強力な精神汚染を浄化するには、あの時以上の力が必要になるだろう。アストリッドやミリアの前で、さらに俺の力の深い部分を見せることになるのは避けたいが……)
俺の心は、一瞬だけ揺れた。だが、目の前で苦しむ仲間を見捨てるという選択肢は、俺にはなかった。師匠は、「力は、守るべきもののために使え」とも言っていた。今の俺にとって、守るべきものは、俺自身の自由だけではないはずだ。
「……仕方ない。やるしかないか」
俺は、小さく、しかし確固たる決意と共に呟いた。そして、革手袋をはめた右手を、苦しんでいるレナードの額へと、そっと差し伸べる。
「リオン君……?」
俺のただならぬ気配に気づいたのか、エリアーナが不安そうな顔で俺を見た。
俺は、彼女には答えず、目を閉じて精神を集中させた。そして、体内の魔力を練り上げ、それを純粋な白銀の光――聖炎へと変換していく。それは、先ほど仲間たちの傷を癒した温かい光よりも、さらに凝縮され、そして清浄な、全てを浄め祓うための、聖なる炎の奔流。
「……レナード先輩、少し荒療治になりますが、我慢してください。前回よりも、少し強く力を込めます」
俺は、小声でそう告げると、練り上げた聖炎の力を、レナードの額から、彼の精神の奥深くへと、一気に流し込んだ。前回、皆を癒した際は、魔力の消耗を抑えるために最小限の出力に留めていたが、今回は違う。この邪悪な呪詛を完全に浄化するためには、聖炎の本来の力を、ある程度解放する必要があった。
「ぐ……うあああああああああっっ!!」
レナードが、これまで以上の苦悶の声を上げた。彼の全身が激しく痙攣し、目が見開かれる。聖炎の浄化の力と、レリーフからの負のエネルギーが、彼の精神の中で激しく衝突し、せめぎ合っているのだ。
「リオン君、レナード先輩が……!」
エリアーナが、心配そうに声を上げるが、俺は首を横に振って制した。
「大丈夫です。信じてください。これは、彼を救うための唯一の方法です」
俺は、エリアーナの視線を真っ直ぐに受け止め、力強く言った。
俺は、さらに聖炎の力を高め、レナードの精神を蝕む黒い靄のような負のエネルギーを、焼き尽くし、浄化していく。彼の額から、まるで汗のように、黒い粘液状のものが滲み出し、それが聖炎の清浄な光に触れた瞬間、シュウゥゥ……という音を立てて霧散していくのが見えた。
数瞬後。レナードの身体の痙攣が、徐々に収まっていった。その表情から苦悶の色が消え、呼吸も次第に穏やかになっていく。そして、固く閉じられていた彼の瞼が、ゆっくりと開かれた。その瞳には、まだ混乱の色は残っていたが、確かな理性の光が戻り始めていた。
「……はぁ……はぁ……。な、なんだ……今のは……? 頭の中にあった、あの黒い霧のようなものが……消えていく……。それに、この温かくて、清らかな光は………」
レナードは、荒い息をつきながらも、ようやく意識を取り戻したようだった。彼は、自分の額に当てられた俺の右手に、そしてそこから放たれる白銀の聖炎の光に、驚きの目で見入っている。
俺は、そっと彼から手を離した。聖炎の力の行使は、やはり魔力の消耗が激しい。額に、汗が滲んでいた。
「……レナード先輩、大丈夫ですか?」
俺は、できるだけ平静を装って尋ねた。
「あ、ああ……。リオン君……君が、また助けてくれたのか……? あの、頭の中に流れ込んできた、あの禍々しい邪悪な気配を……君のあの光が……完全に浄めてくれたというのか……? 前回の治癒の時とは比べ物にならない、この圧倒的な浄化の力……!君の聖炎は一体どこまで奥深いんだ!?」
レナードは、まだ少し朦朧としながらも、俺の聖炎が彼を救ったこと、そしてその力が前回とは比較にならないほど強力であったことに気づいているらしい。その目は、驚愕と、感謝と、そして何よりも、未知の現象に対する強烈な知的好奇心で、再び輝き始めていた。
「リオン君……!」
エリアーナが、俺のそばに駆け寄ってきた。その瞳は、潤んでいたが、そこに恐怖の色はなかった。むしろ、彼女の顔は紅潮し、その瞳は、俺に対する純粋な尊敬と、隠しきれないほどの強い好意で、キラキラと輝いていた。
「リオン君……ありがとう。あなたがいなければ、レナード先輩は……。あなたの力は、本当に……本当にすごいのね」
彼女は、心からの称賛と感謝を、素直な言葉で俺に伝えてくれた。その真っ直ぐな想いは、俺の心を少しだけ温かくする。
ミリアは、その翠色の瞳を細め、俺の姿を値踏みするように見つめている。
「破壊の炎だけでなく、これほどの聖なる浄化の力まで……。ますます、彼を手に入れる価値が高まったわね」と、その表情が語っているかのようだった。
アストリッド教官は、厳しい表情のまま、俺と、そして回復したレナードを見つめている。
「……アッシュフォード。やはり君には、後でじっくりと話を聞かせてもらう必要があるな。その力の由来と、君がそれを隠している理由について」
彼女の声は低く、有無を言わせぬ響きを持っていた。
俺は、仲間を救えたことに安堵しつつも、自分の秘密がまた一つ知られてしまったことに焦りを感じていた。
しかし、それでも不思議と少し晴れやかな気分だった。
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