日常の中の観察眼
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先日の訓練場での一件――俺が暴走した魔法からエリアーナを庇い、異常な方法でそれを逸らしてしまった出来事は、案の定、生徒たちの間で様々な憶測を呼んでいた。ある者は、俺が咄嗟に幸運を発揮しただけだと考え、ある者は、俺が何か特別な力を隠しているのではないかと囁き、またある者は、単なる偶然や見間違いだと結論付けていた。決定的な証拠がない以上、噂は噂の域を出ず、数日も経てば人々の興味も薄れていくかに見えた。
だが、俺自身にとっては、決して忘れられる出来事ではなかった。あの瞬間、俺は明らかに「やりすぎた」。平凡という仮面を維持するために細心の注意を払ってきたにも関わらず、反射とはいえ、あまりにも常軌を逸した能力の片鱗を見せてしまったのだ。その代償は、決して小さくなかった。エリアーナ・クレスウェルの俺を見る目には、以前の心配や非難とは異なる、深い「疑問」と、どこか探るような色が加わった。ゼイド・フォン・ヴァルガスの俺に対する視線は、単なる侮蔑から、明確な「苛立ち」と敵意へと変わった。そして何より、アストリッド・ベルク教官の監視は、より一層厳しく、そして執拗になったように感じられた。彼女は、公然と俺を問い詰めることはしないものの、授業中、休み時間、果ては廊下ですれ違う瞬間でさえ、その鋭い青い瞳で俺の動向を探っている。その視線は、まるで俺の心の奥底まで見通そうとしているかのようで、息が詰まる思いだった。
そんな状況下で、俺は以前にも増して、平凡を装うことに全神経を集中させていた。授業中は、わざと簡単な質問でつまずいてみせたり、実技訓練では、ギリギリ及第点レベルの成果しか出さないように細心の注意を払ったりした。周囲の生徒たちと同じように、アストリッド教官の厳しい指導に顔を顰め、疲れたふりをする。それは、まるで常に綱渡りをしているような感覚であり、精神的な消耗は激しかった。自由とは、これほどまでに窮屈なものだっただろうか。師匠の遺した言葉の意味を、俺は未だ掴みかねていた。
そんなある日の午後、魔法薬学の授業が行われていた。今日のテーマは、「月光草と陽光花の相反する性質を利用した、簡易回復薬の調合理論」。名前からして矛盾しているような素材を、特定の触媒と手順を用いて調和させ、治癒効果を引き出すという、かなり高度で繊細な内容だった。担当の老教授は、白衣を纏い、穏やかな口調ながらも熱心に、その複雑な調合プロセスについて解説している。
「――この二つの素材は、単体では互いの効果を打ち消し合ってしまう。しかし、ここに銀露水と微量の精霊の粉を、適切なタイミングと温度で加えることで、マナの流れが反転し、一時的な調和状態が生まれるのじゃ。この『反転調和』こそが、この回復薬の鍵となる…」
老教授の説明は丁寧だったが、内容は極めて難解だった。教室のあちこちから、理解が追いつかないといった様子の生徒たちの、小さな呻き声や溜息が聞こえてくる。俺は、例によって退屈さを押し殺し、ノートに無意味な図形を描きながら、聞き流していた。月光草と陽光花。師匠の書斎にあった古文書には、これらの素材のさらに高度な応用――例えば、特定の条件下で組み合わせることで、強力な毒にも、あるいは万能薬にもなり得る、といった記述があったことを思い出す。現代の魔法薬学は、古代の知識のほんの一部しか解き明かせていないのだ。
「先生、質問があります」
手を挙げたのは、エリアーナだった。彼女は、いつも通り真剣な表情で、しかし少し困惑した様子で問いかけた。
「はい、クレスウェル君、どうぞ」
「その、『反転調和』が起こる際のマナの流れについてなのですが…教科書には、銀露水を加えた瞬間にマナが一方向に安定すると書かれています。ですが、もし素材の純度や温度にわずかな誤差があった場合、マナの流れが不安定になり、予期せぬ反応を引き起こす可能性はないのでしょうか? 例えば、毒性が発現したり、あるいは爆発したり…」
エリアーナの質問は、的を射ていた。教科書に書かれているのは、あくまで理想的な条件下での理論だ。実際の調合では、様々な不確定要素が絡み合い、失敗のリスクは常につきまとう。彼女は、その点を鋭く指摘したのだ。
老教授は、彼女の質問に感心したように頷いた。
「ふむ、良い質問じゃ、クレスウェル君。確かに、君の言う通り、素材の誤差や手順のずれは、予期せぬ結果を招く可能性がある。特に、この二つの素材は性質が不安定ゆえ、失敗すれば危険な反応を引き起こすこともあり得るじゃろう。それゆえ、熟練の魔法薬師でも、この調合には細心の注意を払うのじゃよ」
老教授はそう答えたが、エリアーナはまだ納得していないようだった。
「では、その危険性を回避するための、具体的な方法は…あるいは、失敗の兆候を事前に察知する方法などはないのでしょうか?」
彼女は、さらに食い下がった。その真摯な探求心には、好感が持てた。だが、老教授は少し困ったように首を捻った。
「うーむ、それは非常に難しい問題じゃな。失敗の兆候は、熟練の感覚と経験によって察知するしかない場合が多い。教科書に書けるような、明確な指標というものは、残念ながら…」
教室に、わずかな沈黙が流れた。エリアーナは、少し残念そうな表情を浮かべている。他の生徒たちも、この難解な問題について、これ以上の議論は無理だと感じているようだった。
その時、俺は、ほとんど無意識のうちに、口を開いていた。
「……あの、先生」
しまった、と思った。また余計なことを口にしてしまうところだった。だが、すでに老教授や周囲の生徒たちの視線が、俺に集まっている。今更、発言を撤回することもできない。
「おお、アッシュフォード君か。珍しいな、君から質問とは。何かね?」
老教授は、少し意外そうな顔で俺に問いかけた。俺は、内心で舌打ちしながら、できるだけ「平凡な生徒」を装って、言葉を選んだ。
「いえ、質問というか……ただ、思っただけなんですけど……その、マナの流れが不安定になるっていうのは、もしかして、調合中の素材の色とか、匂いとか……そういう、五感で感じられる部分に、何か変化が現れたりするんじゃないかなって……例えば、陽光花の色が、本来の金色じゃなくて、少し赤みがかって見えたりとか……」
俺が口にしたのは、師匠の古文書にあった記述の、ほんの一部だった。特定の素材の組み合わせが不安定になった際に現れる、微細な兆候。熟練した者でなければ気づかないような、些細な変化。それを、あたかも「素人の思いつき」であるかのように、曖昧な言葉で提示してみたのだ。
俺の言葉を聞いた老教授は、最初、きょとんとした顔をしていたが、やがて目を見開き、ポンと手を打った。
「おお! そうか、その視点はなかった! 陽光花の色調変化……確かに、古代の錬金術の文献に、それに類する記述があったような気もする! マナの不安定化が、素材の光学的特性に影響を与える……なるほど、なるほど! いや、アッシュフォード君、君はすごい発見をしたかもしれんぞ!」
老教授は、興奮した様子で捲し立て、すぐに羊皮紙を取り出して何かを書きつけ始めた。教室中の生徒たちが、驚いたような、あるいは信じられないといったような顔で、俺を見ている。
エリアーナも、驚きと、そして強い興味が混じったような目で、俺を見つめていた。「あなた、どうしてそんなことを…?」と、その目が問いかけているようだった。
ゼイドは、苦虫を噛み潰したような顔で、俺を睨みつけている。彼にとって、俺のような存在が、教授に褒められること自体が、我慢ならないのだろう。
そして、教室の後方。アストリッド教官は、やはり無表情のまま、静かに俺を見ていた。だが、その手元で、彼女が持っていたペンが、何事かをメモするように動いているのが見えた。
「……いえ、本当に、ただの思いつきですから」
俺は、慌ててそう言い、注目から逃れるように俯いた。またやってしまった、という自己嫌悪と、周囲の視線に対する強い警戒心で、心臓が早鐘のように打っていた。平凡を装うことが、これほどまでに難しいとは。俺は、一体どこまで、自分を偽り続けなければならないのだろうか。
その日の授業が終わった後、休み時間になっても、俺の周囲はどこか落ち着かなかった。何人かの生徒が、遠巻きに俺を見てひそひそと話している。エリアーナは、何度も俺に話しかけようとして、その度に俺が視線を逸らすので、躊躇しているようだった。
そんな中、教室の前方で、ちょっとした騒ぎが起こった。女子生徒の一人が、半泣きになっている。どうやら、彼女が大切にしていた、装飾の施された高価そうなペンが、机の中からなくなってしまったらしい。
「どうしよう、あれ、お母様から頂いた、大切なものなのに…!」
「落ち着いて、どこかに落としたんじゃない?」
「ううん、さっきまで、確かにここにあったの! 誰かが盗ったんだわ!」
ペンをなくした生徒は、半ばパニック状態で、周囲の生徒に疑いの目を向け始めた。教室の空気は一気に険悪になり、互いを疑うような視線が飛び交い始める。
「おい、さっきお前の席の近くを通ったぞ」
「私じゃないわよ! あなたこそ、怪しい動きをしてたじゃない!」
面倒なことになったな、と俺は思った。こういう状況は、できるだけ避けたい。俺は、窓の外を眺めるふりをして、関わり合いにならないように努めた。だが、悲しいかな、俺の観察眼は、こういう時にも無駄に働いてしまう。
俺は、騒ぎの中心にいる生徒たちの様子を、横目で観察していた。ペンをなくした生徒の隣の席の男子生徒が、やけに落ち着かない様子で、自分の鞄を気にしている。彼の指先が、わずかにインクで汚れているようにも見えた。そして、ペンをなくした女子生徒の机の上には、ほんのわずかだが、インクが滲んだような跡がある。おそらく、ペンは盗られたのではなく、何かの拍子に、隣の男子生徒の鞄の中にでも紛れ込んだのだろう。彼はそれに気づいているが、言い出せずにいる、といったところか。
全く、くだらない。俺は内心で毒づいた。だが、このまま放っておけば、さらに面倒なことになるかもしれない。犯人探しがエスカレートすれば、クラス全体の雰囲気が悪くなるだろう。それは、俺が望む「平穏」とは程遠い状況だ。
仕方ない、か。俺は、小さく溜息をつくと、あたかも独り言のように、呟いた。
「……ペンなんて、案外、近くに落ちてるもんじゃないのか? 例えば、誰かの鞄の中とか……ほら、インクが漏れてたら、鞄の中が汚れてるかもしれないしな」
俺の声は、それほど大きくなかったが、騒ぎの中で、それは奇妙なほどはっきりと聞こえたようだった。生徒たちの視線が、一瞬だけ俺に向けられる。そして、俺の言葉の意味するところに気づいた何人かが、例の落ち着かない男子生徒の方を見た。
彼は、びくりと肩を震わせ、顔を赤らめた。そして、おずおずと自分の鞄を開けると……案の定、中から例の装飾ペンが出てきた。鞄の内側には、インクのシミが広がっている。
「あ……ご、ごめん! いつの間にか、入ってたみたいで……わざとじゃないんだ!」
男子生徒は、慌ててペンを女子生徒に返し、必死に謝罪した。女子生徒は、ペンが見つかったことに安堵しつつも、少し呆れたような顔をしている。他の生徒たちも、拍子抜けしたような、あるいは呆れたような表情で、その様子を見ていた。
騒ぎは、あっけなく収束した。俺は、再び窓の外へ視線を戻し、何事もなかったかのように振る舞った。これでいい。面倒事は解決したし、俺が直接介入したわけでもない。
だが、俺は気づいていた。エリアーナ・クレスウェルが、俺をじっと見つめていることに。
やがて、休み時間が終わり、次の授業の準備が始まる。生徒たちがそれぞれの席に戻っていく中、エリアーナが俺の隣の席にやってきた。彼女は、少し躊躇うように、しかし意を決したように、俺に話しかけてきた。
「……リオン君」
俺は、視線を合わせずに、短く応えた。
「……なんだ」
「あの……さっきのことだけど……」
彼女は、言葉を選びながら、続けた。
「君が、わざとヒントを出してくれたんでしょう? あのペンが見つかるように」
やはり、気づいていたか。俺は、内心で溜息をついた。
「……別に。ただ、思ったことを言っただけだ」
俺は、とぼけてみせた。だが、エリアーナは、簡単には引き下がらなかった。
「でも、君の観察眼はすごいわ。それに、本当は、優しいところもあるのね」
優しい、だと? 俺が? 思わず、鼻で笑いそうになった。俺はただ、面倒事を避けたかっただけだ。優しさなどという、高尚な感情からではない。
「……買い被りすぎだ」
俺は、そう言って、教科書に目を落とした。これ以上、彼女と話すつもりはない、という意思表示だ。
しかし、エリアーナは、それでも俺の隣から離れようとしなかった。彼女は、しばらく黙って俺の横顔を見ていたが、やがて、小さな声で、しかしはっきりと、こう言った。
「……君のこと、もっと知りたいな」
その言葉に、俺は思わず顔を上げた。エリアーナが、真っ直ぐな瞳で俺を見つめている。その瞳には、以前のような疑念や心配だけでなく、純粋な好奇心と、そして、ほんのわずかな好意のようなものが、含まれているように見えた。
俺は、彼女の視線から逃れるように、再び教科書に目を落とした。だが、心臓が、先ほどよりも少しだけ速く打っているのを感じていた。エリアーナ・クレスウェル。彼女は、俺が築き上げてきた「平凡」という壁を、少しずつ、しかし確実に、崩し始めているのかもしれない。
彼女との距離が、ほんの少しだけ、縮まったような気がした。それは、俺の意図とは全く異なる結果だったが、なぜか、それほど嫌な気はしなかった。もちろん、警戒心は解いていない。彼女との関係が深まることは、俺の秘密が露見するリスクを高めることに繋がるのだから。
それでも、この息苦しい偽りの日々の中で、俺の存在の「何か」を肯定的に見てくれる人間がいるという事実は、ほんの少しだけ、俺の孤独感を和らげてくれるような気もした。
ほんの少しだけ、だが。
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