帝国の影と潜入者
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ギデオンの店「迷い猫」を訪れた翌朝、俺はいつもより少し早く目を覚ました。窓の外はまだ薄暗く、ひんやりとした空気が部屋を満たしている。俺はベッドから起き上がると、枕元に置いていた一組の黒い革手袋を手に取った。ギデオンから受け取った、「影隠しの護符」の力が込められているという代物だ。
見た目は、何の変哲もない、上質な革で作られた手袋だ。だが、それを両手にはめると、すぐに奇妙な感覚が俺を襲った。まるで、体内を奔流のように駆け巡る俺の強大な魔力が、分厚い、しかし柔軟な壁に押し込められ、無理やりその流れを抑制されているような……一種の圧迫感と窮屈さ。それは、決して心地よいものではなかったが、同時に、俺の力が外部に漏れ出すのを防いでくれているという、確かな感覚でもあった。
(……これが、護符の効果か。確かに、魔力の気配はかなり抑えられているようだ)
俺は、手袋をはめた両手を見つめながら、内心で呟いた。完全に魔力を消し去ることはできない、とギデオンは言っていた。だが、少なくとも、俺が意図せずに放ってしまう魔力のオーラを、ある程度は偽装し、隠蔽してくれるはずだ。アストリッドのような手練れを完全に欺けるかは分からない。だが、他の生徒たちや、並の感知能力を持つ者から、俺の異常さを悟られるリスクは、これで少しは減らせるだろう。それだけでも、この手袋には価値があった。常に力を抑え込む精神的な負担も、わずかに軽減される気がした。
そして俺は身支度を整えて、いつも通りの時間に家を出て、学院へと向かう。道中、すれ違う生徒たちの視線が、以前ほど俺に突き刺さってこないような気がした。合同訓練の後、しばらくの間は好奇と畏怖の視線に晒されていたが、それも少しは和らいだのだろうか。あるいは、この手袋の効果が、早速現れているのかもしれない。
学院に到着し、教室へと向かう。廊下を歩いていると、前方からアストリッド教官が歩いてくるのが見えた。俺は、内心で身構えたが、彼女は俺を一瞥しただけで、特に何も言わずに通り過ぎていった。その氷のような瞳の奥の色は、相変わらず読み取れない。彼女が、俺の魔力の変化に気づいているのか、いないのか。判断はつかなかったが、少なくとも、以前のような執拗な監視の視線は、今は感じられなかった。手袋の効果か、それとも、彼女が単に今は様子を見ているだけなのか。いずれにせよ、油断は禁物だ。
教室に入ると、中はすでにざわめきに満ちていた。だが、その話題の中心は、俺のことではないらしい。皆、どこか興奮した様子で、ある噂について囁き合っていた。
「なあ、聞いたか? 今日、ゼノン帝国からの交換留学生が来るらしいぜ!」
「ああ、なんか、ものすごい美人だって話だぞ!」
「帝国からの留学生なんて、珍しいよな。やっぱり、スパイなのかな?」
「まさか。でも、どんな子なんだろうね?」
ゼノン帝国からの交換留学生。俺もその噂は耳にしていた。面倒事が増えなければいいが、と内心で溜息をつく。俺は、自分の席に着き、鞄から教科書を取り出した。隣の席のエリアーナが、「おはよう、リオン君」と声をかけてきたが、彼女もどこかそわそわしている様子だった。
やがて、始業の鐘が鳴り、担任の教官が入ってきた。そして、彼の後ろから、噂の交換留学生が姿を現した。
その瞬間、教室中の視線が一斉に彼女に注がれ、そして、息を呑む音が響いた。
鮮やかな赤色の髪を、高い位置でポニーテールに結い上げ、背筋を凛と伸ばして立つ、一人の少女。どこか大人びた雰囲気を纏っている。白い肌に、気の強そうな、しかし驚くほど整った顔立ち。そして何より印象的なのは、その深い翠色の瞳だった。まるで、吸い込まれそうなほどに澄んでいて、同時に、何か強い意志を秘めているような、不思議な輝きを放っている。彼女が身に纏っているのは、アルクス王国の制服とは異なる、黒を基調とした、機能的で洗練されたデザインの制服だった。おそらく、ゼノン帝国のものなのだろう。
「皆、紹介する。本日付けで、我々のクラスに編入することになった、ミリア・ヴァレンタインさんだ。ゼノン帝国からの交換留学生として、一年間、ここで我々と共に学ぶことになる。仲良くするように」
担任の教官が紹介すると、ミリアと名乗った少女は、にこりと人懐っこい笑みを浮かべ、優雅な仕草で一礼した。
「ミリア・ヴァレンタインです。アルクス王国の進んだ魔法技術と文化を学びに参りました。一年間という短い間ですが、皆さんと多くのことを学び、交流できるのを楽しみにしています。どうぞ、よろしくお願いしますわ」
その声は、鈴を転がすように愛らしく、そして完璧なアルクス王国語だった。彼女の眩しい笑顔と、非の打ちどころのない挨拶に、教室内の空気は一気に華やいだ。特に男子生徒たちは、完全に彼女の魅力の虜になっているようだ。
(……ずいぶんと、出来た子だな。十四歳にしては、完成されすぎている気がするが……)
俺は、彼女の完璧すぎる第一印象に、内心でそう呟いた。交換留学生にしては、あまりにも堂々としていて、物怖じしない。それに、あの笑顔も、どこか貼り付けたような、計算されたものを感じさせる。だが、今のところ、それ以上の不審な点は見当たらない。彼女から魔力的な違和感を感じることもなかった。
ミリアは、教官に促され、空いていた席――偶然にも、俺の席からそれほど遠くない場所――へと向かった。彼女が通路を歩くだけで、クラス中の視線が彼女を追う。
ホームルームが終わり、最初の授業が始まるまでの短い休み時間。ミリアの周りには、すぐに人だかりができた。皆、帝国のことや、彼女自身のことについて、質問攻めにしているようだ。ミリアは、嫌な顔一つせず、笑顔で一つ一つの質問に丁寧に答えている。その社交性の高さは、並大抵のものではない。
俺は、そんな輪には加わらず、自分の席で本を読んでいた。だが、ふと、ミリアの視線がこちらに向けられたような気がした。顔を上げると、彼女はすぐに別の生徒に笑顔を向けたが、一瞬だけ、俺を見ていたような……。気のせいか?
やがて、授業が始まり、ミリアは驚くほどの優秀さを見せた。どの科目においても、深い知識と理解力を示し、教官を唸らせる場面も少なくない。休み時間に見せた明るく社交的な顔とは別に、知的な側面も持ち合わせているようだ。
昼休み、俺がいつものように食堂の隅で一人で食事を取っていると、トレイを持ったミリアが、迷うことなく俺のテーブルにやってきた。
「こんにちは、リオン・アッシュフォードさん。隣、いいかしら?」
彼女は、断る隙も与えずに、俺の向かいの席に座った。その翠色の瞳が、真っ直ぐに俺を見つめている。
「……別に構わないが」
俺は、ぶっきらぼうに答えた。
「ありがとう。あなたのこと、少し噂で聞いたの。合同訓練ですごい活躍をしたって。どんな訓練だったの? 詳しく聞かせてもらえないかしら?」
彼女の質問は、純粋な好奇心からくるもののように聞こえた。その瞳にも、悪意や探るような色は見えない。
「……大したことはしていない。運が良かっただけだ」
俺は、当たり障りのない答えを返した。
「ふぅん……。でも、強力なキメラを倒したんでしょう? 運だけでは、なかなかできることじゃないと思うけどな」
彼女は、なおも食い下がってくる。だが、その口調はあくまで軽く、詮索しているというよりは、単に会話を楽しんでいるかのようにも見える。
「……チームの皆が頑張った結果だ」
俺は、そう言って、食事に集中するふりをした。ミリアは、それ以上は追求してこず、代わりに、帝国の料理の話や、学院の印象など、他愛のない話題を振ってきた。俺は、適当に相槌を打ちながら、早くこの場を離れたいと思っていた。
(今のところは、特に怪しい点はない……か? だが……)
俺は、わずかな圧迫感を感じながら、目の前の完璧な笑顔の裏に隠された何かを、警戒せずにはいられなかった。ミリア・ヴァレンタイン。彼女が、俺の日常にどのような影響を与えるのか。それは、まだ誰にも分からない。
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