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銀髪の教官

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翌朝、学院へ向かう足取りは、昨日よりもさらに重かった。ゼイド・フォン・ヴァルガスからの屈辱的な言葉と、エリアーナ・クレスウェルの詮索するような視線が、まるで昨日のことのように生々しく思い出される。平凡という仮面の下で、俺の内心は決して穏やかではなかった。力を隠し通すことの難しさ、そして、そのために払わなければならない代償の大きさを、改めて痛感させられた一日だった。自由への道は、俺が考えていたよりもずっと険しく、そして孤独なものなのかもしれない。


教室の扉をくぐると、昨日とは少し違う空気が漂っていることに気づいた。相変わらずのざわめきはあるものの、その話題の中心は、どうやら俺や昨日の出来事ではないらしい。生徒たちはいくつかのグループに分かれ、ひそひそと何かを噂し合っている。好奇心と、わずかな緊張感が入り混じったような雰囲気。


「なあ、聞いたか? 今日から新しい教官が来るらしいぜ」

「ああ、なんでも元騎士団のすご腕だって話だ」

「女性らしいぞ。しかも、かなり美人だとか……」

「おいおい、相手は教官だぞ。不敬なことを考えるなよ」

「でも、厳しいって噂もある。前の学校じゃ、泣き出す生徒が続出したとか……」


そんな断片的な会話が、俺の耳にも届いてきた。新任教官。それは、俺にとって歓迎すべきニュースではなかった。新しい人間関係は、それだけで面倒事の種になり得る。特に、元騎士団のすご腕、などという肩書きを持つ人物なら、なおさらだ。そういう手合いは、えてして観察眼が鋭く、人の本質を見抜こうとする傾向がある。俺が演じている「平凡な生徒」という仮面が、見破られる危険性が高まることを意味していた。


俺は、昨日と同じように後方の窓際の席に着き、鞄から教科書を取り出した。隣の席には、すでにエリアーナが座っていた。彼女は俺に気づくと、少し躊躇うような表情を見せたが、やがて意を決したように口を開いた。


「おはよう、リオン君……昨日は、その……」


彼女は、昨日の帰り際の出来事を気にしているようだった。俺がゼイドに侮辱されたこと、そして、それを助けようともせず、むしろ突き放すような態度を取ったこと。それらに対して、何か言いたいことがあるのかもしれない。だが、俺は彼女の言葉を遮るように、短く答えた。


「ああ、おはよう」


それだけ言って、すぐに窓の外へ視線を移す。昨日と同じ、拒絶の態度。エリアーナは、小さく息を呑む音が聞こえたが、それ以上は何も言ってこなかった。代わりに、何か言いたげな、心配と非難が混じったような視線が、俺の横顔に突き刺さるのを感じた。重苦しい沈黙が、俺たちの間に流れる。


教室の前方では、ゼイドが相変わらず取り巻きたちにかしずかれながら、新任教官の噂について、尊大な態度で何かを語っていた。彼の視線が、一瞬だけこちらに向けられたような気がしたが、俺は気づかないふりをした。昨日、俺が彼の前で無様に屈したことで、彼は満足したのだろう。今のところ、俺に対してこれ以上のちょっかいを出してくる気はないのかもしれない。だが、油断はできない。あの男のプライドは、些細なことで簡単に傷つき、そして、その矛先がいつこちらに向くか分からないのだから。


始業の鐘が鳴り響き、教室のざわめきが急速に静まっていく。生徒たちの視線が、一斉に教室の扉に注がれる。誰もが、噂の新任教官の登場を固唾を飲んで待っていた。俺も、無関心を装いながら、内心では警戒心を高めていた。どんな人物が現れるのか。俺の平穏な(そして偽りの)学院生活を脅かす存在でなければいいが……。


やがて、重厚な扉が、ゆっくりと、しかし確かな音を立てて開かれた。そこに現れた人物に、教室内の誰もが息を呑んだ。長い銀色の髪を、うなじのあたりで一つに束ね、背筋を凛と伸ばして立つ、一人の女性。年の頃は……三十代後半から四十代前半といったところか。だが、その年齢を感じさせない、鍛え上げられたしなやかな体躯を持っている。着ているのは、学院指定の教官用の制服だが、どことなく騎士団の制服を思わせるような、機能的で無駄のないデザインに仕立て直されているようにも見えた。


そして、何よりも印象的だったのは、その顔立ちと、瞳の鋭さだった。整ってはいるが、決して甘さはない。むしろ、怜悧と呼ぶ方がふさわしい顔立ち。その左の目尻のあたりに、細く白い古傷が走っているのが見えた。それは、彼女が単なる教官ではなく、実戦を経験してきた者であることを物語っている。そして、その青い瞳。氷のように冷たく、それでいて全てを見透かすような、鋭い光を宿している。彼女が教室に入ってきた瞬間、室内の温度が数度下がったかのように感じられた。


彼女は、ゆっくりとした、しかし一切の迷いも揺らぎもない足取りで教壇へと進み、生徒たちに向き直った。その間、教室は水を打ったように静まり返っていた。誰もが、彼女の放つ圧倒的な存在感に気圧されているのだ。


「諸君、静粛に」


彼女の声は、低く、落ち着いていたが、有無を言わせぬ響きを持っていた。その一言で、わずかに残っていた生徒たちの私語や身じろぎが、完全に止んだ。


「私が、本日付けで本学院に着任した、アストリッド・ベルクだ。担当は、実技全般、特に戦闘技術と防御魔法になる。以後、よろしく頼む」


自己紹介は、必要最低限。感情の起伏を全く感じさせない、淡々とした口調。だが、その言葉の端々には、確固たる自信と、厳格さが滲み出ている。噂通りの人物、いや、噂以上の「何か」を持っている。俺は、直感的にそう感じた。


アストリッド・ベルクと名乗った教官は、生徒名簿らしきものを手に取り、一人一人の顔と名前を確認するように、ゆっくりと視線を巡らせ始めた。その視線が向けられるたびに、生徒たちは背筋を伸ばし、緊張した面持ちになる。俺の番が来た時、彼女の青い瞳が、俺の顔の上でわずかに長く留まったような気がした。気のせいかもしれない。あるいは、俺の「平凡さ」が、逆に彼女の注意を引いたのか。どちらにせよ、好ましい状況ではない。俺は、他の生徒たちと同じように、無表情を装い、視線をわずかに伏せた。


「……ふむ」


アストリッドは、何かを呟いたようだったが、その意味は読み取れなかった。やがて、彼女は名簿から顔を上げ、再び生徒たち全体を見渡した。


「さて、早速だが、最初の授業を始める。全員、第一訓練場へ移動しろ。時間は十分だ。遅れる者は許さん」


その言葉は、命令だった。反論の余地など、どこにもない。生徒たちは、一斉に席を立ち、慌ただしく教室を出ていく。俺も、その流れに乗りながら、内心で溜息をついた。どうやら、この新任教官の下で、これまで通りの「手抜き」を続けるのは、少し難しくなるかもしれない。彼女のあの観察眼は、俺の偽りを見抜く可能性を秘めている。より一層、慎重に行動しなければならないだろう。


第一訓練場は、学院の敷地の中でも特に広く、様々な訓練設備が整えられた場所だ。すでに他のクラスの生徒たちが訓練を行っている区画もあったが、俺たちのクラスが使用するエリアは、まだ誰もいなかった。アストリッド教官は、訓練場の中央に立ち、腕を組んで俺たちが整列するのを待っている。その姿は、まるで戦場に立つ指揮官のようだ。


全員が整列し終えると、アストリッドは鋭い視線で俺たちを見渡し、口を開いた。


「今日の最初の訓練は、基礎体術だ。魔法使いといえども、己の肉体を制御できなければ、いざという時に生き残ることはできない。お前たちがどれほどのものか、まずは見せてもらう」


基礎体術。魔法学院の授業としては、やや意外な内容だった。もちろん、騎士科の生徒ならば当然の訓練だろうが、俺たちが所属するのは魔法科だ。しかし、アストリッドの言葉には有無を言わせぬ説得力があった。魔法を発動するには、精神力だけでなく、ある程度の体力と、身体のバランス感覚が必要とされる。特に、高度な魔法や、戦闘状況下での魔法行使においては、その重要性は増す。


「まずは、準備運動からだ。私の指示に従い、正確に行え。手を抜く者は、相応の罰を与える」


アストリッドの号令の下、準備運動が始まった。それは、俺が知っているような生易しいものではなかった。柔軟運動から始まり、筋力トレーニング、瞬発力を養うためのダッシュやジャンプなど、騎士団の新兵訓練かと見紛うほどハードな内容が次々と繰り出される。生徒たちからは、早々に悲鳴に近い声が上がり始めた。特に、普段から運動を苦手としている生徒や、お嬢様育ちの貴族の子弟などは、顔面蒼白になっている者もいる。


エリアーナは、必死の形相で食らいついていた。彼女は元々体力がある方ではないだろうが、持ち前の真面目さと負けん気の強さで、何とかアストリッドの指示についていこうとしている。その額には玉のような汗が浮かび、息もかなり上がっているが、その瞳には強い意志の光が宿っていた。


ゼイドは、さすがに名門武家の嫡男だけあって、この程度の訓練は余裕といった様子だった。涼しい顔で、正確かつ力強い動きをこなしている。時折、苦しんでいる他の生徒たちを見下すような視線を送っているのが、鼻につく。


そして、俺は。俺は、この訓練を「平凡」にこなすことに、神経をすり減らしていた。師匠から叩き込まれた戦闘訓練に比べれば、アストリッドの指示する内容は、正直なところ、それほど厳しいものではない。俺の身体能力なら、ゼイド以上に余裕でこなせるはずだ。だが、それを悟られてはならない。俺は、わざと少し息を切らし、動きを鈍く見せ、他の生徒たちと同じように「苦しんでいる」ふりをしなければならなかった。筋肉の動きを微妙に制限し、呼吸のリズムを意図的に乱す。それは、全力で動くことよりも、はるかに繊細なコントロールを要求される作業だった。


「アッシュフォード!」


突然、アストリッドの鋭い声が飛んできた。俺は内心で舌打ちしながら、動きを止めて彼女の方を見た。アストリッドが、氷のような瞳で俺を睨みつけている。


「貴様の動きは、なんだ? 全身の連動性が全く取れていない。そんな動きでは、咄嗟の場合に反応できんぞ。もっと腰を落とし、体幹を意識しろ!」


厳しい叱責。だが、その指摘は的確だった。俺は、わざと体幹を使わずに、手足だけで動くような、素人臭い動きをしていたのだ。それが、彼女の目に留まったらしい。


「……はい、すみません」


俺は、素直に謝罪し、指示された通りにフォームを修正するふりをした。内心では、冷や汗が流れていた。彼女の観察眼は、やはり侮れない。ほんの少しの不自然さも見逃さないようだ。


準備運動だけで、すでに多くの生徒が疲労困憊といった様子だった。しかし、アストリッドは容赦しなかった。


「準備運動は終わりだ。次は、対人での受け身の訓練を行う。二人一組になり、互いに相手を軽く突き飛ばし、安全に倒れる練習をしろ。怪我をしないように、だが、真剣に取り組め」


二人一組。俺は、周囲を見渡した。誰と組むか。できれば、目立たない、無難な相手がいい。だが、俺が相手を探す前に、隣にいたエリアーナが、おずおずと声をかけてきた。


「あの、リオン君……よかったら、私と……」


彼女は、まだ息を切らし、顔も少し赤い。体力的にかなり限界に近いのだろう。そんな彼女と組めば、俺が「手を抜く」のも、ある程度は自然に見えるかもしれない。


「……ああ、構わない」


俺は短く答え、エリアーナと向き合った。彼女は、少しほっとしたような表情を見せた。


訓練が始まった。まずは、俺がエリアーナを突き飛ばす番だ。俺は、力を込めるふりをして、実際にはごく軽い力で、彼女の肩を押した。エリアーナは、それでも少しよろめきながら、教わった通りの受け身を取ろうとするが、動きがぎこちなく、危なっかしい。


「……もっと、衝撃を分散させるように意識しろ。地面に着くときは、体全体で受け止めるんだ」


思わず、口からアドバイスが出ていた。師匠から受けた訓練の記憶が、無意識のうちに言葉になったのだ。しまった、と思ったが、もう遅い。エリアーナは、驚いたように俺の顔を見て、それからこくりと頷いた。


次は、エリアーナが俺を突き飛ばす番だ。彼女は、深呼吸をして、意を決したように俺の胸を両手で押してきた。その力は、当然ながら弱い。俺は、わざと少し大げさにバランスを崩し、受け身を取るふりをして、地面に倒れ込んだ。その際、わざと少し不格好な、素人っぽい受け身を演じてみせる。


そんな俺たちのやり取りを、アストリッドが遠くからじっと観察しているのが、視界の端に入った。彼女の表情は読み取れない。だが、その視線が、俺の「不自然な」動きに向けられているような気がしてならなかった。


訓練は、その後も続いた。基本的な突きや蹴りの型、回避行動の練習など。俺は終始、力を抑え、平凡な生徒を演じ続けた。だが、アストリッドの視線は、常に俺の動きのどこかに、違和感を探しているように感じられた。例えば、相手の攻撃を回避する際。俺は、他の生徒と同じように、大きくステップして避けようとする。だが、反射的に、最小限の動きで、紙一重で攻撃をかわしてしまう瞬間があった。それは、長年の訓練によって体に染み付いた動きであり、意識しても完全には抑えきれないものだった。


アストリッドは、その瞬間を見逃さなかった。彼女の眉が、わずかに顰められるのが見えた。


授業の終盤、アストリッドは生徒たちを集め、総括を述べた。


「今日の訓練は、ここまでだ。全体的に、話にならんレベルだ。特に、基礎体力と身体制御が全く足りていない。魔法の前に、まず己の肉体を鍛え直せ。次回の訓練までに、各自、今日の課題を克服しておくように。いいな?」


厳しい言葉に、生徒たちは皆、神妙な顔で頷く。アストリッドは、その反応に満足したのか、あるいは呆れたのか、小さく息をつくと、解散を命じた。


生徒たちが、疲労困憊の様子で訓練場を後にし始める。俺も、他の生徒たちに紛れて、その場を離れようとした。その時だった。


「アッシュフォード」


背後から、アストリッドの声がかかった。俺は足を止め、ゆっくりと振り返る。アストリッドが、まっすぐに俺を見つめていた。彼女の周りには、もう他の生徒はいない。


「……何か御用でしょうか、教官」


俺は、平静を装って問い返した。アストリッドは、数秒間、俺の顔をじっと見つめた後、静かに口を開いた。


「貴様、本当にそれが全力か?」


核心を突くような、短い質問。その言葉は、俺の胸に深く突き刺さった。彼女は、やはり気づいている。俺が、何かを隠していることに。


俺は、内心の動揺を悟られまいと、努めて無表情を保った。そして、用意していた答えを口にする。


「……はい。見ての通り、俺は体力も運動神経も、人並み以下ですので。お見苦しいところをお見せして、申し訳ありません」


自嘲的な笑みを浮かべて、そう答える。これが、今の俺にできる、最大限の防御だった。アストリッドは、俺の答えを聞いても、表情を変えなかった。ただ、その青い瞳の奥で、何かが探るように揺らめいているのが分かった。


「……そうか」


彼女は、それ以上は何も言わず、ただ一言、そう呟いた。だが、その声には、納得したという響きはなかった。むしろ、疑念を深めたような、そんな含みを感じさせた。


「……失礼します」


俺は、彼女に一礼し、今度こそその場を後にした。背中に、アストリッドの鋭い視線が突き刺さっているのを感じながら。


訓練場を出て、校舎へと向かう廊下を歩く。足取りは、朝よりもさらに重くなっていた。アストリッド・ベルク。彼女は、間違いなく俺にとって、厄介な存在になるだろう。彼女の観察眼から逃れ続けるのは、至難の業かもしれない。


平凡を装うこと。それは、俺が選んだ自由への道だったはずだ。だが、その道は、日に日に狭く、そして歩きにくいものになっているように感じられる。ゼイドの侮蔑、エリアーナの疑念、そして、アストリッドの鋭い視線。俺を取り巻く環境は、確実に変化し始めていた。


廊下の窓から、午後の日差しが差し込んでいる。その光の中で、俺は立ち止まり、深く息をついた。これから、どうすべきか。このまま、仮面を被り続けるのか。それとも……。


いや、まだだ。まだ、その時ではない。師匠の言葉を、俺はまだ守らなければならない。「自由に生きろ」。その本当の意味を見つけるまでは、俺はこの偽りの仮面を外すわけにはいかないのだ。


俺は、再び歩き出した。たとえ、どんな困難が待ち受けていようとも。俺は、俺自身の意志で、この道を歩き続けなければならない。胸の奥で揺らめく小さな炎が、そう告げているような気がした。自由への渇望が、俺を突き動かす唯一の力なのだから。

どんどん更新していきますので作品評価&ブックマークをお願いします!

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