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平凡という名の仮面

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降り注ぐ朝陽が、アルクス王立高等魔法学院の壮麗な尖塔を黄金色に染め上げていた。その光は、歴史を感じさせる石造りの校舎の窓ガラスを透過し、磨き上げられた廊下をまだらに照らし出している。空気はひんやりと澄んでいて、新しい一日が始まる前の静けさと、どこか張り詰めたような期待感が混ざり合っている。生徒たちの喧噪が始まるまで、あとわずか。俺、リオン・アッシュフォードは、その静寂の中を、わざとゆっくりとした、目立たない足取りで歩いていた。黒髪に黒瞳、身長も体重も平均。制服の着こなしも、特に乱れているわけでもなく、かといって模範的に整っているわけでもない。どこにでもいる、その他大勢の一人。それが、俺がこの学院で演じている役割だ。


アルクス王国。魔法が社会の隅々にまで浸透し、その才能が個人の、ひいては家系の階級にまで影響を与える国。ここ、王立高等魔法学院は、その中でも特にエリートが集う場所とされている。未来の国家魔法師や騎士、あるいは魔法技術を担う研究者や官僚を育成するための最高学府。そんな場所に、俺のような「凡庸な」生徒が紛れ込んでいること自体、ある意味では奇妙なことなのかもしれない。だが、それが俺の望んだ状況だった。目立たず、騒がれず、誰の注意も引かずに、ただ日々をやり過ごす。可能な限り自由な時間を確保し、束縛から逃れること。それが、師匠の遺言である「自由に生きろ」という言葉を、今の俺なりに解釈した結果だった。


もちろん、それは偽りの姿だ。俺の内には、師から受け継いだ力――常人では到底到達し得ないであろう魔術の知識と、二振りの魔剣を扱う技がある。もしそれを解放すれば、この学院の教師陣でさえ、俺に触れることすら叶わないだろう。だが、そんな力は今の俺にとって、自由を脅かす枷でしかなかった。強大な力は注目を集め、期待を背負わせ、国家という巨大な機構に組み込まれる危険性を孕んでいる。国家魔法師(守護者)なんて、聞こえはいいが、その実態は国家に飼いならされた強力な駒だ。国民からの賞賛と引き換えに、個人の自由などほとんど存在しない。そんなものは、俺の求める生き方とは対極にある。だから、俺は力を隠す。徹底的に、巧妙に。まるで、それが存在しないかのように。


教室の扉が見えてきた。すでに何人かの生徒が扉の前で談笑している。貴族の子弟であろう、華やかな装飾の施された制服を着たグループ。真面目そうな、教科書を小脇に抱えた生徒たち。俺は彼らの視界に入らないよう、壁際を歩き、息を潜めるようにして教室の扉をくぐった。教室の中は、外の静けさが嘘のように、すでにざわめきに満ちていた。まだ始業まで時間があるというのに、皆一様に浮足立っているように見える。新しい学年が始まってまだ間もない。友人との再会を喜ぶ声、新しい授業への期待や不安、あるいは家柄や才能を誇示するような会話。それらが混ざり合い、独特の熱気を生み出している。


俺は、教室の後方、窓際の席へと向かった。ここが俺の定位置だ。窓の外を眺めていれば、授業に集中していないように見えても不自然ではないし、他の生徒たちの視線からも比較的自由でいられる。席に着き、鞄から教科書とノートを取り出す。使い古された、というほどではないが、新品の輝きもない、ごく普通の学用品。これもまた、俺の偽装の一部だった。隣の席はまだ空いている。誰が座るのか、特に興味はなかった。どうせ、当たり障りのない挨拶を交わす程度の関係にしかならないだろう。


窓の外に目を向ける。学院の広大な敷地が見渡せた。手入れの行き届いた庭園、訓練用のグラウンド、そして遠くには首都エルドラードの街並みが霞んで見えている。あの街の喧騒の中に、俺の保護者であるシルヴィアさんが住む家がある。彼女は、俺が力を隠していることを薄々感づいているかもしれないが、何も言わずに見守ってくれている。彼女の存在は、この息苦しい偽りの生活の中で、唯一心安らぐ場所だった。


「おはよう、リオン君」


不意に、隣から声がした。視線を戻すと、そこには一人の女子生徒が立っていた。輝くような金色の髪をサイドで緩く結び、大きな碧眼がこちらを見つめている。エリアーナ・クレスウェル。中級貴族の令嬢で、魔法科の中でも成績優秀、かつ真面目で快活な性格で知られている。典型的な優等生、といったところか。彼女のようなタイプは、本来なら俺のような無気力な生徒とは接点がないはずなのだが、なぜか時折こうして話しかけてくる。


「……ああ、おはよう、クレスウェルさん」


俺は、わざと少し眠そうな、気だるげな声で返した。表情も変えず、視線もすぐに窓の外へ戻す。これ以上会話を続ける意思がないことを、態度で示すためだ。エリアーナは、そんな俺の態度に少し眉を寄せたようだったが、すぐに気を取り直したように微笑んだ。


「もうすぐ授業が始まるわね。今日の魔法基礎理論、予習はしてきた?」

「まあ、それなりに」


実際には、教科書の内容など、師匠から叩き込まれた知識に比べれば、赤子の戯言に等しい。だが、そんなことはおくびにも出さない。俺は曖昧に答え、再び窓の外へと意識を向けた。エリアーナは、そんな俺の反応に少し戸惑ったような、あるいは呆れたような溜息を小さく漏らしたのが聞こえたが、それ以上は何も言わずに自分の席に着いた。彼女の纏う、石鹸のような清潔な香りが微かに鼻を掠める。


面倒なことにならなければいいが。エリアーナのような、真っ直ぐで正義感の強いタイプは、時として厄介事を引き寄せる。そして、そういう厄介事に巻き込まれるのは、俺が最も避けたいことの一つだった。俺はただ、静かに、目立たずに、この学院を卒業し、その後はどこか辺境の地ででも、誰にも干渉されずに生きていきたい。それだけなのだ。


始業の鐘が鳴り響き、教室の喧騒が急速に静まっていく。やがて、重厚な扉が開き、担当教官が入ってきた。初老の、厳格そうな顔つきの男性教官だ。彼は教壇に立つと、鋭い視線で教室全体を見渡し、それから重々しく口を開いた。


「諸君、おはよう。本日の魔法基礎理論は、マナ循環における属性親和性の基礎についてだ。教科書の該当ページを開け」


周囲の生徒たちが一斉に教科書を開く音が響く。俺もそれに倣い、指定されたページを開いた。そこには、火、水、風、土といった基本的な魔法属性と、それらが互いにどのように影響し合うかを示す図式が描かれている。あまりにも初歩的な内容に、内心で欠伸を噛み殺す。師匠の書斎にあった古文書に記されていた、古代の失われた属性や、より複雑な複合属性の理論に比べれば、ままごとに近い。


教官が滔々と説明を始めた。その声は低く、よく通る。内容は退屈極まりないが、その説明自体は明瞭で分かりやすいものだった。さすがは王立学院の教官、といったところか。エリアーナは真剣な表情で教官の説明に耳を傾け、時折熱心にノートを取っている。その真摯な態度は、好感が持てるものではあった。少なくとも、退屈しのぎに隣の生徒と私語を交わしたり、居眠りをしたりしている他の生徒よりは、よほどマシだ。


「――そこで、この属性相関図において、火属性と水属性の関係性について、アッシュフォード、説明してみろ」


不意に名前を呼ばれ、俺は内心で舌打ちした。よりにもよって、俺か。目立たないように息を潜めていたというのに。教官の鋭い視線が、真っ直ぐに俺を射抜いている。おそらく、俺が授業に集中していないことを見抜いたのだろう。


立ち上がり、わざと少し自信なさげな、それでいて完全に的外れではない程度の回答を頭の中で組み立てる。完璧な回答は目立ちすぎる。かといって、全く答えられなければ、それはそれで別の意味で注目を集めてしまう可能性がある。凡庸さの維持というのは、存外に気を使う作業だ。


「えっと……火属性と水属性は、一般的に相反する性質を持つとされています。水は火を消し、火は水を蒸発させる。そのため、互いの魔法効果を打ち消し合ったり、減衰させたりする関係にある……と、思います」


語尾を少し曖昧にし、教科書に書かれている内容を、自分の言葉で言い換えただけの、当たり障りのない回答。俺はそう判断して口にした。教官は、しばらくの間、俺の顔をじっと見つめていたが、やがて小さく頷いた。


「……ふむ。まあ、基本的な理解はできているようだな。よろしい、座りたまえ」


安堵の息を内心で吐き、席に座る。背中に、幾人かの生徒からの視線を感じた。嘲笑うようなもの、あるいは「なんだ、あいつも一応は答えられるのか」といったような、侮りとわずかな驚きが混じったような視線。それらを感じながら、俺は再び窓の外へと意識を逃がした。


だが、一つだけ、他の視線とは質の異なるものがあった。それは、教室の前方、中央付近の席から向けられる、鋭く、そして明確な侮蔑を含んだ視線だった。視線の主を確かめるまでもない。ゼイド・フォン・ヴァルガス。名門武家貴族の嫡男にして、この魔法科一年の中でもトップクラスの実力を持つとされる男だ。銀色の髪を整え、常に自信に満ちた、あるいは傲慢とも言える態度を崩さない。彼は、俺のような「凡庸」な生徒が存在すること自体が許せない、とでも言いたげな目をしている。


俺はゼイドの視線を意図的に無視した。彼のようなタイプと関わるのは、時間の無駄であるだけでなく、面倒事を引き起こす可能性が高い。彼はプライドが高く、他者を見下すことで自身の優位性を確認しようとする。そんな彼に、俺が隠している力の一端でも知られれば、どうなるか。想像するだけでうんざりする。


授業は淡々と進み、退屈な時間はゆっくりと流れていった。俺は時折、教官の質問に当たり障りのなく答え、それ以外の時間は窓の外を眺めたり、ノートに無意味な落書きをしたりして過ごした。エリアーナは相変わらず熱心に授業を聞き、ゼイドは時折、教官の問いに対して完璧な回答を披露し、周囲の感嘆のため息を誘っていた。彼我の差は歴然。俺が望む「平凡」な生徒と、彼のような「エリート」との間には、埋めがたい溝があるように見えた。そして、その溝こそが、俺にとっては好都合な隠れ蓑だった。


午前中の授業が終わり、昼休みを告げる鐘が鳴る。生徒たちが一斉に席を立ち、食堂や中庭へと向かう。教室に残っていた喧騒が、波が引くように静まっていく。俺も、ゆっくりと席を立ち、食堂へ向かうことにした。空腹は感じていたし、午後の実技訓練に備えて、少しは腹に入れておく必要があった。


食堂は、案の定、生徒たちでごった返していた。様々な料理の匂いが混ざり合い、食器の触れ合う音、賑やかな話し声が充満している。俺は人混みをかき分け、比較的空いているカウンターへと向かった。今日のランチメニューは、パンとスープ、それに簡単なサラダ。質素だが、味は悪くない。トレイに食事を乗せ、空いている席を探す。一人で静かに食事ができる場所がいい。


だが、そんな俺のささやかな望みは、すぐに打ち砕かれた。視界の端に、見慣れた金色の髪が映ったのだ。エリアーナ・クレスウェルが、友人らしき数人の女子生徒と共に、テーブルの一つで食事をしていた。そして、運悪く、彼女たちの近くのテーブルしか空いていないようだった。仕方なく、俺はそちらへ向かう。できるだけ彼女たちの会話に入らないよう、背を向ける形で席に着こうとした、その時だった。


「きゃっ!」


小さな悲鳴と共に、ガチャン、という鈍い音が響いた。見ると、エリアーナが手にしていたトレイを傾け、スープ皿が床に落ちて中身が飛び散っていた。白いブラウスとスカートに、茶色いシミが広がっている。周囲の生徒たちの視線が一斉に集まった。


「大丈夫、エリアーナ!?」

「大変、服が汚れちゃったわ!」


友人たちが駆け寄り、ハンカチを取り出してエリアーナの服を拭こうとするが、スープのシミはなかなか落ちそうにない。エリアーナ自身は、恥ずかしさと動揺で顔を赤らめている。


俺は、その光景を一瞥しただけで、すぐに視線を逸らした。関わるべきではない。ここで親切心を見せれば、またエリアーナとの距離が縮まってしまう。それは避けたい。俺は何も見なかったふりをして、自分の席に座り、黙々とパンを齧り始めた。


「あらあら、クレスウェル嬢、お困りのようだね」


嫌味ったらしい声が響いた。声の主は、やはりゼイド・フォン・ヴァルガスだった。彼は数人の取り巻きを引き連れて、エリアーナたちのテーブルのそばに立っていた。その顔には、優越感に満ちた笑みが浮かんでいる。


「ヴァルガス様……」


エリアーナが、少し怯えたような声でゼイドの名を呼んだ。ゼイドは、わざとらしく床に落ちたスープ皿を見下ろし、それからエリアーナの汚れた服に視線を移した。


「ふん、平民ならともかく、貴族の令嬢がこのような場所で粗相とは。クレスウェル家の名が泣くぞ」

「申し訳ありません……」


エリアーナは俯き、唇を噛み締めている。彼女の友人たちも、ゼイドの威圧感に気圧されて、何も言い返せないようだ。ゼイドは、そんなエリアーナの姿を見て、さらに満足げに口元を歪めた。


「まあ、いい。今日のところは見逃してやろう。だが、次からは気をつけることだな。我々のような選ばれた存在は、常に品位を保たねばならんのだからな」


そう言い残し、ゼイドとその取り巻きたちは、高笑いを響かせながら去っていった。残されたのは、気まずい沈黙と、床に飛び散ったスープのシミ、そして俯いたままのエリアーナだった。


俺は、手の中のパンを握りしめていた。ゼイドの傲慢な態度には、腹の底から込み上げてくるものがあった。だが、俺は動かない。動けない。ここで俺が何かをすれば、それは「平凡なリオン・アッシュフォード」の行動としては不自然すぎる。それに、エリアーナがゼイドに言い返せないのも、彼女自身の問題だ。貴族社会の序列や力関係。そういったものに、俺が首を突っ込む義理はない。


「……大丈夫?」


結局、俺は何も言わずに食事を終え、トレイを返却口に戻そうと立ち上がった時、エリアーナの友人たちの一人が、まだ落ち込んでいる彼女に声をかけていた。エリアーナは力なく頷き、汚れた服を見下ろしている。


俺は、彼女たちの横を、何も言わずに通り過ぎた。エリアーナが、ちらりとこちらを見たような気がしたが、俺は気づかないふりをした。食堂の喧騒を背に、俺は午後の実技訓練が行われるグラウンドへと向かった。胸の中に、何か重苦しいものが澱んでいるのを感じながら。自由とは、時に孤独を選ぶことなのかもしれない。だが、それでも、俺はこの仮面を外すわけにはいかなかった。


午後の日差しは、午前中よりも強く、グラウンドの土埃をきらきらと輝かせていた。実技訓練の時間だ。生徒たちはクラスごとに整列し、担当教官の指示を待っている。今日の訓練内容は、基礎的な魔法制御。指定された的に、正確に魔力の塊を当てるという、単純だが地道な訓練だ。魔法の威力や派手さではなく、制御力と集中力が問われる。


教官の号令と共に、訓練が開始された。生徒たちが一斉に魔力を練り上げ、それぞれの属性に応じた光の球や矢を生成し、前方に設置された的に向かって放っていく。成功して歓声を上げる者、失敗して悔しがる者、様々だ。


俺は、列の後方で、わざと集中力を散漫にしているふりをしながら、魔力を練り始めた。体内の魔力循環を意識的に乱し、不安定な状態を作り出す。そして、ごく少量の魔力を、不格好な炎の塊として生成した。師匠から教わった精密な魔力制御とは、真逆のやり方だ。この、わざと下手にやる、という行為が、実はかなりの集中力を要する。完全に失敗するわけでもなく、かといって成功しすぎるわけでもない、絶妙な「凡庸さ」を演出しなければならないからだ。


「えいっ!」


隣で、エリアーナが気合の声を上げた。彼女の手のひらから放たれた水の球が、綺麗な軌跡を描いて的に吸い込まれ、中心近くに命中した。


「やった!」


エリアーナが嬉しそうに小さく跳ねる。彼女は水属性魔法を得意としており、その制御力はなかなかのものだ。真面目な努力が実を結んでいるのだろう。その姿は、少し眩しく見えた。


一方、少し離れた場所では、ゼイドが圧倒的な実力を見せつけていた。彼の放つ雷の槍は、目にも留まらぬ速さで的の中心を正確に貫き、周囲の生徒たちから感嘆の声が上がっている。彼は満足げに鼻を鳴らし、次の的に向かって、さらに強力な魔法を放った。その威力、速度、正確さ。どれをとっても、この学年のレベルを明らかに超えている。さすがは名門ヴァルガス家の嫡男、といったところか。


俺は、そんな周囲の様子を横目で見ながら、自分の番が来るのを待った。そして、順番が回ってくると、先ほど生成した不安定な炎の塊を、ふらふらとした軌道で的に向かって放った。案の定、炎の塊は的の手前で勢いを失い、地面にぽとりと落ちて消えた。


「……あー、失敗か」


わざとらしく頭を掻き、苦笑いを浮かべる。周囲からは、特に何の反応もない。それが、俺の狙い通りの結果だった。「リオン・アッシュフォードは、まあ、あんなものだろう」。そう思われていることが、重要だった。


その後も、俺は訓練時間中、成功と失敗を適度に繰り返した。的の中心に当たることは決してなく、かといって毎回失敗するわけでもない。ギリギリ合格ライン、といったところだろうか。教官も、俺に対しては特に何も言わず、他の生徒たちの指導に当たっている。これでいい。これが、俺の望む日常だ。


しかし、力を抑え続けるというのは、想像以上に精神的な疲労を伴う。常に自分の内なる力を意識し、それが暴発しないように細心の注意を払う。それは、まるで猛獣を手懐けようとするような、あるいは常に張り詰めた弦の上を歩くような感覚だった。時折、無性にこの力を解放したくなる衝動に駆られる。この偽りの仮面を脱ぎ捨て、本来の自分で空を駆け、大地を揺るがしたい、と。


だが、その度に、師匠の最後の言葉が脳裏に蘇る。「自由に生きろ、リオン」。師匠は、俺に力を与え、そして自由を願った。この力を、誰かに利用されたり、何かに縛られたりするために使うな、と。師匠の真意は、まだ完全には理解できていない。だが、今の俺にできることは、この力を隠し通し、誰にも干渉されない「自由」を守ることだけだった。


訓練の終盤、少し離れた場所で、エリアーナが苦戦しているのが見えた。彼女は、より難易度の高い、移動する的に対して魔法を当てる訓練に挑戦していたが、なかなか上手くいかないようだ。焦りからか、魔力の制御が乱れ、水の球があらぬ方向へ飛んでいく。


「くっ……!」


エリアーナが悔しそうに唇を噛む。その時、ふと、彼女の足元がおぼつかないことに気づいた。連日の訓練と、おそらくは昼間の出来事による精神的な疲労が溜まっているのだろう。次の瞬間、彼女の体がぐらりと傾いた。


まずい、と思った。彼女が転倒すれば、近くにいる他の生徒にぶつかるかもしれないし、最悪の場合、暴発した魔法が誰かに当たる可能性もある。俺は、ほとんど反射的に、足元の小石を一つ、指先で弾いた。それは誰にも気づかれないほどの微細な動きだったが、俺の精密な魔力制御によって、小石は正確にエリアーナの足元の、彼女が次に踏み出すであろう位置へと滑り込んだ。


「わっ!?」


エリアーナは、その小石に気づかずに足を踏み出し、バランスを崩した。しかし、転倒する方向が変わり、近くにいた生徒とは逆の方向へ、わずかに体勢を立て直す猶予が生まれた。彼女は咄嗟に近くにあった訓練用の柱に手をつき、転倒を免れた。


「あ、危なかった……」


エリアーナが安堵の息をつく。周囲の生徒も、教官も、誰も俺の介入には気づいていない。ただの偶然、あるいはエリアーナ自身の幸運だと思っているだろう。俺は、何食わぬ顔で自分の訓練に戻った。ほんの少しだけ、心臓が速く打っているのを感じながら。余計なことをした、と少し後悔した。だが、見過ごすこともできなかった。俺の中にある、捨てきれない何かが、そうさせたのかもしれない。


やがて、訓練終了の鐘が鳴り響いた。生徒たちは、疲労と解放感の入り混じった表情で、三々五々グラウンドを後にし始める。俺も、他の生徒たちに紛れて、校舎へと戻ることにした。土埃と汗の匂い、そして微かに残る魔力の残滓。そんなものに包まれながら、今日の長い一日が終わろうとしていた。


校門を出て、家路につく。夕暮れの空が、エルドラードの街並みを茜色に染めている。昼間の喧騒が嘘のように、辺りは静かになり始めていた。一人で歩く帰り道は、気が楽だった。仮面を少しだけ緩め、深く息をつく。


「あの、リオン君!」


背後から、聞き慣れた声がした。振り返ると、エリアーナ・クレスウェルが小走りでこちらへ向かってくるところだった。また彼女か、と内心でうんざりする。


「……何か用か、クレスウェルさん」


俺は、ぶっきらぼうに返した。エリアーナは、俺の前に立つと、少し息を切らしながら、しかし真っ直ぐな瞳で俺を見つめてきた。


「その、さっきは……ありがとう」

「……何のことだ?」


俺は、とぼけてみせた。訓練中のことなど、覚えていない、という態度で。エリアーナは、少し戸惑ったように視線を泳がせたが、すぐに意を決したように続けた。


「訓練の時、私が転びそうになったのを、助けてくれたでしょう? あの小石……あれ、偶然じゃないわよね?」


鋭い。彼女は気づいていたのか。俺は内心の動揺を隠し、あくまで平静を装った。


「何の話だか分からないな。俺は自分の訓練で手一杯だった。君が転びそうになったかならなかったかなんて、見ていない」

「でも……!」

「気のせいだろう。それじゃ、俺はこれで」


俺は、エリアーナの言葉を遮り、彼女に背を向けて歩き出した。これ以上関わるのはごめんだ。


「待って!」


エリアーナが、なおも呼び止める。俺は足を止めずに歩き続ける。


「リオン君は、どうしていつもそうなの? もっと……なんていうか、普通にしてればいいのに。わざと力を抜いてるみたいに見える時があるわ。本当は、もっとできるんじゃないの?」


その言葉に、俺は思わず足を止めた。振り返ると、エリアーナが真剣な、少し心配そうな表情でこちらを見ている。彼女の観察眼は、思ったよりも鋭いのかもしれない。あるいは、ただの勘か。どちらにしても、厄介なことだ。


「……考えすぎだ、クレスウェルさん。俺は、見ての通りの凡人だよ。期待されても困る」


俺は、皮肉とも自嘲ともつかない笑みを浮かべて言った。


「そんなこと……」


エリアーナが何か言いかけた、その時だった。


「おい、リオン・アッシュフォード」


低く、威圧的な声が割り込んできた。見ると、ゼイド・フォン・ヴァルガスが、腕を組んで仁王立ちになっていた。彼の後ろには、いつもの取り巻きたちがいる。その目は、明らかに俺を嘲笑していた。


「こんなところで、クレスウェル嬢と何を話している? まさかとは思うが、貴様のような底辺が、彼女に馴れ馴れしく言い寄っているわけではあるまいな?」


ゼイドの言葉には、隠すことのない侮蔑が込められている。エリアーナは、その言葉に顔を赤くして反論しようとしたが、ゼイドの鋭い視線に射竦められて、言葉を飲み込んだようだ。


俺は、内心の怒りを抑え込み、無表情を装った。ここでゼイドと事を構えるのは、最悪の選択肢だ。


「……別に。ただの世間話だ。もう行く」


俺は、ゼイドを無視して、再び歩き出そうとした。だが、ゼイドは俺の前に立ちはだかった。


「待てと言っているのが聞こえなかったのか、雑魚が」


ゼイドの目が、冷たく光る。彼の体から放たれる威圧感が、空気を重くする。周囲を通行する生徒たちが、遠巻きにこちらを見ている。面倒なことになった。


「……何の用だ、ヴァルガス」


俺は、できるだけ感情を抑えた声で問い返した。


「ふん、用などない。ただ、貴様のような存在が、この由緒ある学院の空気を汚しているのが気に食わんだけだ。特に、エリアーナ嬢のような方に気安く話しかけるなど、万死に値する」


ゼイドは、まるでそれが当然の権利であるかのように言い放つ。彼の後ろの取り巻きたちも、下卑た笑みを浮かべている。エリアーナは、青ざめた顔で、どうすればいいのか分からない、といった様子で立ち尽くしている。


俺は、深く息を吸い込んだ。ここで下手に逆らえば、暴力を振るわれるかもしれない。そうなれば、俺は反撃せざるを得なくなる。それは、絶対に避けなければならない。ならば、取るべき道は一つ。


「……そうか。それは悪かったな。もう話しかけないようにするよ」


俺は、感情を完全に殺し、平坦な声で言った。プライドも何もかも捨てて、ただこの場をやり過ごすためだけに。


ゼイドは、俺のその反応に、一瞬、拍子抜けしたような顔をしたが、すぐに嘲るような笑みを浮かべた。


「ふん、物分かりがいいじゃないか。それでいいのだ。身の程を知れ、アッシュフォード」


そう言い捨てると、ゼイドは満足げに踵を返し、取り巻きたちを引き連れて去っていった。その背中に、俺は何も言わなかった。ただ、拳を固く握りしめていた。


残されたのは、俺と、呆然と立ち尽くすエリアーナ、そして気まずい沈黙だけだった。エリアーナが、何か言いたそうに口を開きかけたが、俺はそれを無視して歩き出した。今、誰かと話す気分ではなかった。


夕暮れの道を、一人で歩く。ゼイドに言われた言葉が、頭の中で反響する。「雑魚」「底辺」「身の程を知れ」。怒りよりも先に、虚しさが込み上げてくる。力を隠し、平凡を装うということは、こういう屈辱を受け入れなければならないということなのか。


師匠は「自由に生きろ」と言った。だが、今の俺は、本当に自由なのだろうか。力を隠すために、自分を偽り、他人に侮辱されても耐え忍ぶ。それは、本当に俺が望んだ生き方なのだろうか。


ふと、空を見上げる。茜色の空に、一番星が輝き始めていた。その小さな光を見つめながら、俺は思う。いつか、本当に自由に、誰にも縛られずに、この力を振るうことができる日が来るのだろうか。今はまだ、その答えを見つけることはできない。ただ、今は耐えるしかない。この平凡という名の仮面を被り続け、来るべき時を待つ。それが、今の俺にできる、唯一のことだった。


家路を急ぐ人々の流れに逆らうように、俺はゆっくりと歩き続けた。胸の奥底で、小さな炎が揺らめいているのを感じながら。それは、怒りか、悔しさか、それとも、まだ諦めていない自由への渇望か。今はまだ、分からない。ただ、その炎が消えない限り、俺は歩き続けることができるだろう。たとえ、それがどんなに険しい道であったとしても。ければならない。アストリッドは、静かに決意を固めるのだった。

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