目覚まし男と憂鬱な朝
ピピピピピ……。
まだ目覚めたくないと駄々をこねる意識の隅っこで、辛抱強く呼ぶ音がする。雑に閉めたカーテンの隙間からは朝の日差しが弱々しく顔を覗かせていた。
誰だろう。こんな朝早くから。
聞き慣れた着信音を求め、恵は手探りに枕元を叩いた。そうこうするうちに嫌々ながらも、脳みその始動スイッチがオンになる。
朝なんか嫌いだ。朝なんか永遠に来なければいいのに。
恵は長い髪をかきあげながら、のろのろと上体を起こした。少し茶色く染めた髪が、鬱陶しく頬にかかる。
脳内の電算機がゆっくりと起動した。まず、この音は、いつもの着信音ではない。これは、ウェブ通信の着信音だ。会社からの連絡はこっちにはかかってこないから、よってこれは私用の連絡だ。しかし、友人たちの顔を思い出しても、こんな朝から電話をしてくるような相手は思いつかない。
ベッドに座り込むと目的の端末はすぐに見つかった。そのディスプレイを見た瞬間、脳内の電算機がけたたましいエラー音を発した。
電話にでるべきか否か。
矢崎恵25歳。ただでさえ問題だらけの現実に、あらたな問題が発覚した朝だった。
思えば、昨日は疲れと給料日という両極端なテンションで、おかしくなっていたのだ。家に帰って寝るだけの毎日なのに、手取り額はいつもと変わらず、節約が頭をよぎりながらも馬鹿らしくなった。
たまにはぱーっと使ってしまおう。決めたはいいが、すでに深夜にさしかかる時間で、もちろん服屋だって開いているわけがない。常連になりつつある深夜のコンビニは、新しいバイトなのか見かけない店員が爽やかな笑顔を向けてきた。こんな夜中になんで笑えるんだと、八つ当たりで苛々したことを覚えている。奮発したビールを飲みながら、携帯端末で買い物をする。ぱーっと使ってしまおうと決めた割に、ちまちまとフリマアプリを覗いている自分が滑稽だった。
5、6着ほど購入手続きしたところで、急に眠気が襲ってきた。明日ももちろん仕事だ。就業時間は九時からなのに、朝の掃除で30分前には着いていなければならない。それなのに、タイムカードを押すのは掃除が終わってからのルールだ。なんて理不尽なんだろう。家から職場までは徒歩と電車で約一時間。逆算して、遅くても7時には家をでる。
アラームを確認しなきゃ。そう、寝ぼけた視界に飛び込んできたのは、「人間目覚まし時計」という文字列。
おかしな商品というよりも、むしろそのくだらなさに、恵は思わず詳細情報をタップしてしまった。
5日間、指定の時間にモーニングコールをかけます。お客さまが起きられるまで。料金は5日で1,000円。さらに細かく注意書きもあったが、すでに瞼は閉じかけていた。
人の肉声で起こされるのか。「恵、さっさと起きなさい」どこかで母の声が聞こえるような気がした。そういえば、ここ数ヶ月友だちともまともにしゃべっていない。
購入手続きで、連絡を電話番号でなくウェブ通信のアカウントにしたのはせめてもの理性だったと思いたい。
そう、まちがいなく恵はおかしかったのだ。
鳴り続ける端末を前に、恵は頭を抱えていた。この記憶が本物なら、この電話は恵を起こしてくれる人間目覚まし時計なる誰かなのだ。本音を言えば、無視して、できればキャンセルしてしまいたい。朝っぱらから知らない誰かに気を使って挨拶するなんてごめんだ。
そうだ、この電話口で断ってしまおう。
「もしもし……」
「おはようございます! 目覚ましサービスです。お目覚めでしょうか?」
電話の向こうは男性だった。声ははきはきと聞き取りやすく、嫌味がない。日常的に電話をかけることに慣れた口調だ。だが、手当り次第の電話営業的な鬱陶しさは感じられない。恵の中のデータと照らし合わせるに、有能な営業マンに近い。これが仕事相手ならスムーズに話が進みそうだという安心感がある。そんなことを考えたのが失敗だった。
「おはようございます。いつもお世話になっております……じゃない!」
まるで取引先の担当者を相手しているような錯覚に、ついいつもの電話対応が口についた。世話になっていなくてもお世話になっております。悪いと思っていなくても申し訳ございません。定型文にも、もう慣れっこだ。
電話の向こうで控えめに笑う声が聞こえる。顔も見えないのに、恵は羞恥で顔を隠した。
「お目覚めのようですね。では、明日も同じ時間ということでよろしかったでしょうか?」
「……はい」
しまった。断るつもりだったのに。気づいたときには、もう遅かった。
「ご利用ありがとうございます。では、よい1日を」
そう締めくくって電話口の声はあっさりと消えた。ワンテンポ遅れて静かに通話終了のお知らせ音が届く。
ああ、ちゃんとした人なんだ。恵は少しの驚きとともに、そっとディスプレイをオフにした。電話はかけた方が先に切る。受けた側は、相手が切るのを待って、受話器を置く。せっかちな恵は新入社員のころ、研修でなんども叱られた箇所だ。いわゆるビジネスマナーだけど、正直できていない社会人も多い。それまで朗らかだった相手でも、ガチャンと乱暴に受話器を置かれてしまうと台無しだ。
「ま、いっか」
恵は大きく伸びをした。元来、深く考えるタイプではない。
目覚まし男は意外にビジネスマンっぽくて、爽やかだった。朝、寝起きの一発目に聞くには悪くない。しゃべっていた数分の間に、恵の頭はすっかり覚醒して、むしろ爽快ですらあった。これなら、せっかくだし5日間、起こしてもらうのもありかも知れない。
「矢崎君。この書類、日付が空白のままじゃないか」
朝礼を終え、デスクに座った途端のことだった。目覚まし男のおかげで、少し爽やかだった気分はその瞬間に消え去った。薄くなり始めた頭頂部を悪あがきの横髪で隠した上司が、眉を潜めて手招きしている。薄いなら薄いで潔く刈り上げてしまえばいいのに。恵は気づかれないようにため息を吐き出すと、席を立った。
「そちらは、納期が確定でないから空けておくようにということでしたが」
「そんな馬鹿なことがあるか。日付もなしにどうやって発行するんだ」
言ったのに言ってない。やれと言ったくせに必要ない。この上司はいつものことだ。恵はあらかじめ手元に用意していた書類のファイルをめくった。
「こちらの……松木課長の指示にもそうあります」
汚らしいメモ書きを松木のデスクに取り出した。ミミズというよりも、糸くずが絡まったような字も、この3年でだいぶ判別できるようになってきた。松木が答えに詰まり、一瞬黙り込む。やや溜飲が下がる瞬間だ。
「生意気なことを言うんじゃない」
また、これだ。諾々と従うだけ。誰が聞いてもおかしなことでも、自分が間違っていたとは決して言わない。部下の人格など認めない姿勢には、いっそのこと感心してしまう。
「で、納品日はお決まりでしょうか?」
「……今月末だ」
「では、そのように手配いたします」
恵がデスクに戻ると同時に、松木がフロアを出た。恐らく休憩室横の喫煙スペースに向かうのだろう。世間の流れからか、分煙となった社内は、しかし喫煙者が喫煙を理由にサボることが問題となっている。
「ま、どうせ、いたとこで役に立たないんだから、いないほうがマシだわ」
小さな暴言は、案の定隣のデスクでパソコンを叩く同期に届いていた。呆れ眼が恵を見上げる。三年前、新卒で入社したときは20名ほどいた同期も、すでに五名しか残っていない。羽柴舞子はなかでも親しくしている唯一の同僚だった。
「恵はいちいちつっかかるから面倒なのよ。はいはいって聞き流せばいいのに」
舞子の言いたいことは分かる。従っているように見せかけてうまく誘導する。舞子は確かにそれを上手くやっていた。柔らかな雰囲気と、嫌味のない笑顔は、その下に隠された作為を悟らせない。それは舞子がするから効果的なのであって、長身に気の強い顔立ちの恵だと、逆効果だ。さらに、間違ったことに頷くには、まだプライドが邪魔をするのだ。
「だってムカつくじゃない」
「でも、言われてまたムカつくんでしょ?」
「そうだけどさ……いつか過労で倒れて労基にかけこんでやるわ」
「いつかっていつよ……」
舞子が呆れたように、やわらかなウェーブの頭を振った。そうなのだ。これほど腹を立てても、恵の胃は頑丈で穴が空く気配もない。死ぬほど疲れたと思っても、陸上部で鍛えた肉体は、ぐっすり寝てしまえば朝には回復してしまうのだ。
「なんか納得いかない……」
「ばか……」
細く白い指先が、恵の肩を宥めるように叩く。差し出されたチョコレートを口に入れると、恵は大きく深呼吸をして仕事に取り掛かった。もちろん今日も残業だ。
「あ、抹茶」
コンビニの中にポップを見つけて、思わず自動ドアを入っていた。今日は買い置きのカップ麺にしようと思っていたはずなのに。パスタとサラダとお目当ての抹茶プリンを持ってレジに向かう。
昨日と同じ店員がにこやかに挨拶をした。名札には植村とある。やはり新しい店員だ。アルバイトか社員かは分からないが、年齢は20代後半くらいに見えるし、客対応も悪くないから正社員なのかもしれない。常連過ぎてバイトの入れ替わりまで把握してしまっていることに、恵は内心で肩を落とした。
「お時間も遅いのでお気をつけて」
帰り際、植村が声をかけた。恵にとってはいつもどおりすぎて何も思わなかったが、すでに日付が変わり、一般的には物騒だと言われる時刻だ。当たり前の声かけなのだろうが、決まった文句だけを吐き出すバイトたちのなかで、意外とそれは恵の心を明るく照らした。
ただ、そんな気分も、一人暮らしの部屋に戻って、冷めたパスタを食べるころには忘れてしまったのだが。
「はぁ……なにやってんだろ……」
もちろん答える相手はいない。弁当のトレイをゴミ箱に突っ込むと、恵はベッドに仰向けに寝転んだ。さっさと寝てしまわなければ明日が辛くなるだけだ。それなのに、帰って寝て、また仕事に行って、また帰って寝て……。自分はなんのために働いているのか分からなくなった。最後に友人たちと遊んだのはいつだっただろう。買い物に行く暇もなくて、専らネット通販ばかり利用している。彼氏なんか、就職してすぐに振られて以来、出会いすらない。それで給料でも上がっていれば諦めもつくが、手取り額は入社時とほぼ変わらない。仕事は増えた。責任も増えた。
そんな職場に見切りをつけて辞めていく同期たちを、堪え性がないとどこかで蔑んだ目で見送った。立ち向かう自分にプライドがあったのだ。だけど――。
「なんか、しんど……」
そういえば、あの無駄に爽やかな目覚まし男は明日もかけてくるだろうか。
恵は、携帯端末に充電器を差し込むと、ベッドサイドにそっと置いた。
ピピピピ――。
飛び起きた恵は、多分、有事の際の軍人並みの反射神経だっただろう。端末を手にすれば、六時ちょうどの数字が目に入る。ぴったりにかけるため、数分前からスタンバイしている、見知らぬ目覚まし男を想像して思わず笑ってしまった。
「もしもし」
「おはようございます。ところで……本日は土曜日だったんですが、おかけしても大丈夫でしたか?」
申し訳なさそうな目覚まし男に、恵はやっとカレンダーを確認した。
「大丈夫ですよ。公休なんですけど、どうせ後で出社するし」
まともな休みなんか、しばらく取っていない。舞子などは、無理してもしなくてもどうせ文句言われるだけだからと、きっちり休んでいる。けれど「できていない」ということを甘受するには、恵のプライドは高すぎたのだ。
「お忙しいんですか?」
「まぁ、そうですね。もうずっとこんな感じですけど……」
苦笑いが口をつく。電話の向こう側で、目覚まし男が小さく息を呑む音が聞こえた。
「むちゃくちゃなんですよね。仕事が終わってないと無能。残業しても無能。無能なせいで残業してるんだからもちろん無給。入社して3年ですけど、その間の昇給たったの1,000円ですよ。やってらんねーって感じですよね」
言葉が止まらなかった。思えば、愚痴をいう相手すらいなかったのだ。舞子は心強い仲間だけれど、彼女はあの企業の中で上手く立ち回っている。恵の葛藤は理解されない。けれど、目覚まし男はまったくの他人で、気兼ねする必要がないのだ。
「辞めようとは思わないんですか? そのままいくと身体を壊しかねませんよ?」
「残念なことに体力だけはあるんですよね。それに、できないから辞めるって、逃げるみたいで悔しいじゃないですか」
「でも、その我慢は無駄な時間かも知れないですよ?」
目覚まし男の爽やかな声がどこか陰りを見せた。無駄な時間という単語に、辞めていった同期たちの顔が重なる。
「辞めたばっかりの俺が言うことじゃないですけど」
「辞めた?」
「どうしても納得いかなくて、上司に喧嘩売って解雇です。なのに離職票は「自己都合」って書かれましたけどね」
めんどくさくてそのまま提出しました。電話口の目覚まし男はどこか自嘲気味に笑った。爽やかな声からは、無謀に上司へ喧嘩を売るようなセリフは想像できない。
「今は?」
「バイトしながら就職活動中です。あと、この目覚ましサービス」
「ほかにもお客さんいるの?」
「残念ながらご登録くださったのは1名のみです」
「1名……って私だけ!?」
「はい」
しれっと答えた目覚まし男に、堪えきれず吹き出した。ひとしきり笑い合って、不意に我に返った。こんなふうに笑える自分に驚いたのだ。
目覚まし男は、もうひとりの恵のようだ。恵が逃げることを選べばこうなるという。それは甘美に恵を誘い、思わず心が揺らぐ。しかし、無職の自分を受け入れられるかとなると答えはノーだ。
「もうちょっとがんばってみる」
「ご無理なさらず。明日はどうされますか?」
「う~ん。せっかくだから寝坊することにするわ」
「えぇ。ごゆっくり休んでください。では」
通話を切った瞬間、一気に空気が冷えたような気がした。音という音がなくなった物悲しい空間。いつもと同じ自分の部屋だというのに。
休日出勤だって悪いことばかりではない。うるさい上司がいないから仕事は口笛でも吹きたくなるくらいスムーズだし、当たりまえだけど帰宅時間も早い。
恵は職場の最寄り駅に隣接するショッピングモールに足を向けた。お気に入りのファッションブランドのショップも今日はまだ開いている。ウキウキと、足取りも軽く店に向かい――ショーウィンドウごしに新作を見つめ、愕然とした。なにも感じない自分に戸惑ったのだ。恵の好きな、シンプルだけど小技の効いたデザインなのに、欲しいという欲求も沸かない。むしろ早く帰って休みたい。そんな、信じられない思考が恵の中に現れた。
自分はこれほどに無気力な人間だっただろうか。むしろアクティブで動きすぎだと周りから呆れられていたはずだ。
帰り道のコンビニは、時間帯が早いせいか、もう二年近く働いている大学生風のバイトがレジに入っていた。仕事はそつなくこなすが、いかんせん愛想のないバイトだ。恵は、コンビニを横目に足早に自宅へ帰った。
気持ちがどうも焦っている。こんな時間に帰って来られたというのに、なにもする気が起きない。せっかくの時間が無駄に過ぎてしまう。休日の自分はいつもなにをしてたのだろう。
「目覚ましサービス、キャンセルしなきゃよかったな……」
結局やりたいことを見つけられず、恵は早々に寝る体勢に入ってしまった。
翌朝、休みだというのになぜか目が覚めてしまった。携帯端末をタップすると、時刻はまだ6時前だ。
56分、57分……59分、00分。
もちろん端末はウンともスンとも言わない。恵は無性に寂しくなった。金銭を対価に受けている目覚ましサービスでさえ、恵を仕事以外に繋げる貴重な存在なのだ。それがないと、恵にはもう仕事しかない。それ以外はもう必要ないと突きつけられているような恐怖に唇が震えた。
いつも6時に電話をかけてくるということは、こちらからかけても大丈夫だろうか? もし、迷惑だったら? もし、不機嫌な声だったら?
これでは、恋愛を覚えたばかりの女子校生と変わらない情けなさじゃないか。恵は大きく深呼吸をすると、アプリの通話ボタンを押した。
「もしもし?」
少し驚いた声がスピーカーから流れ出す。
「おはようございます。起こしてしまいましたか?」
緊張を悟られないよう、ことさら仕事用の口調を心がけた。なぜなら、電話に応答があっただけで、泣きたいほど安心してしまったのだ。心が弱っている。認めたくなけれど、それは確かに今の恵の状況だった。
「大丈夫ですよ。むしろ、これから寝るところです」
夜勤のバイトなので。爽やかな声が続く。だから、時間に遅れることもなく目覚まし電話をかけることができていたのか。
「どうかされましたか?」
「……お聞きしたいことがあって」
「はい」
「お仕事を辞められて、お時間があるじゃないですか? なにをされているんですか? 私、昨日久しぶりに早く終わって、せっかくの自由時間だったのに、なにもすることが思いつかなくて。自分がどうやって休日を過ごしてたか思い出せないんです」
あとから思えば、なんて失礼な質問だっただろう。それなのに、目覚まし男は気を悪くした風でもなく、少しだけ考えるような間のあと、丁寧に答えてくれた。
「今は、もちろん就職活動中なのでハローワークには毎日行っています。ほかには本を読んだり映画を見たり。買い物に行くのにも無駄にひと駅歩いてみたり、ずっとできなかったこと……というよりも、やろうとも思わなかったことを贅沢にやっています」
「贅沢……」
「はい。時間の無駄遣いなんて最高に贅沢じゃないですか?」
そんなこと考えてもみなかった。とにかく時間に追われるばかりで、それを自由にする発想なんか恵のなかには存在しない。
「俺も辞めて1週間くらいは本当になにもする気になれなくて、ひたすら家でごろごろ寝てばかりいましたよ。自由に慣れるまで落ち着かなかったです。けど、自分で自由を過ごせないなんて奴隷みたいだったなって思ったんです。ひたすら決められたことをやっていて、自分で決めるっていう当たりまえのことができなくなってたんですよね」
目覚まし男の口調はさっぱりと軽やかで、無職の現状に気後れしている様子はうかがえない。目覚まし男は辞めることで自分を取り戻したのだ。自らを客観視して振り返り、反省をもとに進んでいる様子は、真面目で誠実な人柄を思わせる。
これまで、恵は自分の意思に迷ったことなどなかった。なのに、いま、初めて迷っている。
「ありがとうございます。また、仕事行くから切りますね」
少し慌てたような目覚まし男の声を聞きながら、恵は通話を切った。なぜだか、涙が流れて止まらなかった。悲しいのか、悔しいのか、それすら自分では分からない涙だった。
「おはようございます。お加減はいかがですか?」
翌朝の目覚まし男は、どこか心配そうな声で挨拶をした。昨日、あんなふうに切ってしまったのだから無理もない。形だけだとしても心配されているのかと、少し照れくさかった。
「大丈夫です。行ってきます!」
腹に力を込め、宣言した。まだやれるはずだ。
しかし、ホームに滑り込んできた満員電車の窓に映った自分と目が合った瞬間、恵は呆然と立ち尽くした。恵のうしろに並んだサラリーマンが、立ち止まった恵を不審げに見ながら抜かしていく。
ガラスの自分は、まるで昔語りの幽鬼かと思うほどにやつれて見えた。もともと細いほうではあったが、痩せすぎて目だけが主張する顔は、思わず目を背けたくなる有様だ。
プライドがなんだ。全然できていないじゃないか。これ以上ししがみついて、いったい自分に何が残るというのだろう。
辞める選択をした目覚まし男は、実はとても勇気がある人間なのだ。これまでのキャリアを捨てて、一から出発することはどれほどの覚悟が必要だろう。
出社した恵は、驚く舞子を横目に勢いよく仕事を片づけ始めた。心の内はすでに決まっていた。
「舞子。私、決めたわ」
昼休憩とは名ばかりの、パンを齧りながらのデスクでそう宣言した。恵とは対照的な、上品な仕草でサンドイッチを食べていた舞子は、呆気にとられたようにしばらく恵を見つめ、やがてにっこりと笑った。
足早にコンビニに入ると、売れ残った焼肉弁当とビールを買う。
「お疲れさまです。お気をつけて」
すでに挨拶も馴染んだ店員の植村が、明るい声で恵を見送った。
冷めないうちに弁当を平らげ、ビールを飲み干す。すぐさま、ゴミを片付けるとシャワーを浴びた。いつ買ったものか思い出せないフェイスパックは、使用期限が残り3日だった。
「気合いれろ、恵」
ゆっくり、喉の奥で搾り出すように自分を鼓舞した。
ピピピピピ――。
携帯端末が鳴ったとき、恵は珍しく朝食を食べていた。驚くほどに活力が沸くような、不思議な朝だった。
「おはようございます」
電話の向こうではすっかり慣れた、爽やかな声が朝の挨拶をする。今日は契約の終わる5日目だ。
「5日間ありがとうございます!」
恵は端末を耳に当てたまま、90度にお辞儀をした。電話の向こうでは、目覚まし男が一瞬ことばに詰まり、その隙につけっぱなしにしているのかテレビの音声が小さく聞こえた。
――本日の運勢。3位は山羊座のあなた。不思議な出会いがあるでしょう。ラッキーアイテムは熊のボールペン……そして、本日の1位は……。
音声が二重になって聞こえた。恵の部屋でも同じセリフが流れている。
――本日の1位は、水瓶座のあなた。新しいことを始めると吉。ラッキーアイテムは花柄のバッグ。では、今日も一日がんばって、行ってらっしゃい!
「花柄のバッグあったかな~」
「熊のボールペンなんてさすがになかったような」
目覚まし男は山羊座らしい。電話越しとはいえ、共通のなにかで繋がったことが嬉しかった。だれかと共有する時間はこれほどに大切だったのだ。
さすがにメインのバッグは無理だけど。恵は大きな薔薇が刺繍されたトートバッグを重ねて持った。
「行ってらっしゃい」
電話の向こうで、目覚まし男が恵を送り出す。
「行ってきます」
いつもより少し高いヒールは、カツコツと小気味よいリズムを刻む。
出社した恵は、真っ直ぐに上司の元へと向かった。
「や、矢崎君……! これは一体どういうことなのかね!?」
「見ての通り、退職届です。松木課長。3日で引き継ぎを済ませますので、残りは有給消化とさせていただきます」
深く一礼すると、踵を返した。デスクでは、舞子がこっそり親指を立てて笑っている。恵もそっと親指を立てた。
あれほど忙しいと、自分がやらなければと気負っていたのに、引継ぎ資料を作成していけば、自分がいなくても誰かがができる仕事ばかりだと思い知った。恵の代わりなんか会社にはいくらだっている。だけど、自分の人生に代わりなんか存在しないのだ。
週末は二人で送別会をしようと提案した舞子に、一も二もなく頷いた。
考えるべきことは無数にあるけど、まずは今日、ひとりで慰労パーティといこうじゃないか。
「いらっしゃいませ」
いつものコンビニで、いつもどおり爽やかな植村が恵を迎えた。夕食を適当に選び、メインのデザートを悩む。今日はカロリーだって気にするものか。選びきれなかったデザートを三つもカゴに入れてレジに向かった。
「あたためますか?」
植村の問いに頷いたとき、視界に原色の黄色が鮮やかに飛び込んだ。それは白と青の制服で一際その存在を主張している。
「熊のボールペン……」
「あ、似合わないですよね。でも、今日がんばる人がいるから、応援したくて」
実はずっとしまい込んでいたもので、インクがでないのだと植村が笑った。
「……っ目覚まし男!?」
「は……!?」
植村の視線が、恵の持つサブバッグに注がれる。大きな花柄は、ビジネススタイルのなかで、どっか不自然に見えただろう。
「花柄のバッグ……え? 嘘だろ」
深夜のコンビニでしばらく無言で見つめ合った。やがて、どちらからともなく笑い出す。
「私、今日は辞表出してきたの。自分ならできるって思ってたけど、無駄な時間だったわ」
「無駄じゃないですよ。俺は8年も無駄に過ごしたから。新しく始める覚悟がなかなか持てなくて……」
「ふふ。無職仲間よ」
「心外な。俺はいま結果待ちだし」
わざとらしく口を尖らせた植村は、しかし、すぐにしかめっ面を崩した。笑った顔は、声と同じ爽やかさだ。
「もう、目覚ましサービスはやらないの?」
「もう閉店。でも」
植村が少し照れたように恵を見つめた。
「面接結果、連絡してもいいかな?」
「落ちてても?」
「縁起でもないなぁ。でも、うん。落ちてても」
「わかった。待ってる」
これだけで、朝が待ち遠しいなんて現金なものだと自分でも思う。
だけど、人生にはトキメキだって必要だ。