第玖話 瑠璃色のお嬢様と貰い子事件(2)
「ふーふーん、ふ、ふーふふふーん
ふーふーん、ふ、ふーふふふーん」
翌日、少し早めに出勤した瑠唯子は、郵便虚の帳簿で、ある事実を確認すると、満足そうに鼻歌で「カチューシャの唄」を歌いながら、郵便物の仕分け作業を行っていた。
「おはよう、納冨君。早いね」
そう声を掛けてきたのは、逓送員のリーダー株の團だった。
「團さん、おはようございます。
あの。少し、お話ししたいことがありまして、お待ちしておりました。少しお時間をいただけますかしら?」
瑠唯子にそう言われて、團は一瞬ぎょっとした表情をしたものの、その後は澄ました顔で
「いいよ、屋上にでも行くかい?」
と、上を指さしながら言った。
※
「さて……、と。話ってなんだい?」
瑠唯子は、ほぉと大きく息を吐き、気合いをいれると、早口で捲し立てはじめた。
「別に、私の出勤初日に、井の一番にヤジを飛ばして、皆がヤジを飛ばすきっかけを作ったこととか、逓送競争を仕掛けてきて私の能力が劣っているところを衆目に晒し、逓送員から降ろさせようとしたこととか、その当てが外れて競争が僅差に終わり、しかもあなたの取り巻きの皆さんが、私が銃を撃ったことがあるとの発言に、掌を返して私を歓迎する態度に変わり、一人で反撥し続けるわけにいかなくなったこととか、私が単に郵便物の逓送を行うのか、あるお宅へは逓送以外にも何かするんじゃないかと黒いケイプに身を包んで見張っておられたこととか、そして、逓送以上の明確な目的があるようだと察したあなたが、不審な黒づくめのお姿をわざと見せつけ、私を委縮させようとされたこととか、そうした試みが全てうまくいかず、焦るあまり、僅か三銭で雇った掏摸男に私への迷惑行為を行わせて、妨害しようとなさったこととか。今、私がお話したことはすべて、どうでも良いのです」
瑠唯子が「これらの行為を行ったのはあなたですか?」とか、「あなたがやったんですよね?」といった質問の形で話をしていれば、言下に否定したことだろう。しかし、瑠唯子がこれらの行為を断定的に既成事実として、ぴしゃりと告げた上で、「どうでも良い」と言いきったため、團は虚を突かれ、口をぱくぱくと動かしただけだった。
「そんなことよりも。どうして『東都慈恵育友会』なんていう、怪しい団体にあの方たちを斡旋したんですか!」
「な……なんのことだ?」
「とぼけないでください。逓送員はどうしたって、受け持ちのエリアの方々の家族構成や、素性に詳しくなります。誰も郵便逓送員を警戒なんてしませんもの。路傍の小石並みに扱って、平気で個人情報を晒します。『短い間預かるだけだと思っていた孫をこの先育てるなんて難しい』だとか、『私娼で生計をたてているのに、仕事の邪魔になる』だとか、『主人の手が付いて身籠ったが、追い出されてしまい、とても育てられない』だとか、『離縁して再婚してくれると言っていた子どもの父親が、戦死してしまって困っている』だとか、『実父の子どもを身籠ってしまって途方にくれている』だとか、『兄妹の間で子どもを作ってしまって、この先どうしよう』だとか!」
瑠唯子は怒っていた。この男が、こうした彼らの悲痛な思いを売ったのだ。「東都慈恵育友会」という組織が一番悪いのだが、目の前の男が小銭欲しさに情報を売りさえしなければ、彼らは不幸な目に合わずに済んだかもしれないのだ。
瑠唯子が赤裸々に被害にあっている人たちについて話すのを聞いているうちに、團はどんどん顔から血の気が引いていった。それ程に、瑠唯子が調べ上げた情報の正確さに恐怖を感じていた。
「そ……それが、私にどういう関係があるというんだね?」
表情も仕草も、全てがもう白状しているようなものだったが、それでもこの男は、抵抗を続けようとした。
「彼らのお子さん、どんな目に合うか、ご存じですか?」
瑠唯子は、團の言葉を無視して続けた。
「そ、それは……」
「まぁ! 知っていてなさっていたのですか? なんて人でしょう! ご自分も奥さんやお子さんがおられるというのに! よくもそんな鬼畜のようなことができますわね!」
「し、知らん! 俺は知らない! 証拠は! 証拠はあるのか!」
そう聞いて、瑠唯子は目の前の、僅かな救済の心も湧いてこないこの男に、軽蔑の眼差しを送った。
「むしろ、どうしてバレないとお考えになったのか。そちらを疑いたくなりますわ。私があの老婦人のお宅を訪問するのを知っていたのは、逓信局長と、神田局の皆さんだけです。逓信局長なわけはありませんから、ここ神田局のどなたかということになります。内勤の皆さんが、私の逓送に合わせて外出し、監視することは不可能ですので、外回りの方です。
そして、外回りの皆さんはあの時間、ちょうど午後の逓送に出たか、出ようとなさっていました。自分の管轄エリアの逓送を抱えつつ、他人のエリアに出没するのは困難です。ですが、あの日、お一人だけ、私が出発するのを紫煙を燻らせながら見送っておられた方がいました。
後で確認しますと、その方は、あの日の午後は休暇を取られていたようです。
そして、今、私が担当しているエリア。『東都慈恵育友会』によって被害に逢われている方が少なくとも六名も居るエリア。ここの前任の担当者は、團さん。あなたですね? 調べれば簡単に分かることです。どうぞ、観念なさってください」
しかし、團という男は往生際が悪かった。このまま認めてしまって警察に突き出されでもしたら、職を失い人生が終わる。しかし、この事を知っているのは、まだ目の前の女一人。幸い、二人がいるのは屋上で、昼休みならともかく、朝から誰かが来る心配はない。腕力にも自信がある。女などに遅れを取る自分ではない。死体の始末には少々困るだろうが、まずは黙らせてしまうことが一番大事……。
――こいつさえ、居なければ……。
團の目が一瞬にして険しくなり、彼の太い腕が瑠唯子の首元へと伸びた。屋上の冷たい風が彼女の頬を掠める中、その動きを予想していた彼女は、体の向きを素早く変えて躱した。今日はモダンでお洒落な服装というわけにはいかない。学生服のような、凡そ、お洒落とは無縁な郵便逓送員の制服だった。それでも、彼女の動きは、優雅に社交ダンスを舞うように可憐だった。
巻きゲートルの足で軽やかにステップを踏み、團の腕をかわすと同時に、彼の脇腹に鋭い肘打ちを叩き込んだ。瀬蓮からは、銃の扱い方だけでなく、大東流柔術や中国河北省に伝わる古武術など、さまざまな体術も学んでいた。
「ぐっ!」
團が呻き、よろめく。だが、彼はすぐさま体勢を立て直し、今度は両腕を広げて瑠唯子を捕まえようと飛びかかってきた。瑠唯子は、ポンッとステップを踏み、横へ飛んで軽々と躱す。
團が再び突進してきた時、瑠唯子はくるりと後ろを向きながら、彼の懐に飛び込み、背中を丸めて小さくしゃがみこんだ。そして、次の瞬間、肩に彼を担ぎあげるようにして立ち上がった。彼の巨体が背負い投げの要領で持ち上がり、くるりと天地が逆になった。そうして、背中から、激しくコンクリートに叩きつけられた。ごすっという鈍い音と共に、團が屋上のコンクリートに倒れ込む。
「ぐふぅ!」
衝撃で肺から無理矢理押し出された息を漏らして呻く。苦痛に耐えつつ這うように起き上がろうとする團の顔面を強かに踏みつけ、動きを封じる。彼女の足とコンクリートに挟まれた彼の目が見上げた先には、彼女の冷ややかな目があった。
「どうかしら? 女子に遅れを取るとは思わなかったでしょうね。ですが、私、売られた喧嘩は、きっちりと買う性分ですのよ。
もう観念なさって。そして、あなたが『東都慈恵育友会』について知っていることを全てお話なさい。そうすれば、情状酌量を警察へ口添えして差し上げますわ」
彼はしばらく黙り込んで、荒い息をつきながら目を逸らしていたが、やがて諦めたように口を開いた。
「……わかった。『東都慈恵育友会』に、情報を売っていた。名簿に載せられないような曰く付きの弱みを抱えた連中を調べて売るんだ。あんたが言うように、逓送を行いながら、探りを入れて情報を集めていた。報酬は……一件につき十円だ」
彼の独白を聞いているうちに、だんだんと怒りがこみあげてくる。
「どうして、こんなことを?」
「息子を私塾に通わせたくて……」
「まぁ、呆れた。それであなたが郵便局職員を頚にでもなって、生活苦からお子さんを『東都慈恵育友会』に預けることにでもなってしまったら、どうなさるおつもりでしたの?」
瑠唯子にそう言われて、ようやく自分のやったことの意味を理解した團は、急に怖くなって震えだした。
「よ、よしてくれ、やめてくれ! 息子をそんな……あっ……あぁ!」
「それを、あなたは、他所の、お子さんになさっていたのですよ!?」
※
「東都慈恵育友会」が横濱に所有する自社倉庫で月の新月の日の夜に行っていたのは、人身売買のオークションだった。團も一度だけ行ったことがあると言い、その時の間取りや、人員配置、装備など、彼が知っている限りの情報を話した。
「後は警察にお話しくださいね。私、これ以上あなたとお話していると……怒りが抑えきれず、暴発しそうですの」
彼女は團を立たせ、自分の前を歩かせて事務室へと戻ってきた。皆んなもう出勤していて、瑠唯子と團の異様な雰囲気に、出掛かった朝の挨拶が霧散した。
「どなたか。この方を縛っておきたいので、ロープをくださる? それから、警察を呼んでいただけないかしら?」
同僚たちは一瞬呆気に取られたが、すぐに彼女の指示通りに動いた。一人がロープを取りに走り、もう一人が壁際の電話器から受話器を耳に、発信ボタンを押す。そして、交換手に警察への取次をと話す声尾を聴きながら、團は項垂れ、抵抗する氣力もなく、ただ立ち尽くしていた。
※
「で、次の新月というのは……明日のようですが?」
カウンターで團逮捕の経緯を瑠唯子が一通り話すのを聞き終えて、瀬蓮が言った。
「そうなの。なので、明日は早退することにしましたわ」
「てっきりお休みされるとばかり」
「異動になったばかりですし、ちょっとお休みを申し出るのも氣が引けましたの」
團の情報によると、幹部クラスの人間は銃で武装しているという。そんなところへ乗り込もうというのに、午前中は通常勤務をこなしてから、というのが彼女らしい。
「そういうわけですので、明日は準備の時間が取れそうにありませんの。私、これから地下室で整備してきますわ」
「かしこまりました」
可陽茶館の地下のワインセラーの最奥の壁には、目立たないよう工夫した秘密の扉がある。その扉を潜ると、二人だけの秘密の部屋があった。
そこは、銃のメンテナンスや試し打ちなどを行える完全防音の部屋だった。
瑠唯子は、慣れた手つきでワルサーモデル4を分解し、あっという間にパーツにばらしてしまった。そうして一つ、一つの部品を丁寧に拭きあげていく。それが終わると、再びあっという間に組み上げた。
ワルサーモデル4は、全長約135mm、重量約510gと小型軽量で、隠し持つのには適している。その上、セミオートマチックで信頼性も高い。ただ、郵便保護銃のS&Wモデル2アーミーよりは威力が勝るものの、所詮三十二口径。殺傷能力はそこまで高くない。
――そこが良いのよねぇ。
場を制圧するために、銃はとても大切だが、むやみやたらと命を奪うのは彼女の本意ではないのだ。
ジャキンッ!
遊底部をスライドさせて、薬室に弾薬筒を装填する。
しっかりと耳栓を嵌め直し、壁際に吊るされた和紙に手描きで描いた同心円の中心を狙った。
セミオートマチックの小氣味良い連続音とともに、装填、発射、排莢が繰り返される。そうして同心円の中心に7・65ミリの穴が一つだけ開いた。驚くことに、撃った弾は全て同じ小さな穴に吸い込まれていた。
――あぁ、この感じ、堪りませんわ。
生き物を傷つけない、こうした的を撃つ時の銃声は、彼女には白色に感じられた。生き物に致命傷を与える銃声は緋色。急所を外れて命中する場合は、瑠璃色。
明日、人身売買の現場を押さえたところで、組織自体へのダメージはなく、解決もできないだろう。しかし、目の前で不幸に叩き落されようとしている無垢な命を救うことはできる。それが彼女にとって何より重要なことだった。
弾倉に弾薬筒をセットして、そっと静かに目を閉じ、手の感触だけで銃に触れた。射撃直後の薬室周辺は、熱を持ち、ちりちりと熱かった。この熱が無垢な命を救う力になる。その感触にうっとりとしながら、銃の熱に呼応して、心の奥で燃え盛る怒りの炎を見つめていた。
――私、決して止まりませんわよ。