第捌話 瑠璃色のお嬢様と貰い子事件(1)
それから数日が経った土曜日。瑠唯子が、ぎぃと重い「可陽茶館」の扉を押し開けて店に入ると、みぞれ混じりの雪が彼女と一緒に店内へ吹き込んだ。
「ただいま戻りましたわ」
「お帰りなさいませ。お早いお帰りでしたね」
「ええ。この雪でしょう。清瀬の方では、あちこちで道が凍結してまして。日が落ちたら出せないと、辻馬車の方が仰るもので、早めに切り上げて參りました」
「そうでしたか。今、暖かい珈琲をお淹れいたしますので」
「ありがとう。嬉しいわ」
普段であれば土曜は出勤日だが、今日は、たまたま郵便逓送の仕事がお休みだったので、一日かけて清瀬まで行き、母親の入所する療養所へお見舞いに行ってきたのだった。
「お母様はお健やかでいらっしゃいましたか?」
「えぇ。最近はだいぶ落ち着いているようで、咳も以前より少なくなっていましたわ」
「それはようございました」
「ただし、まったく私にはお氣付きにならなかったわ……」
瑠唯子の母親は、元来体が弱かった上、夫の死によって心にも傷を負ってしまい、以来、心を閉ざしてしまっていた。
瀬蓮は慰めの言葉の代わりに、そっと一杯の珈琲をカウンターに座る瑠唯子に差し出した。
「とても、良い香り」
※
瑠唯子が珈琲のカップを両手で挟み、手を温めていると、窓の外でみぞれが硝子を叩く音が一段と強まった。サイフォン式のポットで淹れる珈琲がこぽこぽと静かに音を立て、みぞれがバチバチと窓を打つ。客のまばらな店内に、こぽこぽとバチバチだけが響いていた。
だが、やがて別の音が重なった――ぎぃと扉が再び開く音だ。
「ワトソンさん。お待ちしてましたわ」
「ちゃーーっす!」
和都は、コートの肩に乗った雪を払って店内に入ると、真っすぐにカウンター席へと歩み寄った。鞄をドサッとカウンターに置くと、瑠唯子の隣のスツールに腰を下ろす。
「いやぁ、凄い雪ですね。外回りには、なかなかに辛い天気ですよ」
「ご苦労様です。一杯お飲みになりますか?」
「あのぉ、今日はちゃんと情報あるんですけどぉ……」
そう言って、瀬蓮と瑠唯子を交互に見る。
「えぇ、どうぞ。今日もただにして差し上げますわ」
瑠唯子がそう言うと、和都は、指をぱちんと鳴らし、
「ありがてぇ!」
と言った。
マスターの淹れる珈琲を待つ間に、和都は鞄をがさごそと引っ掻き回し、分厚い紙束を取り出した。
「いやぁ、手に入れるの苦労しましたよ。これが『東都慈恵育友会』の顧客名簿です」
「凄い。よくこんなの手に入れられましたわね」
「へっへっへ。まぁ、むしろこういうのが本業なものでね」
紙束を瑠唯子に渡し、自分はメモ帳を開く。
「まず、全寮制の養護施設。貧困やその他の理由で育てられない子を養育費を貰って受け入れています。国の同様の施設と異なる点は、受け入れに際し、養育費を受け取っている点ですね。まぁ、民間企業ですからね。商売として成り立たないといけないわけで。それが、ここから……ここまでの顧客です」
瑠唯子が持つ紙束を指さす。
「それから次が、里親の斡旋ですね。養護施設への受け入れ時に保護者が希望すれば、里親を斡旋しているようです。それが、顧客名簿の……次のページの、はい、そこからです。
どちらも親の支援を受けられない子どもたちが社会の庇護を受けられるようにするための仕組みで、とても有意義な活動だと思います。顧客名簿にも活動内容にも不審な点はありません。意外だったんですが、『東都慈恵育友会』、実はとても誠実で社会貢献度の高い福祉活動を行う団体なんですよ」
「表向きは、ですの?」
「えぇ、そうです。これを見てください」
そう言うと、和都がメモ帖のとあるページを開いてみせた。そこには、彼の手書きの名前や住所がびっしりと殴り書かれていた。名前の前には、『シ』『ホ』『ウ』などと書かれている。
「こっちのメモ帖のは、僕が足で稼いで手に入れた情報です。お嬢様がお会いになった老夫婦同様、『東都慈恵育友会』に不満や不信を抱いている人たちです。泣き寝入りしている人や、事情があって申し出ない人も居るでしょうから、実態はもっと大勢だと思います」
「名前の前に付いてる『シ』とか『ホ』とかって何かしら?」
「『シ』は死亡の連絡があったことを僕がメモしたものです。『ホ』はお嬢様がお会いになった老夫婦のように保険の加入を迫られてる人たちです。『?』は今のところ不明です」
「まぁ、こんなに……」
「気付きませんか?」
「何に……あっ! 手書きメモの方々、先ほどの顧客リストに載ってませんわね」
「そうなんです。顧客名簿に載ってる人たちについては、問題ないんです。問題は、この顧客名簿に載っていない人たちなんです。私生児だったり、貧困家庭の子だったり。そうすると、こういうところへ預けた時に、顧客登録されたくないみたいな人も相当数いるわけですよ。どうも、そういう子供たちがね。戸籍も無く、親も認知していないので、養子縁組の正式な手続きも出来ず。それを逆手にとって、手続きも無しに売り捌かれている……」
「まさか、それって、人身売買?」
「そのまさかなんですよ。あ、ほら、もう一つここに『ウ』ってのがあるでしょう。ここにも。これがはっきりと人身売買によって売り飛ばされたって事例です」
「まぁ。ということは、このメモの方々を回って情報を集めるべきですわね」
「です。早速、明日、幾つか回ってみませんか?」
「えぇ。そうしましょう」
※
翌日になっても雪は降り続き、東京市内では珍しい、積雪となった。
「え? 辻馬車は使わないんですか?」
「当たり前ですわ。乗り合い馬車と路面電車で參ります。今日は何か所も回るのですから、辻馬車なんて使っていては、お金が幾らあっても足りませんわ」
――案外、金銭感覚しっかりしてるお嬢さんだなぁ。
そんなことを思いながら、和都は瑠唯子の後から乗り合い馬車に乗り込んだ。さらに、路面電車、乗り合い馬車と乗り継ぐ。迷いなく乗り継ぐ様子に疑問を感じたが、なんのことはない、瑠唯子の通勤経路なのだという。
そうして、最初に訪れたのは、先日、瑠唯子が会った老夫婦だった。彼らは経済的に困窮していたわけではない。ただ、自分たちが老齢なため、育てられないと判断し、施設に預ける決断をした。その点においては疑わしい点は何もない。しかし、それならば、和都が見せてくれた顧客名簿に載っている筈である。まずはその点を確かめたい。
老夫婦は先日訪れた瑠唯子を覚えていて、服装の違いから受ける印象が全然違うと驚いた。
「あの時は、制服でしたから。今日は、普段着ですので」
そんな雑談も程ほどに来訪目的の質問をすると、老夫婦が答えた。
「その顧客名簿なら、最初に見せられたよ。そして、それを見て安心して、孫をお任せすることに決めたんじゃ。ただ、たった一人の孫の面倒すら見れないのかと他人様に思われるのが嫌でね。自分たちで世話をしないことへの後ろめたさもあって、名簿に名前を載せないよう頼んだんだ」
「なるほど、そういうことでしたか。ちなみに、顧客名簿に名前を載せないことも出来ると、『東都慈恵育友会』の人間が切り出したのではありませんか?」
「あぁ、そう。そうだった。そんなことができるなんて、考えてもみなかったが、言われてなんとなくその方が良いように思ったんだ」
――後ろめたい気持ちに付け込み、悪用するなんて。
「ありがとうございます。いったんお聞きしたいことはすべて聞けました。また、お伺いします」
瑠唯子は、聞きたいことを聞き終えると、早々に会話を打ち切り、挨拶もそこそこにその場を後に歩き出した。急に取り残される形になった和都は、ばつが悪く、ぺこぺこと何度もお辞儀をして、瑠唯子を追いかけた。
不思議なことに和都のメモに書かれた住所には、ある共通点があった。今、訪れた老夫婦のお宅の他に、あと五件も瑠唯子の担当エリアの住所があった。
「今日は、あとこちらの五件が比較的回りやすそうですわね。この五件を回って、終わりにしましょう」
「わかりました。それにしても。探偵を支えるお仕事って、結構地味なんですね。僕の取材に似てるかも」
「そうかもしれませんわね」
老夫婦宅の次に訪れた家は、築何十年も経つと思われる古びた長屋にひっそりと暮らす女性だった。まだどこか幼さの残る顔立ちにも関わらず、年齢以上に肌が荒れていて、暮らしぶりの苦しさがうかがえる。最初は怪訝そうな顔をされたが、「東都慈恵育友会」に預けたお子さんの事で、と切り出すと顔色を変え、すがるように助けを求めてきた。
「まぁ、ご覧の通りの貧乏でね。定職にもついてません。細々とあの……私娼なんぞで食い繋いでるんですよ。ですが、ある時、月の暦が狂ったか、子が出来ちまいましてね。おろしちゃ罪に問われますから、仕方なく生みましたが、とても育ててはやれない。それでなんとか工面した養育費を添えて『東都慈恵育友会』に預かって貰いました。月に一度は会えるって聞いてたんですが、『もう少し落ち着いて準備が整ったら』『もう少し』『もう少し』と、先延ばしにされてしまって。預けてから一度も会えていないんです……」
――やむにやまれぬ事情から預けることになったとはいえ、その後一度もお子さんに会わせないなんて。
「いやぁ、こんな話ばかりじゃ、胃がキリキリしますね」
そう、和都が言った。
残りの四人の場合も、いずれも私生児だった。一人は住み込みで女中をしていた時に、主人の手が付いて身籠ったものの、認知はおろか、追い出されてしまったという。一人は既婚の男に惚れ、不義密通により子を成したものの、離縁して自分と再婚するとの話が固まる前に出征して亡くなったという。一人は実父に無理矢理、一人は実の兄妹の間でと、一度に人の修羅場を覗き見る心持ちがして、瑠唯子は眩暈を覚えるほどだった。
――なるほど。表沙汰にはせずに置きたい事情が皆さん、おありなのですね。
「もし、お嬢様」
話を一通り聞き終えて、去ろうとする瑠唯子と和都を兄妹が引き留めた。
「すみません。もう一つ、お話ししたいことが」
そう言って、兄の那岐斗が一通の文を差し出した。瑠唯子はその文にざっと目を通し、背筋が冷たくなるのを感じた。続いて、和都に渡す。持って回ったくどい文章だったが、要するに、「もっと保険金を払え」、「入金が確認できない」、「最後通牒」、「次の新月の日に横濱港GA第三倉庫に金をもってこい」、「さもなくば子の命は保証しない」……。
「え? これ、脅迫状じゃないですか! これを警察に持って行って相談すれば……」
そう和都が言いかけたが、那岐斗が被せるように否定した。
「私たちの密通が明るみに出てしまいます……さりとて、もうどんなに工面しても、これ以上の保険金を支払うことはできないのです……」
妹の那弥が続けて言った。
「すべて、私たちが悪いのです。ですが、そんな私たちの元に生まれてきてくれた娘は、何も悪くない。娘に罪はないんです。どうか、娘を、娘を助けてやってください」
そう言って、那岐斗共々、深々と頭を下げた。
「ワトソンさん、私、社会的、経済的、立場的に弱い方々を食い物にする卑劣なやり方がまったく許しがたいですわ」
「ですね。必ず助け出しましょう」
次の新月は……明後日だ。
――そして。
瑠唯子への妨害行為を画策した、黒ずくめの烏のような人影。なぜ瑠唯子が老夫婦宅を訪問することを知っていたのか。なぜ、顧客名簿に載っていない被害者が瑠唯子の担当エリアに多いのか。
――私、あの怪しい人影がどなただか、なんとなく予想がつきました。必ず追い詰めて差し上げます。覚えてらっしゃいませ。
目にめらめらと怒りを溜めながら、瑠唯子は、雪の舞う灰色の空を見上げた。