第漆話 瑠璃色のお嬢様と神田郵便局の仲間たち
少しだけ時間を戻そう。
保木栖逓信局長の差し金で、瑠唯子が東京市神田の郵便局に転属となった初日の朝。朝礼で皆に紹介された瑠唯子は、朗らかに挨拶した。
「本日より、お世話になります。納冨瑠唯子と申します。皆さま、どうぞよろしくお願いいたしますわ!」
名前や言葉使い、顔立ち、そして服の上からもわかる胸元の緩やかなカーブ、それらは瑠唯子が女性であることを表していた。しかし、彼女の着ている服は、外回りの逓送員が着用するそれだった。男子学生の制服のような詰襟に半袴。そして巻きゲートル。髪もきつく結って帽に押し込んでいるため、短髪に見える。
この時代、内勤の仕分け作業とは違い、外回りの郵便逓送に女子はいない。彼女の男装姿に対する戸惑いが、まばらな拍手にも表れていた。
「女子に逓送が勤まるもんかね?」
「危険がいっぱいあるんだぜ?」
早速、ヤジが飛ぶ。
「豊島の田舎じゃ勤まったんだろうけど、神田じゃ勝手が違うと思うぞ」
「豊島は三等だからな。郵便を届ける相手なんて牛ぐらいしかいないんじゃないか?」
別の方向からもヤジが聞こえてくる。
この頃の逓信大臣は、田健治郎。そして、東京逓信局長が保木栖晋平である。
東京逓信局が管轄する郵便局の人事を行うことはごく自然なことである。が、通常それを取り仕切っているのは人事課であり、逓信局長が直接人事采配に口を突っ込むことは非常に稀だった。一切の手続きや承認を飛ばして東京逓信局長が指示した翌日には転属となったことも。
「逓信局長の推薦なんですって」
「いったい、どういうコネなのかしらね」
「ミスでもされて、尻ぬぐいだけ押し付けられるのはごめんだね。はぁ、迷惑、迷惑」
どうにも、歓迎されているようには思えない。
――あらあら。これはやりにくいですわね。
昔の子爵令嬢の頃の瑠唯子なら、誰になんと思われようと知ったことかと反撥していたところだ。が、一庶民として社会人生活を送るうちに、得てしてこうした孤立や反撥が仕事の効率を損ない、ミスを誘発することを学んでいた。
――なんとかしませんと。
そのためには、逓送員のリーダー株の男と仲良くなってしまうのが一番手っ取り早い。その男は、團という名前で、先ほど一番最初に「女子に逓送が勤まるもんかね?」とヤジった男だった。
「よろしくお願いいたします」
策など要らぬ。瑠唯子は真正面から彼にぶつかっていくことにした。逓送員のリーダー株とあっては、彼を避けては業務が回らないのだ。それに、初めての土地。地元ならではの勘所など教わっておかないと、逓送の業務に関わるのだ。
「近くで見ると、益々別嬪さんじゃないか。それに度胸もある。ただ、やっぱり女子に逓送は無理なんじゃないかな。案外大変だぞ」
――やっぱり。
他のヤジからは明らかな悪意を感じたが、彼は、純粋に「女子に逓送員が勤まるのか?」と疑問を呈しているだけのようだった。それならば、信頼を得るチャンスはある。
「平気です。何なら、試してみていただいても構いません」
そう瑠唯子が言うと、團は値踏みでもするように目を細めた。
――なるほど。力量を試させて貰うってのは、良い考えだ。このお嬢さんが使えるようなら問題ない。使えないなら配置替えをお願いする口実になる。
「良いだろう。一つ、テストといこう」
こうして、瑠唯子の逓送員としての力量を測るテストが行われることになった。
「いいか、俺とお前、同時に局を出発して、互いに一通の手紙を届けて局に戻ってくる。それだけだ。ここに二通の手紙を用意した。一つは、距離は短いが起伏の多い坂道の往復になる。もう一つは、それよりは平坦だが距離が長い。どちらか好きな方を選べ」
単純なルールのテストに内心ほっとしながら、瑠唯子は、「距離は短いが起伏の多い」ルートを選んだ。
「良いのか? 神田の坂を舐めると痛い目をみるぞ」
何の迷いもなく、坂道のルートを選んだので、團は驚いた。
「大丈夫です」
「ハンデイキャップは三十秒だ」
「いいえ、要りません」
「本気か?」
確かに團という男、ベテランの逓送員らしく、真冬だというのに、日に焼け、瑠唯子の胴ほどもある太腿をしている。しかし、瑠唯子も負けてはいない。
――豊島の坂を舐めてもらっては困りますわ。
実際、豊島には「のぞき坂」など、急勾配の坂がたくさんある。彼女もまた、たっぷりとそうした坂で鍛えられてきたベテランなのだ。ちなみに、「のぞき坂」は、坂上から下を見下ろす時に、覗き込まねばならないほどの急勾配であることからその名が付いた。東京府下で一番の急勾配の坂である。
「土地勘が無いだろうからな。地図を見る時間をやるよ。好きなだけ見てくれ。気が済んだらスタートだ」
「ありがとうございます」
どこまでもフェアな男だ。二つのルートの差異を明らかにした上で選ばせる。地図を見る時間を与える。ズルをして勝とうとは微塵も思っていない。
――それだけ、勝てると自信があるのね。
瑠唯子も一切の油断なく、勝負に挑むことにした。
※
郵便局の裏の逓送員の出入り口に瑠唯子と團が並んで立った。屈伸やストレッチを入念に行い、筋肉をほぐす二人。最初二人は一緒に並走、途中で瑠唯子は右へ、團は左へ分かれることになる。
「位置について、よーい、走れ!」
團の仲間が運動会の徒競走のように、腕を振り下ろした。これを合図に二人は走り出す。スタートダッシュで勝ったのは、團だった。機関車のようにぐんとせり出し、瑠唯子の前に出る。ただし、その後は差は開くことなく、分かれ道までやってきた。
互いに言葉を交わすことなく、それぞれの道へと進む。
瑠唯子の前に上り坂がそそり立つ。早速、一つ目の難所というわけだ。
――なぁんだ。のぞき坂の方がきついじゃない。
平地とさほど変わらぬペースを維持したまま、一気に坂を上り切った。
――ここまでは順調。そして、大事なのは、ここね。
取り得るコースが二つあった。ここから坂を下って再び上る最短ルートと、少し迂回はするものの、坂を避けるルートだ。地図からはその勾配のきつさまでは読み取れなかったので、どちらが有利かは現場で確認しようと、ルートを決めずにいた。
――なるほど、緩いけれど上り坂が長く続くのね。
坂の様子を確認し、瑠唯子は迂回して坂を避けるルートへと進んだ。
※
最後に意外な落とし穴が待っていた。
目的の家は簡単に特定できたものの、玄関先に、獰猛そうな犬が飼われていたのだ。
犬歯をむき出しにして瑠唯子に吠え掛かってくる。
――困りましたわね。
飼い犬に銃を向けるわけにもいかない。
防犯のために、気質の荒い犬を飼う家は多い。そして、地元の逓送員なら、犬も逓送員の臭いに慣れていて吠えられることもない。そのため、フェアな勝負を挑んできた團さえも、これが瑠唯子にとっては障害になることを失念していたのだろう。
初めて嗅ぐ瑠唯子の臭いに、犬はけたたましく吠えるのだった。
※
――手間取りましたわ。
急いで戻らねばならない。帰りは二度坂を通る最短ルートを選んだ。緩い勾配の上り坂が長く続くのは少々苦手だが、逆方向であれば、緩い勾配の下り坂が長く続くだけだ。そして、その後に待つ短くきつい勾配の坂ならば、平気だった。
――あの角を曲がれば、あとは郵便局まで真っすぐですわね。
そうして角を曲がろうとして、團とぶつかりそうになる。咄嗟に相手を躱す、その動きに二人の性格が出た。團は体を引いて躱し、瑠唯子は体をねじ込むように前に出て躱した。
結果、瑠唯子が團の前を走る形になる。團が脇を伺い、右から左から瑠唯子を追い抜こうとする。瑠唯子はそれに合わせて位置をずらしてブロックする。しかし、團のフェイントに釣られ、大きな隙を作ってしまった。そこを突いて團が先行する。
そうして、さほど長くない直線区間が終わり、二人はもつれるように、ほぼ同時にゴールした。僅かに團が先頭で。
※
昼休みの職員食堂で、再び團の姿を見かけ、瑠唯子は声を掛けた。四人席に仲間二人と席に着いていて、一つ空きがある。
「ご一緒しても良いかしら?」
「おう、どうぞ、どうぞ。
そうだ。忘れてた。あの家、恐そうな犬飼ってただろう? どうした?」
團が席に着こうとする瑠唯子に言った。
「えぇ、困ってしまいましたわ。慣れればそうでもないのでしょうけれど、かなり吠えられました」
「だよな。すまん。すっかり失念してた。で、どうした?」
「お昼ごはんを。持ってきていたおにぎりを差し上げましたの。ですので、こうして食堂でお食事を、と」
「なるほど! いやぁ、すまなかった」
そう言って團は両手を合わせて謝った。
「おにぎりは良いのですが、私、勝たせていただくつもりでしたので、悔しいですわ」
「犬で手間取ってなけりゃ、間違いなく、あんたの勝ちだったろうね」
勝負は團が勝ったが、勝敗が重要なわけではない。瑠唯子が逓送員として通用するかのテストであり、ハンディキャップ無しに、良い勝負をした時点で十分合格点だった。
だが、團には、もう一つ、確かめておきたいことがあった。
「一つ、確認させてくれ。郵便逓送員の大事な装備についてだ」
「銃のことでしょうか? S&Wモデル2アーミー。三十二口径リボルバーで、シリンダーには六発の弾丸が装填できます。一八六一年から一八七四年にかけて製造された銃で、実は四十三年前に製造が終了しています。幕末の土佐藩の志士、坂本龍馬が携帯していたことでも有名な銃ですわ」
瑠唯子は、ここぞとばかりに銃の知識を一気に早口で捲し立てた。
「お、おう……。凄いな。だが、あんた、知識はあっても、持ったことは無いだろう?」
「え? いいえ。むしろ結構、得意ですよ? 先日も野犬を追い払うのに使いましたし」
それを聞いて、男たち三人は驚いた。
「え? 撃ったことがあるのか!」
「はい。私、あの撃った時の反動と銃声が堪らなく好きですの」
「凄いな。てか、銃声が好きって……なんか、おっかねーな。俺、撃ったことないよ」
「俺も。一度も撃ったことない。あれ、単なる重り」
「わかる、わかる」
――あら? 待ってくださいまし。皆さん、銃を撃ったこともないのに、私にマウント取ろうとなさっていたの? これまでに、どんな危険な目にあって、それをどう回避したか、みたいな、苦労話の自慢大会で勝負をするのではないのですか? 私、とっておきのエピソードもありましてよ?
瑠唯子は、郵便保護銃を撃ったことがあるという、ただそれだけで驚かれてしまったことに、驚いてしまった。神田には野犬は出ないし、都会なだけあって、人目もあり、早々悪漢に襲われる危険もないのだろうが。團たちによると、せいぜいが酔っ払いに絡まれるくらいなのだという。
――その程度を危険と仰ってらしたのかしら……。
「おい、凄いぞ。このお嬢さん、保護銃撃ったことあるらしいぞ!」
「なんでも、百発百中の名手らしい」
「悪漢をやっつけたこともあるらしいからな」
気が付くと、團とその仲間は、まるで自分の自慢をするような調子で、勝手に尾ひれをつけて誇張し、通路を行きかう仲間を呼び止め、吹聴していた。
「そんな。撃ったことがあるというだけですので……」
本当は撃ったことがあるだけ、どころではないのだが、何しろこちらが望みもしないのに、話が勝手に膨らんでいくものだから、つい矮小化したくなる。
――まさか、撃ったことがある程度のことで認められてしまうなんて。思いもしませんでしたわ!
昼休みが終わり、瑠唯子が外回りに出ようとする頃、もう誰も彼女に悪口を囁く者はいなかった。
「納冨、外回り、行ってきます!」
同僚たちから「うーい!」「はーい!」「よろ!」「氣を付けて!」と返事が飛んだ。
紫煙を燻らせながら、團も手を振っていた。
瑠唯子は朝のアウェイ感がまるで吹き飛んでしまったことに、内心苦笑しつつ、皆さん、悪い方たちでなくて良かったですわ、と思いながら、小さく微笑んだ。