第陸話 瑠璃色のお嬢様と掏摸男(2)
掏摸男に絡まれる前、瑠唯子は老夫婦の家を訪れた際に見かけた怪しい人影について考えていた。
――老夫婦を見張るにしては不自然だわ。いつ来るかもわからない不特定の人間を、朝から晩まで? それに被害者は他にもいるはず。全ての家で見張りなんて無理ですもの。つまり、あそこで見張っていたのは、老夫婦ではなく……私!?
彼女が今日、あの老夫婦宅へ郵便を逓送すると知って、郵便物をポストに投函するだけなのか、接触を試みようとするのか、それを見張っていたのではないか。
――だとすると……今日、私があのお宅へ逓送することを知っていた人物ということになりますわね?
ちょうどそんな風に考えていた時に、この不届きな輩に思索を中断させられた。そして、この男は、あの怪しい人影の人物から、瑠唯子を困らせるよう頼まれたのだという。答え合わせが出来たようなものだ。
――見張っているぞと、わざと知らせてきた上、自分では手を下さず、人を使って困らせようとなさるなんて。なんて卑劣な方でしょう。
何のことはない。これは、警告という一種の宣戦布告だったのだ。
――受けて立ちますわ。売られた喧嘩を買わないなんて選択肢を、私、持ち合わせておりませんの。それにしても。
それにしても。幾重にもかけさせた保険金。保険の受取人が老夫婦ではなく、彼らから孫を預かる「東都慈恵育友会」なる組織になっている点が、非常に怪しい。それだけでも保険金詐欺の疑いが濃厚だ。保険の受取額を吊り上げた上で、彼らの孫を事故を装って殺害し、保険金をせしめるつもりに違いない。
そこまで具体的に老夫婦に告げるのは、いささか刺激が強すぎると感じ、言葉控えめに保険を続けるようにとだけ伝えた瑠唯子だったが、内心、腸が煮えくり返る心持ちだった。
――許せませんわ。
「なぁ、お嬢さん。俺の知ってること、全部話したんだから、もういいだろう?」
「何を仰いますの。お話しいただけたら、五銭差し上げるとは申し上げましたが、許してさしあげるなんて一言も申し上げておりませんわ」
「えぇっ!」
「たかが參銭ばかしのお金に釣られるなんて。しっかりとお叱りを受けて、悔い改めてくださいませ」
※
警察は、犯人検挙に感謝の言葉を述べた。この男は前科のある常習犯なのだという。そして、近々「掏摸狩り」を行って取り締まりを強化する予定なのだとも話してくれた。
――そうだわ。あの老夫婦の身に起きたのと同じような事件が過去にもなかったか、爺に聞いてみませんと。そして……。
「東都慈恵育友会」。この組織を調べる必要がある。ただ、これは瑠唯子が一人で調べるには、少々手に余る。
――ワトソンさんにも、お手伝いいただきたいところですわね。
昨日の毎朝新聞の記者、和都の事を思い出しながら、なんとか彼に協力させられないものかと思案する。だが、どうやって? 彼が置いて帰った名刺を頼りに毎朝新聞社に押しかけたところで、有能な記者ほど社内には居ないだろう。
さて、どうしたものか。そんな事をつらつら考えているうちに、喫茶店「可陽茶館」に着いた。
――まぁ、彼が有能かどうかは、まだわかりませんけれども。
ぎぃぃ。
重い店の扉を開いて中に入ると、珈琲の香りが疲れを溶かすように漂ってきた。
「ただいま戻りましたわ」
「「お嬢様、おかえりなさいませ」」
声を揃えて彼女をそう言って迎えたのは、カウンターの内側にいた瀬蓮と、その対面のスツールに座る和都だった。
※
「いやね。昨日、あれから考えたんだけどさ。おかしくない? そもそも、僕はここに情報を手に入れに来たんだよね。なのに、情報を提供するだけ提供して帰ってきちゃったんだよね。ね? おかしいでしょ?」
――やはり、この方、無能なのかしら?
「ほら、今日はちゃーんと什伍銭も、用意してきたんだ」
折角顔は良いのに、ちょっと足りないところのある方ですわね、と瑠唯子は、残念な気持ちになる。
「どんな情報をお聞きになりたいのかしら?」
つい、悪戯心を抑えきれず、瑠唯子が和都に水を向ける。瀬蓮は、およしなさいと言わんばかりに顔を曇らせたが、瑠唯子は氣付かぬ振りを決め込んでいる。諦めて瀬蓮は、次の注文に応えて珈琲を淹れ始めた。
和都が話し始めた。
「最近、女史探偵がこの帝都で秘かに事件を解決して回っているって話なんですが、噂などお聞きになったことはありますか?」
瑠唯子と瀬蓮、やはりそれかと感じたが、かろうじて平静を装った。
「昨日も、そのようなことをお話になってましたわね?」
「えぇ。で、ですよ。僕、ピンときちゃったんですよ!」
余り多くを喋るとボロが出そうな不安に駆られ、瑠唯子は手の平を僅かに動かし、続きをどうぞと仕草で示した。
「昨日、弔慰金強盗の裏にある犯罪組織を調べろとか、重巡戰艦『筑波』の爆発事故を調べろって仰ってたじゃないですか?」
「えぇ。言いましたわ」
――ちょっと不味かったかしら。
どうしても、喋り方が固くなる。裏の仕事を一切誰にも秘密にしているというわけではないのだが、新聞記者に嗅ぎまわられるのは願い下げだった。
「瑠唯子お嬢さん。あなた、謎の女史探偵を陰で支えてらっしゃいますね!」
「え?」
――そうきたか。
助かったという思いよりも。ここまで真相に近づいていながら、こうもおかしな結論に達するものなのか、と拍子抜けである。それに、まだ額面通りに受け取って良いのか、測り兼ねてもいた。彼が鎌をかけているという可能性もある。
「まぁ、そんなところかしら。詳しくはお話できないのですけれど」
「やっぱり! いやぁ、その謎の女史探偵さんについて、僕は素性や私生活に立ち入ろうとか、記事にしてやろうなどとは思っていないんですよ」
「あら。でしたら、何がお知りになりたいの?」
「感じませんかね? 浪漫を。ロ・マ・ン。『謎の女史探偵』。素晴らしい響きじゃないですか! もちろん解き明かした謎や解決した事件について、色々と知りたくはあるんですが、それよりも……」
「それよりも?」
「えっとですね。サ……」
「サ?」
「サイン……を……女史探偵さんの……」
それだけ言うと、和都は顔を真っ赤にして、恥ずかしそうに両手で覆ってしまった。
「探偵小説とか、あまりお読みにならないとばかり思っておりましたわ」
「あぁ、読まないですね。探偵にも探偵小説にもあまり惹かれません。が、この女史探偵さんは別です! 憧れちゃいます!」
「そうですか。今度、会ったら……、聞いておきますね」
「ありがとうございます!」
顔を覆う指の隙間から、消え入りそうな声で和都が答えた。
「そうだ。ワトソンくんに一つ頼みがあるんだけど」
「それ、僕のことですか? えっと、それで女史探偵のサイ……」
「……は確約できないので、今日の一杯を無料にしてあげる。ってのは、どうかしら?」
和都は一も二も無く、乗ってきた。什伍銭は、払えない額ではないものの、やはり飲み物一杯に支払うには少々高い。だが、それを手軽に味わえる機会を得られるとあらば、多少の危険に飛び込む価値はある。しかも収集し、お嬢さんに提供した情報が鮮度が良くて、面白ければ、そのまま記事にも転用できる。一石二鳥ではないか。
「乗ります!」
「じゃ、この組織をちょっと調べていただけないかしら?」
そう言って、瑠唯子は、「東都慈恵育友会」とその住所のメモを見せた。
「分かりました。じゃ、自分は帰ります。珈琲ご馳走さまでした。あ、サインの件も前向きにお願いします!」
「はぁい、ごきげんよう」
「またのご来店、お待ちいたしております」
そうして、和都を送り出すと、瑠唯子は、昼間の老夫婦宅でのやりとり、怪しい人影、路面電車で捕まえた男の話を順に瀬蓮に話した。
「ねぇ、爺。こんな感じの事件って過去にも何かありまして?」
「そうですね。一つ、二つ心当たりがございます」
※
「一つは、『貰い子殺人事件』でしょう。佐賀や愛知、東京赤坂など、全国で起きています。貧困家庭の子や私生児を預かり、養育費をせしめておいて殺害して遺棄した事件です」
「あ、覚えてますわ。愛知の事件は確か四年くらい前ですわね。二百人位殺害された筈。私、新聞で読んで震えましたわ」
「えぇ、痛ましい事件でした。
二つ目は、『保険金詐欺事件』ですね。医師と共謀して詐病を装ったり、事故死に見せかけ保険金を騙し取る事件が最近増えてきています」
「私も新聞で読んだ記憶がありますわ。それで、今回の件も事件性があると感じましたの」
保険は有難い仕組みだ。瑠唯子も、爵位と父、家も家財の殆ども、一切を失った時に、保険のお陰で救われた。だが、それを悪用する者がいる。瑠唯子の怒りに火が付く。弱者を食い物にする卑劣さが許せない。無実の命を奪う不義が許せない。
まだ、確証を得たわけではないが、「東都慈恵育友会」には、何かそうした犯罪の影がありそうだった。残念ながら、犯罪は進化する。瀬蓮が過去の事例としてあげた「貰い子殺人事件」と「保険金詐欺事件」。その二つの事件の両方を合わせたような、そんな印象を受けた。
――ワトソンさんに「東都慈恵育友会」を調べていただく間、私は例の怪しい人影を追ってみることにしましょう。きっと、二つは繋がる筈ですわ。そして、あの老夫婦のお孫さんをきっと救い出してみせますわ。
そう、心の誓い、瑠唯子は奥歯を嚙み締めた。