第伍話 瑠璃色のお嬢様と掏摸男(1)
今日から転属となり、普段とは別の局での勤務となる。一時間も早く家を出たというのに、乗り合い馬車と路面電車の乗り継ぎに手間取って、到着したのは始業ぎりぎりだった。
――こんなのが毎日続くなんて。手早く解決して、元の局に戻して貰いましょう。
土地勘の無い、慣れない場所での集配は至難の業だ。午前中は仕分け作業を行って、午後から集配に出る。都合の良いことに、早速、昨日、保木栖逓信局長から受け取ったメモの住所への配達もある。
瑠唯子は、新たに支給を受けたぴかぴかの郵便鞄を覗きこみながら、チェックを行う。
――配達物、良し。郵便保護銃、良し。
外套の内ポケットをポンと叩く。
――カイロ、良し。メモ帖、良し。
「納冨、外回り、行ってきます!」
同僚たちから「うーい!」「はーい!」「よろ!」「氣を付けて!」と返事が飛んだ。
※
東京市神田区は都市部とあって、さすがに人も多い。彼女の地元、東京府北豊島郡の田舎っぷりとは、ずいぶん違う。
――ここなら、野犬に襲われる心配もなさそうですわね。元の局には戻りたいですが、でも、あぁいうのはもう勘弁願いたいところですわ。
そんなことを思いながら歩いていると、目的の家が見えてきた。閑静な住宅街にあっても、土塀を巡らせたその家はひと際目立っていた。瑠唯子が以前住んでいた子爵邸ほどではないが、名家の家柄であることは一目でわかる。
――まぁ、素敵なお宅ですこと。
玄関の脇にはポストもあったが、それを無視して呼び鈴を鳴らす。今日は逓信局長の依頼もあり、直接郵便物を手渡しつつ、探りを入れる心づもりだった。
「はぁーい」
家内から、女性の返事が聞こえ、そのまましばらく待つ。その時、瑠唯子の視界の隅で黒い影が一瞬動くのが見えた。
――!!!!
土塀の切れ目に慌てて隠れたそれは、全身真っ黒で、まるで烏のようだった。怪しい。しかし、今は家人が玄関の閂を外して出てくるのを待っているところ。追うわけにはいかなかった。
「どなたですかな?」
内から声を掛けられ、そちらに注意を戻す。先ほどの返事とは違い、老いた男性の声だった。
「郵便物の配達にお伺いしました」
そう答えてからもう一度、振り向いたが、先ほどの怪しい人影はどこにも無かった。
「あぁ。これはご丁寧に。少々お待ちください」
程なく閂が外れ、門が開く。薄くなった真っ白な髪をきっちりと後ろへ流して固め、和装に身を包んだ老人が、本来の背丈の半分ほどにも背の曲がった姿で表れた。
「こちらです」
瑠唯子が両手を添えて差し出すと、老人はまるで賞状か何かのように恭しく受け取った。
「どれ、拝見しましょう。あぁ、また……」
「どうかなさいましたか?」
瑠唯子は、その言葉を聞き逃さず、質問した。
「いや……あぁ、そうか。晋平君の差し金かね?」
瑠唯子は一瞬戸惑ったが、すぐに逓信局長の保木栖晋平の事だと氣づき答えた。
「あ、はい。ご相談に乗るようにと仰せつかっております」
「そうか。私はね。こんな生命保険の申込書を毎月心待ちにしているわけではないんだよ。孫のね、孫の手紙を待っているんだ。しかし、もう三月も送って寄こさない。代わりに届くのは、こればかり」
そう言って、老人は手元の郵便物をひらひらと振った。
「詳しくお伺いしても? お孫さんは今、どちらに?」
老人の数歩後ろに、老婦人が現れ、そっと頭を下げた。上がってお茶でもと仕草で招くのを、同じく仕草でお構いなくと返し、老人の話を聞く。
「儂らの一人息子の子でね。息子は青島に出征して亡くなった。嫁は早くに流行り病で死んでしまって、もう居ない。一人、孫だけが遺されたんだ。だが儂らも、もう歳なのでね。幼い子どもの面倒をみるのは厳しい。そうしたら、預かってきちんと育てますって奴が来てね。信用して預けたんですよ」
「全寮制の小学校のようなものですと言うから、そりゃ安心して預かってもらうことにしたんですよ。最初は月に一度は手紙が届いておりました。楽しく学んでいると」
老人の後ろから、老婦人がそう言い添えた。
「けど、それが届かなくなって、代わりにこんなもんが毎月届くようになってね。万が一があってはならない。それでも、幼い子どものこと。病氣やら怪我やら、何があるかわからない。だから備えて保険に入れと言ってな」
「私らも、そりゃそうだ、思って。最初は言われるままに振り込んでたんですが」
「もう、これしか来なくなってね。大事な息子の形見だ。孫に何かあったんじゃないかと心配で、心配で」
老人と、老夫婦はそう、瑠唯子に訴えた。
「警察へは相談されたんですか?」
「無論、何度も相談した。だけど、今の段階では事件性は認められんってな。門前払いよ」
――なるほど。これは、間違いなく事件ですわ。
すでに幾つかの疑わしい点がある。まず第一に保険を幾重にもかけさせている点。そして先ほどの怪しい人影。恐らく、この老夫婦に接触して嗅ぎまわる人物が居ないかと見張っていたのだろう。
「あの。もし、よろしければ。そちらの保険の申込書、見せていただいても?」
「どうぞ」
瑠唯子は、開封された書類の束を一枚一枚めくりながら確認していく。
――あった。これだ。
保険受取人欄に記された「東都慈恵育友会」の文字。外套の内ポケットからメモ帖を取り出すと、さっと住所と共に書き留めた。
――この老夫婦から聞けるのは、こんなところかしら。だけど……。
一つだけ、孫の安否に心を痛める老夫婦に告げておかねばならない。
この老夫婦の身なりや家構えの立派なことから、金銭的な余裕はあると見える。であれば、今は保険を続けて貰うのが一番だ。
「この保険の申し込み書ですが、どんなに不信にお感じになられようとも、きっちり手続きをしてくださいまし。
それが、お孫さんの命を救う生命線になるかもしれません」
「ようわからんが、わかった。言う通りにしよう」
「はい、後は私にお任せください」
「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」
そう言うと、老夫婦は深々と頭を下げた。
外に出て、早速先ほどの怪しい人影を見かけた場所へと行ってみる。さらに土塀沿いにぐるりと一周回ってみたが、人影どころか、痕跡も見当たらない。これ以上の手掛かりは得らそうもないと、瑠唯子はいったん局に戻ることにした。
※
仕事をあがり、帰路についた瑠唯子は、帰宅ラッシュでごった返す路面電車で押しつぶされながら、今日一日を振り返り、物思いに耽っていた。
満員の路面電車では、昨今新聞にも取り上げられ、社会問題と化している「掏摸」や「婦女子への非礼なる行為(卑猥なる振る舞い)」が横行していた。そして、今まさに、瑠唯子の臀部に触れる不快な感触と、鞄をまさぐる不心得な手が同時に伸びていた。
瑠唯子は掴まっていた手すりから手を離すと、揺れる車内でバランスを取りながら、右手で臀部に触れる手を、そして左手で鞄をまさぐる手をそれぞれ、手首をぎゅっと掴んで締め上げた。
「この、不埒者! 窃盗人!」
「いて! いてて! いてぇって!」
なんと、掴んだ二つの手首は、一人の男に繋がっていた。
「な、何しやがるんでぃ!」
「それはこちらの台詞ですわ。いったい全体、どういう了見なのかしら?」
この時代、不道徳な行為とは見做され、時折、新聞紙面に載ることはあっても、婦女子の身体に触れ、いかがわしい行為を行うこと自体を罰する刑罰は存在しなかった。警察の裁量で、稀に軽犯罪として処罰が与えらえる程度。しかし、掏摸については、間違いなく窃盗罪が適用された。
「なんもしてねぇだろうがよ! お前さんが一方的に暴力を振るってきてんじゃねぇか! だいたい、そんな成りで女だなんて、知るかよ!」
「まぁ、みっともない。この手が! 私の腰の辺りを触っておられた手ですわ!」
「いてぇって」
「女がいつも黙って耐えると思ったら、大間違いですわ。私、こういう卑劣な行いが許せませんの!
そして、こちらの手が! 私の鞄をまさぐっておられた手ですわ!」
「ててて! まてよ、まだ何も取ってねぇじゃねぇか!」
「『まだ』? 今、『まだ』と仰いまして?」
「あ……」
「車掌さん、次の停留所で降りますわ! この不埒者と一緒に。警察に引き渡して差し上げましてよ」
それを聞いて、車内から拍手が沸き起こった。車掌は車内での犯罪者検挙の功績に感謝の言葉を述べ、本来の目的地より手前で降りることになったことを詫び、運賃の五銭を瑠唯子に返して言った。
「私には何もできませんが、これを次の電車に乗る時に使ってください。せめてものお礼です」
「まぁ、お心遣い、感謝いたしますわ」
人に頼んで警察を呼んだ。吹きっ晒しの停留所でその到着を待つ間、男は瑠唯子にわめき散らしたり、しおらしくしてみたり、あの手この手で拘束を逃れようとした。
「ちょっと魔が差しただけなんだよ。な。な?」
「お黙りなさい! いかがわしい行為で気が逸れた隙に掏摸をたくらむなんて。明らかに常習犯の手口ですわ。警察で余罪をたっぷり追及して貰ってくださいまし!」
「警察は勘弁してくれよ。俺、人に頼まれただけなんだよ」
「まぁ、嘘ばかり。一体、どなたに頼まれたと仰いますの?」
「嘘じゃねぇ。誰だかなんて知らねぇよ。參銭やるから、あそこから電車に乗ろうとしてる郵便屋に悪戯しろって、そう言われただけで……」
偶然、不埒な男に狙われたものと思っていたが、実はそうではないと知って、瑠唯子は驚いた。
「ほら、この伍銭を差し上げますから。知っていることを全てお話しなさい!」
「本当だ。本当になんも知らねえんだ。黒いケイプに身を包んだ、烏みたいな野郎でさぁ、目が異様にギョロっとしてたんだよ」
それを聞いて、はっと思い当たることがあった。
あの怪しい人影だ。確かに黒いケイプに身を包み、全身真っ黒で烏のような風体だった。
――あの影だわ。いったいどなたなのかしら?