第拾壱話 瑠璃色のお嬢様と新月の対決(2)
動物の覆面を付けた男たちが大勢、倉庫から飛び出してきた。倉庫へと向かって歩く瀬蓮や和都たちを避けるように、我先にと転がり逃げていく。ひたすら逃げることに必至で、誰も彼らを咎める者はいない。
そのうち、一人だけ明らかに身なりの良い、鹿の覆面の男が倉庫から出てきた。その瞬間、瀬蓮がステッキを中頃に持ち替えた。鈍器と化したステッキを鋭い一閃で逆袈裟切りに振り上げる。ガツッ、ゴッと鈍い音が響き、鹿の覆面男を突き上げる。鹿の覆面男は、声を発する間もなく、体を回転させ、倉庫の入り口へ吹っ飛んだ。
何事も無かったかのように、瀬蓮が鹿の覆面男を踏み越えて、倉庫の中へと入っていった。和都も、瀬蓮の後に続いて、恐る恐る倉庫に入る。そして、惨状を目の当たりにして驚いた。
「こ、これは!?」
足を銃で撃たれ呻いている者、失神して倒れている者、腕に深々とナイフが突き刺さり、うずくまっている者。皆、覆面を付けている。そして、檀上には、肩を寄せ合い泣いている裸の子どもや赤子たち。
襲ってくる者が居やしないかと、周囲を警戒するが、そんな者は独りもいない。彼の後ろから倉庫に入ってきたと那岐斗と那弥も、状況が飲み込めず驚いていた。
「いったい何が……」
那岐斗と那弥は、脅迫状を受け取り、その指示に従ってやってきたのだ。要求通りに支払うだけの金は用意できなかった。それでも、子どもを助けられればと集められるだけのお金を用意し、それで足りないと言われれば自身の命を差しだすことさえ厭わぬ覚悟でやってきた。しかし、状況は彼らの想像を超えていた。
「和加子!」
那弥が木箱に駆け寄った。そこには、まるで魚市場に並べられた魚のように、赤子が箱の中に寝かされている。彼女は、震える手で、その中から一人の赤子を抱き上げた。
「良かった……良かった。寒かったよね」
と涙声で呟いた。薄い木綿の布にくるまれた我が子を、赤い袢纏で包み、ぎゅっと抱きしめると、涙が溢れて頬を伝う。
「ごめんね、ごめん……」
彼女に氣を取られ、誰も入り口に注意を向けぬ中、瑠唯子はそっと倉庫を出て、すぐに踵を返した。そして、静かに息を整えつつ、
「無事、保護できたようで良かったですわ」
と声を張って入ってきた。
「まぁ、これは皆さんが?」
その声に和都が振り返り、雲間から太陽の光が注ぐように表情を変えた。
「お嬢様! ご無事でしたか。いいえ、これ、僕らではないんです。入った時には、もうこの状態でした。ご覧ください。これ、きっと例の、謎の女史探偵がやったんじゃないですかね!」
「まぁ!」
「あ! きさま……」
その時、腕にナイフを突き立てうずくまっていた男が瑠唯子を見つけ、何事か言いかけた。が、瀬蓮がステッキの先端の金属の龍を男のみぞおちにお見舞いし、無用の言葉を吐かぬうちに口を封じた。
ナイフが刺さった男が悶絶して気絶するのと入れ代わりに、今度は和都が不用意な一言を発した。
「早く警察に届けないと!」
「「待って!」」
瑠唯子と那弥が。
「待ってください!」
那岐斗が。
「お待ちください!」
瀬蓮が。全員から一斉に否定された。
「この子たちの親は、警察沙汰を望んでいませんわ。まずここから連れ出し、その後、警察に連絡しましょう」
「そうでした。すみません」
何故、皆から全否定されたのか得心した和都が頷いた。
殆どの子どもたちが裸である。瑠唯子が紫のケイプと懐のカイロを二つ、瀬蓮がコートとマフラー、その他の者も袢纏やカイロなど、防寒になるものを出し合い、子どもたちに暖を分け与えていく。足りない分は、足の銃創を抑えて転がっている參加者から拝借した。
瀬蓮が檀上で狼の覆面で失神している男の傍に膝を付き、懐中を探る。
「お嬢様、競売用の名簿と鍵でございます」
「その鍵で子どもたちの枷を外して。親元に返せそうかしら?」
「恐らく」
「良かった。ワトソンさん、辻馬車を二台、手配お願いしますわ」
そうして子どもたちが自由になった。
「心配しないでね。ここから出て、暖かいところで美味しいものでも食べましょう。さ、お姉さんについてきてくださいね」
瑠唯子が子どもたちに優しく声を掛けた。最初は不安がっていた子どもたちも、ケイプや袢纏を掛けてもらって枷を外して貰えたことで、今は信頼して大人しく従っている。
手分けして赤子を抱え、幼い子どもの手を引き、倉庫街から通りへと向かう。
横濱からから東京まで深夜の辻馬車となると、かなりの値段を吹っ掛けられそうだ。だが、子どもたちを連れている以上、仕方ない。
警察へは、横濱の電信局から「ジヱ3ソウコシキユウ」と電報を打ってある。横濱のように大きな都市の電信局であれば、二十四時間いつでも電報が打てる。便利な世の中になったものだ。
こうして、誰一人怪我をすることなく、無事子どもたちを救出し、日付の変わる頃に、一同は、可陽茶館に帰ってきた。
※
「許し難いですわ!」
瑠唯子は怒っていた。「東都慈恵育友会」に対してではない。
「私、我慢して三等客車にしましたのに! 皆さんは二等だなんて!」
瀬蓮が「まぁ、まぁ」と瑠唯子をなだめながら、急ごしらえで作ったシチューを差し出した。深夜だが、動き回ったためにとても空腹だった。柔らかく煮込まれたじゃがいもをスプーンの背で押しつぶしながらスープと一緒に口へと運ぶ。
「とても、温まりますわね!」
内容とは裏腹に口調は変わらず、怒っている風ながら、芯まで冷えた体が温まると同時に、些細な怒りも絆されていくのだった。
「美味しいです! なんすか、これ。こんなの食べるの初めてですよ」
和都がそう言いながら、ふぅふぅと美味しそうにスプーンを口へ運ぶ手が止まらない。
「でも、僕は例の女史探偵に、会ってみたかったですよ」
そう言って、口いっぱいに頬張ったまま、もごもごと言った。
「子どもたちにも一通り配り終わりました」
那岐斗と那弥がそう言って、書画閲覧室の方から戻ってきた。可陽茶館の書画閲覧室が、臨時の託児室になっていた。袢纏一枚で我慢して帰ってきた子供たちだったが、瑠唯子の子どもの頃の古着を与えられ、暖の効いた部屋で暖かいシチューを食べて、頬を上氣させて喜んでいた。
「お二人もどうぞ、こちらを召し上がって温まってください」
「ありがとうございます」
伊佐兄妹もスツールに腰かけ、初めてみる食べ物に興味深々だった。
「西洋風の豚汁のようなものです」
そう言われ、二人は恐る恐る口に運ぶ。
「とても美味しいです!」「まぁ、美味しい!」
那弥の腕の中では娘の和加子が静かに眠っていた。その穏やかな寝顔を覗き込みながら、二人も初めて食べる食事に舌鼓を打つのだった。
――親の責任、大人の傲慢、そんなものを子どもたちに背負わせてはいけないのですわ。
彼らの様子をそっと見守りつつ、瑠唯子は瀬蓮の淹れた珈琲の香りを頭の奥まで吸い込んだ。次の週末から、この子たちを親元へ返して回らねばならない。警察は頼れないから、自分たちでなんとかしなくては。事後処理はまだ続くのだ。
※
午前二時。和都は会社の寮へ帰り、伊佐兄妹は救出した子どもたちと一緒に急ごしらえの託児室で寝ている。可陽茶館で起きているのは、瀬蓮と瑠唯子だけだった。
「お嬢様も今日はお疲れになったでしょう。どうぞお休みください」
皆にふるまったシチューの後片付けをしながら、瀬蓮が言った。
「うん」
そう、生返事を返すものの、瑠唯子は心ここにあらずという感じで、カウンターに置いた懐中時計とワルサーモデル4をそっと触ってばかりいる。
「でも、まだ寝られそうにありませんの」
「興奮がなかなか冷めないのでしょう。ホットミルクでもお作りしましょうか」
「えぇ、お願いするわ」
――お父様。瑠唯子を守ってくださり、ありがとうございます。
「今日も色が付いてございましたか?」
カチャリとホットミルクの入ったカップをカウンターに置きながら、瀬蓮が言った。
「えぇ。ちゃんと瑠璃色でしたわ」
※
彼女は、色聴の共感覚を持っていて、銃声に色を感じる。たとえばサックスの音色に色を感じる者がいる。このように、特定の楽器に限って、その音を聴くと色やイメージが見える。
あるいは文字に色を感じたり、点滅する光や動いている物体などから音を感じたり、そういった視覚と聴覚の間で共鳴するような感覚を覚える人は珍しくはあるが、少なくない。
彼女もそうした感覚を持っていて、銃声にだけ、色が見えるのだ。それは父親譲りの能力だった。
「瑠唯子。大きな音に驚いただろう? これが銃というものだ。大きな音と同時に小さな金属の弾が発射される。これを用いて人を攻撃する武器なんだ。大怪我をするし、当たり処によっては死ぬこともある。恐ろしい武器だ」
「あなた、瑠唯子は、まだ八歳ですよ。銃だなんて、危なすぎますわ」
「何を言う。子爵の娘である以上、常に悪意に晒されている。いつどこで、どんな危険に遭うとも限らん。そうした悪意に抗うには、正しい知識を身に付けておかねばならんのだ」
あらかじめ耳をふさいでおきなさいと言われたにも関わらず、あまりに大きな銃声に、八歳の瑠唯子は驚いた。そして、銃声の残響のせいで父親の説明も、その後の両親の言い合いも、少しも耳に入ってこない。
「お父様! 今の、すっごく、おっきい音! 白くて綺羅々々と輝いていましたわ!」
それを聞いて、娘が自分同様、銃声に色を感じる感覚を持っていると父親は知ったのだった。
「なんと。お前にも、色が見えるのだね。それは良いことだ。良いか、瑠唯子。白い色の銃声はお前にも誰にも当たらない」
ただし、銃声よりも銃弾の方が早く飛ぶため、自分に向けられた銃の銃声が白くないと確認してから避けようとしても間に合わない。自分が放つ銃の銃声が白ければ、それは誰にも当たらないことを意味する。瑠唯子の父親は続けた。
「緋色の銃声は、相手の命を奪う。だから、銃を撃つ時は瑠璃色の銃声ならば、良い銃声だ。命を奪うことはないが命中する。そして、それは、お前の命を守る銃声だ」
「瑠璃色の銃声は良い銃声」
「そうだ。それだけは覚えておきなさい」
長い説明は良く分からなかったが、その一言だけは、八歳の瑠唯子の心にしっかりと刻み込まれたのだった。
※
彼女が倉庫でワルサーモデル4を撃った時の銃声は「ちゃんと瑠璃色」だった。どんなに怒りに我を忘れていても、色にさえ気を配ることができれば、決して人を殺めることはない。そして必中する。
「敵の銃声はどうでしたか? 赤かったですか?」
「いいえ、ぜんぜん。最初っから、真っ白。あれでは、銃が可哀そう」
そう言って、懐からFNブローニングM1900を取り出すと、カウンターに置いた。
大方、そんなところだろうと予想していた瀬蓮は驚く様子も見せず、
「人様の物をお取りになるとは。私は、お嬢様をそのようにお育てした覚えはございませんが」
と言った。
「爺、目が笑ってらっしゃるわ。それよりも、ご覧になって」
そう言って、彼女はM1900のグリップに彫り込まれた紋章を指さした。それを見た瞬間、瀬蓮の顔から笑みが消えた。
「元の銃には、このような彫りものは、無い筈でございます」
瀬蓮がそう言うと、瑠唯子は、我が意を得たと言わんばかりに頷いた。
「でしょう? この蛇が自分の尻尾を加えた図案。以前、お父様の書斎でも見たことがあるように思います」
お嬢様が危険に近づこうとしている。そう感じ、顔を曇らせる瀬蓮だったが、この新たな手掛かりに夢中で、瑠唯子は気が付いていなかった。




