第壱話 瑠璃色のお嬢様と弔慰金強盗殺人事件(1)
薄暗い切り通しに差し掛かったところで、瑠唯子は、鼻を突く獸臭に氣が付いた。霜で泥濘む足元に、大小幾つもの足跡があった。くっきりとしていて新しい。
――近くにいらっしゃるのかしら?
野犬か狐か。
――ホームズなら足跡で見抜くのでしょうね。私は行動力でカバーですわ。
瑠唯子は、白い息をほおと吐き、鞄から郵便保護銃を取り出した。現金書留を狙う強盗に備えた装備だ。S&Wモデル2アーミー。三十二口径。殺傷力は頼りなく連射もできない。手負いで暴れられるのが最も危険で、子連れとなると猶更なのに、複数相手には向かず、即死を狙うのも難しい銃だ。
フレーム下部のラッチを引いて、バレルを上へ跳ね上げる。六発全弾装填済みなのを確認して、バレルを元の位置に戻し、撃鉄を起こす。
――できれば、お会いしたくありませんわ。
父の形見の懐中時計にそっと触れて銃を構え、半袴に巻きゲートルの足を慎重に進めた。
大正六年に女子の郵便逓送員は居ない。彼女は特例で、制服も男子用。髪はきつく結って帽子に押し込んである。胸章と襟章が付いてはいるが、制服は一見すると詰襟の学生服と変わらない。
そもそも、官給品の郵便鞄がよろしくない。しっかりと鞣された牛革製。軽く柔らかく丈夫だったが、臭いが酷い。獸が寄ってくるのはそのせいだ。
――お腹を空かせていませんように。
「お嬢様。銃は撃つのではなく、絞るのですよ」
初めて銃を握った時の、執事の瀬蓮の声を思い出す。
――爺。心得ておりますわ。
ガサッ。
音がした藪へ、すかさず銃弾を撃ち込む。跳弾して命中しないが、想定済み。あくまで牽制が目的だ。銃声が木々の間を反響しながら抜けていく。
――白い……あぁ、この音。堪りませんわ。
「どなた?」
背筋を駆け上る快感に浸りながら、誰何するが、それに答えたのは地を這う低い唸り声だった。獲物を狩ろうとする十二の目と涎を垂らした六つの口が彼女を半円状に取り囲み、じりじりと間合いを詰めてくる。命のやり取りは避けられそうにない。
二匹の子犬を除き、四匹の野犬は予想以上に大きい。これでは、体のどこを撃っても、爪牙を押し留めることはできないだろう。残弾は五発。
――となると、頭を狙うしかありませんわね。
しかし、闇雲に頭部を撃ってもだめだ。クルミ大の脳を守る固い頭骨には、脳に達する格好の穴が空いている。彼女と先頭の野犬の目が合った。交差する視線上に右手をぐっと構える。
――私、命を差し上げるわけには參りませんの。
※
喫茶店「可陽茶館」。英国仕込みの装飾に彩られた店内。喫談だけでなく、書画の閲覧やビリヤアドを愉しめる部屋まで備わっている。壁には父のコレクションだった西洋画が飾られ、中でも日露海戰を扱った作品は目を引いた。
珈琲は一杯拾伍銭。やや高いが、それでも少しずつ庶民に浸透しつつあった。ここ、可陽茶館も、馴染み客で賑わっていた。
ぎぃぃ。
新たな客が入ってきた。銀髪を一つ括りにまとめたマスターが出迎える。
「ようこそ、おいでく……わ! お嬢様!」
入り口に仁王立ちしていたのは、頭部に負った裂傷で、顔に乾いた緋色の線を付けた瑠唯子だった。傍で女給が悲鳴をあげ、盆を落としそうになる。
「お客さま! お騒がせしました。ご安心を。どうぞ引き続き、お寛ぎください。お嬢様、奥で手当てをいたします。こちらへ」
マスターが両手を上下に振って客を鎮める。が、客は常連ばかりで瑠唯子のお転婆にも慣れていた。マスターは、翻って彼女を抱きかかえ、カウンターの奥へと誘った。
「お嬢様。いつも申し上げておりますが、悪目立ちはお避けください。子爵令嬢といえど、華族の端くれ。新聞雑誌に好き放題に書かれては、目も当てられません」
「元でしょう。えぇ、心得ておりますわ。ですが、野犬はこちらの都合など、推し量ってくれませんの」
瀬蓮の応急処置を大人しく受けながらも、口だけは達者に反論する。
「銃の返却時に、そのお怪我、何か言われたりしませんでしたか?」
「別に。遠巻きにご覧になるばかりでしたわ」
「お鞄はどうなさいました?」
「野犬にさしあげました」
「お嬢様はお優しすぎます。躊躇わず銃をお使いになるべき状況だったかと」
「銃を持てるのは逓送員の特権ですものね。でも、弾の使途を報告するのが億劫なんですもの。幸い鞄は空でしたし」
「お鞄の再支給も手間でしょうに。それに、一発は使われたと先ほどお聞きしましたが?」
「牽制よ」
「大方、銃声を愉しまれたのでございましょう?」
「う……」
痛いところを突かれ、返す言葉もない。瀬蓮には、お見通しだった。
「ごめんって」
お嬢様言葉も忘れ、ペロッと舌を出しておどける。すました顔で静かに座っていれば、淑女然とした美貌なのだが、これはこれで太陽のような魅力があって憎めない。赤児の頃から世話をしてきた瀬蓮は、諦念の溜息をついた。
「傷は浅いようですが、しっかりと消毒しておきませんと。しかし、この程度で済んでようございました。依頼も来ておりますれば」
元執事の小言に口を尖らせていた彼女の目が、依頼と聞いて、綺羅々々と輝いた。
※
瑠璃色も鮮やかな袷着物の襟と袖から、仕立ての良い襟立ちブラウスの白いフリルがちらりと覗く。これに腰高の黒のロングスカートを重ね、足元は青いソックスとショートブーツ。頭の包帯は大きなリボンの帽子で隠している。形見の懐中時計は胸元に。和洋折衷の服装は瀬蓮には奇異に映るのだが、彼女に言わせればこれがモダンなのだという。それに逓送員の制服よりも暖かい。
第一次世界大戰。日本はサイパンや青島などのドイツ領を次々に占領する戰果をあげた。一方で巡洋艦「高千穂」の撃沈など、少なからず被害も出た。そんな戰没者遺族への特別弔慰金を狙った強盗殺人事件が頻発していた。いずれも弔慰金を受け取った直後に強奪され、女・子どもに至るまで、その場の全員を銃殺。それ故、目撃情報に乏しく、警察は捜査に行き詰っているという。
彼女は横須賀軍港で爆発した巡洋戰艦「筑波」の新聞記事を眺めながら、依頼に耳を傾けていた。
――興味深い記事ですわ。後でスクラップブックに貼ることにいたしましょう。
「使われた銃は?」
彼女の問いに、瀬蓮が答えた。
「三十二口径です。大がかりな犯罪組織が裏にあるのではというのが警察の見解だそうで」
「相変わらず、ズレてますわね」
「お嬢様には、もう目星が?」
「そこまでは。でも、絲口はありましてよ」
※
猿轡を噛まされ、後ろ手に縛られた老婆が、男に銃を突き付けられていた。引き金に掛けた指に力が入るのを見定め、瑠唯子は声を掛けた。
「弔慰金の送金に合わせて起きる犯行。郵便逓送員が絡んでいると思いましたわ」
一瞬、男は驚いたが、相手が二十歳そこそこの女子だと分かると、途端に舐めた態度に変わった。
「小娘が。何の用だ?」
「逓送員なら銃の携帯許可はいりませんし、弾も野犬に遭遇したで済みますものね。ご自分の管区では足が付きますから、非番の日に仲間の手引きで押し入ったのでしょう? いったん遺族に手渡し、仲間は無関係だと装って、改めてそれを強奪する手口ですのね」
「ならどうだってんだ? 死体が一つ増えるだけじゃねーか」
「あら、私、命を差し上げるわけには參りませんの」
――罠に嵌められ爵位を失い、失意のうちに自死を選んでしまわれたお父様の無念を晴らすまでは。
男がS&Wを撃ってきた。予想していた彼女は、さっと物陰に隠れ、銃を取り出す。ワルサーモデル4。裏の仕事をする際の愛銃だ。口径こそS&Wと同じ三十二口径だが、これは自動装填で弾装に八発、先込めの一発と合わせ九発まで撃てる。
――一対一で遅れは取りませんわ。
物陰から飛び出す彼女に慌てた男が、狙いの定まらないままに発砲する。銃声の白い音の快感に心奪われ、つい自分も撃ちたくなるが、ぐっと自重する。軽やかにステップを踏み、ロングスカートの裾を優雅に翻し、踊るように身を躱す。鳴り響く銃声の中でなければ、その所作は、まるで社交ダンスでも舞うように可憐だった。
相手に全弾撃たせた後で、躊躇いなく男の肩を撃つ。
「ぎゃぁっ!」
――やっぱり、瑠璃色が一番綺麗ですわ。
色聴性共感覚。瑠唯子には銃声が色を伴って見える。男が激痛に銃を取り落とすのを見て、瑠唯子は男に素早く詰め寄った。
その時、物陰から、ゆらりと別の男が現れた。
「おっと。お転婆なお嬢さん。お痛はそこまでだ」
撃鉄を起こす音。
「どうして一人だと思ったかね。不用心、不用心」
後ろを取られてしまった。振り返るどころか、一歩も動けない。
「銃を置け!」
ゆっくり腰を落としていく。
野犬の足跡を思い出す。敵は一匹じゃない。ミスだった。犯行で使われた銃がすべて同一口径だったことで、単独犯だと思い込み、複数犯の可能性を失念していたのだ。
その時だった。聞き慣れた声が、背後の男のさらに後ろから聞こえた。
「どうして一人だと思ったんでしょう。ほっ、ほっ。不用心、不用心」
――帰ったら、爺のお小言だわ。
命拾いしたことよりも。後に待つ説教を思って氣が重くなる瑠唯子だった。
個人企画、第24回書き出し祭りの第一会場で第3位に入賞させていただき、ありがとうございます。
(祭り参加時の原稿に、るびの追加のみ行っています)
ネトコン13へエントリーさせていただきました。よろしくお願いいたします。