その2
カチャカチャという食器の音だけが、やけに大きくダイニングに響いている。
しんと静まり返り、会話は一言もない。
こんな時でも食事は喉を通るもので、私の皿にはもう半分ほどのご飯しか残っていない。
だが、ふと前を見ると、ハンネスさんの皿はほとんど手付かずだった。
口いっぱいに頬張っていたメインディッシュのお肉を飲み込み、恐る恐る声をかける。
「・・・お口に合わなかった?」
その言葉に、ぴくりと彼の肩が動いた。
かと思うと、ぐっと眉をしかめてこちらを見つめてくる。
思わず、こちらも手を止め身構える。
しんとした空気の中に、遠くでカリカリとご飯を食べるゴリアの音だけが響いた。
しばらくして、ようやくはあっという大きなため息が聞こえてきた。
「・・・他に、聞くことがあるんじゃないのか?」
ハンネスさんは、いつも礼儀正しく、言葉遣いも男らしくはあるがとても優しい。
その低い声音で話しかけられてもちっとも怖くないくらい、優しい口調だ。
そう、今目の前にいるのは、いつものハンネスさんだ。
「えっと・・・スープ、もしかして冷めてた?」
「んもうっ!違うでしょ!」
訂正、いつもと違うハンネスさんだ。
これまでに聞いたことのない口調。
女性のような言葉遣いを否定するつもりはないが、これまでに彼からそのような口調は聞いたことがない。
もしかして、ずっと我慢して口調を変えていたのだろうか。
そんなことを考えていると、次の言葉が出るのに遅れてしまった。
返答に困っていると受け取ったのだろうか、一瞬彼の眉が下がった気がした。
「ずっと隠しておくなんて無理だとは思ってたのよ。むしろ、5年はよくもった方だわ」
諦めたようにもう一度肩で大きく息を吐き、ゆっくりと語り始めたハンネスさん。
やっぱりずっと何かを我慢していたのか。
ここはひとまず彼の話を聞いてみることにする。
「アタシね、本当はこんな話し方なのよ」
「普段は口調を変えてたの?」
「そりゃそうよ。みんなびっくりするでしょ?」
確かに、見た目も仕事ぶりも仕草も、何もかもがイケてるおじさんの代名詞と言っても過言ではないほどの人だ。
口を開いてこの話し方では、周囲はさぞ驚くだろう。
「もう私には隠さなくてもいいの?」
「今さらでしょ。それに、アンタ意外と驚いてなさそうだし」
「いやいや、驚いてはいるよ?ただ、ずっと我慢してたのかなってそっちの方が気になっちゃって」
その言葉に、はたと目を見開くハンネスさん。
そんなに意外な反応だっただろうか。
彼がどうしようと、驚きはしても否定するつもりはない。
なんせ、受け入れ態勢だけには多大な自信があるのだ。
きょとんとしている私を見て、彼はふむと顎に手を当てた。
「なるほど。国王がアンタを勧めた訳が、ちょっとわかった気がするわ」
何かに納得したらしい。
ならば、今度は私から聞かせてもらおう。
「それよりもだよ!」
ハンネスさんが気を許してくれたような気がして、勢いづいてしまい思わずガタッと立ち上がった。
突然のハイテンションに、ビクッと彼の肩も跳ねる。
「あの本だよ、本!」
「あ、ああ、本ね」
「アタシのファンって言ってたよね?あれってハンネスさんが書いてたの?いつから?あの作家さんのデビュー作って確か結構前だよね?そんな昔から書いてたの?誰にも内緒で?」
「落ち着きなさいよ」
鼻息荒く問い詰めてしまい、静かに嗜められた。
でも、それは興奮するだろう。
世間の若者の間でも大人気の作家だ。
本を読めるようになった年頃から、私もずっと読んでいる。大好きな作家なのだ。
自由な恋愛ができないこの国で、恋愛というものがどういうものかすらよくわからないまま育ってきた。
勝手に結婚相手を決められる、だったら恋愛なんてしても無駄じゃないか。
周りのみんなと同じくそう思い過ごしていた。
そんな世界を一変させたのが、あの作家の物語なのだ。
あの本を読んで、恋に恋するようになった少年少女がどれだけ多かったことか。
結婚相手は決められない、それでも束の間の恋愛を楽しんでみたい、と憧れを膨らませる若者のどれだけ多かったことか。
日常が、どれだけ彩られたことか。
私の勢いが伝わったのか、根負けしたのか、ハンネスさんはゴホンと咳払いをして、恥ずかしそうに微笑んだ。
「それだけアタシの作品を好きでいてくれて、なんだか光栄だわ」
ああ、やっぱり口調は変わってもハンネスさんはハンネスさんだ。
優しい声音に思わずホッとする。
「そんな、こちらこそあんなに素敵な物語をたくさん読めて幸せだよ」
私の言葉に嬉しそうに微笑みながら、ハンネスさんはやっとご飯に手をつけ始めた。
「もう若い頃からずっと書いてたの。だから、レオニルの言った昔のデビュー作から全て、ちゃんとアタシの作品よ」
「そんなに長い間、誰にもバレずに出版し続けれたなんてすごいね」
「まあ、あの国王の力添えありき、よね」
なるほど、ストンと腑に落ちた。
国王と彼は幼なじみだ。
職務上も彼らはそばにいる時間が長い。
執筆活動も出版も、外部に漏れずにヒソヒソと続けようと思えば可能だろう。
「そもそも、本を出版すればいいなんて言い出したのもアイツなのよ」
「え、そうなの!?」
余程光る文才でもあったのだろうか。
思わずまじまじと夫の顔を見つめた。
でも、確かにあの作品から伝わる恋愛観は、新鮮で魅力的なものだ。
あれを一人の頭の中だけに留めておくのがもったいないのは、なんとなくわかる気がする。
現に、恋愛小説として世に出回り救われた人々だって少なくないはずだ。
国王、ナイスプレー。
「まあ、確かにハンネスさんの恋愛観は独特だもんね。昔からそうなの?」
ただの興味で何気なく聞いたことだったが、目の前の夫の顔を見てふと口をつぐむ。
苦虫を噛み潰したような顔をしてうーんと唸っている。
食事の手もまた止まっていた。
何かまずいことを聞いただろうか。
しばらくして、彼は諦めたようにぐいっとワインをあおった。
「まあいっか。これがバレることも込みで、アイツはアンタを推薦したんだろうし」
まだ何か大きな秘密を抱えていたのか。
思わずこちらもごくりと唾を飲む。
「あのね、アタシ、異世界転生者なのよ」
「・・・・・・・・・・・・は?」