違和感
ある日の午後、慌てた様子でアーヴィングが走り込んできた。
「レイチェルさま、本日の午後、お出かけになられるというのは本当ですか」
「ええ、もうそろそろ新しいドレスが欲しいから、街に見に行くの」
「でしたら、俺がお供します」
あたしは思わずアーヴィングの顔をまじまじと見つめた。
「でも、今日は母が遠出するから、念のためにあなたも付き添うのではなかったかしら。母がそう言っていたけれど……」
「はい、奥方さまからそう命じられましたが、先ほど辞退してまいりました。俺はレイチェルさまの騎士ですから」
「そ、そうなの……」
母に逆らうだなんて大丈夫かしら。
多分、かなり使用人長とかにもしぼられたはずだけれど、彼は全く気にしていないようだった。
「お嬢さま、想われてますね!」
「わたしもあんな人にどろどろに甘やかされたい~」
午後に使う馬車の確認のために彼が遠く去っていったのを確認して、とたんに周囲の使用人たちが声をあげる。
「そういえば、最近はお休みもされないですよね」
「あら、知らないの? 青年団を辞めたそうよ。お嬢さまのおそばに仕えていたいんですって」
使用人たちが勝手に会話を始め、きゃあ~と甘い声を出す。
「忠犬のようですわ。さすが騎士さま!」
「忠犬ねぇ……」
飼い犬なら、もう少し主人の言うことを聞くものではないかしら。
最近のアーヴィングは心配しすぎのような気がする。なにくれとなく口を出し、手を出し、世話を焼こうとする。
少なくとも人前ではわきまえていた初期の態度がもう見えない。それは臣下のふるまいではなかった。
完全に恋人のつもりなのよね。
これも愛されてるって証拠なのかしら。
それならば喜ばしい変化なのだろうけど、何処か違和感を覚えるのはなぜだろう。
その感覚を肯定するかのように、午後、アーヴィングの態度は一層おかしくなった。
きっかけはあたしが道で躓きかけたことだった。踏みとどまって、特に問題がなかったというのに、危ないからと言って抱き上げられてしまったのだ。
「これなら、転ぶ心配がありません」
「わかったわ。今度から気を付けるからおろしてちょうだい」
あたしは笑いながら告げる。あくまでも彼の冗談に付き合ってあげたつもりだった。
彼はかぶりを振る。いたって真剣そのものだ。
「駄目です。怪我をします」
「怪我って、ちょっとすりむくだけよ。大丈夫だってば。ねえ、あたしは買い物がしたいの」
「では、馬車でお待ちください。欲しいものがあるのでしたら、俺が買ってきます」
「あたしは、見て回るのが好きなの。あれにしようこれにしようって、迷うのが楽しいの」
もっと地位が上になったら、商人が品を持って自宅にやってきて買い物をするらしいけれど、あたしは歩いてたくさんのものを目にするのが好きだった。
ときどき、興味のなかったものからお気に入りのものを発見する喜びだってあるからだ。
でもいくら抗議しても目的地に到着するまで下ろしてもらえなかった。
店の中では流石に控えていたけれど、買い物が終わって店を後にした途端、またアーヴィングに抱きかかえられる。その繰り返しだった。どんなに言い募っても、彼はあたしが歩くのを笑顔で拒否した。
「お嬢さまのことが大切なだけですよ!」
「そうですよ! 抱き上げられて運ばれるだなんて、お姫さまみたいじゃないですか!」
帰ってから恋人や夫がいる使用人たちにさりげなく尋ねてみたけれど、みんなたいして気にしていなさそうだった。むしろ素適だ、自分もしてもらいたい、と言い出す者まで出る始末だ。
確かに大切にされているというのは分かる。
だとしても、さすがに今日の態度は息が詰まる。自由にさせてくれと衝動的に怒鳴りたくなる時すらあった。
怒ってやればよかったかしら。あたしのほうが主人だということを思い出させてやった方がよかったかしら、と考えて、それを打ち消す。
いいえ、我慢するのよ、レイチェル。
あたしは自分に語りかける。
今ここで彼を怒鳴りつけて拒絶してしまったら、すべてが無に帰してしまう。もう人生を繰り返したくないんでしょ? だったら、彼の好きにさせるの。
どうせ、今だけのことよ。愛っていうのは冷めるものだもの。一時の情熱に嫌気がさしたからと言って、今までの苦労を棒に振る必要はないはずだわ。
「そうよ。あたしが変わればいいのよ。あたしが考えて行動すればいいだけのことよね」
あたしの気持ちと、これからの人生、つまり彼を天秤にかけ、あたしは彼を選んだ。
選んだとは言っても、彼に合わせるようにしただけだ。ようするに、普段は基本的に彼の好きにさせ、頷いて見せ、彼が母のお供などで家やあたしから離れたときに、黙って外出した。周囲にあたしが出かける予定なのも口どめさせた。
楽しい時間をきり上げて帰るのは苦痛だったけれど、自分の人生のために、彼が帰ってくるよりも前に帰宅するようにし、何食わぬ顔で彼を出迎える。
「今日も、なにもございませんでしたか?」
「お帰りなさい、アーヴィング。ええ、もちろんよ。おとなしくしてたわ」
アーヴィングは帰宅して一番にあたしの部屋に確認に来る。よかった、と今日もあたしを抱きしめる。
最近は母に頼んでできるだけ、長時間、彼を連れ回してもらうようにしていた。
やっぱり気分転換て大事よね。だってそうでなくちゃ、こうやって彼を笑顔で出迎えられなかったもの。
面倒でもこれが一番だった。
ただ、それもそう長くは続かなかった。
それからしばらく経ってのある日のこと。アーヴィングももしかしたら何か感づいていたのかもしれない。もしくは誰かがこっそり彼に漏らしたのかも。
予定よりも早く、アーヴィングだけ一足先に屋敷に帰ってきたのだ。
当然ながらそれを知らないあたしは、街で久しぶりの自由を謳歌していた。
「入荷したら教えてちょうだい」
鐘を鳴らし、扉を開けて店をあとにする。
彼の代わりの護衛を引き連れ、次の店に向かおうとしたところに、遠くからあたしの名を呼ぶ声に気がついた。
1頭の馬が走り込んできて、馬から落ちるようにして男が駆け寄り、あたしを強く抱きしめる。
「ああ、よかった!!」
アーヴィングだった。帰ってきたときのままなのだろう。まだ外套も脱いでいない。
「アーヴィング、母に付き添っていたんじゃ……? もう帰ってきてたの?」
彼に黙って行動していた後ろめたさに思わず言い淀んでしまう。
彼は顔をあげると、怒らせてしまったのではと心配するあたしを覗き込んで、
「屋敷にいらっしゃらなかったので、なにかあったのではないかと……!!」
声を震わせて言うだけだった。
帰ったら屋敷にあたしがいなかったというだけで、あたしを探して馬を走らせ、あちこちを回ったのだろうか。
相当焦って探していたらしい。汗が額を流れていっている。
「お、おおげさね。大丈夫よ。もう帰るところだったし」
視線を合わせづらく、後ろを振り返って控えている使用人たちをみやる。
「みんなもしっかりあたしを守ってくれてたし、怪我もしていないわ」
一生懸命言い訳をするのだけれど、アーヴィングにはあたし以外目に入っておらず、あたしの言葉はアーヴィングに届いていないようだった。
肩に感じる強い彼の手の感触。あたしが彼から離れるのを許さないかと言っているかのようだ。
余りの必死ぶりに誰もが彼に声をかけるのを躊躇っていた。
そんな周囲の空気など意に介することもなく彼はあたしをひたすらにじっと見つめてくる。低く、呟く声が耳に届いた。
「やっぱり、俺がおそばにいないと……」