騎士
「昨日は、突然の休みをお許しいただき、ありがとうございます」
アーヴィングが朝一番に丁寧に頭を下げにきた。
許可を出したのは統括している使用人長だし、その上の責任者は母である。あたしは一切関与していない。彼もそれを分かっていて、それでもあたしに一言礼を述べたのだ。今までも多分こうだったと思うのだけれど、さっぱり記憶になかった。
本当に責任感があって誠実なのね。
こんな男性に女の影がないなどやはりあり得ないように思える。
「……お嬢さま?」
昨日聞いたペンダントが気になってしょうがない。思わずそれがあると思しき彼の胸元をじいっと眺めてしまい、怪訝な顔をされてしまった。
「何でもないのよ、ごめんなさい。そ、そういえばご令嬢はみつかったの? 昨日は昼過ぎから雨が降って大変だったのではないの?」
彼は一瞬考えこむようにこっちを見つめたものの、結局首を横に振った。
「いいえ、残念ながらみつかっていません」
「そうなの」
じゃ、逃げおおせたのね。
駆け落ちだなんて先の見えない話によく人生を賭けられるものだと思う。
お金も幸福の保証もないのよ。愛だけで人生豊かに暮らしていけないから、人は働く。そしてときに、そっちが目的になり愛は簡単に壊れる。あるいは別の者によって。
あたしの両親は家同士の結婚だった。
母はもっとお金が欲しかったし、父はもっと家を大きくしたかった。互いに満足を与えられるのだから、利害関係が一致する方がよほど上手くやれるというものだ。現に父も母も喧嘩はしないし、かといって相手を気に掛けず裏切るようなまねもしない。そんなことをすれば自分の望むものが壊れるのを知っているから。
あたしは着飾るのが好きだしきらきらしたものが好きだし、楽しいことが大好き。結婚相手にはそれをかなえてほしいし、特権が手に入るのだから兄と父にはぜひ貴族への切符を手に入れてもらいたい。それがあたしの正直な気持ちだ。
でも、今は愛を信じているふりをしなければならない。どうやら神さまは、それをお望みのようなのだから。
これはそのための第一歩。
可愛いと必ず褒められる笑顔でアーヴィングに声をかけ、目の前の椅子を指し示す。
「ねえ、一緒にお茶をしない?」
「勤務中ですから」
「いいじゃない。あたしが言ってるんだから。あたしのこと、嫌い?」
「いいえ、そういうわけではありません。座ってしまうと、咄嗟に何かあった時に対処できませんので」
「あたしのお願いでも?」
「服務違反になります。奥方さまからのご命令ですので」
母の名前を出されるとあたしは勝てない。
実際には、多分強く命じれば彼は従うのだろうけれど、我が儘を押し通したところで彼の好感を得られるはずがない。
あたしがほしいのは彼の心なのだから。
次からはもっと根回しをしておこう。これは教訓ね。
彼を誘うのは諦めしぶしぶひとりでお茶を飲んでいると、使用人に案内されて、はちみつ色の髪が陽に透けて藁色になりますます鳥の巣っぽくなった男が庭にやってきた。シモンだ。今日も相変わらず存在が地味で、多分あたしでなければ近づいたのにも気が付かなかっただろう。
「何しに来たのよ」
「……お前のお母上から、最近様子がおかしいので話をきいてやってほしいと仰せつかった」
「あら、そう。あたしは全然問題ないわ。帰って」
冷たく言い放ったのにシモンは気にするそぶりも見せず、空いている目の前の椅子に座る。
「ちょっと、誰が座っていいと言ったかしら?」
「お前のお母上だ」
誰もかれもが母の名を出す。あたしが母にだけは逆らえないのを知っていて。
いいえ、落ち着くのよ、レイチェル。あんまり不機嫌なところを見せちゃダメ。アーヴィングがいるのだから。
「そう。……最近、学校はどうなの?」
「は?」
たいして熱くもないのに頬をリスのように膨らませてカップに息を吹きかけていた――彼は猫舌なのだ――シモンは顔をあげ、白く曇った眼鏡の向こうで間抜けな声を出した。
「お前が学校のことを訊くなんて、本当に調子がおかしいんだな」
この男は本当に人の気づかいを台無しにする男ね。
込み上げてくる怒りを抑えて、更に質問を重ねる。
「ええと、医者を目指してるんだったかし――」
「法廷裁判官だ」
言い終わらない内に噛みつくように訂正された。
……アーヴィング、見てくれているかしら。あたしって気のきかない冴えない男にも怒ることなく丁寧に対応できる女なのよ。
「そうだったわね。なぜ、裁判官を?」
「……お前に教える必要はない」
こっちだって知りたくないわよ! そう言ってやりたかった。
あー、もう馬鹿らしい。
そもそも、あたしがどうしてシモンなんかに気づかいをしなくちゃいけないのよ。
このくるくる眼鏡!
心の中で舌を出して、あたしはもうそれ以上シモンと会話をする努力を放棄した。