館 中編
あたしは屋敷の中を逃げ惑う。
その後ろを伯爵の靴音が離れることなく一定の間隔で追ってきていた。
伯爵は晩餐用に礼服を――お洒落な仕立ての黒のタキシードを着ている。ただし、その料理の主役はあたしたちなのだから笑えない。
黒い髪に黒の夜会服。まさかこの格好で森をうろついていたとは思えないけれど、なるほど、黒い影とはよく言ったものだ。
伯爵はこれからあたしがどんな目に遭うのか、今までの被害者たちがどんな最期を迎えたのか、まるで詩を諳んじるように朗々と節をつけて歌い上げる。
これは遊びなのだ。まさに、彼にとっては狩りの一つ。しかも一方的な。
活きがいい、と言うのは歪んだ彼なりの本気の誉め言葉なのだと分かる。
獲物を追い込むことが楽しくてたまらないとその声が告げていた。
「もう! どうしてあたしはクズばっかりに行き当たるのよ!!」
運命がいるのなら、今すぐ恋に落ちてやるから縄を付けて目の前に連れて来てほしい。
そうでないならもういい加減、あたしを放っておいてほしい。
運命も神も知ったことではない。あたしの人生はあたしのもの。あたしの選択だ。
誰を好きになるか、どういう人生を歩んでいくかはあたしが決める。
「こんなことのためにあたしは生きてるんじゃない!!」
惨めさに麻痺しかけた心の片隅で怒りがくすぶり始める。
またしても人生を台無しにされたことへの、自分の愚かな勘違いに対しての、そのせいでシモンへ八つ当たりしてしまったことに対しての。
頼んでもないのにあたしの人生に介入してきて、あげくの果てには再びねじを巻き戻そうとしている見えない力への。
「……急激に腹が立ってきたわ」
自害にしても殺されるにしても生き延びても、結局明日のどこかであたしは死ぬ。そして半年前が始まる。情も、絆も、傷も、怒りも、悲しみも、全てがまっさらになる。無に帰る。なかったことに、される。
ふと、ある考えが浮かんだ。それは、今までにない考えだった。
「――だったら、あたしがやったって、なかったことになるというわけよね?」
今までは被害を受ける側だった。なのに害はうけなかったことになり、心だけが傷を受けた。
でも、一度くらいあたしが傷をつけてやる側になったっていいはずだ。だって、神さまが消してくれるんだから。しかも相手はろくでもない人間だった。たくさんの女性が被害に遭っている。
「そうよ。あたしだってやる側に回ったっていいはずよ」
あの男にはわかっていないことがある。あたしにしかない武器がある。
確かにあたしはずっと恐れを感じていたけれど、それは繰り返すことと死に際の苦しみに対してだ。
死、そのものは怖くない。死は全てのことをなかったことにはするけれど、本当の意味であたしの命だけは奪えないからだ。
言い換えれば、この世で少なくともあたしだけは死に打ち勝つことができるのだ。
考えれば考えるほど不思議だった。何故あたしは今までこの考えに行きあたらなかったのだろう。
卓の上にある、火のついてない銀の燭台が目に入った。手に取ると頼りがいがあるほどどっしりと重たくて、ちょうどいい。
空に向かって語りかける。実際には天井しか見えないのだけれど。
「神さまが楽しむためにあたしは散々踊ったんだから、一回くらい大暴れしたって見逃してくれるわよね?」
2階の角に潜み、息を殺し、現れた伯爵の足を燭台で全力で殴りつけた。足音を隠しもしないのでちょうどいい瞬間を読むのは簡単だった。
読んだ本に、関節の向きが大事なのだとあったから、横から、逆に関節が外れるよう願いながら思いっきり振りかぶる。
金属を通して伝わる衝撃。確かな手ごたえを感じた。
いける!
続けざまに振りかぶる。
「今までさんざん彼女たちを痛めつけて来たんでしょう! お返しよ! お味はいかがかしら!?」
くぐもった声、苦悶の悲鳴、血の匂い、何かが折れる音。
何度か殴り続けていると、今度は空振って、壁に大きな穴をあけてしまった。
自分より弱い若い女だけを狙ってきたことから引っかかれる程度はあったとしても、今まで、こんな反撃を受けたことはなかったのかもしれない。刃物を一回大きく見当違いにふるったものの、その腕も強く殴りつけてやると取り落し、やり返してくることなく、からぶった隙をついてあっさり伯爵は逃げだした。
そのよたよたとした後ろ姿に思わず笑いがこぼれた。
「……どうしよう。何だか楽しくなってきたわ」
あたしはもしかしたら異常者の素質があるのかもしれない。もしくは、この繰り返す人生の中で実はとっくに壊れていたのかも。あたしの心は正気の境を超えて、もういくべきではないところまで行ってしまっているのかもしれない。
空気の中に恐怖の吐息が混じっているのが伝わってくる。
一瞬伯爵が振り返って、蝋燭の揺らめきにその顔が見えた。
足を集中して狙ったつもりだったのに、それ以外にもあたっていたらしい。
元の美しい姿は見る影もなかった。
目は腫れあがり、鼻は変な方向を向いていて、泡がたまった唇からはのぞくはずの歯が数本なかった。血に染まったよだれが、だらしなくあいた口元からしたたり落ちている。
自分がやったことを改めて認識しても恐怖はなかった。頭の中で、鳥かごの中にいる鳥が暴れているような、鍵が開かれ、大空にはばたく瞬間を今か今かと待っているこの感じ。もうすぐそこだ。あたしなら飛び出せる。あたしなら飛べる。
狂うことを恐れてはいたけれど、なってみると意外と大したことないのかもしれないと思った。
伯爵は片足が折れた状態では階段を降りられないと判断したのか、ひとつの部屋の中に転がるようにして入っていく。
少女たちの衣装部屋だった。
「逃がさないわよ」
今まで自分以外の人が死ぬ瞬間を見たことがなかった。でも、血を見ても何とも思わなかった。
ならきっと、人を殺したってあたしは平気。あたしはやれる。
そう、あたしなら――!!
「――……何してるのよ」
てっきり、最後の抵抗をされると思って身構えつつ飛び込んだ部屋の中では、あたしのことなんて目に入らないみたいに伯爵が何かを床に撒きちらかしていた。部屋中にこもるにおいと、沁み込んだ絨毯の上に白く滓が浮き出ているのを見て、床にこぼれているものが燃料用の油だと気づいた。
飾られているドレスたちもすでにいくつか汚れている。
「ちょっと、まさか、全部燃やすつもり!? そんなことしてないでかかってきなさいよ!」
あたしの怒鳴り声に伯爵は顔を上げ、歪んだ口で言い放つ。
「お前のような乱暴女は好みじゃない」
正確には、歯が何本か抜けているので「ほまえのひょうな」みたいな感じにしか聞こえなかったけど、だいたい意味は合ってると思う。
「は!? こんな可愛い女つかまえておいて、何言ってんの!? 」
こんなにきらきらして可愛いあたしを相手にしておいて!!
さっきとは違う怒りがこみあげてくる。
つまりこの男、あたしがかぶっていた猫を脱いだ途端、興味をなくして雑に屋敷の証拠ごとまとめて焼いて片付けようとしてるということだ。
身分違いの恋に狂った愚かな平民女として、放火犯にでも仕立て上げるつもりなのだろう。ついでに令嬢の家は圧力をかけて黙らせればいいと考えているのが手に取るようにわかった。
いつの間にか燃料まで用意して、と思ったところでシモンが言っていた討伐隊の話がよみがえる。
もとよりこの街は今年かぎりで、狩場を変える予定だったのかもしれない。この街にはもう二度と戻ってこないつもりなのだ。
「ていうか、それ全部遺品でしょ! せめて返してあげなさいよ!!」
蒐集して飾っておきながら、執着もなく簡単に捨てるだなんて死者への冒涜にもほどがある。
あたしの怒りに気が付いて笑う。
「また狩りをすればいい。獲物はいくらでも寄ってくる」
言外に、お前のようにという言葉をにおわせていた。視線には蔑みが含まれていた。
「あんたみたいなのはこっちからお断わりよ!!」
絶対に殺ってやる。その無駄に偉そうな態度をあたしが終わらせてやるわ。
決意を込めて部屋にさらに一歩踏み入れると、それを察したように
「悲鳴を聞けないのだけが残念だ」
とめるより早く、突き出しの燭台から蝋燭が伯爵の手で倒される。床にころころと転がって、絨毯の染みの前で止まった。
一瞬炎が揺れて、突然、ぼんっというはじけるような音と共に燃え上がった。天井をなめるように高く、そして床を炎が広がっていく。
炎の向こうで伯爵が笑う。歪んだ笑みと恍惚とした眼差し。顔が歪んでいるからじゃない。あたしが悲鳴をあげながら燃えていくのを想像して悦に入っているのだと分かった。
どこまでも人でなしの、生まれながらに恵まれていてこれからもその人生を歩んでいくことを疑いもしない勝者の笑いだった。
笑いながら、窓を開けた。そこから自分は逃げるつもりなのだろう。
けど次の瞬間、吹き込んだ強風に巻き上げられるようにして、炎が部屋の中央でさらに巨大に膨れあがった。そして、とぐろを巻いた蛇のように伯爵に襲い掛かった。まるでこの瞬間を待っており、意志を持って彼に狙いを定めていたかのように。
笑いが一転し、悲鳴が響き渡る。
熱いと叫びながら暴れまわり、伯爵はそのまま、炎と一緒に窓の向こう側へと落ちていった。
助ける間もなかった。間に合ったとしても助けたかどうかは疑問だけど。
「うそでしょ……まだ殴り足りなかったのに」
あまりにも一瞬の、そして呆気ない幕切れに呆然となったけれど、人のことを考えている場合じゃない。
空気を取り込み、炎は勢いを増してきている。
「せめて、いくつかくらいは持って帰ってあげられないかしら……」
急いで燃えていく棚に手を伸ばす。手を出しては熱さに引っ込ませを何度か繰り返したものの、火は衰えることなく熱は増すばかり。炎に阻まれ諦めるしかなかった。
「これ以上は無理だわ。連れて帰れなくてごめんなさい……」
仕方なく、部屋を出ようと踵を返すあたしの目の前を強風にあおられて炎が駆け抜けていく。
避けようとしたその足が滑る。
「やだ、うそでしょ!?」
どうやら、今回の人生劇も神さまのお気に召さなかったらしい。
伯爵に続いてあたしも体勢を崩し、2階の廊下の手すりから1階ホールへと落ちてしまった。
木造の建物は火の回りが早い。導火線のように部屋から廊下へどんどん火が続いていくのが見える。
でも投げ出され、したたかに頭と体を打ち付けてしまい、あたしはそれをぼんやりと眺めていることしかできない。
「焼け死ぬのってかなり苦しいのよね……」
こうやっていつも死がやってくる。今回もまた駄目だったのだ。
繰り返すというのなら、せめて痛いのと苦しいのはなしにしてほしかった。
自嘲のため息が漏れる。
「でも……あの男の手で殺されなかっただけ、ましよね」
あたしは諦めて目を閉じた。




