森の獣
今日は、伯爵さまのお茶会に招かれていた。
とびっきりのお洒落をして、伯爵さまのお屋敷に向かう。
来る途中、屋敷に立ち寄ったシモンに嫌味を言われたけれど無視した。彼の言葉で気分を台無しにしたくなかったから。彼も誘いを受けたらしいけれど、行かないらしい。
到着した邸宅には、沢山の客人が招かれていた。ほとんどが若い女性で、多分その全てが伯爵さまを狙っているのだろう。
招待客の中には、行方不明になるはずだった令嬢もいた。あたしのお陰で助かった、あの令嬢が。
芝生の上に並べられた円卓のテーブルで少女たちが伯爵さまを取り囲む。
彼が何か言うたびに媚びるような笑いが起こる。あたしもなんとか、そこに潜り込むことができたけれど、あたし以外貴族の令嬢ばかりで針のむしろだった。
王都の流行や華やかな王室の舞踏会なんて知らない。交わされる話題にことごとくついていけず、悔しさが募る。
伯爵さまの横を陣取っているのは、件の令嬢だ。彼女は伯爵さまに時々何かささやいては、親し気に微笑みをかわしている。
彼女も伯爵さまねらいなのだろうか。駆け落ち相手はやめにしたのだろうか。
驚きに目を見張るあたしと、視線が合った。にんまりと意地悪げにその目が細まる。
「貴族ではない娘も招かれているだなんて、伯爵さまは本当にお優しいことですわ。その広いお心、わたし尊敬いたします」
視線があたしに集中する。彼女の言葉に同調して周囲の女性が笑う。
「そのドレスも、身の程をわきまえていて本当にお素敵なこと。たしか、3年前でしたかしら。ああ、余分を求めず現状……いいえ、過去に甘んじているだなんて、すばらしいですわ。わたしには終わった流行を纏うだなんて、とても真似できませんもの。でも、あなたにはとてもお似合いですから、ようございましたわね」
場が甲高い笑い声に包まれる。
あたしに聞かせるように、「ええ、本当に素適」とこれ以上ないほどの嫌味がこもった笑い声に。
このドレスは、半年前に今の王都の流行だそうだと買ってもらったもので、これでも、あたしには精いっぱいのお洒落だった。
もしかしたら、父と兄は担がれたのかもしれない。野心はあるとはいえ、基本的には人のよい田舎の男だ。そういうのを見抜かれて、型落ちをつかまされたのかも。
それでも、父と兄があたしのことを考えて贈ってくれたもので、あたしはここぞという時に着ようと大切にしていたものだった。
……忠告するんじゃなかった。助けるんじゃなかった。
彼女たちはあたしを眺め、さらに耳障りな声できゃらきゃらと笑いつづけている。
「……さすがのあたしもあの場に居続けるのは無理だわ」
もうずっと顔を見ていないとはいえ、あたしの家族だ。
その家族からの気持ちのこもった贈り物を貶されるのは精神的に堪える。
かと言って、お貴族さま相手に真っ向から言い返せるわけがない。
居た堪れなくなって女性たちの群れを抜け出し、建物の陰でそっと人心地つく。
前ならきっと怒ってそのまま帰っていただろう。そして家で周囲に八つ当たりしていた。
でも今は我慢するしかない。
見ているがいいわ。
彼の運命の相手はあたしなのだもの。
あの女たちの悔しがる顔を想像して、なんとか心を慰める。
「――ご気分が、すぐれませんか?」
「まぁ、伯爵さま!」
あたしを見かねて追いかけてきてくれたらしい。伯爵さまが、すぐそばまでやってきて心配そうに顔を覗き込む。
「人が多いですからね。輝くようなあなたの笑顔が曇っているのを目にするのは胸が痛みます。もしよろしければ、気分転換に庭をご案内いたしましょう。いかがですか?」
立場の弱いあたしを気遣っての申し出だと分かる。だから、喜んで受けた。
「見事なお庭ですのね」
「庭師が優秀なのですよ。この屋敷は時々しか使いませんが、いつ来てもいいようにつねに手入れさせているんです」
左右対象の、隅々まで計算されつくした庭だった。咲いている花の数すら同じではないかと思わせるほどの。色とりどりの花が咲き乱れる花壇。緩やかな曲線と直線で整えられた生垣。
カンテラが灯された夜の景色もまた美しいのだろう。
でも、夜の景色も見たいって口にするのはまだ早すぎるわね。
この庭の主に相応しい、美しい容貌のその横顔を盗み見て考える。
低木の向こう側に、4階建ての本館とは異なる、こぢんまりとした木造の家が森に接するように建っているのが見えた。それでも、邸宅と呼べるほどには立派なのだけれど。
本館も十分部屋が余っているであろうに、さらに建物を用意するだなんてなんの為だろう。
答えを示すようにちょうど風が吹き、その方向から、渋さと鼻を刺すような刺激と甘くすえたようなものが混じった臭いがかすかに漂ってきた。
庭の剪定道具などを保管している建物が近くにあるのだろうか。ただ、肥料にしてはにおいが少し違うような。
思わず顔をしかめ、手を鼻にやったあたしを見て、
「申し訳ない。剥製を作るための部屋がありまして、窓を開けていたのを忘れておりました」
「剥製?」
ええ、と言って彼は先ほど疑問に思っていた近くの別棟を指さす。
「あちらの建物には、私の趣味の物が置かれているのですよ」
「趣味ですの? お話を伺ってもよろしくて?」
伯爵さまは少し恥ずかしそうに、
「ええ、狩りが趣味でして、戦利品――骨や毛皮、剥製などを並べているんです。その為の道具も。薬品なども置いてあって危険ですので、あそこだけは使用人にも立ち入らせないのです」
「では、伯爵さまは毎年こちらで狩りを?」
「いえ、ここには数年に一度ですね。あちこちを巡っているんです。たとえば去年は――」
臭いから離れるように歩く向きを変え、説明を聞いていると、突然、背筋が凍るような甲高い悲鳴が辺りに響き渡った。短く、2回。森からだった。
「今のは?!」
喫緊の、命の危機が差し迫った女性の声に思えたのに、あたしの焦りとは反対に伯爵さまはのんびりと笑う。
「ああ、あれは鹿の鳴き声です。おききになったのは初めてですか?」
「鹿?」
緊張が一気に抜けていく。言われてみれば、同じく聞いたはずの周囲の人たちは慣れているのか、気にした様子も見せていない。
「あんなにも人の声に似ているものなのですか」
うちの屋敷にも風が吹き込むとたまに似たような音をさせる屋根裏の窓があるけど、そういうのとは違った生々しさがさっきの声にはあった。
「そうです。森から人の声がしたら、基本的には近づかないほうがいいですよ。たとえば、成人男性の声がしたら、それは子熊です。そして子熊のそばにはたいてい母熊がいる。子育て中の熊ほど危険なものはないでしょう。出会えばまず助からないと思った方がいい」
「そうなのですね」
「他にも、ここではありませんが、以前に旅した街では、森の近くで子どもの名を呼ぶのは禁忌となっていました」
「なぜですか?」
「人まねをする鳥がいるからだそうです。音をすぐに覚えてしまう、と。特に子どもの場合は耳にしてもそれが人なのか鳥なのか判断がつかず、誰かに名を呼ばれていると勘違いして森の奥深くに入ってしまうのだとか」
「まぁ、怖い」
確かに、知識のない若い子なら、さっきのあたしのように悲鳴を聞いて何かあったかと森に入ってしまうかもしれない。特に女性なら狩りなどの経験もないためなおさらだろう。
行方不明者が限定されているのが理解できた気がした。
「ですから、レディがもしどうしても森にご用がおありでしたら、ぜひわたしを呼んでください。お供いたします」
彼が胸に手をあて、優雅に一礼する。柔らかな金の髪が肩から滑り落ちていった。
「伯爵さまにそう言って戴けるなんて、心強いですわ」
「――こちらにいらっしゃいましたのね!」
かぶさってくる呼び声に振り向くと、戻ってこない伯爵さまに痺れをきらした令嬢たちのご登場だった。あっという間に押しのけられるようにして、彼を囲む輪から締め出される。
彼女たちの甲高い声に混じって、また、遠くで鹿の鳴き声がした。
森の近くに居を構える令嬢たちは慣れているのか、目の前の伯爵さまに夢中なのか、反応をしない。
うっそうと茂る森に目をやる。
記憶の中の、街で必死に女性の情報を募る青年を思い出した。いなくなったのは恋人か、アーヴィングのように家族だったのだろうか。多分、失踪するのはこれからなのだろう。
ほんとは、彼女にも忠告してあげたほうがいいのだけれど、どこに行けば会えるかもわからない。
なにより、忠告があたしにいい結果をもたらすとは限らない。あとあと嗤われて惨めな思いをさせられるだけかもしれない。
「……考えたって仕方のないことだわ。どこのだれだか分からない限り、あたしにはどうしようもないもの」
それでも今の悲鳴が本当にただの鹿の声で、彼女たちのものでないことをせめて祈った。
あたしだって他人の心配をしていられる立場でもない。
頭を振って、湿った思考を追い払う。明るい日差しの下で騒ぐ令嬢たちに視線を戻し、ぎくりとした。
自分を取り囲む令嬢たちを眺める伯爵さまの顔がまるで違うもののように見えたからだ。
目をしばたたかせると、ふと顔をあげた伯爵さまと視線が合った。穏やかな笑みが投げかけられる。
「……気のせいよね。びっくりしたわ」
あたしも控えめに笑みを返す。
自分でも笑ってしまう。おかしいにもほどがある。
彼の笑顔を一瞬、まるで、冬眠から目覚めたばかりの熊みたいだ、などと思ってしまっただなんて。




