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逃亡

あたしが諦めておとなしくなるまで、食べ物に薬が入れられ続けた。薬が入っているのが分かっているから、食事を拒否するのだけれど、結局空腹には抗えず口にするしかなかった。薬を恐れて少量だけにとどめれば、その分今度は強いものを混ぜられる。


ここは安全と言うその言葉の通り、彼はあたしに傷をつけることはない。だからと言って安堵できるわけがない。


どういう風にあたしを運び出したのかは分からないけれど、きっとすぐに誰かが探しにきて見つけてくれる。そう抱いていた希望は日を追うごとに薄れていった。


誰も来ない。誰も見つけてくれない。虚しく時間だけが過ぎ去っていく。


見つからないほどに家から遠くまで来てしまっているのか、彼が思っていた以上に演技がうまく皆が騙されてしまっているのかは分からない。


アーヴィングは護衛の仕事を辞め、他の職に就いたようだった。1週間のうち数日だけ、決まった時間に出かけ、決まった時間に帰ってくるようになった。多分、体を張った、短い時間でも実入りのいいものを選んでいるのだろう。黒い外套の下に生傷をつくって帰ってくることもあった。


買い物もその時にまとめて済ませてしまうため、彼の監視の目がなくなるのは仕事の時しかない。


彼が家にいるときは、檻から出してもらえる。それでも、食事の準備やなにかしらあたしから目を離さなくてはならなくなると、必ず格子の中に戻された。


彼は頑なにあたしを外界に触れさせようとしなかった。


でも、粗雑に扱われるというわけじゃない。


与えられるスープにはかならずたくさん具材が入っていて、アーヴィングは汁のみだった。


彼は薄い布にくるまって寝ているというのに、あたしには厚くて手触りの良い掛布が与えられていた。


湯あみをするときだけは彼が外に出る。ただし、当然、鍵をかけられるから小屋から出られはしない。


何とかしなくちゃ。


それは分かっているのに、状況は変わらず、いたずらに日数だけが重なっていく。


――けれど、とうとう待ち望んだ日がやってきた。


アーヴィングが檻に鍵をかけ忘れたのだ。


疑いを持たせないためにもうずっとしおらしく彼に従っていたから、彼も油断したのだと思う。特に鍵をかけるときを狙って積極的に話しかけて気をそらしていたのも功を奏したのだろう。


玄関は当然外から鍵をかけられていたから、窓を開けて外に出た。檻に鍵がかかっているから、窓にまでは気を回さなかったのだろう。


久しぶりに見た外の景色。


太陽のあたたかさ、澄んだ空気、足の裏に感じる土の感触、草の匂い。正確な日付は分からないけれど、アーヴィングに監禁されてから1か月は経ったはずだった。


「……眩しい」


涙が出た。


辺りは雑草が生い茂り、見渡す限り緑しかなく、人の気配はなかった。緑以外には生活用水に使っていたと思われる、飛び越えられる程度の澄んだ小川が裏にあるきりだった。


少し先に見える雑木林があたしの知っている森の一部なのか、本当に見知らぬ土地へ運ばれているのかすら、あたしには区別がつかない。ただ、随分と寂しい場所だった。


目にできる人工物はあたしとアーヴィングがいた小屋だけ。見える範囲に街もない。


兄妹がもともとここに住んで居たのか、人目を避けるためにアーヴィングが用意したのか、それも不明だ。


「じっくり見てる場合じゃないわ。とりあえず、逃げなくちゃ」


木々の中に入ったほうが、アーヴィングを撒ける可能性は高いのだと思う。でも、もしここが森だったらと思うと黒い影が舌なめずりしながらこちらを見ている気がして、なかなか入る勇気をもてなかった。それに迷ったら出られなくなってしまうかもしれない。


舗装されていない道は、素足にはつらい。一歩前に出るたびに小石がつきささって痛みに悲鳴が出そうになる。血がにじんでくる。アーヴィングが用意した部屋着――フリルとレースのワンピースの裾が見る間に土と埃に汚れていく。


しかも、ずっと歩いておらず筋力の衰えたあたしではすぐに息切れし、少し先に行っては休みを繰り返すしかない。


景色は一向に変わらず、もうかなり進んだのではと振り返れば、視界にまだ家が残っていてこんなに頑張ったのにと絶望的な気持ちに陥る。


足が痛い。上手く力が入らない。あたしの身体は完全に足の動かし方を忘れてしまっている。痩せたはずなのに前より体が重くて、歩くとき袋をかついでいるみたいに感じた。


それでもなんとか引きずるようにして少しずつでも前へと進んでいると、やがて踏み分け道の先で、左右に伸びた道路に合流する形で普通の道に出た。やはりここにも見渡す限り人の気配はない。


「……どっちに行けばいいの」


陽の向きでかろうじて方角は分かるけれど、人がいる場所がどっちにあるかまではわからない。道があるのだからどっちもとにかく歩き続ければいつか街にたどり着けるだろうけれど、問題は、それがいつになるかだ。


まだ暖炉を必要とする時期ではないとはいえ、それでも飲まず食わずのこんな薄着で夜を越していたら、あっという間に体力を消耗し、たどり着く前に倒れる確率の方が高い。


「すくなくともアーヴィングが通っているのだから、どっちかのそう遠くない場所に街があるはずなのよ」


やみくもに進むよりは日が暮れる前にとりあえず一旦隠れて、アーヴィングをやり過ごした方がいいのかもしれない。道を確かめてからのほうが確実だ。それに、たったこれだけの距離だというのに、ほぼ使っていなかった足はすでに限界に達し、体は悲鳴を上げていた。


萎えそうになる両足を叱咤し、草を踏み、森の中に逃げ込んだような痕跡をつけた。服が引っ掛かり無理矢理引っ張ったようにみせかけて低い位置の枝を折り、木の皮に血と傷をつける。そして、離れた反対側の茂みに身をひそめた。


疲労と緊張で震えのやまない体を両腕で抱え込み、ただ時間が過ぎ去るのを待つ。


やがて、日が暮れ始めてきた。いつもアーヴィングは完全に陽が落ちる前に帰ってきた。今までの通りだともうそろそろ姿を見せるはずだった。


二股に別れた道の西側遠くにアーヴィングの姿が見えた。あっち側に街があるのだ。


「あの方角に逃げればいいのね……」


息を殺して彼の様子をうかがう。


こうしてみているとやはり気のいい青年にしか見えず、とても家に女性を監禁するような人間とは思えない。


彼があたしの前をとおりすぎていく。視界を遮るような高いものがないから、ここからでも家に入っていくアーヴィングの姿は遠目に確認することができた。


「……まだよ」


すぐにでも街に向かって駆けだしたい。はやる気持ちを抑えて、じっと待つ。


思った通り、空の檻に気が付いてすぐに飛び出してきた。辺りを見回し、あたしを探している。


ひそめた息が今にも彼の耳に届いてあたしを見つけるような気がしてならない。怖い。心臓がものすごい勢いで打ち、暑くもないのに汗が噴き出る。


やがて、地面を這う跡に気が付き、彼がたどり始める。そうして思惑通り、道を横切って、あたしがいる場所とは反対の方、森の中に姿を消していった。


安堵の息が漏れた。


とりあえず、これで少し時間は稼げた。もう少し暗くなれば、更に彼の目をごまかせる。そうしたらちょっとでも多く街へ向かって進もう。少なくとも成人男性が徒歩で通っている距離なら、あたしでも1日かければきっとたどり着けるはず。


その間に誰かが通りがかってくれるのがほんとは一番いいのだけれど。


アーヴィングが草をかき分ける音もしなくなり、辺りは葉を揺らす風の音とわずかな虫の声だけ。


どのくらい時間がたっただろう。張りつめていた緊張が少しずつ緩み始めてきた、まさにその時、


「ああ、見つけた」


唐突に、すぐ後ろから声がした。


冷たい水につかったかのように全身が凍り付いた。


何処かで折り返したらしく、いつの間にか背後にアーヴィングが忍び寄っていたのだ。


「外は危険だと言ったじゃないですか」


余りの恐怖に声は喉の奥でかたまったまま出てこない。


振り返った先の彼は笑みをたたえていた。


手が伸びてくる。


「いや! やめて!」


逆らう腕を掴まれる。その力は強く、叩いたところでびくともしない。


彼は樹に跡をつけようとした際に爪が割れて血のにじんだ指を見て、顔を顰める。


「こんなに怪我をして可哀そうに。だから外は危険だと言ったのに。家に帰ったら、手当てをしてあげるから、安心してくださいね」


抱えあげられ、あんなにも苦労して離れた距離があっという間に無に帰される。


「お願いだからやめて! あたしを帰して!」


暴れるあたしの手が彼の頬をひっかいた。痛みに彼が小さく叫び、その顔に血がにじむ。


「ご、ごめんなさい……」


ぶたれるかもしれない。体が竦んだ。


目を瞑って、次にくる衝撃に備えた。


けれど、何も起こらない。恐る恐る目を開けると、彼はあくまで穏やかに微笑んでいた。


「もう大丈夫です」


逃げ出したはずの小屋はすぐそこだった。


中に入れば終わりだ。無駄だと分かっていながら、あたしは戸口に必死に手でしがみついて抵抗を試みる。


その手首をつかまれる。ギリギリと締め付けられ、痛さのあまりに手を放してしまった。


扉が、背後でしまった。希望が潰えた音だった。


後に残るのは恐怖だけ。


彼に逆らえばどうなるのか、考えないこともなかった。簡単に人を檻の中で飼い殺そうと企む人物だ。


暴力も、それ以上の酷いこともためらいなく行うことだろう。


今までそれがなかったのは、単に表面上はあたしが彼のご機嫌を伺い、彼に従っていたからだった。


目を瞑り、彼の手が首に伸びてくるのを覚悟する。あるいは手ひどく殴られ、蹴られ、半殺しにされるのを。


「……外は怖かった、でしょう?」


聞こえたのは淡々としながらも、期待のこもった声。


彼がただ言葉をかけてきただけなのにほっとして、アーヴィングを見た。


何を欲しているのかが分かり、あたしが応じてゆっくりと頷くと、彼は嬉しそうにあたしを抱きしめた。


「やっぱり、俺がいないとだめなんですね」


もはや焦点のあっていない目。彼は、その先にあたしではない人物を見ていた。


「俺は、守るためにここにいるんです」


怯えるあたしに彼はとても優しく傷の手当てをしてくれた。その優しさが逆に怖かった。


着替えが終わると、彼に指示されるまでもなくあたしは自ら檻に戻った。

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