スタート!
スタート20秒前。
全員がスタートラインに構えた。
何百人といたスタンド席も静かになり、静寂が訪れた。
「位置について……」
パンッ!
ピストルが鳴り響くと同時に足を踏み出す。
ユキはいち早く集団から抜け出したが、他のメンバーは出だしでつまずいていた。集団に囲まれて思うように位置取りができていなかった。フウは外側の選手が内側へ行こうとするので、スタートラインで2、3度足踏みをする始末だ。
戸惑いのあるスタートだったがすぐに集団は縦長の状態になった。
今がチャンスとばかりにアメとヒナタは外側のレーンに出て前の集団を追った。
“みんな本気の顔で走ってる。あたしも本気を見せなくちゃ!”アメはそう思いながらユキのすぐ背後に着く。いつも見ている背中だけど、何かが違う気がした。ゼッケンをつけているとかそんなことではない。
“そうだ、初めての練習の日に感じた感覚に近いのかもしれない”アメは最初の練習でユキに付いていけなかったことを思い出した。
“いや、まだ付いて行けてる!”
最初の1周を通過する。
ユキは先頭の3人を追っていた。
大会は毎度のように緊張するが、仲間と一緒に出場するというだけで気持ちの持ちようが違うことをユキは感じていた。
“なんでみんながいるとこんなに心強いんだろう”
1周走る頃、背後に気配を感じた。
“これは……アメちゃんだ。ついでにヒナタも。このスピードで着いてくるのね。ヒナタもなかなか突っ込んできたわね”
ユキは仲間達がどこまで着いてくるのか試したくなった。もしかしたらアメなら追い抜いてくるかもしれないとも思った。
自然とペースが上がる。
フウはスタートで出遅れたものの、走り出すと様子が変わっていた。さっきまで胃が痛むほど緊張していたのに、いざ体を動かすと思いの外、力が抜けている。
“出だしドベだったけど、もう何人か追い抜いてる。それに怖いほど気持ちが落ち着いている”
フウは着実に一人二人と追い越していった。
“いつもの私じゃないみたい”
2周目は全体のペースが落ち着きいくつかの集団に分かれてレースが進んだ。ヒナタもかろうじて先頭集団についていたが、明らかに切り離されそうだ。
その次の集団にマキ、その後ろの方にフウがいる。
3周目に突入する800メートル。
動きを見せたのはヒナタだった。
“このままじゃもうついてけない。これが今の実力なのかもしれないけど……いや、もう少し、頑張る!!”
ヒナタは一気にアメの前に出た。
斜め後ろのアメから「えっ」と声が聞こえた。
ユキも一瞬チラッとこちらを見た。
マキは第二集団で粘っていた。
やっぱり走るのは苦しい。
“あたし、なんでこんな一生懸命走ってんだろ。フウに付き合って駅伝部に入ったけど、フウを見てるだけならマネージャーでも良かったんじゃないかしら”
そんなことが頭をよぎる。
息もあがってきて、思わず俯いてしまった。
地面を踏む足が見える。身につけているのは、まだ色鮮やかなシューズだ。
“私には少し似合わなかったかな……、ユキたちみたいな速い人ならかっこよく履きこなせるのかな”
先を行く3人の姿を探してみたが、50mは離れているようだ。
こんな弱気になるなんて
“いつものあたしじゃないみたい”
トップが1100mを通過すると最後の1周を知らせる鐘が鳴り響いた。
先頭集団は既にばらけ、ユキは3番目に通過した。
“ラスト上げてく!それにしてもアメちゃんついて来なかったな”
ユキは徐々にペースを上げていく。
ヒナタは1000mを過ぎたあたりからユキと間を開けてしまった。
しかし、アメはヒナタの後ろについたままだ。
“残り粘ればアメにも勝てるかも!”
残り1周の鐘の音が横で鳴り響く。
声援が聞こえる。
“すごい、背中を押してくれてるような音だ”
アメはヒナタの背中にもユキと似たものを感じていた。
“あのモヤッとした感じだ”
ヒナタの前を行くユキがどんどん遠くなっていく。
“走ることは楽しくて、気持ちがいいのに、なんでこんな気分になっちゃうんだろう?背中を見て走るのが行けないのかな。ちょっと外側を走ってみよう”
1200mのところでアメは1つ外側のレーンを走った。
ヒナタもそのことに気付いた。
“うわ!とうとうアメ追い越してくるのか?!”
ヒナタはそう思い、息も絶え絶えだが声を出した。
「アメ!……うちと勝負や!」
“勝負?”
思い返してみるとアメは今まで勝敗なんて考えずに走っていたのかもしれない。
“ヒナタちゃんに勝ったら嬉しいかな?もし、負けたら……あ、きっとモヤッとするかも……”
アメは今までのモヤモヤが本当は勝ちたかったのではないかと思い始めた。
“あの背中に感じたのは勝負してる人の気迫みたいなもので、あたし、そこでもう負けを感じていたんだ。あたしも勝負、したい!”
2人は並んで前を譲らない格好になった。
残り100mでヒナタがスパートをかける。
アメも負けじとスピードを上げる。
ユキは一足先にゴールした。
ゴールで振り返って一礼する。優雅な姿に観客も惚れ惚れしている。
本当は今すぐにでも倒れ込みたい。
ゴールから立ち去ろうとしたとき、ホームストレートを競って走る2人の姿に気付き、二度見した。
2人とも最後の力を振り絞っているのか、めちゃくちゃな走り方だ。
しかし余りに猛烈な争いはユキの胸を熱くさせるものがあった。
「めちゃくちゃだけど、いい走りね」
最後はヒナタが前に出てゴールした。
ユキが2人を迎えてなんとかトラックから移動させた。
ヒナタが荒い呼吸のまま口を開く。
「うち、やったよ、頑張った……もうダメだ」
「しゃべんなくていいから、呼吸を落ち着かせなさいよ」ユキがなだめる。
「あたし、負けちゃった」アメも肩で息をしながら言った。
「負けたのにものすっごい笑顔じゃない」
ユキにそう言われてからアメは自分が笑っていることに気付いた。
そして一筋の涙が頬を伝った。
「あれ、なんでだろ」アメは天を仰いだ。
「アメちゃん大丈夫?!」
「うん、すっごく気分がいいんだ」
戦いはまだ終わっていない。
フウは苦しいはずだが、意外なことにすました顔をしている。そして、前を走る姉に迫った。
冷酷なハンターのような視線はマキの背中というよりも、その先を向いている。
残り200mのところで静かにその時は訪れた。
フウは少しの躊躇いもなく、マキを一気に追い抜いた。
マキがそれがフウだと気付くのにほんの少し時間がかかるほど、全くの別人の気配だった。
“フウ?!あ、あたしがフウに抜かれるなんて……”
マキは焦った。
必死にフウについていこうとするが、足はもういうことを聞いてくれない。
フウの背中が遠のく。
マキはいつだってフウの前を歩いてきた。勉強もスポーツもご飯の量も、なんだってフウに負けたことはない。だから今日も負けるわけにはいかない。
小さい頃、フウの手を引いていると、ご近所さん達によく言われたことがある。「マキちゃんはしっかりお姉さんしてるねぇ」
それが嬉しかった。
“同じ歳でもあたしがお姉ちゃんなんだ。妹に負ける姉がいてたまるか!”マキはがむしゃらに走った。
でも距離は縮まらない。
涙が溢れてきて、視界がぼやけた。
苦しいからと違う道を選んでおけば良かったと考えてしまった自分が今は憎らしい。
“フウが前を走るなら、あたしの走る理由は……”
マキは唇を噛んだまま走り終えた。
アメたちは手を振って走り終えた2人を呼んだ。
上の客席からもツムギが「おつかれさまー!」と手を振っている。
しかしツムギの振る手はすぐに小さくなり、完全に止まってしまった。
マキが泣き崩れている。
4人がマキに駆け寄る。
「マキちゃん!大丈夫?!」ユキが背中をさすりながら言った。
アメも心配そうに見ているが、なんて声を掛ければいいのかわからない。
マキが嗚咽混じりに声を出した。
「ぐやじぃ……」
「お姉ちゃん……」
「マキ……とりあえず控室に行こう。体冷えるぞ」
ヒナタがタオルをかぶせて立ち上がらせる。
ツムギは控室に向かう5人を見て、ホッと胸を撫で下ろした。
「何かが欠けている気がしてたけど、そんなことなかったみたい」