風の物語 7.学ぶということ
雁湖学院の授業は、殆どがオンライン視聴も可能である。とはいっても、実験、実習はオンラインで視聴している生徒がやることはできないので、登校が推奨される日とか、そういう注意書きとかがある。毎日学校に通うことが当たり前の学校ではないスケジュール管理が求められていた。
不登校だった椥紗にとっては、寧ろ好都合のシステムである。1日6時間短時間の休憩をはさんでずっと机に座って授業を聞き続け居られる自信がない。オンライン視聴の授業は部屋で見ることもできるから、ゆっくりとご飯を食べるために、昼休憩前後の授業はオンライン視聴が中心の授業を取るようにした。時間割についての面談が木曜日の午後にあるので、それまでにしっかりと時間割を作っておかなければならない。そのために、授業についてのシラバスを見るのが大変だった。
今の高校の授業は、殆どが決められたもので、選択授業の時間は、取るか取らないかではなく、与えられた選択肢の中からどれを選ぶかという選択だった。そもそも高校の授業は義務教育ではないのに、不思議なことだ。自分がどう生きていくのか、生活スタイルというものを中心に考えるのであれば、長い時間、椅子に座って講義を受けている必要はあるのだろうか。そもそも、そんなに長い時間、集中して学ぶことができているのだろうか。居眠りしたり、上の空になったり、眠るなら布団で寝る方がよほど効率がいいのに、長時間働くことが美徳とされていることだ。長い時間座っている間、ぼんやりと過ごしているのに、学んだと主張するし、それを正統化するため集中している演技をして授業に取り組む。そうでないように必死になって、通勤電車で睡眠をとる人もいる。おかげで座席は疲れた人間が生死を賭ける椅子取りゲームになってしまう。ストレスを抱えている人間が、公共の場で毒気づいているのをよく見る。安い賃金で働く店員を上から目線で怒鳴りつける。その高圧な態度は何が根拠だ? 金か? だから、金を持つ人間は卑しいと言われる風評が立つのだ。
ギュフは企業として、様々なインターネットメディアのサブスクリプションを契約していて、その構成員は様々な有料の情報を無償で得られる権利を持っていた。即ち雁湖学院の生徒もである。ドラマも映画もアニメも、様々なものが見放題だった。ずっとそれを見続けることもできる。とはいえ、人間の集中力には限界があるし、ずっと見ていれば目や耳が疲れるし、飽きる。そして、そんなことばかりやっているわけにはいかないくらいの程よい課題が与えられている。その一つが時間割作成である。
自分で作った時間割に基くと、水曜日は朝の9時から英会話の授業だった。部屋には生徒たちと、ギュフの外国人社員が集まっていて、ランダムにグループに分けられた。外国人社員は、日本語は話せないという設定にされていて、それをどうやって乗り越えるかが課題の一つとなっている。そして、クラスを仕切る教師からは、今日の授業の課題が与えられ、それについてグループで話し合った後、その話し合いがどういうものだったかというのをプレゼンしなければならない。
椥紗だけでなく、授業には双葉、理真美も来ていた。
「ガチですやん。りーまちゃん、英語得意?」
「うーん、得意じゃないから、ボディランゲージ使いながらかな」
「あ、そっかボディーランゲージはオッケーか。じゃあ、絵もいけるね」
「椥って絵、描けたっけ?」
自分のアイディアに悦に浸った直後に投げかけられた双葉の言葉に、椥紗はどんよりとした気分になった。
「いやさぁ、頭の良い方には分からないかもしれませんが、英語なんてさ、どうしていいのか」
「でも、椥って外国の学校経験してるでしょ?」
「確かにママに連れられて、フランスの学校とかに行ったけど、全然ダメだったし」
「それよりは全然ましなんじゃない? ダメだったとしても、それは経験になってるよ。経験していることは、ゼロとは違うよ」
授業には、技術スタッフが居て、オンラインの生徒が参加できるようにグループの輪の中にタブレットを設置して、ディスカッション出来るようにした。外国人も、技術スタッフもギュフの社員で、それぞれ部署が違っている。雁湖学院の生徒に対する教育という目的だけでなく、そこには、部署を越えた交流という意図もあった。
英語だけでなく、社員が入ってくる授業はいくつもあった。今の社会を生きるのに学ぶべきことというのは常に更新されているわけだから、学び続ける姿勢を持ってほしいという意図もある。ベースになるのは日本の学習指導要領だが、グローバル企業を目指すギュフとしては、それを採用することは前提として考えていない。自由な校風を大切にしているのに、学習指導要領なんていう不自由な型があることがどうも合わない。勿論、型という概念は、道なき道を進むときに羅針盤になるような役割があるけれども、その羅針盤の性能に疑いがあれば、それは捨てるべきだろうと思う。とはいえ、現存の教育に対する疑念を表に出すのは面倒くさい。現在の教育制度に対する反発という観念は、共感者を呼ぶが、そのアンチ教育制度の人々の統率を図るのは、まず無理だと言っていい。アンチでは、ただ混沌を作るだけである。混沌から、新しい指針、それは光にも形容することができるが、そういったものとして雁湖学院が打ち出したのが、「社員の学びなおしにも対応できる高等教育」という理念だった。
この理念を採用するにあたって一つの問題点が出てきた。それは、雁湖学院が高校として認定されないということである。そのため、卒業すれば高卒になるわけではなく、高卒の資格を得るために、高卒認定試験で合格するという必要がある。ただ、大学や専門学校というより高度な教育を求める人間にとって、高卒認定試験はそんなに難しいものでもない。大学全入時代と言われ、本人が望めば学力に関係なく大学に入れる時代において、一部の大学においては、大学試験が選抜方法として機能していないというところも見受けられる。3年間学校のいう通りに振舞えば、高校卒業という資格はほぼ自動的に入ってくる。今の日本の教育環境を鑑みると、資格はその人間の知性ではなく、忠実性を示すものになっていないだろうか。
高卒認定試験というハードルは、大学の教育を受けるに値するかどうかを見定める最低限のハードルで、それを通ることさえ出来ない人間がより高度な教育を受けるなんて馬鹿げた話だ。越えられないのであれば、越えられるまで、やらせるべきだろう。3年で越えられないならば、留年させればいい。簡単なことだ。学校に対して支払う学費が負担だというのであれば、その負担を自分で補えるようなシステムを構築すればいい。企業と学校を連結させたのは、学費やら世間体という言い訳で、知性のない人間を社会に出すということをしたくないからだ。
高卒認定試験というのは、試験にさえ通れば、大学や専門学校という次のステップに行くことができると考えれば、高校の3年間という時間を、自分の夢に合わせるのが賢明だ。夢がないのであれば、夢を探すことからすればいい。世界には7000ほどの言葉があると言われているのに、大体の高校で学ぶことができるのは、日本語、英語で、プラス、中国語、フランス語、ドイツ語、ハングルくらいだろう。北海道にはアイヌ語という言葉があるのに、それよりも世界において話者数の多いものの方がより学びやすくなっている。今あるシステムの中で、最後まで苦労しないということを大いなる目的とするのであれば、与えられたものをこなすのがいい。そうじゃない人間にとって、学習指導要領にそった当たり前の高校の授業は本当に意味があるのだろうか。研究や自分のやりたいことを中心にやっていくことのほうが大事じゃないのだろうか。
寮には、明らかに日本人ではないと思われるような容姿の生徒が居た。それは肌の色に限ったことではない。黒人や白人といった容姿が全く異なる外国人というステレオタイプは、身近な外国人の存在を見えにくくしている。日本人と同じ黄色人種、アジア人の方がが、外国人としては多く、彼ら、彼女らは高い能力があって日本に来ているわけではない。裕福ではない環境であることも多く、当事者である外国人たち、またその子供たちも日本で生きていくために必要な能力、技術を身に着ける必要がある。
英会話の授業を終えた後、椥紗は源氏物語を読む古典講読の授業を受けることにした。古典講読の授業も、教科書通りではなく担当講師が好きな古典作品を選んで、授業を行うようになっている。大学入試を想定しているわけではないから、様々な時代の古典を網羅的に見る必要なんてない。物語が、どのように展開し、登場人物の心理はどのように移り変わって行くのかといったあらすじの中では語ることのできない人間の感情の機微なところを掘り下げていくことができて、作品自体に愛着がわく。その愛着は作品とどれだけ向き合ったかで変わってくるものだ。源氏物語は現代語訳も様々である。平安時代の話だから、明治時代に訳されたものもあるし、また、英語などの外国語にも訳されている。現代の我々が目にしている源氏物語と紫式部の書いた原文までの間には訳という名前で様々な人間の解釈が反映されている。能・浄瑠璃・歌舞伎といった古典演目にも源氏物語を題材としたものがあるし、漫画もある。源氏物語という題材一つであっても、時の移ろいの中で様々な発展をしていて、それを追いかけることで見えてくるものもある。
同じ古典講読という名前の授業だったけれども、双葉は違う授業を受けた。彼女は平家物語をテーマにしたものを選んだのだった。この平家物語も、古典芸能の題材になっているし、平家の人々という歴史上の登場人物が物語の中でどのように描かれているのかというのを知ることは、国語だけでなく社会科の歴史の理解を深める上でも意味のあることだ。そしてその内容は盛者必衰の理を表すというわけで、禅や日本的な価値観といった哲学を学ぶこともできる素材である。
受験の古典というのはその内容の理解が求められるが、その内容に刺激を受けた読み手の感情や想像は必要のないもの、寧ろ要らないものとして処理される。これは、現代文の試験でもその傾向はあって、どんなことを感じたのかということをいかに引き出す方が教育としては適当ではないかと椎野真生を中心とするギュフの経営陣は考えているのである。その授業内容を作るにあたり、ギュフ内部だけではなく、ギュフ外部の有識者のアドバイスを踏まえながら考えている。ギュフには、人文科学系の専門を学んでいた者が多く、その際に身に着けた専門的な知識をドブに捨てていることも少なくなかった。「授業を作ること」を一つの仕事にし、それを記録し、コンテンツを売ることも出来るかもしれない。次世代教育と新商品開発をコラボレーションすることで、お金のかかるお荷物の教育ではなく、お金を生み出すかもしれない商品としての価値を見出そうとしていた。
古典の授業を終えた後は、椥紗は校舎の食堂の東入口で双葉と落ち合い、ついでに珊瑚もそこにやってきていた。椥紗は、珊瑚が素直に一緒にいくと言わないことは分かっていたから、珊瑚と双葉と椥紗の寮の111区画のメッセージグループを作って、そこに今日の昼ごはんの待ち合わせ時刻を書いておいた。どこで待ち合わせるか詳細に決めておかないと、出会えないくらい広い。ただ、これだけ広い敷地の割には、雁湖に居住する人間は少なくて、待ち合わせ場所を間違えたとしても、障害になるものがなく、見通せて見つけることができるということはある。
広いということはそれだけ管理をしなければならない場所があるということだ。少し離れているところで掃除をしているのは、小柄の二人の女子生徒で、おそらくアルバイトだろう。制服の胸には、赤いリボンをつけていたから、通信科の生徒である。通信科の生徒向けのスクーリングはまだこの時期ではなかったから、珍しかったが、そのことに気付いたのは双葉だけだった。二人は丁寧に掃除機をかけ、そして布巾でテーブルを拭いていた。その動きは繊細だった。
食堂でランチを終えた後、3人は異文化理解教育の授業に向かった。この授業は、大きな部屋、講堂で、所属科関係なく多くの生徒が参加することを想定した授業だった。その授業に集まったのはざっと100人ほどだろうか。制服を着ている人間が殆どだったので生徒を中心とした授業だったのだけれども、何人かの生徒には明らかに大人とみられる人間が傍についていた。
まず最初に行われたのは、グループ分けだった。個人のタブレットに表示された色を元に、水色、濃紺、紫、緑、赤と白の6つの色に配分されていて、その色分けが、それぞれの専攻科であることはすぐに分かった。水色が女子普通科で、濃紺が男子普通科、紫が芸術科で、緑が技術科、赤が通信科である。それとは別の白は別枠で、その白に配分されたメンバーには、制服を着ていない大人がついていた。
色が表示された後に、座席の番号が表示された。椥紗のタブレットに表示された番号はN-51で、椥紗と双葉と珊瑚は別れてそれぞれの番号を探し始めた。座席には、A-17、その横の席はK-33だとか、よくある座席の番号は規則性がないように見える。書かれている番号は本来の座席プレートの上にマスキングテープで貼られたもので、取り外しが容易に可能だ、即ちこの番号は今日のこの授業のためだけに使われる番号に過ぎない。
席を探してさまよっていると、声をかけられた。
「お、篠塚椥紗だっけ?」
「あ、百舌さん。日曜日はどもです。ちゃんと制服着てるんですね」
「服考えるのめんどくせーからな」
百舌陽一郎だった。
「なんか、コスプレみたい。テレビのバラエティとかそういうの」
「だよなぁ、でも、着心地は悪くないんだよな」
二人が話していることに気付いた双葉は、接触を避けようと、反対側に進んでいった。一方で、珊瑚は二人に近付いていった。
「あら、百舌陽一郎じゃない」
「あれ? 知り合い?」
「っていうか、何でアンタが知ってるのよ、椥」
昨日部屋に引きこもった後、そのことについては何も言われていない。珊瑚は何事もなかったかのように食堂の東入口に現れ、ごく自然に注文をして、椥紗と双葉と三人でテーブルを囲んで食べた。偉そうに椥と呼んでくるようになったのだけれども、全然嫌な気はしなくて、椥紗はふふっと笑った。
「何笑ってんのよ」
珊瑚は椥紗のほっぺたをつねった。
「もう、暴力的だな」
「感情表現の一つよ」
「愛情表現?」
「ち、が、う」
からかうと顔を赤らめて怒るのが可愛い。やっぱりふふっと笑ってしまうと、珊瑚はつねったほっぺたを上下に動かした。
「なぁにをかんがえてるのよぉ」
「んははんはんむ」
ほっぺたをつねられては、反論もできない。二人が戯れているときに、大きなブザーが鳴り、徐々にライトが消えていった。
「ただいまより、プログラムを開始いたします。御来場の方々はお近くのお席に御着席ください」
眼が徐々に慣れていくようなスピードで暗くなっていったから、暗転された講堂でも何も見えないということはなかった。
「はーい。こんにちは」
舞台上の背景に、椎野真生が笑顔で手を振っている姿が映し出された。
「タブレットの番号の席に座れた人、手を上げて♪」
その時に手を挙げたのはほんの10名ほどだった。
「じゃあ、手を上げていない皆。今いるところから一番近くにいるその手を挙げている人のところに集まって」
「はぁ? 何なの」
珊瑚は不快感を露わにしながらも、真生の指示に従って一番近くで手を挙げている生徒の元に進んだ。ざっと見回して、一番近い生徒は同じだったから、椥紗と陽一郎も同じところに向かうことにした。
手を上げていたのは、さっき食堂で掃除をしていた小柄な生徒の一人だった。種を明かすと、タブレットの番号をどんなに探しても、殆どの生徒にあてがわれた番号はここに存在しない番号だった。探す過程で、知らない人に話しかけたり、新しい関係のきっかけを作ることが目的であった。所謂、アイスブレイクである。
その日講堂に集まったのは、女子普通科19名 男子普通科17名、芸術科14名、技術科22名、通信科11名で、そのうち10名が白という特別なグループに分けられた。白のグループに分けられたメンバーには、グェン・ラン(阮蘭)とグェン・リン(阮鈴)という二人のベトナム人の両親を持つ生徒がいて、椥紗が向かっていった先に居たのは、グェン・ランだった。
「このグループとこのグループは同じグループね」
ぎこちない日本語で数人の学生を連れてきたのは、日本語とベトナム語が堪能なベトナム人のギュフの社員だった。真生の言われて、手を挙げたのは、白のグループになった生徒のみで、その殆どに、ギュフの社員が付いている。その社員が、調整をして10人前後の人数になるようにしていた。白のグループのメンバーは、日本語以外を第一言語とする生徒で、この生徒たちを「異文化からやってきた」人して設定し、グループで話し合いをして、異文化理解を図るという趣向になっていた。
椥紗のグループの「異文化からやってきた」人、蘭と鈴には、ベトナム人の、日本語とベトナム語が堪能な社員が通訳がついていた。ギュフには、ベトナム人の社員がいるので、
ベトナム人社員向けのマニュアル作りや、ベトナム向け商品の開発や日本のビザの発行、居住するための手続きなども担っている職員だった。
「蘭ちゃん、鈴ちゃんって呼んでいいかな?」
「え、ちゃんつけるの、俺は嫌だぞ。蘭と鈴でいいか?」
陽一郎は、他のグループに行くようにされたから、椥紗のグループの顔見知りは、蒼佑、珊瑚の二人だった。通訳であるベトナム人の男性がニコニコと笑いながら頷いてくれるし、この二人は、椥紗がリーダーシップを発揮してもそれを否定したりしないということが分かっていたから、椥紗は自分の考えていることを躊躇わずに発言することができた。
午前中は、東京のオフィスに真生は居た。異文化理解教育というのは、外国人の血が混ざっていて、容姿が明らかに日本人ではない彼にとって重要な授業で、ピクシーが反対したにもかかわらず、絶対に関わると言って聞かないので、しぶしぶ承諾したという経緯があった。初めての授業が行われるということで、真生が落ち着かないのは当たり前なので、ピクシーが自宅でリモートをするように促した。
真生には、海外オフィスとの会議の予定が入っていて、授業で使われた真生の映像は事前に収録されたものだった。学校のビデオとオフィスのパソコンはオンラインで繋がっているので、映像で現在の様子を確認しながら仕事をすることも可能である。真生はマルチタスクが得意だから、オンラインの会議に参加しながら、授業の様子を見ていることは容易に想像出来る。海外オフィスと会議をしながらというのは、どう考えても好ましいことではないが、止めたって無駄だ。まずヘマをすることはないだろうけれども、何かが起こって東京のオフィスの社員にその醜態が晒されるのはまずい。柊とメイがいれば、何かあっても対処できるだろうと思っての布陣を敷く。これが、ピクシーの能力である。
東南アジアから日本にやってきたベトナム、インドネシア、マレーシア、ミャンマーのルーツを持つ生徒、そして南米の日系人の多いペルー、ブラジルのルーツを持つ生徒、中東のムスリム国、エジプト、ヨルダン、イエメン、アフリカのナイジェリアや南アフリカ共和国。それ以外にも韓国や中国、インドといった日本でも良く知られている国からの生徒もいる。日本語が殆ど話せない生徒もいるし、幼いころから日本で過ごしている生徒の中には、流暢に話して自身の親よりも日本語が得意な生徒もいる。その半数くらいは、明らかに外国人の容姿をしていて、その容姿で周りから「特別」な扱いを受けてきた。それは差別と呼ぶほどのものではないけれども、引っかかるものになるものとなって、彼女/彼の中にあることがある。その引っかかりは、ストレスにもなりうるし、なんともないことでもあるし、彼女/彼自身の利点にもなりうる。ネガティブな働きも、ニュートラルな働きも、ポジティブな働きも、ありうることでそのことを知ることが異文化理解教育に必要なことではないか。
「教育の必要性」は多くの人間が理解していることだ。しかし、その教育の内容はどのようなものであるのか、どうあれば適切なのかというのは、社会や世界、周りの環境の移り変わりとともに刻々と変化していくものである。昨今の引きこもりや不登校といった現象が示すように、学校教育制度は、それ自体、揺れているようなところもある。無理をして学校に行かなくてもいい、そういう考え方は、ここ最近になって強くなってきたものである。とはいっても、教育制度、学校制度という途方もなく大きな対象を変えていくことは容易ではない。
制度という途方もなく大きなものを変えることはできなくても、ミクロな視点、教える教育者の技量という点を考えるとどうだろうか。その教育を提供する人間自体が、その内容を知識から経験に落とし込んだ後に、教育するという過程を経ているかどうか。その点が大切であると真生は考えていた。個々の教育者にひと工夫を入れれば、学校はもっと面白くなるのではないかと考えた。
現行の教員免許制度においては、先生はオールマイティであることが求められている。これが教育の行き詰まりに繋がっていると真生は考えた。例えば、英語という教科であれば、ライティング(作文)、リーディング(読解)、グラマー(文法)、リスニング(聴取)、スピーキング(発話)、などの様々な分野があるが、その全てについて高い興味を持っている人は数えるほどしか居ないだろう。英語の教員免許を持っている人間が、その全てに特化しているということはまずありえない。だとすれば、それぞれの分野について得意な人間が教えるのがいいのではないだろうか。そして、教える人間たちを統括し、生徒の特性に合う教育を提案していくのが、教科の担当教師であってもいいのではないだろうか。教科を更に分割して、得意な人間が得意なものを教える。それを教員免許を持っている社員に行ってもらう。真生は、日本語も英語も自分の言葉として使うことができるが、それゆえに英語がもともと話せない人間の苦労が分からない。学習を重ねて、話せるようになったという達成感を味わったことがないのだ。そういった点で、真生は自分には英語の教科を担当することは難しいと考えていた。
今、雁湖学院で行われている異文化理解の授業は、好奇の目を向けられてきた真生にとって最も興味のある科目であり、彼が最も話すことのできる内容だった。ピクシーは、日本人とは全く異なった容姿である真生が異文化理解教育に適した教材であることは分かっていたし、その教育に携わりたいという真生の意思も分かっていた。他の社員だって、異文化理解教育というのが必要なことは、分かっている。けれども、それを会社の運営とどうやって両立させるかが問題だ。手腕が必要となる。あくまで真生は経営者なのだから。
授業の中では、「家族のこと」「日本のいいところ」「大切にしていること」などざっくりとした題が出されて、そのトピックごとの話をしていく。各グループに居る外国にルーツのある生徒には、通訳であったり、彼ら、彼女らのヘルプに入る大人が居たので、話し合いがうまく進まない場合は、大人がその場を回していった。
椥紗のグループは、椥紗がリーダーとして話を回していく感じで、うまく話が進まなくなった時には、蒼佑が、そして、珊瑚が横から口をはさんだ。椥紗は中学校の時に学校でうまくいかなかった経験があったから、こういうグループ活動の時には「取り残される」人が出ないということを心がけるようにした。その場にいる人の居場所を作りながら、プロジェクトを進めていくことは、最終的に良い成果を導くことになる。傍にいてくれた春日伊織は、事務所でそういうものを大切にしながら仕事をしていて、そういうチームワークの大切さを示してくれていた。
「何を伝えたのかではなく、どうやって伝えたのか」
椥紗は、伊織の言葉を思い返しながら、グループのメンバーの話を聞いていた。
「分からないことは、分からないと言ったらいい。どう分からないのかが伝えられればなお、よし、だ」
ベトナムからやってきた蘭と鈴は、日本語を使って伝えようとするけれども、その言葉はたどたどしかった。それをベトナム人の通訳は日本語に直して伝えてくれようとしたけれども、それは何か違うような気がしたので、椥紗はあえてそれを遮った。
「うんっと続けて。続けるってベトナム語でどういうの? それ、伝えて」
張り切るリーダーに対して、珊瑚と蒼佑はついていけないという顔をしていたが、それでも椥紗がやろうとしていることを遮らないようにしてくれていた。異文化理解教育というのは、珊瑚のようなこもって研究がしたいタイプにはあまり興味のないことであったし、蒼佑がまた戻ろうと思っている辺境みたいな閉じられた島においては、ほぼ無縁の話だった。コミュニケーションを取る労力が大きい割に、珊瑚や蒼佑にとってあまり意味のない勉強のように感じた。案の定、段々椥紗がグループの統制を取っていくのに気疲れして来るのが見えた。
「何かもう良いんじゃない」
「仲良くなるのが目的なんだったら、一緒に飯食おうぜ。俺、作るし」
「ああ、良いですね。私も行きたいです」
蒼佑の提案に対してなぜか、ベトナム人の通訳が一番乗り気で、椥紗は「なんでやねん」と心の中で突っ込んだ。
体つきがしっかりしていて、強そうなのに、蒼佑はあまり一人でいるのが好きじゃないみたいだった。蒼佑の部屋は、212で、その区画には椥紗たちの区画と同じように8つの個室があるのに住んでいるのは蒼佑一人だった。寮にはたくさんの空き部屋があるから、別に不思議なことではなかったが、寂しいのだろう。やたらと区画に友達を呼び込んだ。
椥紗の部屋から蒼佑の部屋は階段を通って行けば、すぐのところだったのだが、最初は建物の構造が分かっていなくて、わざわざエレベータを使っていたから結構な時間がかかった。異文化理解の授業を終えた後、椥紗は珊瑚と一緒に部屋まで戻って、その後売店に寄って何かを買ってから、蒼佑の区画に行こうと考えたのだが、蒼佑はそんなことしなくていいからすぐに来いと強い口調で言った。
売店で買えるものは、ギュフのスィーツで、勿論それは美味しいし、会ったら嬉しいものだけれども、蒼佑は要らないという。彼は、かなりアルバイトを入れているから、お金に困っているものだと思っていたが、食べ物に関しては何も困っていなくて、椥紗にはそれが不思議だった。
「今日も、バイトしてたの?」
「ああ、朝だけな」
「何でバイトするの?」
「言っただろ。親の世話になりたくないからだって」
「でも、ごはんに困ってるわけじゃないじゃん」
「いや、ごはんだけじゃなく、お金が必要なことはたくさんあるだろ」
「あるけど、それは、学校を卒業してからでいいんじゃないかって、思うんだ。今、出来ることを精一杯やるために、バイトせずに集中する」
「ま、そういう考えもあるだろうけどな。今、やりたいことのために金貯める必要があるってのもあんだろ。そういう時はどうすんだ?」
「それは、パパに相談する」
会話の流れが速くなって、椥紗は頭の中で思ったことをポンと言葉にした。それに対して、蒼佑は、ため息をついた。
「そんなパパ、俺にはいねえんだよ」
椥紗はまずったと思って、一つ呼吸を置いて言った。
「まぁ、皆家の状況がちがうもの。考え方が違っていて当然だと思うよ」
「だろ? 俺の意見が正しかった」
蒼佑は、自分の方が優位に立てると、嬉しそうな顔をする。何かムカつくが、それに怒っても仕方がないから、椥紗は話題を変えることにした。
「あのさ、謙人は、来てるの?」
「あ、今日は学校でも会ってねぇや。双葉は、どうしてんだ?」
双葉と謙人の間のことを考えると、会話が止まった。
「やっぱり、何か引っかかったまんまだよね」
「そうだな」
「皆仲良くできたらいいって思うんだけど、こういう時ってさ、どうしたらいいのかな」
「いや、俺が聞きたいよ。まぁ、時間が経てば変わるんじゃねぇか」
蒼佑は料理するのに忙しそうで、椥紗はその後ろを付きまとっていた。まな板と包丁、そして切る野菜を指さしたのに応じて、椥紗は尋ねた。
「オッケ。じゃあ、これこう切ればいい? それともこっち?」
「どっちでもいいよ。俺、適当だし」
「はーい。やっぱ、良い嫁になれそうな料理の腕だな」
「ジェンダーイコーリティだから、関係ねぇよ。いい婿になれそうだろ」
「あ、私は、蒼佑のこと、そういうので見てないから」
「はいはい。俺もそういうので見てないから」
「色々意識せずに話せるって良いことだよね」
「そぉかぁ? 良い人は、どうでもいい人っていわれることもあるぞ」
たった一つしか離れていないのに、年齢の割には、蒼佑は不思議なくらい余裕があった。足手まといだなと感じつつも、椥紗は野菜を切っていると、「まだまだだな」なんて、からかってきたけれども、それは嫌じゃなかった。同じことを言われても、誰がどんな風に言うかで、その感じ方は全然違ってくる。
「それで、鈴ちゃんと蘭ちゃんはいつくるのかな~」
「隣の区画だから、ドア叩いてこれば?」
「は、隣? そんなの知りませんけど」
「あの2人、211だから、うちの隣で、お前んとこの上だぞ。さっきまでしらなかったけどな。それより、アイツ来るのか? 岩下」
「あ、珊瑚は実験を終わらせたら来るって言ってたよ」
ただ寮で料理をしているだけなのに、楽しいし、他の同級生の話をして高校生らしいことをしている。そのことが嬉しくて、椥紗はニタニタと笑っていた。メールで珊瑚が扉の前に到着した連絡が来たので、ドアを開けると
「何、気持ち悪い」
と珊瑚に、辛辣な言葉を掛けられた。でもやっぱり心に刺さって傷つくとかそういうのではない。珊瑚のつっけんどんな性格から生まれる素直な感情がそう思って、そういう言葉になっているんだということを、理解できているから、受け入れられる。まだ出会って数日なのに、何で理解できるのかは不思議だ。
(ハグ効果か。いや、そういうものでもないな)
「何、黙って考えてるの。アンタのような頭には分からないことがたくさんなんだから、分からないものは分からないままでいいのよ」
珊瑚を動物に喩えるなら、ハリネズミかもしれない。棘のある言葉はハリネズミのジレンマで、好きな相手に近づけば近づくほど、相手を傷つけてしまう。
「それで、その筋骨隆々、一体私に何を食べさせる気なのかしら?」
「お前、それほめてんのか、けなしてんのか?」
「そういう感情的な描写じゃないわ。事実をただ述べただけよ」
これはもしや、ツンデレなのか。椥紗は、蒼佑相手にも偉そうに話す珊瑚を観察していた。
雁湖は、日が落ちるのが椥紗たちが今まで住んでいた場所よりも少し早かった。一人で遊歩道を歩いていた双葉は、後ろから謙人に声を掛けられた。その声に、双葉に頬には涙が伝った。
「そんな顔しても、君は僕を見てないでしょ」
双葉は、顔を隠そうとしたが、その表情はバレバレで、謙人は苦笑いした。
「そんなに好き? 僕のこと。でも、僕じゃないものを見ている。僕は双葉が思っている人じゃない。冷静になるの難しい?」
どうして理性的に考えられないほど、感情が湧き上がるのか分からない。湧き上がってくる感情は止められなくて、それが涙として出てきていて、それを言葉で説明できる位の理性も流してしまうから、うまく答えられない。
「ハグならいくらでもどうぞ」
もっと感情が出てくるのが怖いけど拒めないし、多分、自分自身はただその温かさに触れていたいと思っている。温かい。熱。生きているという一つの楔。
謙人が言っていることが分からないわけじゃない。どんなにこの身体を抱きしめたとしても覚えている渇きはなくならない。
「大丈夫、僕は君を絶対に好きにならないから」
それが残酷な言葉なのは、謙人に愛されないからじゃない。双葉の遠い意識の中にあるものが知っている。心の海の底に沈めたはずの気持ちが、謙人の器を通して浮かんでくるのに、それが違うと分かっているのに、感情が止まらないのだ。
月の光が青く優しくて本当に良かった。その温もりは、今を示すものだけでいい。
翌朝は、なぜか珊瑚が一番最初に起きて、楽しそうに電子レンジをセットしていた。
「昨日は、私、軟体動物を食べたの。勇気をたたえてもいいのよ?」
「ねぇ、何言ってるの、珊瑚?」
「アンタみたいな何でも口に入れる雑食には、新たな味を知るという楽しみが足りないのよ。分かる。初めての軟・体・動・物」
「あ~タコね。タコタコ」
椥紗が珊瑚と戯れているところに、双葉が部屋から出てきたが、シャワーを浴びた後でバスタオルをかぶっていた。
「ねぇ、ちょっと聞いて。珊瑚ったらさ、タコを食べた衝撃が忘れられなかったみたいでさ。わざわざタコ飯作ってくれてさ、貰ってきたから、双葉も一緒に……」
「あの筋骨隆々はなかなかね。不覚だけど、食の楽しさとかいうものの意味が少しわかってきたわ」
「蒼佑ね。名前覚えられるでしょ、天才なんだから、え、双葉?」
双葉はソファにドスンと座った。
「はあああああああ」
バスタオルをかぶったままの双葉から大きなため息が聞こえた。
「双葉、ってため息つくんだ」
(いや、ため息はみたことあるでしょうよ)
「んっと、双葉」
椥紗は自分で自分に突っ込みを入れながら、戸惑っていると、双葉はまた立ち上がって部屋へと帰っていった。
「え、何これ?」
「片桐双葉でしょ」
タコ飯がこんもりと盛られたお茶碗を運ぶ珊瑚が冷静に突っ込んでくる。
「ほら、アンタも食べなさいよ」
茶碗を椥紗に突き出してきて、いつも通り高圧的な態度だ。何で昨日までタコが食べられなかった奴に、促されなければならないんだろうと考える隙間が少し残っていたが、殆どの気持ちが双葉の悪態に持っていかれた。
(とりあえず、ご飯だ)
なぜ、ここに大量のタコ飯があるのだろう。そのことを思い返しながら椥紗は咀嚼していた。
昨日、鈴と蘭、そして通訳のタンさんを含めて、全員で10人近くのメンバーになったのだけれども、手際のいい蒼佑は、十分な量の料理を殆ど自分一人で作ってテーブルに並べていた。その料理は魚介と野菜が中心で、一番メインになったのは、イカとエビが乗ったパエリヤだった。台所の冷蔵庫と冷凍庫はシェアで、今は誰もいないから、全てのスペースを一人で使っているらしい。だから、突然あつまってごはんを食べようという話になっても手際よく準備が出来るそうだ。魚介の殆どは、島の人たちからで、蒼佑の状況を聞かずに、サプライズで送ってきたらしい。他の住人がやってきたらどうするつもりなんだろうか。
その島の人たちも札幌の高校を退学した蒼佑のことを心配しているのだろう。蒼佑が高校を辞めたことについて椥紗はあまり知らないけれども、辞めたことによって、蒼佑の親や家族だけではなくて、周りの人がどんな風に心を痛めたのか、心配したのかが分かるような大量の仕送りだった。
「お前、そんな何度も冷凍庫開けたら、電気代かかかるだろ」
「そうだけどさ、気になるもん。見たことないし、こんなの」
その冷凍されているものがどういうものなのかよりも、どういう感情が込められているかというのは、興味がある。ある誰かが他の誰かを想っているとき、その想いはどうすれば、他の誰かに伝わるのだろうか。それは、言葉だろうか。文字、文章、声、詩、物語、手紙、様々な形態で言葉は伝えることができるけれども、言葉は言葉で、想いとは違う。そして、どんな人間も言葉のエキスパートというわけではない。蒼佑が、料理ができて、それを使って人を呼んで、自分の居場所を作っていく。そういうことを考えて島の人たちがこのサプライズをした、とか冷凍庫の中の物の背景にあることは椥紗の好奇心をくすぐるものだった。
椥紗は、一番に212に来たのに、蒼佑の手伝いをそんなにすることができなかった。皿を出すとか、テーブルに持っていくとか、分ける用の食器を用意するとか。必要な役目だったけれども、蒼佑の仕事の効率の良さを横目で見ていたから、椥紗はなくてもそんなに変わらない役目だなと自虐的なことを考えていた。雑務を椥紗がなんとなくやっていたから、後から来た人たちは、何もすることがなくて、ただテーブルに座ってご飯を食べるお客様になった。
異文化理解の授業の延長で、親睦を深めることが目的の会食だったがのだけれども、別に何か課題が与えられているわけではなかった。目の前にある蒼佑の料理が凄すぎて、とりあえず、食べ物の話になった。その時に、今までに食べた中で一番珍しい、他の人が食べたことのないようなものは何かという話をすることになった。最初は、ラム肉の話をした。寮の食堂のおばんざいのところに、ラムの肉で作った肉じゃが、ラムじゃががあって、椥紗は気になっていた。
「私、ラムって臭いって言われていたんだけど、全然平気だった」
「ジンギスカンとか食べたことないの?」
「んー冷凍とかのたれについているのは地元でも売っていたけど、ラムの肉ってそんなに売ってないイメージなんだよね」
ラムを食べるのは、北海道ではよくあることで、本州、特に関西地方と比べて、おいているスーパーも多いし、扱っている数も多い。この話題から、今までに食べた変わった肉とはどういうものがあるかという話になった。
「はーい。ワニとハト食べたことあります」
「それ、どこで食べたの?」
「アフリカ料理の店~。でも、フランス料理で出てるって聞いたことあります」
「え、どっち。その差大きくない?」
「日本の公園のハト、食べるって人聞いたことないよね」
ハトは古代エジプトの頃から、地中海あたりでは食べられていたらしく、エジプト料理として出されることもある。フランスは文化の集まる国で、美食もその文化の一つであり、ハト料理がフランス料理と言われているのは、こういった背景もあるのだろう。エジプトが、ヨーロッパの国々にとっては、古代や歴史の深い国で、植民地時代には、こぞってその文明を手中におさめようとしていたという背景もあるかもしれない。その面影として、イギリスの大英博物館にロゼッタストーン、フランスのルーブル美術館にはスフィンクス像といった古代エジプトの展示がたくさんある。
現代の日本人は殆ど食べ物に困るということはないから、コウロギといった昆虫食の話が出てきて議論が巻き起こったりもするが、たかだかコウロギでそんな騒ぐこともなかろう。歴史、文字がなく、殆どサル、いやそれ以下位の存在だった時には、共食い、人間が人間を食べるということもやっていた。水槽の中で、ザリガニを飼っていた人が餌をやり忘れると、共食いをすることがある。それとそう変わらない現象だ。
人間が葬式であったり、死者を弔う、埋葬をするという事ができるようになったのは、十分な食料を調達できるようになったという背景があってのことだ。戦争が起こって、食料が十分ではない戦地では、同志の死体を食べて飢えをしのいだなんていう話もあったりするが、それは、「食べなければ生きていけない」生き物にとって、あり得る話だ。誰かを殺して、それを食らうというのは、倫理上・道徳上の問題だけでなく、人間という何を食べてるか分からない雑食の生き物を食べるという衛生上の危険もあるから、理性的に考えて、まずやめた方がいい。
(確か、変わった食べ物の話から、タコは食べられるのかという話になったのか)
「そんな軟体動物食べるなんて、ありえないわ」
「ほーそういうなら、食べさせてやろうじゃねぇか、この俺がうまいタコ料理を作ってやる」
そんな流れだった。売り言葉に買い言葉という状況で、晩御飯がほぼ終わった状態だったのに、そこからタコ飯を炊き始めて、それに感動した珊瑚はそのタコ飯の殆どを貰って帰ってきたから、なぜか大量のタコ飯が111にある。
(今日ちゃんと蒼佑に美味しかったって伝えよう)
何度も咀嚼しながら、椥紗はタコと蒼佑に感謝をした。その上、米も美味しかった。北海道最高。悦に浸っているところで、双葉の部屋の扉が開いた。
「じゃあ、貰おうかな、朝ごはん」
髪を整えて、ちゃんと制服を着た双葉は、いつも通りの優秀な双葉だった。椥紗は慌ててお茶碗一杯分を、ラップにかけて電子レンジに入れたのだが、その横で双葉は水筒にお茶を入れて、腕時計を確認していた。
「そのままおにぎりにして学校で食べるわ」
レンジを途中で止めてラップにタコ飯を包んで、くるくるっと巻いてカバンにポンと入れた。
「ごめん。先に行くね」
「あ。うん」
さっき見た、グデグデの双葉は何だったのか。どうしてわざわざそんな姿をさらけ出したのか。というか、双葉もそういうしんどいものを抱えているのか。とか椥紗には何もかもわからないままで、
(本当に私、双葉のこと、全然知らないな)
と実感させられ、
「うん、もっと頑張って分かりあえるようになろう」
という気持ちになった。
まだ時間は7時半だし、授業が始まる9時までには、まだ時間がある。雁湖学院には朝礼はない代わりに、8時半から、ホームルームで始業前のティータイムがある。原則は、所属するクラスで時間を過ごすもので、全体に告知したい話とか、大事なことのリマインドとかがその部屋で行われる。様々なアナウンスは、メールやHPでも確認できるようになっているが、対面の場で行っておく方がより抜け落ちが少ないという考えである。ギュフの社内連絡の方法がこの考えには反映されている。ホームルームは任意だから行く必要はないが、集まって学校が始まる前に雑談をするという場なので、煩わしいというよりも楽しい。席は自由席で、毎日違う人と交流を深めることが良いというアドバイスもあった。
「ねぇ、珊瑚。何時に学校行く?」
「8時20分出発ね」
「え、ティータイム行くの?」
「空気次第ね。嫌だと思ったら、研究室よ」
「ああそうか、珊瑚にはそういう逃げ場所があるのか」
「別に良いわよ。アンタなら。来たくなったらこればいいわ」
「珊瑚居ないかもしれないじゃん」
「じゃあ、連絡すればいいでしょ。タブレットあるんだから」
珊瑚はそういうネットワーク系のディバイスを扱うがうまくて、雁湖学院から配布されたものを使いこなしている。変わっているところはあるが、頼りになるなぁと椥紗は感心していた。
「じゃあ、準備して18分にはキッチンに居るのよ」
珊瑚はやっぱり偉そうに話す。
「あれ、一緒に登校してくれるの?」
「仕方ないじゃない。アンタは一人で学校に行く勇気がないんでしょ。この天才の私が一緒に登校してあげる。大いに感謝なさい」
偉そうにムカつくことを言うけれども、珊瑚の容姿が幼いからか、小柄だからか、可愛く見える。思わず椥紗がハグをすると、プンプンと怒った。
「アンタにはこんな権利ないのよ」
そういいつつも、嫌がっていない。プリプリしているけど、大好きだ。
8時18分、時間通りに二人は寮を後にした。時間通りに事が進むので、珊瑚は満足げに笑った。
「ねぇ、珊瑚。珊瑚はさ、ここの学校来て、楽しい?」
「さぁ。そんなの数日で分かるわけないでしょ。ただ、嫌悪感を催す人間にはまだ出会ってないわね」
「もしも、そんな人間に出会ったらどうするの?」
椥紗の疑問に珊瑚はしばらく考えた後はっきりと答えた。
「嫌だったら、やめればいいのよ」
「辞めたら、中卒で終わるよ。仕事見つからないだろうし」
「じゃあ、アンタは仕事のために生きてるの?」
珊瑚は強いまなざしを椥紗に向けた。
「お金がなければ生きていけない? 確かにそうかもしれないわ。でもね、やりたくないこと、正しくないと思うことを続けて生きていくことも生きていないのとそう変わらないと私は思うの。まぁ、凡人には分からない感覚だろうけど」
いちいち余計な一言があるが、決して間違ったことは言ってないような気がする。
「やりたいことをするために生きるのよ。やりたいことがなくなることの方が問題だわ。人生は短いのよ。生きた爪痕を遺すことが出来れば、それで十分だと言われたわ。誰に言われたかは忘れたけど」
「そのための研究か。火とか、水とか、風とか、土とか、そういう力のこと、もっとわかったら面白いもんね」
「……そうよ」
珊瑚は顔を赤く染めて、ちょっと嬉しそうにしていた。
「だからといって、人に当てるのは良くないと思うけどね」
椥紗が話を続けているのに珊瑚は一つも言葉をはさまず、少し前を進む腕の裾をそっと握ってきた。しばらく椥紗は適当な話をしていたのだけれども、その手を掴んで、ぎゅっと握ることにした。
「なによ、離しなさいよ」
「そっちが手を繋ぎたいっていうサイン出してきたんでしょ」
「違うわよ」
そういいながらも、珊瑚はその手をぎゅっと握り返してきた。
いちゃつきながら歩いていたので、予定よりも学校への到着が遅れてしまった。とはいえ、始業前のティータイムは別に遅れてはいけないものではないし、全専攻の生徒に対しての掲示板を見てから、教室に向かうことにした。
前に見たように、織原睦美の講演会の告知が貼られたままで、それが金曜日の17時から開催されるという事が追記されていた。
「そういえば気になる事があったわ。織原睦美、あのババアがここに来るのか」
「ん、そうみたいだけど、あのババアって……」
憤慨する珊瑚をどうやってなだめようかと考えていると、後ろから声がした。
「お前、何やってんだ」
「あ、百舌陽一郎……さん」
「あ、さんいらねぇし。同級生だしな。で、篠塚椥紗。何でコイツと一緒なんだ? いや、知ってんのか? こいつ、俺の友達の妹だから、気にかけるように言われてんの。お前ら、友達だったのか」
「そうよ。同じ区画に住んでるわ。そして、私の眷属、百舌陽一郎。なぜアンタから私に話しかけてくるのよ」
「ああ、そうか。良かったな。仲良くなってくれそうな奴が同じ区画で」
陽一郎は、珊瑚に話した後、椥紗の方を向いて続けた。
「いや、すまんなぁ。こいつ、礼儀とかそういうのがないんだわ」
「あ、そろそろ分かってきました。大分ツンデレっていうことが」
「ツンデレ? 語彙力がないだけじゃねぇのか?」
「ええ、この子、語彙力はあるんです。あえて難しい、いや、より自分が高位に経てるような言葉を選んで使ってる感じなんですけど、別にそんなにあいてをさげすんでいるわけではない。その結果、導き出したんです、ツンデレだと」
椥紗が自分の見解について解くと、陽一郎はうんうんと頷いた。
「ああ、確かにツンデレっていう表現が確かに合ってるのかもな」
「はぁ、この下僕どもが、何でこの天才のことを分析なんてしてくれてるのよ。そして、そんなことはどうでもいいのよ。アンタはちゃんと聖が大丈夫なことは把握してるんでしょうね」
「メールは返ってきたぞ。ちゃんと学校に行ってるってな」
「電話は?」
「出来ないってさ」
「じゃあ、無事かどうかなんて分からないじゃない」
「宮森のおっさんのとこの学校に行ってるだけだから、別に問題ないだろ」
珊瑚は百舌陽一郎の言葉に引っかかったようで、急にその場から走り出した。
「え、何で、何が起こってんの? ってこれ、珊瑚追いかけないと」
「宮森のおっさんのとこの学校に行ってるだけだから、別に問題ないだろ」
珊瑚は百舌陽一郎の言葉に引っかかったようで、急にその場から走り出した。
「え、何で、何が起こってんの? ってこれ、珊瑚追いかけないと」
「ああなったら、無理だ。しばらくそっとしとけ。落ち着くまで時間が要るから」
「えっと、陽一郎は屋上の研究室のこと知ってるの?」
「研究室? そんな風に呼んでんのか。そういうのじゃなくて、気持ちを落ち着かせる部屋。アイツの兄貴が、学校に頼んで作らせた部屋な。そ、しばらくそこで休んだほうがいいから、いったんだろ」
陽一郎が珊瑚のことを冷静に対処している。どっしりとした安心感を覚えた。椥紗は彼に頼むことにした。
「ねぇ、陽一郎、教えてほしいな。この雁湖のこととか、珊瑚のこととか、分かること。あと、聖っていう子のことも知りたい。ルームメイトだし、珊瑚のことは知っときたいんだ」
「聖のことは、別にどうでもいいと思うけど。ま、珊瑚のことは知っておいた方がいいだろうしな。じゃ、ちょっとコーヒー貰って、中庭で話すか」
ホームルームでティータイムを過ごすつもりが、予定とは全然違う感じになってしまった。だけど、椥紗にはその方がワクワクした。きっと自分は冒険のように何が起こるか分からないような日々の方が好きなのだ。
ホームルームのティータイムには、ポットのお湯と一緒にギュフの商品の試供品の紅茶が提供されるから、カップを持ってきていれば自由作って飲むことができるようになっていた。その飲み物は十分に用意されているから、他のクラスのものをもらっても問題なかったし、ほぼ各階の端っこの方にある給湯室に行けば同じものは手に入れられた。ギュフの商品の良さは、中にいる人間に一番知っていてもらいたい。そんなCEO、椎野真生の考えが見えてくる設備だ。
「それで、アイツはどんな感じだ?」
「どんな感じって?」
「そうだな、迷惑かけてないかとか……」
「……初めて会った時に、撃たれた。それで、何か数時間気を失ってたっぽい」
「……それは、迷惑かけたな」
珊瑚に初めて出会った時に、背後から風の力を込めたクーゲル(弾)を撃たれて、数時間気絶していたという椥紗の少し信じがたい話を陽一郎は、全く疑わずに聞いてくれた。そして、椥紗は最後に陽一郎に言った。
「ま、風、土、火、水、四元素の話なんて、非科学的だし。珊瑚が撃ってきた銃から強い風の力が発射されて、気を失ったなんて、何言ってんだって感じだろうけど」
椥紗は、信じてもらえるかどうか分からないこと真剣に話してしまったことに気恥ずかしさを感じて、コップの紅茶をすすった。冷めていて、あんまりおいしくなかった。
「信じるけどな、俺は」
椥紗はそう言われて、顔を上げた。
「雁湖、ここあたりはダムに沈んでた場所だけど、そういうのが起こってもおかしくない場所だからな」
そう言った後、陽一郎は立ち上がった。
「コーヒー、もう一杯もらってくる。お前は? さっきの紅茶でいいか?」
「あ、うん」
椥紗は、珊瑚のことについて、話をすることに集中していたせいか、陽一郎がどんな風に聞いてるのか見ていなかった。大きなカップだったのに、全部飲み干してしまっているなんて、飲むのが速い。
陽一郎は、学校ではタバコが吸えないので、モヤモヤとした気持ちを抑えるために、何かやって気を紛らわすということが必要だった。掲示板の前で椥紗たちと出会っていなければ、一服をしに行って、授業に備えていただろう。
「でも、それじゃあ、うまくいかねぇよな」
畑で仕事するのも、射撃の練習をするのも、自分の裁量でペースを決められたから問題なくやってこれたけれども、学校の授業に出るとなったらそうはいかない。勉強が難しそうとかそういうのではなくて、周りに合わせられるかどうかというのは、彼の抱える課題であった。
コーヒーと紅茶を持って戻ってきた陽一郎は、椥紗に紅茶を渡して話し始めた。
「さっきの話の続きだけどさ、アイヌが嫌がるような土地だったらしいからな。不思議な風の力とか、そういう力があってもおかしくはねえんじゃないかって思ってる」
そして、座って続けた。
「近くに住んでるやつはいたかもしれないけどさ、アイヌにとっては「手を付けていい場所」じゃなかったみたいなんだよな。確かに豊かな土地なんだ。川と川が重なるところがあるし、日当たりだって悪いわけじゃない。だからこそ、神様たちにとっても良い場所なんだよな。ここはさ、良い神様も、悪い神様も居るところで、アイヌが住む場所じゃないんだと。ま、この場合のアイヌは人間っていう意味のアイヌなんだろうけど。昔、仲良くしてくれたじいさんがそんなことを言ってた」
一通り話を終えると、陽一郎は立ち上がって、伸びをした。
「さてと、いくか。授業始まるしな」
椥紗は慌てて立ち上がった。
「あのさ、また、お話し聞かせてもらってもいい? 」
「こんなおっさんの話で良いならな。俺の連絡先、名前出せば出てくるだろ?」
「うん、フィルターかけてないよね?」
「ああ、何もしてねぇよ」
「じゃあ、学内の人のは、名前だけでいける。また連絡するね」
「あと、珊瑚のことも何かあったら、じゃあな」
二人はそう言ってそれぞれの教室に向かった。年齢が大分離れているし、全然違う環境で生きてきたのに、一緒にいて居心地の良い相手だった。椥紗にとっても陽一郎にとっても不思議な感覚だった。
陽一郎は、高校卒業の資格が欲しいとは思っていたけれども、資格のためだけに高校に行く気はなかった。折角ならしっかり勉強して、しっかりと得られるものを吸収したい。畑仕事をしたり、猟に行ったり、叔父の仕事を手伝ったり、生活していくことには困っていなかったけれども、今のままでは何か得体のしれないものに食われてしまう、そんな気がしていた。
ライフル射撃に打ち込んで、高校を中退、日本国内だけでなく、海外遠征に行き、オリンピックの代表になった。そのプロセスの中で、様々なことを犠牲にした。陽一郎自身の学歴だけでなく、遠征に父親を帯同させたため、政治家としての仕事は弟の大二郎に譲った。オリンピックの代表になったことで、様々な政党から国会議員にならないかと声がかかるようになった。北大屋町において力のある百舌家の一員なら、派閥に入れる価値があると考える人間もやってきた。
道議会議員の宮森道夫は陽一郎が有名になる前から、北大屋町の百舌家と関係の深い議員で、宮森との関係をないがしろに出来ないことは分かっていた。それが分かっていたから、従妹の百舌聖が、雁湖学院に通うことを急に転換して札幌の宮森学園に通うという道を選んだというのも分かる。
「どいつもこいつも、勝手なんだよな」
考えれば考えるほどタバコが吸いたい気持ちになってきたので、考えるのを止めることにした。陽一郎はため息をついて、コーヒーを飲んで、授業に備えた。
椥紗が一時間目の数学の部屋に着くと、双葉が隣の席を空けて待ってくれていた。椥紗の方を見て、手を振ってくれたから、そのまま二つではなくて、一つだけ空けて待っていたことが引っかかったけれども、その理由は聞けなかった。朝、双葉は今まで見たこともないようなため息をついたのを見ていて、その理由がどうしてなのかもわからないし、あの感じの悪い双葉に何か意見されたら、椥紗は精神的に持たない気がする。
「どうしたの?」
「いや、んっと、ありがとね。席空けといてくれて」
「珊瑚は、来ないんでしょ?」
「何で、分かるの?」
「風が教えてくれた」
(もうこっちの気持ちはバレバレかよ)
「はい、授業始めます。昨日の続きからな」
自由席で、中学校とは違うけれども、学校らしい光景だ。隣の生徒が同じように授業を聞いていて、一緒に問題を解く。
「そこでこの公式を当てはめるんだ」
当てはめるという解き方を納得するのと同時に記録するという作業をしないといけないから、結局理解してるのか、ただ記録しているだけなのか、それは、それぞれの生徒で違っていて、それは外からは分かりづらい。たとえそれが記録するだけのあまり意味のない授業の受け方だったとしても、普通の授業は、悪いものではない。椥紗にはなかったその当たり前が、落ち着く時間を作ってくれている。
珊瑚の研究室はカーテンを閉めたままだったから、光が殆ど入ってこなくて真っ暗だった。珊瑚が暗室での実験をしたい時のために、わざわざ遮光性の高いカーテンを選んだというのも理由にある。
珊瑚は研究室のドアを開けて、すぐに鍵をかけて、簡易用のベッドに飛び込んだ。気持ちが落ち着かないときは、ベッドで横になって目を閉じるのが良いと思っていて、何もしないで、波が消えていくのを待とうと思っていた。
分からないことがたくさんある。あふれかえる情報がある。知りたいこと、それは、まずは百舌聖のことだ。百舌聖は、織原レオン謙人と同じ、雁湖中学校の同級生で、一緒に雁湖学院の進学することを決めた。
「岩下珊瑚、どうしてアンタは、学校に来ないの」
「うるさいなぁ、家が遠いの」
聖は何度も珊瑚に話しかけてくれた。
「仲いいね、百舌さんと岩下さん」
「百舌はうるさいから嫌い。本当に名前の通り、鳥みたいにピーピー鳴くの。全然好きじゃない」
「でも、百舌さんは、岩下さんこと、好いてると思うよ」
(織原も悪い奴じゃないんだ)
瑞穂中学校には、あまり学校に来ない珊瑚に近付いてこない生徒が殆どだった。わざわざ問題のある生徒に近付いてくるのは、聖と謙人だけだった。
「ね、一緒に同じ学校に行けるって楽しみだね」
近くに高校ができるにもかかわらず、雁湖学院を志望したのは3人だった。雁湖学院が出来る話が出てきたときに、「雁湖学院を卒業しても、高卒認定が貰えない」という話があった。役所とやり取りをして、表向きには貰えるような方向に持っていくと書かれていたけれども、椎野真生が地元での説明会を行った際に、うっかり、「どうなるか分からない。もしも貰えなかったら、中卒のままになるかもしれない」ということを話してしまったのだ。それに、多くの中学生たちは高校で札幌という都会で一人暮らしが出来ることを楽しみに思っていた。だから、その雁湖学院への希望者が殆ど集まらなかった。
人づきあいが苦手な、珊瑚にとっては、これは悪くない話だった。好きな2人だけが一緒で、他はどこかへ行ってしまう。敬遠しているものがない。自由に振舞える。休みがちだった学校にもっと行きたくなるだろう。ただ、それ以外の人間が他からやってくる。そのことは気がかりだった。
(学校なんて別にどうでもいいのよ。勉強は、自分でやるものよ。誰かとやるものじゃない。誰が来ようと関係ないじゃない)
心中穏やかではなかったが、プライドの高い珊瑚は、それを表に出すことができなかった。
「ごめん、珊瑚」
翡翠は珊瑚にそう言って、家を出て行ってしまった。更に悪い知らせだった。面倒を見てくれていた兄の翡翠が、東京で働くことになった。翡翠は家に帰ってくることが遅かったり、研究に没頭すると部屋から出てこなかったりと、珊瑚は家で一人で過ごすことが多かった。面倒見の良い兄というわけではなかったが、珊瑚のことを理解してくれる人間だった。翡翠はなんでも分かってくれていた。珊瑚に必要なもの、欲しいもの。あまり言葉を交わすことはないけれども、分かり合える家族だった。
(自分一人でやってみせる。そう誓ったでしょ。それに私はそれが出来る。天才だからできるのよ)
自分自身を鼓舞しながら、珊瑚は椅子に座って、取り組んでいる魔装銃の改良を始めた。
「僕さ、織原家の養子なんだよね」
集中したいのに、雑音のように昔に掛けられた言葉が浮かんでくる。
「じゃあ、アンタは織原睦美とは違うの?」
織原睦美は、聖の父親の百舌大二郎に対抗するように町長選挙に立候補しようとしている。それは織原の家と、百舌の家が対立しているということになるんじゃないのか。二人が相対することになったから、子供同士も仲良くできなくなってしまったんじゃないのか。だから、聖は雁湖学院に行くという当初の予定を変えて、急遽、札幌の宮森学園に進学することにしたんじゃないのか。そういうことを珊瑚は考えていた。
北大屋町が、政治的にどのように回っているのか。その政治が町の外の世界とどのように繋がっているのかは、殆どの人が知らない。そういう政治の事情は見えないところで動いている。大人だってわからないことだ。だから、まだ子どもの珊瑚ならなおさらだ。
しばらく考えた後、珊瑚は自分の中に浮かんでくる気持ちを吐露した。
「政治なんてどうでもいい。聖が戻ってくるなら、それでいい。誰も助けてくれない。助けなんか、求めることない。自分で何とかしないといけない。何とかできる。出来ないわけない」
珊瑚には強いプライドがあるが、それは、思考の際に邪魔になることもある。何もない。だから、探す。殴り書きのように役に立ちそうなことを紙に書き出し続ける。その作業を続けるうちに、信念よりも思考が働くようになる。考えろ、考えろ、思いついたことをどんどん拾っていこう。作業に心が傾いていけばいくほど、珊瑚の世界は色を薄め、白く透明になっていき、消えていくような様相を呈した。
「私に、分からないことなんてないんだから」
「そう、君には力がある」
心に現れた波は、真っ白になりつつある珊瑚の世界に、暖色が浸食する。穏やかに寝ている場合じゃないのに、抵抗できないほどの力をもってその色は広がっていく。無意識の珊瑚の手から、ひらがなでもカタカナでも漢字でもない形の文字が綴られ始める。
静寂の中で続けられるその動きの中に、珊瑚の意思が消えてしまっていた。何かが乗り移っている、憑いている。神様とか、精霊とかそういうのはあらゆるところに居て、時々人間の世界にやってくる。そういう存在は、幸せをもたらしたり、悪戯をしたり、人間とは違う尺度の中で生きている。
「任せてごらんよ。面白いことが起こるから」
「ふざけんな。この天才が思い通りになるなんて思うな」
そう呟いた後、珊瑚は研究室から飛び出した。
講演会の全日、東京から雁湖に向かおうとしていた椎野真生は、ピクシーと最終確認を行っていた。
「オッケー、ありがとう。じゃあ、その3人に任せればいいわけね。スタッフの調達、お疲れ様」
「今回、僕はこちらの仕事でいけませんから柊さんと一緒に行ってください。一つ言っておきますけど、あまり注目を浴びるようなことはしないでください。CEOが町議候補の講演のために東京を離れたっていうのは、あまり知られたくないので」
「だからわざわざ札幌での仕事、入れてくれたわけね、了解」
「昨年、メディアへの露出を増やしてから色々と詮索も増えていますので」
「そんなに僕、人気者かな? ま、女子高生と婚約しちゃう? 週刊誌はこういうネタ大好きでしょ」
段々ピクシーの顔が、こわばってくるにもかかわらず、真生は楽しそうに続けた。
「まぁ、彼女のために雁湖学院を作ったと言っても過言ではないんだけど、僕の片思いかもしれないからねぇ。彼女に迷惑をかけるのはちょっと……」
「はい、そういうわけですから。心に閉まっといてください。全く、貴方は自分がどれだけ重要な人間か分かっていないから……」
「ピクシー君、何かやけに今日は優しくない?」
真生の言葉に、ピクシーは照れた。
「夕焼けが奇麗だからでしょ」
「ま、そういうことにしておきますか」
その高層マンションは、その地域で他の建物の邪魔がないから、夕日が鮮明に、より大きく見えた。