風の物語 6.北大屋町
雁湖があるのは、北大屋町という町で、農業や畜産、一次産業が中心の田舎の町だった。町の中心は、ショッピングモールがある瑞穂地区で、そこに町役場や町議会といった町の中枢機能がある。バスターミナルもそのショッピングモールにあった。雁湖学院のある雁湖地区は、一度はダムの底に沈んだ地区で、ダムの廃止に伴ってまた陸地へと戻った。その広大な土地をギュフが買い取っていたのだが、北大屋町の町人たちはそれを殆ど気にも留めていなかった。
昨今、北海道の辺境地区が外国の人々に買われているという話はあるが、町人にとってそれに対する考え方は様々だ。自分が暮らしているすぐ傍の土地が買われたとなると、その話を深刻に受け止めるかもしれないが、同じ町内でも、何キロも先の場所の話だと、当事者意識はあまり生まれない。町の住人として帰属意識は、都会の住人のそれと比べると高いかもしれないが、その帰属意識は「しがらみ」といった言葉でネガティブに捉えられることが多く、昔に比べると低くなっているといえるだろう。そういったこともあって、ギュフという都会の会社が雁湖地区を買うということに関して、あまり抵抗はなかった。
ダムは、100年以上も前に計画されて作られたと言われいるが、その頃の役所機能がしっかりとしていなかったのだろうか、記録は殆ど残っていない。雁湖の近くには、アイヌの集落があったようなことも書かれているが、ダムの開発計画のころには、なくなってしまっているし、その上アイヌを追い出したような話もない。北大屋町は、町長が教育に熱心で、頭の良い町民が多かった半面、お金のない町だった。北海道では、日本の産業の成長に合わせて、化石燃料が多く必要になった。石炭の炭鉱がある町、例えば夕張や空知地方などはその採掘で潤っていたが、北大屋町には、そういう資源がなかった。ただ、食物を育てるという点においては、豊かな場所で、特に瑞穂地区は町の中でも、土地が肥沃で水はけや日当たりもよい場所だった。
江戸時代や明治の初めごろ居た倭人は、アイヌを野蛮だと考えているようだったが、アイヌがアイヌ文化を踏襲することに対してまで口出しをするような倭人はあまりおらず、棲み分けのようなものがあって、なんとか文化は保つことが出来ていた。だが、明治の産業革命を経て、西洋に追いつけ追い越せなんていう脱亜入欧や、「野蛮で下等な人々」とされた先住民の同化政策が広まるにつれて、アイヌはアイヌとして生きていくことが難しくなった。まぁ、日本人でさえ、日本語よりも、英語やフランス語といった西洋語を話すようになんて言われたような時代だから、その政策がいかにアイヌの文化を駆逐していたかというのは想像を絶する。
嫌な歴史を語ればキリはないが、開拓民がやってきた当初は、開拓民と先住民であるアイヌの人々が仲良く暮らしていたかもしれない。仲の良いという関係の中に、偏見がなかったとは言えないが、それでも、なぜ覚えた友好的なものよりも、敵対的なものの方が大きくなってしまったのか。どうすればそれを止めることができたのか、同じような事が起こったときに止めることができるのかといった問いは、哲学的には重要だが、いつもお金にならないといって捨てられるのが世の常である。
椥紗は、理真美と双葉の二人にがっちりと確保されたような形で、学校への道を歩いていた。午前中は、教室での時間割作成となっていて、希望者は幾つかの場所でやっている、講義やワークショップに参加できる。午後はクラス会で、各種委員の選出などがあって、それが終わった後は、希望者のための講義、そして学内探検があった。通常授業は水曜日からで、それまでの間は教職員・生徒全員が自由に入れるビュッフェ形式の昼食が用意されるなど、交流を深められるような時間と空間が提供された。
クラスは、専攻ごとに分かれている。男子普通科、女子普通科、芸術科、技術科、通信科の五つのクラスに分かれているが、学校の方針としてはクラスの垣根を越えて交流をし、様々なアイディアでより良い環境を作っていってほしいとのことだった。座学の授業では学べないようなプロジェクトを作り、それを達成し、より楽しい時間を作っていくというのが学校運営の狙いだ。
椥紗と双葉には既に技術科の理真美と、男子普通科の蒼佑と謙人という友達ができていたし、椥紗にはショッピングモールまで乗せてもらった百舌総一郎という年上のおじさんのような人、そして、屋上で出会ったコーラルと名乗る、岩下珊瑚が居る。
(まぁ、コーラル、うんっと、岩下珊瑚はまず現れないと思うけど)
椥紗の予想通り、珊瑚に出会うことはなかったけれども、頭の回転が追い付かないくらい色々なことがあった一日だった。
まず、クラスごとに朝礼があった。その時にやってきたのが、地元のギュフ、小湊店で出会った店員だった。
「このクラスの担任の佐伯杏子です。よろしくお願いします」
なぜ店員さんが担任になっているのかよくわからないけれども、そういうのに一喜一憂するような余裕がなくなっていて、ただそれを受け入れた。
午後からは、選択参加の講堂での講義で、双葉は用事があるといって居なくなってしまった。話を聞きながら、隣の理真美は、椥紗に耳打ちした。
「卒業までのやばい課題があるの、聞いた?」
「やばい課題?」
「そう、将来設計型自由研究っていう課題。自分にしか出来ないようなことを考えて、それを研究して、その成果を出すっていう課題。あれ、だから、ここに来たんじゃなかったんだ」
「は?」
講義の内容は、大きなテーマは『雁湖学院のことをもっと知ろう』というもので、今日のテーマは、この雁湖のある、北大屋町の話をしていた。でも街の具体的な話というよりは、もっと概念的な話をしていていた。
「道外、こちらでは内地と呼ぶこともありますが、内地の歴史は、縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代という時代の移り変わりを経ていますが、北海道には、弥生時代がありません。縄文時代、続縄文時代、擦文時代、オホーツク時代、アイヌ時代という変遷を経ています。だから、日本の歴史とは少し異なっているということができるでしょう」
日本の地図が出された後、次のスライドで北海道の地図が拡大されたものが出された。
「少し異なっているという点で言うと、沖縄の歴史も異なっています。こちらは旧石器時代の後、貝塚時代を経てグスク時代、王が治めていく時代へと変わっていっています。こう考えると、日本の歴史というもの時代の概念が、覆されてしまうようなところもあります」
理真美は楽しげに頷いていて、多分このことを既に知っていたようだった。主流となる歴史を学んできた椥紗にとっては、知らないはずのことだったが、椥紗はそうではなかった。
(あれ? これ、春日ちゃんも言っていたような気がする)
椥紗の世話をしていた春日伊織は、何かと教えることがうまかったから、大体の勉強は伊織から教えてもらっていた。歴史については、テスト対策としては暗記が必要だから、問題集のミニテストみたいなのを与えられて、チェックされていた、と同時に歴史というものがどういうものなのかを春日から聞かされていた。
「どんな物事も、一つの見方はできない。歴史はそういうことを学ぶ教科だと思うんだけどな。こういうテストをやると、偉人の名前とか、事件の名前とかを覚えるだけで、それがどういうものだったとか考えなくなるだろ。だから、こういうテストをやらせることには疑問を抱かないわけでもないんだが」
「じゃあ、なしでもいいんじゃない?」
「ただ、そうしないと、椥紗、お前は勉強しないだろ」
近代に日本の内地から開拓使としてやってきた人々は、北の土地を「良くない場所」だと思っていたし、そこに元から住んでいる人々を蔑んでいただろう。
「北海道旧土人保護法っていうのがあるんだ。それは、法律が出来た当時はアイヌの人々を守るものだったのだけれども、1997年に廃止された。名前が土人なんてついてるから、それがアイヌが差別されていることを象徴しているようにも見えるからな、この出来事は色んな解釈がされてる」
春日は難しいことを話すから理解できたわけではなかったけれども、その話は椥紗にとっては好きなものだった。
「古代バビロニア、今のイラクあたりで、『ハンムラビ法典』っていうのがあるんだ。『目には目を、歯には歯を』っていう言葉があったんだけど、それはさ、『目を潰したら目を潰し返されるぞ』みたいな怖い意味で意味で取られてる。けど、実際はそうじゃなくて、倍返しとかより酷い復讐を防ぐための文章だったんだ。例えば、喧嘩で相手の腕を折った。それが自分より身分が低い人間だったら、その報いとして両腕を折られたり、殺されたりしていた。被害者はどうしても過度の報復を望んでしまうからね。でも、それは、復讐の連鎖を招くだけで、客観的に見ると、とても危険なことだ」
憲法九条のこと、死刑廃止のこと、「何かの被害を受けた時に、どのような保障があるのが適当なのか」という問題は、現在社会にもあって、それは、椥紗自身が当事者として考えなければならないことだ。
「ま、社会科において、答えが同じになるテストでの問題は、そんなに大事な問題じゃないっていうことは覚えていてほしい。皆の意見が同じにならないのが普通なんだから。国だとか、地方自治体だとか、そういうので一つの答え、結論を出すっていうことは必要だよ。だけど、元から答えがあるっていうのは、おかしな話だと思うけどな。社会に対して疑問に思うこと、そして、それに対して自分の答えを見つける事、そして、それを説明できる力を持つこと、それが社会科だ」
講義を聞きながら、椥紗は伊織の大事な言葉を思い返していた。
北大屋町で一番人口が多い場所は、ショッピングモールがある瑞穂地区、雁湖はダムを作るために一度ダムに沈んだ土地だ。この場所は、椎野真生が選んだ。真生が生まれ育ったところは、緑の多い場所で、そういう場所に自分の会社を移したい。そんな考えがあった。その理想にぴったりなのが雁湖だった。そう、彼は語っている。
真生の東京の家は、高層マンションの上層にあった。高いところが特別に好きだというわけではなかったけれども、警備や安全がしっかりした場所ということでピクシーがその場所を選んだのだった。そこには大きなバルコニーがあった。そして、幾つかの鉢植えのバジルがあった。種をまいて、そのまま水やりだけをして育てたもの、間引きをしたものに、間引きをした芽をそのまま違う場所に植えたもの、そして挿し枝で増やしたもの。それを見ていると、どのような種だったかということ以上に、どのような場所、そしてどのように育てられたかがその成長を決めることがよくわかる。日当たり良く、たくさんの芽が出た鉢植えは、最初は青々と力強かったが、そのままにしておくと、お互いに大きくなろうと争いあって、お互いに育ちが悪くなってしまう。だから、間引きをする。間引きをしたバジルは、一つ一つが青々と育ち、大きくなった。
「全部育ってほしいからさ、間引いたものをそのまま新しい鉢に突き刺してみたんだけど、ダメだね。うまく育つのもあるけど」
真生が、そう呟いたのに気付いた柊は、その鉢に近付いて、苗をじっくりと見た。
「じゃあ、柊さん、よろしくお願いします」
柊は、男性だが、真生の家の家政婦だ。柊が、水をやっているからベランダの植物は青々としている。肥料や日当たり、彼なりのセンスがあって、真生のお気に入りの場所を保っている。柊は、身体は大きく、強そうな男だが、無口な男だ。だから、信頼できる。
理真美と一緒に講堂を出ようとしたときに、椥紗は担任の佐伯杏子に呼び止められた。
「篠塚さん」
「あ、先生。あの、先生、どうして先生なんですか?」
どうしてギュフの店員が、しかもここからかなり離れた実家の近くに勤めていた人が、担任の先生として現れ、再会するのだろうか。
「そりゃあ、篠塚さんがここに居るわけだから、私もここに居て不思議なことは何もないでしょ」
「いや、そうですけど。だって、先生、大湊店で働いているんでしょ? なのにどうしてこんな北海道まで来てるんですか」
「大湊店のスタッフである前に、私はギュフの社員だし。日本のどこに飛ばされようと不思議じゃないでしょ。そもそも、私は人事課、しかも社員教育担当希望として採用された人間なの。学校の先生やりたいってなるの、不自然じゃないでしょ?」
親しく話す椥紗と杏子を見て、理真美は申し訳なさそうに口をはさんだ。
「あの、私はお邪魔、だよね。先に帰ってる方がいいよね」
「いや、帰らないで。制服採寸の時に知り合ったというだけで、そんなに知らない人だから」
椥紗は、理真美の腕を掴んで、杏子を警戒する。
「知らないって、酷いな。担任の先生よ。安心したわ。信頼できる友達、出来そうみたいね」
「女子普通科の先生?」
理真美が椥紗に確認を取るように言った。
「はい。そうです。女子普通科一年の担任、佐伯杏子です。緑のリボンということは、あなたは技術科の生徒ね」
「はい、龍野理真美です」
理真美は堂々とまっすぐな瞳で杏子を見つめていた。椥紗は理真美のそういうところがカッコいいと思う。彼女の中には信念とか、自信とか、支柱になるものがある。
「じゃあ、篠塚さん、まずは学校に来てね。不安なことがあったら、相談に乗るから」
杏子はそう言って、去っていった。声をかけられて驚かされただけだったけれども、椥紗は嬉しいと思った。
「この後どうしようか?」
「何か新しい情報ないか、掲示板見に行こうよ。アプリでも確認できるんだろうけど」
やっぱり、理真美はしっかりしている。椥紗は感心した。
掲示板のところには、フルカラーでとても鮮やかなポスターが貼られていた。次期北大屋町町長候補、織原睦美公演会のお知らせ、そこに写っているのは、快活で力強そうな女性だった。
「選挙?」
「うん。四月の統一地方選挙で候補になる人じゃないのかな。私の町でも、町長と地方議員が改選になるからって、両親が忙しくなるなんて言ってたよ」
「選挙ねぇ」
そういえば、一度、伊織の仕事場にいった時に、挨拶回りをしに来た市会議員候補の人を見たことがあった。あと18歳になったら、選挙権を得るわけで自分で誰を代表に選ぶのかを決めなければならないのだけれども、まだまだ遠い話だと椥紗は思っている。
「忙しくなるって、りーまちゃんのご両親って、議員か何かなの?」
「議員じゃないけど、知り合いの人が町議をやってくれてるから、応援に行くんだよね。後援会の主力メンバーだから」
「へぇ。そりゃあ、大変だ」
「田舎は狭いからね。誰が議員やるかとか結構大事なんだ。それで、うちの近くに保育所出来て、親が助かったとかそういうのあったし」
「すごいね」
誰が選ばれたって同じだなんて思っている椥紗は、何だかちょっと恥ずかしい気持ちになった。伊織から、選挙の大切さとかそういうのを教えられていたはずなのに、理真美と自分を比べると自分の意識の低さを思い知らされる。
「あのさ、織原って、謙人君と関係があるのかな」
「あ、あれ、そういえば」
「だったら、謙人君、大変だろうね。お手伝いすることたくさんあるだろうから」
「メッセージしてみる」
椥紗はスマホを出して、そのポスターを撮り、織原謙人に送信した。
選挙は、民主主義を支える根幹となるものである。民主主義には、直接民主制と間接民主制というものがある。直接民主制というのは、その社会に属する全ての人々が意思決定に参加するというもの、古代ギリシャで行われていた民主主義が好例である。簡単に言えば、学級会での多数決だ。クラスの全員が同じ一票を投じる。これが直接民主制。
間接民主制というのは、現代の政治制度で、ざっくりいうなら、国会の制度はこれにあたる。国会の決定は、国民の代表である国会議員が投票を行って決める。多数決を行うまで結果は分からないというのが前提だ。まぁ、今の国会では誰が何に投票するかは、大体見当がついていて、投票を行う前から結果がどうなるかは分かっているという不思議な現象が起こっているわけだが。まぁ、間接民主制というのは、国民それぞれが自分で投票するのではなくて、代表が投票するという方法である。
民主主義は投票を行うことで、社会の総意を得るものだが、選挙自体が行われないで市町村の長が決まるということはしばしばある。雁湖学院が位置する北大屋町の町長選挙は、前回無投票だった。現職の町長以外に候補者が出ず、選挙をしないで町長が決まるという状態だった。この織原睦美という候補は、四月の終わりの選挙で現職町長の対抗として立候補する候補者だった。
「ああ、俺の母親だよ」
蒼佑の部屋に集まった、理真美、椥紗の3人の前で、レオンはそう言った。
「すごいじゃん。お母さんが町長って凄いじゃない?」
「別に。候補だよ。北大屋町って、人口、たかだか10000ちょっとの町だよ。うちの母は町議だし。女性初の町長候補というので、取材とか来てるけど、厳しいんじゃないかな」
「お母さんが町議。あれ、お父さんは?」
椥紗が尋ねると、謙人はすぐに答えた。
「父は家の仕事で国内海外、色々飛び回ってるから。町議会の仕事なんて出来ないよ」
「社長と町議の夫婦ってこと?」
「ま、そうなるね。社長って言っても、小さい会社だから」
「いや、すごいよ。でも、何でお父さんが飛び回ってるの?」
「ああ、うち、ワイン作ってるから。それの営業とかで」
スケールが大きすぎる話だけれども、全く理解出来ないわけではない。椥紗の祖父は不動産屋で会社を経営していて、社長がそんなに遠い存在でもなかったからだ。
「何で俺の部屋に全員来るんだよ」
蒼佑は文句を言いながら料理を持った大きなお皿を持ってきた。
「食え」
「あ、じゃあお皿とか用意するね」
理真美はそう言って立ち上がった。
「だって、こういう美味しい食べ物があるから、ここに来ちゃうんだよ」
「だったら、双葉も呼べばよかったのに」
理真美の意見に椥紗が答える。
「メッセージ送って、誘ったんだけどね。まだ返信ないんだ」
「ああ、札幌に行ってるんじゃないかな。お兄さんに会いに」
2人の話に、レオンが割って入った。
「は、なんでアンタが知ってんの」
「クラス会の後、会ってたから」
「ちょいまち。会ってたって、どういうこと。アンタ、昨日、双葉に……」
騒ぎ出した椥紗の口に手を当てて、謙人は耳元で話した。
「それ、双葉のために、言わないほうが良いよ」
「ふぅん。仲良いんだな。レオンと双葉」
「まぁね。双葉は俺のこと好きだと思うけど、そういうのに興味ないから。俺、恋愛とかよくわかんないし」
「は? 何その自信満々の態度。何か、その態度むかつくわ」
「事実を言ったまでだよ。僕は、そういう人間だから」
「おい。俺もお前のそういうところ、むかつくわ」
「何が」
「レオン、お前、自分のことを『俺って言え』って言ったよな。お前、自分のことを『僕』って言う時、何か自分に嘘つこうとするよな。そういうところがむかつく。やっぱお前、レオンって呼ばれた方がいいわ。何か、自分のなりたい自分じゃなくて、誰かに求められている自分になるみたいで、見てるのしんどい」
(たしかに。分かるかも)
椥紗は、蒼佑の意見にほぼ同意した。織原謙人は、他の日本人とは違って二つの名前を持っているからなのか、二つの彼がいるように見える。二つの人格を持っている、そんな感じだ。その人格に名前をつけるなら、謙人とレオンで、謙人は『求められている自分になること』、レオンは『自分のなりたい自分になること』に沿って生きているように見える。
「はい、ここの全員、今日から全員こいつのことはレオンって呼ぶこと。いいよな?」
蒼佑は椥紗と理真美が同じように考えていると思っていたのだろう。レオンの方を見て言った。
「いいよ。俺って言うように意識する。それでいいんだよね?」
「違う。それが、いいんだ」
不思議な感じがする。つい数日前に会ったばかりなのに、相手の内面に触れるような話をしている。内面を他人にさらけ出すのは、傷つけられるリスクもあるのに。
「あれ、でもレオンだったら……あ、後で話す」
僕、即ち謙人は風が見えるけど、俺、即ちレオンは風が見えない。そのことに気が付き、椥紗は話そうとしたけれども、その話はここでするべきではないと思った。
「なぁ、レオン、お前とこの町の町長選挙、何かあんだろ?」
「母親が立候補するわけだから、何もないわけないよね」
「自分に嘘つこうとするのは、そのせいか? 町長候補の良い息子を演じる『僕』ちゃんがいるわけか」
レオンは、蒼佑の挑発には乗らなかった。
「分かってるんだったら、丁度いいかも。ここ、蒼佑以外住んでないよね。俺、引っ越そうかと思って。何か家の周りがゴタゴタしてきたんだよね。真生さんも、その方が良いんじゃないかってメッセージくれたし」
「真生さん?」
「あ、ギュフの社長の椎野真生。うちの両親と真生さん、昔からの知り合いだから。俺はあまり知らないんだけど」
「ああ、お前の家が、この学校、雁湖学院とギュフの誘致に関わったってわけか」
「さぁ、詳しいことは分からないけど。俺の父さん、英語話せるから、昔、海外でバックパッカーみたいなことしていたらしくてさ。それで、真生さんと知り合ったらしいよ。それから、僕は、真生さんの紹介で、父さんと母さんのところに来たらしいから」
「お前、言っただろ。俺って言えって」
深刻そうな空気になったときに、さっきと変わらない調子で蒼佑はレオンを嗜めた。
その頃、双葉は札幌の高台にある高級住宅街に居た。バスの待合場所でスマホの地図アプリを見ながら身体を震わせていた。
(こんなに寒いんだったら、断ればよかった)
織原謙人に呼び出された時のことを思い返しながら、双葉はかじかんだ指に息を吹きかけた。
「人探しをしてほしいんだ。百舌聖。同級生」
「北大屋町の町長の娘で、中学校の同級生。一緒に雁湖学院に入学するはずだったんだけど、札幌の高校の生徒になってしまっている」
「どういうこと?」
「表向きは、地元に良い高校がなくて、親元から離れて、札幌の高校に通うっていう普通の高校生なんだけど、一つ問題がある。彼女の意思に反して、札幌の学校に行かされてるんだ」
「無理やり……。でも、本人が嫌なら、高校に行かないっていうこともできるんじゃない?」
「百舌聖は、真面目な秀才だからね。学校や勉強は好きだから、納得のいかない形であったとしても、学校に行かないということはしないと思う。周りが、家族が望むような自分になろうと頑張るんじゃないかな。ただ、俺たちは納得できない。瑞穂中学校から、雁湖に入学した3人、一緒に頑張ろうって誓ったから」
「3人?」
「俺と百舌聖と、入学式の日に椥紗が会ったって言ってた岩下珊瑚。この3人で誓ったんだ。聖が通うのは、宮森学園で、この学園の理事長の家に居候している」
「なんで居候?」
「百舌家は、この町、北大屋町の町長をずっと務めている名家でね。宮森学園の理事長、道議会議員の宮森道夫が直々に提案してくださったらしい。ま、うちの町の利権を狙ってる、狸爺らしいけどさ」
雁湖学院を作るために、ギュフが北大屋町の広大な土地を買収したことに危惧を抱いた権力者が居る。ギュフは、歴史の浅い企業だが、政治家とはあまり関係を持たずに成長してきた。CEOの椎野真生が、純粋な日本人ではなく、日本の慣習というのを気にしなかったというところを気に食わないと思う人間は少なくなかった。
「双葉みたいな風使いだったら、出来るんじゃないかって思ってさ。君の力が必要なんだ。大事な友達を守りたいから」
「私に救出しろと?」
「いや、そうじゃない。君には、見てきて欲しいんだ。偵察。君の風は、いつも椥紗を追いかけてたんだろ?」
惚れた弱みにつけこまれた気がする。大事な友達と言っているけれども、百舌聖という女子の同級生を助けてくれというのをあっさりと引き受けてしまって、こんなに都合のいい友達で良いのだろうか。
その時、風の知らせで宮森道夫の家に動きがあることを双葉は察知した。確認をするために、坂道を下り屋敷の方へ向かおうとすると、外国製の大きな車が出ていくのが見えた。その助手席には、ショートカットの百舌聖と思われる少女の姿があった。双葉はその少女を追いかけるように、双葉の風、颯にマーキングさせた。対象を双葉自身が確認しておくことで、その追跡はより正確になる。そして、颯が追いかけている場所も知っておくことも正確な情報を得るのに役に立つ。
マーキングという任務を終えて、またバス停に戻って双葉はスマホで謙人にメッセージを打った。
(百舌聖、確認したよ。これでいいよね)
「ねぇ、お嬢さん。百舌さんに用事?」
双葉の上に覆いかぶさるような影が現れた。とっさにスマホの画面を暗転させたが、声の相手はその内容を確認した後だった。そこにいたのは、ペイズリー柄のシャツにスーツ姿のホストのような男だった。
「お嬢さん、岩下さん? 厄介な同級生がいるって聞いててんけど」
「いえ、違います。あの、人のスマホ勝手に見ないでください」
「不審者を探していてね。宮森さんのところに居はるお嬢さん、脅迫されてるんやてね」
「脅迫?」
「まぁ、詳しいこと解らんけど、百舌さんを尋ねて来た人には、名前聞いて、ちゃんと家に返すように言われてるんやけど、教えてくれる?」
「あの、バス停に向かうだけですけど」
「百舌さんの友達よね? 何の用事?」
「違います。警察、呼びますよ」
ドーン、迫ってくる男と双葉の間に大きな音が突き抜けて、風が巻き上がった。叫び声が聞こえた。
「逃げなさい。片桐双葉」
風に紛れれば逃げられる。吹き上げる風に勢いを与えて、追ってくる相手の視界を遮り、その風に乗って、その場を離脱しようとした。眼光、相手がこちらを見ているのが分かった。
(あっちも、何かある)
駆け引きが必要な展開になるとは思わなかった。大きな風の来た方向には、双葉の協力者が居るはずだ。
「乗って」
双葉を呼んだ声の主が、車の扉を開けて居た。そして双葉は迷わずに飛び乗った。車の扉を閉めると、車はエンジンの音を立ててその場から離れた。
「すいません、助かりました」
双葉がそういうと、運転席から機嫌の悪そうな声が返ってきた。
「おい、シートベルト締めろ。あと、珊瑚、さっき言っただろ。撃った後すぐに動くな、銃口はすぐに下ろすなって」
「おっさん、私に命令しないでくれる? アンタがしっかり百舌聖を守らないから、私がわざわざ来なければならなくなるんでしょうが」
「あの、ありがとうございます」
「やっと本物に会えたわね、片桐双葉。岩下珊瑚と、その僕、百舌陽一郎よ」
隣に座っていた小柄な少女は自信満々に双葉に話しかけてきた。
「は? 何で俺がお前の僕なんだ」
それに対して、百舌陽一郎は異議を唱えた。
「可哀そうな眷属に素晴らしい助言を与えたこの私に苦言を呈するとは、身の程をわきまえなさい」
(眷属って凄い言葉使うな、この子)
「どうして、私の名前を知ってるの?」
「織原から連絡があったからよ。それに、片桐双葉を語る、篠塚椥紗に出会ったわ。これだけ接点があれば十分。百舌聖を救出するのに協力者が居るのは悪くないし。さ、百舌陽一郎、戻るわよ。寝るから、安全に送り届けるのよ」
「ちゃんとベルト締めて寝ろよ」
「当然よ」
双葉は、珊瑚と陽一郎のやり取りを見ながらあっけにとられていた。
「『言いたいことは言わせておく方がおとなしい』とコイツの保護者から言われている」
「あの、百舌って」
「百舌聖は、俺の従妹。北大屋町町長、百舌大次郎の一人娘。まぁ、宮森のおっさんはろくなこと考えねぇからな。俺を選挙に出させようなんて考えるんだから」
「選挙?」
「国会議員になれって」
「なれって言われて、国会議員になるって」
「宮森道夫は、単なる道議会議員ではないからな。宮森家は、道内じゃ国会議員との繋がりがあるから、お偉い先生方と繋げてやるって偉そうに、な」
陽一郎は、鼻で笑いながら、饒舌に語った。
「気に入らねぇんだろ。北大屋町が、ギュフと結託して、でかくなっていくことが。隣町との合併話に乗らなかったのは、町に金があったからだ。それが気に入らねぇんだよ、あのおっさんは」
雁湖学院が出来る前から、ギュフは北大屋町に生産拠点を作っていた。規模は小さいが、工場があり、そこで作られたカバンの中には、丈夫で軽い麻カバンのとして、ブームを起こしたものもある。この生産拠点があるために、北大屋町に働く場所があり、その財政は安定していた。
北大屋町の政治的な状況よりも、気になることが双葉にはあった。この百舌陽一郎という男が、岩下珊瑚と一緒にやってきたこと、そして珊瑚が大きな風の力を使ったことに、何も動じていないことに納得が出来ていなかった。
「あんな風は面白いだろうな」
田舎の滅多にない交差点の信号機が赤信号で、車が止まった時に、陽一郎がつぶやいた。
「陽一郎さんは、風の力、不思議に思わないんですか?」
「珊瑚のか? まぁ、俺のダチはよくわかんねぇやつだから、そういうことがあってもおかしくないんじゃねぇか。それに、風の力にはよく泣かされてきたからな。風には、世話にもなってるし、煩わしい思いもさせられてる」
「泣かされる?」
「俺、競技射撃やってっから。風で、弾の飛び方、変わるからな。風を読むのは大事なのよ」
「競技射撃って、あんな凄い風起こせるんだ」
「いや、あれは、よくわからん。そもそも銃は街中で撃っていいものじゃない。ちゃんと講習会を受けて、警察から許可をもらって銃を所持してるからな。その講習会で、説明を受けるし、真剣に競技やって鉄砲と向き合ってる奴は、そういう使い方はしないだろ。あー、でも今日のはちょっと自分のポリシーに反しちまったかもな」
陽一郎は、舌打ちをして続けた。
「銃のストック、銃床は俺のお古を渡したからな。ま、これは持つのに許可はいらないし、ノーコンだったけど、打ち方も少し教えたからな。中身を作ったのはコイツの兄貴だけど、街中でぶっぱなした責任は……、俺にはないな。ああいうのだと思ってなかったし。まぁよくわからなかったけど、ノーコンだった。だからな、もう少しフォロースルーを……」
「あれ、当たらなくて良かったと思いますよ」
「まぁ、よくわからねぇけど、当たったらケガするだろうしな」
そういうことじゃない。あのホストのような男は、気付いていた。珊瑚が放った風の力が、異能の力であることを。命中していたならば、更にその詳細を知られてしまっていただろう。双葉が百舌聖の様子を探ろうと、宮森道夫の自宅の周りをうろうろとしていたが、付けられていたことに全く気付かなかった。聖にマークした颯の様子に変わりはないから、謙人に頼まれたことはうまくいきそうだが、不安は払拭できなかった。
そのホストのような男は、歓楽街の居酒屋のカウンターで電話をしていた。
「うん。これ、ギャラ上げてもらわんと割り合わんわ。いくら? せやなぁ、二桁ほどあげてもらいたいんやけど、出せる?」
ホストのような男が電話をしているのを、聞きながら、店主はビールサーバーのコックを開いていた。
「いらっしゃい」
「あらぁ、りっちゃん、元気してた?」
「ああ、姐さん、今日も麗しゅう」
「やぁだぁ。この子は口がいいんだから」
「親父さん、姐さんに生一つ。」
「良いお仕事が来たのかしら?」
「せやね。ちょっとホンマの仕事、出来そうやねん」
りっちゃんと呼ばれたその男は、男性のような筋肉質で、ハスキーボイスの女に嬉しそうに笑った。
「久しぶりやからね。客引きの仕事に飽きてきてたから」
「張り切りすぎないようにね。で、コレとコレ、食べたいんだけど、おごってくれない?」
「姐さん、稼ぎ、俺より全然ええやろ。それは自分で頼みなはれ」
厚かましい姐さんのお願いを断って、りっちゃんは栃尾の油揚げを口に入れた。
雁湖の寮のバス停で、百舌陽一郎は、片桐双葉と岩下珊瑚を下ろし、去っていった。椥紗は自分の部屋に戻っていて、シェアダイニングのソファでスマホのゲームをしていた。
「お帰り~。え、えっと何で、コーラルが?」
「はぁ? 何そのコーラル」
「いや、アナタが言ったんでしょ。それで、何で私の家に?」
「ここが私の家だからよ」
「私の家?」
「そう。そんなことも分からないの」
「いや、私の家ですけど」
「ここよ、ここ。111-C号室は、私の部屋なのよ」
「じゃあ、あの屋上のは?」
「ああ、あれは、研究室、ラボよ」
「今までどこにいたの?」
「ラボよ」
「それって、学校の中に住んでたってこと? ごはんとかは?」
「そんなの、適当にしてたわよ」
この区画には、椥紗と双葉の個室を合わせて8つの部屋がある。6つの部屋が空き部屋だったけれども、寮には空き部屋がたくさんあったから、そんなに不思議なことでもなかった。
「で、今日から入居?」
「違うわ。私はもう初日の朝に来ていたの。入居初日の朝にね。即ち、一番乗りね」
なぜ珊瑚は傲慢に振舞っているのだろうか。椥紗は不思議に思った。個室のカギを開けて、中を確認して、珊瑚は呟いた。
「さすが翡翠ね。完璧だわ。アナタたちが、見たいなら見せてあげるけど……」
「いや、別にいいけど……」
「見たいわよね。仕方がないわね。そこまで言うなら、見せてあげるわ」
椥紗にはどうして偉そうなのかよくわからないので、何か圧倒されてしまって、どうしていいのか分からないので、双葉の反応を伺おうと振り返ったが、双葉の姿はなかった。とりあえず、珊瑚の言葉に頷いてみる。
恭しく開いた扉の向こうには、グレーとか青みがかった色が基調の落ち着いた普通の部屋があった。とりあえず、椥紗はいいねという意味も込めて何度も頷いた。
「お湯沸かしたからお茶飲もう」
双葉が呼ぶ声がダイニングから聞こえて、椥紗ははーいと返事をした。
「今日のごはんの残り、貰ってきたんだった。晩御飯まだでしょ? 珊瑚も食べるよね? 美味しいよ」
「アンタがなんでそんなこと知ってんのよ」
珊瑚は急に激しい口調で椥紗に返答した。
「んっとね、それは、双葉が札幌に行ってたことは、レオンから聞いたから知ってるの。一緒に帰ってきたってことは、一緒に行ってたとか、そういうのなのかなって」
「レオン……。織原か」
「それで、アンタは、私の敵?」
「は、敵?」
「織原に聞いたってことは、北大屋町の話、聞いたってことでしょ。アンタは、私たちの敵?」
怖い形相で迫ってくる珊瑚に、椥紗は驚いた。警戒しているにしても、自分の思っていること、感情を露わにしてくるというのは、個性的だ。攻撃的な振る舞いに対しては、油を注がないのが懸命だ。そして、椥紗は、落ち着いた口調で、返答した。
「敵? 敵って、珊瑚にとってどういう人のこと?」
「百舌聖が札幌の高校に行くのが良いって思ってるの?」
「いや、私はよくわかんないよ。百舌聖さんって誰? あ、百舌陽一郎って人は知ってるけど、珊瑚とレオンが同中ってことは聞いたけど」
珊瑚のキツい振る舞いが、個性だとみなすことができても、その攻撃を実際に受けて冷静さを保つのは難しい。オロオロと動揺する椥紗を見て、珊瑚は椥紗が彼女に対して害をなす存在ではないことを確認したのだろう。冷静さを取り戻して、また偉そうな口調で話してきた。
「いいわ。とりあえずご飯を食べてあげる」
「あ、うん。じゃあ、用意するね」
「何を用意するの?」
「今日は、タコ飯とオードブルっていう感じだったんだけど、お刺身とかは痛むから、蒼佑の部屋で食べてきたのね。だから、主にタコ飯って感じかな」
「タコ? 何で私があんな軟体動物を食しないといけないのよ」
「え。嫌いだったら食べなくてもいいけど、美味しいよ。でも、タコ飯なしだったら、食べるもの、スナック菓子くらいしかないんだけど、良いの? 身体に悪いだろうし。私はおすすめしないな。だからと言って、何もないんだよね。もう食堂も閉まってるし、朝まで何も食べないなら、お腹すくよ?」
珊瑚の面倒を見ている椥紗を見て、双葉は驚いたが、安心感も覚えた。この振る舞いは、椥紗の面倒を見てくれている春日伊織みたいだ。頼りなかったはずの椥紗が世話する側になっているというのは面白い。
「タコはさ、蒼佑の実家から送ってきたやつだもん。普通より美味しいよ。でも、今日ので送ってきた分なくなったって言ってたから、しばらく食べられないかも。だから、絶対食べといたほうがいい。もしも、いや、万が一、食べないなら、明日私が食べるから、食べられそうな分だけ取ってね」
珊瑚はニコニコと微笑む椥紗の身体をぐいと押した後、部屋の扉を閉めてしまった。何が珊瑚の癪に触ったのか、タコを食べるのがなぜそんなに引っかかっているのか。不遜な態度を取られたことに、椥紗はモヤモヤとした気持ちになった。その椥紗の気分を変えようとしたのか、双葉は、お茶とお湯を入れた急須を持ってきて、あえて大きな音を立てて、テーブルに置いた。
「蒼佑のごはんなら、楽しみだな~」
「蒼佑のごはんなら? って私の作ったものだったら食べたくないみたいな言い方だね」
双葉の言葉に、椥紗は卑屈な言葉を返す。料理は苦手ではないけれども、とても得意というわけではない。だから、蒼佑よりも料理ができないことをそんなに気にしているわけではない。けれども、皮肉を言わないと気分が落ち着かなかった。珊瑚にきつい言葉を投げかけられて、精神的なダメージを受けたようで、冷静に感情を処理することが出来なかった。
「椥のごはんもおいしいけど、今日は作ってないんでしょ?」
「そんなに作ってないじゃん。この前のは春日ちゃんが作ったのだったし。蒼佑ほどじゃないけど、私だってさ、出来るんだから。ご飯は炊けばあるし、ハムとかもあったし……」
「それはやめて、今から作ったら、疲れて明日、学校にいけないってことになりかねないし、別にそんなにお腹もすいてないし」
椅子から立ち上がろうとする椥紗を諫めて、双葉はお茶を一口すすった。椥紗も同じようにお茶をすすった。玄米茶で、温かくて、なんだか落ち着いた。
「っていうか、何で双葉と珊瑚が一緒に帰ってきたの?」
「ん、たまたま」
それで納得してくれるなら、その方が良いと思った。
「たまたま? あ、そっか、バスで一緒になったとか」
「うん、そうだよ」
「何だ、一緒にとかじゃないのか」
(うまくごまかせたのかな)
双葉は、息をついて他の話題を振った。
「今日は、レオンたちと何の話をしていたの?」
「ねぇ、何で、答えてくれないの?」
「レオンから、聞いたんでしょ。私が札幌に行ってること」
双葉がレオンから頼まれた、「百舌聖を探す」ということを椥紗に話すかどうか、答えあぐねていた。「織原か」と不機嫌そうに言った岩下珊瑚の様子から察するに、双葉がレオンから与えられた情報とは異なっている。北大屋町に係わり合いがない双葉にレオンがわざわざ嘘をつく必要はないと考えると、百舌聖と、織原謙人と、岩下珊瑚の三人の間でうまく意思疎通が図れていないということになるだろうか。
宮森道夫の自宅の近くで出会ったホストのような男のことを考えると、椥紗がこの件に深くかかわるのは好ましいことではない。
「うんっと確かお兄ちゃんに会いに行くとか言ってたけど」
「ああ。私は、裕也君に会いに行ったと思ってたんだ」
「うん……。あれ? 違うの??」
「ん、どっちかっていうと買い物かな」
「は、どういうこと。わざわざ札幌に行かないと買えないものって何?」
「色々あるよ。趣味に必要なもの、かな」
「趣味に必要なもの。それはアニメか何かの……。ですなぁ、確かに、北大屋町にはそういうお店ないよね」
納得した後、椥紗は双葉に迫るように話し始めた。
「っていうか、はまったのって何? 何が双葉の押しキャラになったの? 学校終わってすぐに札幌に向かっても、閉店まで結構ギリギリでしょ? 週末まで待てないっていうくらいはまったってことでしょ? それって何なの?」
寧ろ、迫ってくる椥紗に対して、何なのと返したかったが、苦笑いして、とりあえず頷いておくことにした。双葉の兄である片桐裕也は、確かに札幌に住んでいるが、今回は連絡をしていない。
(まぁ、遅くなって戻れなさそうだったら、裕也君に泊まらせて貰おうとは思ってたけど。椥は、裕也君の連絡先知らないわけだし、裕也君に会いにいくつもりだったってことにしておくのが良いかもしれないな。でも何で陽一郎さんのことを知ってるんだろ)
椥紗の様子から推測するに、椥紗は百舌聖のことは何も知らない。一方で、双葉は、椥紗がバスではない手段で寮から瑞穂ショッピングモールまで来た事は知っていたけれども、陽一郎の車だったというのは知らなかったから、なぜ百舌聖のことを知らないのに、百舌陽一郎のことを知っていることが不思議だった。とはいえ、百舌陽一郎と椥紗との関係を詳細に知ろうとするのは、メリットよりもリスクが大きそうだ。
それにしても、この話の流れだと、双葉は雁湖に来てからアニメの押しキャラができて、その押しキャラのグッズを買うためにわざわざ札幌までいったということになる。そのニッチなアニメグッズを売っている店で、珊瑚と出会い、一緒に帰ってきた。これなら筋は通りそうだが、そういう勘違いをされるのはなんだか不本意でもある。
椥紗は、冷蔵庫からタコ飯を出して、それを適当に皿に盛ってレンジで温めていた。札幌に行っていた理由をどう繕えば、椥紗をごまかせるだろうか。ホスト風の男は危険だ。椥紗とか関わらせないほうが賢明だ。そのことを考慮に入れると、、謙人からの依頼にどこまで応えるかを調整する必要がある。
「そういえばさ、知ってる?レオンのお母さんってさ、四月の終わりの町長選挙に立候補するんだって」
「町長選挙?」
「織原睦美っていう人が、うちの学校で講演会するっていう話聞いた? あれ、レオンのお母さんなんだって」
「織原睦美? 誰?」
「あれ、知らない? 掲示板にポスター貼ってたよ。りーまちゃんに聞いたんだけどさ、今年の四月は全国の色んな町とか村の改選選挙がある忙しいんだって」
日本には、地方統一選挙の年というのがある。市町村の首長、即ち市長、町長、村長、そして市町村の議員の任期は4年であり、特別な事情がない限り、全国同じ年に改選が来るようになっていて、全国の様々な地域で同じ日に選挙が行われる。その年は4の倍数の1つ前の年で、夏季オリンピックの1年前。そしてそれは4月に行われる。
「北大屋町の町長って百舌大二郎っていう人だよね?」
「え、そうなの? 百舌? 百舌ってことは、あのおっさん、町長ファミリーってこと?」
「おっさんって、誰?」
「あああ、だからね。百舌陽一郎っていう人。あのさ、前の休みに瑞穂ショッピングモールで待ち合わせたでしょ。その時に、ボランタリーヒッチっていうアプリで、自家用車に乗せてくれる人を探して、それでマッチしたのが百舌陽一郎っていう人だったの。タバコ臭いおっさんだったけど、鉄砲の話をする時、凄くキラキラしてる人だった」
わざわざ聞き出そうとしなくても、全部話してくれるのか。たまたま相乗りさせてくれる相手として百舌陽一郎と知り合った。だから、百舌聖のことは知らないのに、百舌陽一郎のことを知っている。
「美味しいでしょ?」
「うん」
椥紗のことを欺くつもりなどはないが、危険に晒したくない。無邪気に話しかけてくる椥紗を見ながら、双葉はその彼女の透明さを閉じ込めたいと思った。
椎野真生が高層マンションの自宅に戻ってきたのは、夕方だった。全国の市町村議員が集まる会合のゲストの一人として呼ばれた真生は、多くの参加者から恭しい挨拶を受けていた。北大屋町にギュフの工場ができ、雁湖学院というギュフの社会貢献の一つとしての教育期間が出来た。北大屋町に雇用が生まれ、ギュフの若い社員が都会から田舎に移住してくるという仕組みを作ったことに興味を持つといって、議員たちは真生に話しかけてきた。しかし、対応しているうちに、その議員の殆どが実際には、「ギュフが自治体にもたらす税収を増やした」ということに興味を持っているということに気付かされた。考え方の違う者と話をすることは煩わしいし、時間の無駄だ。議員なんていう威徳をかぶった奴らだ。どれだけその衣を自己と同一化出来ているか、それを鑑賞するのは面白いが、同じ舞台に立たされるのは、辟易する。
「喜んで協力させていただきますっていうのは大体社交辞令。さて、口直しの紅茶を入れてくれないか、柊」
「マオ、怒ってる?」
「全然。だから、人間は面白い。ただ、食あたりを起こしそうだ。だから、慣れた縁側でゆっくりとお茶を飲みたい」
心配そうに声をかけたメイ・ノーランの後ろからやってきたのはピクシーだった。
「折角留まっているところを見つけたんですから、逃がしませんよ」
「丁度いいところにピクシー君。君、甘いものが好きだろう」
「僕のことはどうでもいいんです。CEO、やっと帰って来ましたね」
プリプリと怒っているピクシーに近付き、両手を広げると突っ慳貪な言葉が返ってきた。
「ハグいらないです」
「もうね、ピクシー君の顔を見ると本当に落ち着くんだよ」
「仕事中です、放してください」
柊もメイも、真生がピクシーにくっつくことを、微笑ましく見つめている。勿論、柊は、真生の紅茶だけでなく、4人分、用意している。真生が、鼻歌を歌いながら、包装紙を広げていると、ピクシーが皮肉を吐いた。
「胃薬を必要とする人からの贈り物でしょう?」
「まぁそうだけど、食べ物に罪はないし、そこには胃薬を必要とする想いは反映されていない。僕はこの食べ物を口にしながら、その送り主の執拗さを思い出すけれども、君はそのくどさを知らない。食べ物そのものを楽しめるじゃないか」
「今、そういうことを言われたから、この食べ物の重たさがぐっと上がったじゃないですか」
「確かに。まぁ、君は細いんだから、食べないと」
「僕は、そういう食べて強くなろうとする体育会系のノリは苦手です。これって、パワハラみたいなものじゃないですか」
「パワハラと適切な指導はほぼ紙一重ってことだよ。同じ行為でもどちらとみなされるかは、受ける方の気持ち次第じゃないか」
ピクシーの方が自分よりも大きなストレスを抱えてここに来たような気がする。真生は、その話を聞く前にそのストレスが導く負の作用を緩和させたいと考えていた。ピクシーのためではなく、そのストレスがそのまま発露すれば、その影響をこうむるのは真生とここに居る柊とメイになる。
感情を発露できるくらいの信頼関係を築くことは、より高いモチベーションで仕事をするのに肝要だ。真生は、感情を剣や刀のように考えている。それは、目的を切り開く道具にもなるし、自らや味方を傷つける害にもなる。時々リモートを行うこともある真生の東京の自宅の空間には、メイ、ピクシー、柊しか入れない。ルールを作ることで、世間に晒している自己が瓦解しないようにしている。
人間は、全ての人間を受け入れられるような神じゃない。神だって、全ての人間を受け入れているわけではない。ある宗教を信仰している人間は、神に仕え、その理想をかなえるための行動をとるはずだが、聖戦だのなんだの言って、異教徒を殺すのは、歴史上良くある話だ。7世紀のジハードも、11世紀の十字軍も、15世紀に達成されたレコンキスタも自分の同士以外の人間に対して残酷になることが寧ろ推奨された。
様々な人間を受け入れることを求める共生の社会とやらは、第二次世界大戦んを経て、戦争の恐ろしさを知った人間たちが考えたある種の発明かもしれない。机上の空論、絵に描いた餅、理想でしかない社会だ。残酷になることを否定された社会だ。即ち、我々は自らの生のために他者と戦うことを良しとしない。何かの死をもって人は生きるのに、共生という秩序はその根幹を揺るがす。
人が神以上の存在になることを求める傲慢、共生の社会はそういう罪を背負いながら存在する。確かに、科学技術が多くの飢えから人間を救った。だが、科学技術が全ての人間を富ませる? そんなこと可能なものか。その傲慢さに気付かない愚者がどれほどいることか。それは愚者なのか、道化を演じているのか。願わくば、合理的な傲慢な世界の道化を演じる者が多からんことを。
ギュフという会社が大きくなる過程で、社会貢献というものが課されるようになってきた。そもそも、消費者が求めるものを生産している時点で社会貢献だと思うのだが、なぜか企業が大きくなることによって、わざわざ企業の社会的貢献(CSD)とやらが課されるようになる。真生は、これに対して、抵抗を覚えている。ギュフという企業が、貢献するべき社会とは何か、日本なのか、世界なのか。知りもしない社会のために何ができる? ギュフが守るべき社会は、企業の中に属する人間の社会だ。大きくなればなるほど、ギュフに属する人間は増える。その人間を守ること、豊かにすることが、一企業に出来る貢献だろう。
その社会を突き詰めていくと、真生にとって守りたい最後の砦は、メイ、柊、ピクシーという三人の家族のような存在だと考えている。優先順位がはっきりしていると、いざ選択を迫られたときに、迷わずに済む。
「でも、僕は嘘をつく」
「何、独り言で悦に浸ってるんですか」
「まぁ、こういう戦闘話のヒーローみたいなことは考えておきたいよねぇ」
「また、関係ないことを考えて、仕事を遅らせるようなこと考えて」
「もう、ピクシー君は怒りんぼだなぁ。今はブレイクタイムでしょ。関係ないことを考える方が適当なのよ」
柊の入れた紅茶を飲み、いわくつきのお菓子をつまむという休憩時間をはさんだ後、真生はピクシーの持ってきた書類を手に取った。
「あー。やっぱり許可下りなかったか」
「ただの嫌がらせでしょ。書類が足りないって文句つけて申請許可を遅らせる。睦美さんは三つ葉で経験したってよく言ってましたよ」
「三つ葉でねぇ。睦美さんにざっと見てもらったんだけどな」
「町議会が邪魔してるんでしょ?」
「さぁどうだろうね。睦美さんは、通るようにやってくれてるみたいだけど、まだ町側に味方が一人じゃ分が悪いな」
「ま、四月末の選挙次第ですね」
「それで、勝算は?」
「町議会に立候補するのは三つ葉ワインの社員、2名。栂尾幾夜と小森梓、候補者名としては、つがおいくやと小森あずさ。二人は北大屋町に住み始めて10年程あって、睦美さんの肝いり。睦美さんの町議としての仕事もある程度知っている」
「まぁ、町長は3人の候補がいますけど、現職、百舌大二郎と織原睦美の一騎打ちですよね。どう考えても、勝つのは厳しいですよ」
「さて、どうかなぁ。とりあえずは雁湖学院の講堂での演説会の成功が肝になるだろうね。スタッフの配置は決めたの?」
「人事課の現場責任者のプロが3名ほど手配できています」
「じゃあ、あとの必要なスタッフは雁湖の生徒からでいいんじゃないかな? 選挙は、身近に存在するのが良いだろうし」
「バイト募集のチラシ依頼、集まらなければ、社員で補填出来るような調整をしておく、と」
織原睦美が、選挙で勝つことは難しいことは真生自身がよくわかっていた。ただ、睦美の選挙活動を応援するようなことは面白そうだから、やってみることを勧めた。ギュフという会社をより発展させるために必要なのは、ネットワークを広げることではなく、盤石な生産基盤を作ることである。都会には、そんなものはない。お金を吸い上げるのは、都会でだが、吸い上げるための手段、生産物は、自然という資源の多い場所で生まれる。生産物とは何か、それは、ギュフの店舗に並べる商品はその一部に過ぎない。お金のためにならないものもある。それを価値を見出す非効率なやり方こそ、合理的だと真生は考えているし、それに対する支持者はいる。だからこそ、面白い。