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ハガキ 風の物語  作者: 伊諾 愛彩
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風の物語 5.休日

5.休日


 入学式は金曜日で、土日は授業のない学校だったから、翌日から二日間は休みだった。朝六時、アラームをかけていなかったのに、目が覚めた。頭がすっきりしていたから、カーテンと窓を開けた。冷たい風が部屋に入ってきたが、その風を椥紗は気持ちいいと感じた。キッチンに向かい、ポットの電源を入れて、冷蔵庫を開ける。ヨーグルトとミルク、パンと紅茶。朝食を準備しながら、双葉の部屋の前を通ったが、物音がしなくて、とりあえず食べて散歩にでも行こうと思った。

 七時前には、ネットでニュースを確認しながら、ダラダラと身支度を整えて外に出る用意ができた。それでも、双葉は部屋から出てくる気配がなかったので、スマホだけをもって椥紗は外に出た。朝一で感じた通り、風は気持ちよかった。

 週末はどのように過ごすか考えていなかったので、街に出かけるのもアリだなと思って、バス停まで行って、時刻表を確認しようと思った。スマホで確認することもできたが、そのページを検索するよりも、直接見に行った方が早いと思った。バス停には数人いて、その中には見慣れた顔もいた。

「あ、蒼佑、おはよ」

「おはよう。椥紗? 朝、早くね?」

「それは、そっちもじゃない?」

「俺は、バイトで札幌まで行ってくる。もうすぐバスくるからな」

椥紗が時刻表で確認すると1時間に1本バスがある。一番近くにある弁天ショッピングモールを通って、空港と札幌に行くバスと、ショッピングモールからここを通って、空港と札幌に向かうバスがある。時刻表の横に、ボランタリーヒッチという文字と一緒にQRコードが貼られている。

「ボランタリーヒッチって何か知ってる?」

「車持ってるやつがヒッチハイクみたいに乗せてくれるんじゃねぇの。あ、バス来たから乗るな」

「あ、うん」

(昨日、タコ焼きパーティーして、今日は朝からバイトか。すごい生命力だな)

前の高校を辞めて、蒼佑は親に迷惑をかけないように頑張っている。ちょっとした敬う気持ちを覚えながら、椥紗は無料のWi-Fiがありそうな場所を探して、ドミトリーオフィスに入った。

 QRコードから表示されたページに入ると、アプリの説明とインストールがあって、とりあえずダウンロードすることにした。時間がかかると思って、スマホを伏せると、後ろから声がした。

「おはよう、椥紗ちゃん」

トレーニングウェアの理真美が、濡れた髪をタオルで乾かしていた。

「おはよう。朝、早くない?」

「え、そうかな。うちの家、もっと朝から仕事してるから、私としては、むしろ遅い方だけど。また、ネットしてるね。不健康じゃない?」

「都会っ子だから」

「じゃあ、折角今は田舎にいるんだからさ、ストップストップ。今から、散歩するけど一緒に行かない?」

「行く行く」

理真美は、小さなリュックからクリームを取り出した。

「何してるの?」

「日焼け止め。使う?」

椥紗はうなずいて、クリームを受け取った。

「いや、田舎でも使うんだな、って」

「何、それ偏見だよ。田舎の子だけど、日焼けするの気にしてるよ。農作業って、外のこと多いから、色んな日焼け止め試したし」

言われてみればそうだよな。椥紗は、自分の偏見を反省するように下を向いた。荷物のチェックをしていた時に、伊織に日焼け止めを持っていくように言われていて、片付けた覚えもあるのに、まだこっちに来て一度も使っていない。

「それで、どこまで散歩に行くの?」

「うーん。土日は学校内入れないから、地図アプリ見ながら行けるところまで。あ、一応、熊鈴持ってきといたよ」

「くますず?」

リュックの外ポケットから直径五センチくらいの鈴を出して、理真美は一度カランと鳴らした。

「熊と遭遇しないようにするための鈴。ヒグマは大きいから遭遇しないように熊鈴つけるの。人間がここに居るんだよってことを示して、近づいてこないようにするんだ」


熊に限らず、野生の動物はむやみやたらと人間に近づいてくるものではない。山や森で十分な食べ物が得られなくなったりしたイノシシやサルが、街に出てくるという話を椥紗も聞いたことがあった。滅多にあることではないが、北海道で一番大きな町の札幌にさえ熊が出た。自然は気持ちよくて、素晴らしいものであると同時に、危険なものでもあるのだ。

 椥紗と理真美は、遊歩道に沿って歩いていった。寮の近くには、ギュフの社員用の宿泊施設があって、その周りにはテニスコートとか、バスケットコートとか、リゾートホテルとかに付属しているようなレクリエーション施設があった。遊歩道は、途中から上り坂になっていて、それを登っていくと、森の入り口があった。夜間通り抜け禁止という看板があって、その下には電灯がないので暗い日は危険です。動物に遭遇しない装備を。とかいくつかの警告が書かれていたけれども、理真美はためらわずに入っていった。整備されていた道も、土の上に落ち葉が積もったような道で、道から離れた場所だったが、雪の残っているところもあった。

「靴、ちゃんとしたの履いてる?」

険しい山になると登山靴は必須で、これくらいの道でもトレッキングシューズがあれば理想的だったが、あいにく二人とも普通の運動靴だった。

「遊歩道から離れないようにした方がいいね。危険だったら引き返すのもアリかも」

そんなに危険な場所なんだろうか。椥紗は、地図アプリを開いて、現在の位置を確認した。道なりに行って、途中の分岐を右に曲がっていけば、そのまま寮の方に戻っていける。理真美に確認してもらって、アプリが示すように進み始めた。

森は木々が生い茂っていて少し暗くて、静かで鳥の声が時々聞こえた。思ったよりも、道は整備されていて、ギュフが手間をかけているということを理真美は察した。途中にログハウスの小屋とかがあって、そこを拠点にして森の整備をしているんだろう。手を加えなければ、人間が気安く入れるような場所にはなっていないはずだ。都会の人間は人工物に囲まれて過ごしているから、田舎の自然を満喫しに来るが、決して、自然は人間に対して恵みを与えているだけではない。時に、自然は危険で残酷だし、丸腰で付き合えるような相手ではない。

 上り坂、下り坂、平らな道。急な勾配はなかったけれども、道は気まぐれだった。車の音が聞こえないことに、気が付いて椥紗に不安な気持ちが押し寄せた。

「あのさ、もしもここで大けがしたりしたら、助けてもらえないよね」

「まぁそうだね。でも、電波あるし、ちょっと急げば30分で来れるし、大通りからのショートカットとかもあるだろうし。大丈夫だよ」

人間が便利な生活を享受するために長い時間をかけて作ったのが都会。そのもともとの姿は、こんな風にいびつで、荒々しい。

「あ、こんにちは」

反対側から歩いてくる人に、理真美は挨拶をした。相手は会釈をして、すれ違っていった。

「知ってる人?」

「ううん。知らない人だけど、山登りするときとかは、挨拶するんだ。その時に、山頂の様子を教えてもらったりとかあるからね」

「知らない人に声かけて、変な顔されたりしないの?」

「されるの? 別にされたって気にしなくていいっしょ。いざという時は助け合うものだし、山にいる人は大事な仲間だから」

「仲間?」

「そっか。都会ってそういう感覚ないよね。助け合わないと、やっていけないっていう感覚。たくさん人がいるもんね。近所の人がむかつく人でも、人が少ないから、大切にしないとさ」

「確かにね」

「ここは、ギュフの社員とかうちの生徒しか来られない場所。要するに、ここに居る人は『関係者』なわけでしょ。だから、安心して挨拶すればいいと思うよ。安心してって、挨拶するのに、不安になったりする必要なんてないのに、不思議なこと言ってるよね」

理真美は、都会の人の「冷たさ」を知っているから、椥紗の考えに寄り添った説明をすることができる。その気遣いが、椥紗の心を開いていく。

「気持ちいいところだけど、ここで出来そうなのは、山菜採りとキノコ狩りくらいかなぁ」

理真美はブツブツと呟いている。

「途中の小屋を使って、キノコ栽培とかもいけるかもしれない。天候が変わったときに、一時的に雨宿りできる場所とか確保して……」

椥紗には理真美の言っていることの意味がよくわからなかったが、椎野真生に宣言した計画のことを考えているということは分かる。理真美は学校内で一次産業を中心としたビジネスを作り、そのモデルを地元に持ち帰って地域活性化に繋げようとしている。三年間という限られた時間の中で、より意味のあるものが作られるかどうかは、始まりが重要だと考えていた。

「土地を開いて、畑にして、それから作物を作っていく。これじゃ、手間がかかりすぎるのよね」

「さっき言ってた、キノコ栽培とかじゃダメなの?」

「キノコは悪くないんだけどね。違うんだよね、『何か』」

椥紗は花に水をやる程度のことはしていたけれども、ガーデニングとか畑仕事といったものに興味があまりなかったので、その『何か』が何なのか、見当もつかなかった。

「これ、フキノトウだよね。これって食べられるんでしょ?」

苦し紛れに、たまたま知っている植物を指さして、椥紗が尋ねると、理真美は微笑んだ。

「もう花が開きかかっているから、苦いよ。それに黄色い雄花だから、ちょっと気を付けないといけない」

「山菜採りとか、いけそうじゃない? りーまちゃんなら、できるよ」

「できるとは思うけど、『何か』違うんだよね。キノコや山菜採りは、間違って毒のあるものを採っちゃうリスクもあるから、怖いし。仕事にするなら、もう少し誰でもできるものがいいんだよ。クラブみたいな感じでやりたいから、何も知らなくても始められる、みたいな」

椥紗が、良いアイディアを出せないかと頭を抱えると、理真美は肩を叩いて言った。

「そんな、考え込まないで。これは、私のやりたいことだから。一生懸命に考えてくれるのは、凄く嬉しい。ありがとう。今日は、散歩、楽しもう」

そう言われると、椥紗は心がとても温かくなるような気がした。一人で散歩していたなら、森の入り口で引き返していたと思う。こういう景色に慣れている理真美が傍にいるから、安心してこの景色を楽しめるのだ。気温は低かったけど、ずっと歩いていると身体が少し汗ばんできた。臭くなってきていないかを確かめるように腕を上げて脇の匂いをかぐと、理真美が笑った。

「臭いわけないっしょ。気にしすぎだよ」

中学校のロッカーは、いつも人工的な匂いがほのかにしていたし、体育の後とかは消臭剤のスプレーの音あちらこちらから聞こえていたから、敏感になっていたのかもしれない。椥紗のことを指摘されていないのだけれども、「臭い」という言葉が妙に残っている。言った本人は、思春期独特の父親や男の兄弟の匂いを不快に感じることを言っていただけなのかもしれないけれども、自分のことを言われているのではないのかと意識してしまう。

 鼻から深く息を吸って、森の匂いを身体に取り入れてみた。自分の臭いは全くしなくて、澄んだ空気が気管を通って身体に沁みわたっていく。繊細でややこしい都会の感覚が、消えてゆき、もっと大きなものが入ってくる。

 まっすぐな道になり、椥紗は少し早足で歩き始めた。時々鳥の鳴き声や、カサカサと葉が揺れているような音がする。色んな音が聞こえる。今まで聞こえていなかったほどの小さな音が世界を取り巻いているのだ。椥紗は嬉しくなった。少し後ろを歩いていたはずの理真美は考え事をしていて、椥紗は彼女を置いていくことになってしまった。これはまずいと思って、止まって待つことにした。

「やっぱり、畑なのかもしれない」

「畑?」

「あ、何でもない。クラブのこと考えてて」

クラブという言葉が、椥紗を現実に戻し、スマホを手に取った。新着のお知らせがついていて、双葉からメッセージがあった。珍しいなと思って、内容を見た。

「ぎゃあ。あのさ、ここからバス停までって、どれくらいかかるかな?」

「バス停まで? 地図アプリ見たらいいんじゃないかな。多分戻るより、前に進む方が近いだろうから」

「11時のバス、間に合うかな?」

「11時? あと20分くらいだね。速足で行けば、ギリギリつけるかもしれないけど、ショッピングモールに行くなら、服着替えるとかしないの?」

「うん。するよ。ってことは部屋にまず戻って、準備してって絶対無理じゃん」

それでも何とかしようと、椥紗は走りだそうとしたが、ぬかるみに足を取られて滑ってしまった。

「大丈夫?」

「余裕、でも、服が」

手をついて、受け身をとったからケガはなかったが、服が汚れてしまった。駆け足でバス停まで行って、バスに飛び乗るというのも不可能になり、何か別の方法を探さなければならないことが確定した。


午前11時、双葉は、バスの窓から外を見ながら、意地悪なことをしたかもしれないと思っていた。バスが発車する大分前にメールをしたのだから、悪いことをしたわけではない。でも、双葉は、彼女と仲のいい風、颯。その情報から、椥紗が、11時のバスに乗れないことは、予想がついていた。それでも、あえてそのバスに乗ったのは、椥紗がどういう反応をするのか、試してみたかったから。バスの窓を開けて、双葉はスマホを確認した。


11時のバスで瑞穂(みずほ)ショッピングモールに行くから。


自分の予定を書いただけだけれども、椥紗は付いてくる。きっと慌てて。颯は、椥紗が予想の通りだったと伝えてくれた。そんなことをして、何になるのだろう。困らせて、どうするのだろう。何かが胸につかえている。中学校の頃は、椥紗には友達がいなかったから、椥紗は自分のことだけを頼っていて、自分だけの椥紗だった。その椥紗がこっちに来てから、新しい友達を作り、その輪の中で変わっていく。それは喜ばしいことなのに、双葉の気持ちがモヤモヤした。独占したいなんて思っていないはずなのに、どうして椥紗の気を引こうとしているんだろう。

どうしていいのか分からない感情だった。分からないなら、それをそのまま受け入れよう。考えたって仕方がないんだから。そう思えたのは、悪くない。同じ区画に住んでいるわけだから、顔を突き合わすことも多い。こんな気持ちを整理するのに、離れている時間を作るのは悪くなかったかもしれない。

瑞穂ショッピングモールに到着し、バスを降りると、金髪の男の子が手を振っている。

「あ、片桐さんだ」

バス停に居たのは、織原レオン謙人だった。

「どうしてここに?」

「俺の家、ここから歩いて5分くらいのところだから、散歩しに来たんだ。ちょうどバスが来たから、誰か、乗っていないかなって思ったら、双葉がいた。あ、双葉って呼んでよかったっけ?」

「うん。いいよ、好きなようにして」

「椥紗は? 今日は、一緒じゃないの?」

「うん。部屋にいなかったから」

双葉の目には、謙人の顔が眩しくて、ついつい視線を逸らしてしまう。謙人は笑った。

「可愛いよね、双葉って」

そういう言葉を掛けられて、双葉は顔を赤らめてそれを手で隠そうとした。その隙をついて、謙人は耳元でささやいた。

「君は、僕のこと特別に思ってるでしょ?」

双葉は驚いて、顔を隠したまま首を振ると、謙人は笑顔で言った。

「大丈夫。僕は、君を好きにならないと思う。僕は、君が思っている人じゃない。君は、僕じゃない誰かを見ながら僕を見ている。そんな風に見えるから」

双葉には、謙人の言っている意味がよく分からなかった。どうして、謙人の姿を見ると心臓が大きな音を立てるのか。恋に落ちるとか、そういう感覚なのだろうか。仮に恋だとしたら、たった今、謙人から言われた言葉は、残酷な失恋を告げる言葉だ。けれども、辛いという感情は出てこなかった。

「ねぇ、少し時間もらえないかな。双葉と話したいんだ」

双葉は頷いた。

 双葉が瑞穂ショッピングモールに来るのは初めてだったから、謙人に続いて進んでいった。エレベーターに乗ってたどり着いたのは、殆ど空車の駐車場に繋がる通路で、自販機とソファがあった。

「ここでいいかな」

自販機の音がよく聞こえる空間に謙人は腰を掛けて、双葉も座るように促した。

「ねぇ、君って、風に好かれてるよね」

双葉は、謙人の言葉にどう返していいのか分からなかった。そのまま黙っていると、謙人は言葉を続けてきた。

「僕が僕であるとき、色んな力が見えるんだ……。おかしなことを言ってるって思ったら、そのまま聞き流していいよ。『見える』力は、分からない人には分からないし、消えてしまうかもしれないような力だから」

「そんなことを私に話してどうするの?」

双葉がそう問いかけると、謙人はふっと息を吐いた。

「力が消えてしまいそうって思ったからかな。蒼佑に会って、僕は違う自分を与えられたんだ。僕のことレオンなんて呼ぶし、俺って言えって言うし。蒼佑は、僕を人間にしてくれるんだ。でも、同時に今までの感覚が消えていって。なんだか僕は自分の存在が薄くなっていくような気持ちになった。僕の『見える』力を共有できる人に話しておけば、僕は、大事なものを君の中に残しておけるんじゃないかと思って」

双葉の風は、いつも近くにいた。それが消えてしまうということは、考えたことがないし、そうなるとは思えない。双葉は謙人に心を開いているわけではない。だから、黙っていた。

「君も似ているのかなって思って。君の周りには、柔らかい風がいて、君はそれを見ている。違う?」

「『うん』って答えてほしいの?」

「警戒してる?」

「そんなんじゃない。どう答えていいか、分からないから。織原君はどういう言葉が欲しい?」

「……僕のこと考えて、答えを選んでくれてるんだ。優しいね、双葉は」

「……そんなんじゃない。嫌われたくないだけだと思う」

双葉は俯いて小さな声で言った。謙人は、双葉の声に合わせるようなボリュームで言った。

「僕は、君を嫌いにならないよ。好きにもならない代わりに、嫌いにもならない。だから、思ったことをそのまま話してくれたらいいんだよ」

謙人は卑怯な人たらしだ。そのペースに巻き込まれるのは好ましくないと双葉は思った。

「ねぇ。今、自分のことを『僕』って言っている織原君は、謙人で、島田君に言われて『俺』に変えようとしているのは、レオンってことなのかな?」

双葉は少し黙った後、反対に謙人に問いかけた。

「ああ、そうかも」

「それで、謙人は風が『見えて』いて、レオンは『見えない』。それって、大人になったときに、子供の時には見えた不思議な生き物が見えなくなるっていうことみたいだね」

心が持っていかれそうなときほど、頭を動かす。そうすれば、いつも以上に鼓動を鳴らす心臓をコントロールできるような気がする。謙人は、双葉が特別な感情を抱いていることに気が付いているのだから、繕う必要はない。彼の言葉の意図を冷静に分析して、最も適した言葉を紡げばいい。

 謙人は、クッっと小さく笑った。それに反応して、また心臓が大きな音を立てた。理性よりも感情が動いている。止めたいのに、それが動いていることが心地いい。そうすると感情が増長して、身体に現れる。双葉の肩を引き寄せて、謙人はまた笑った。目を閉じると、感情が沈殿して、浸透していく。


 一方、11時のバスに乗り遅れた椥紗は、スマホを取り出してさっきダウンロードしたアプリを開けた。

「ボランタリーヒッチ~」

椥紗は、隣にいる理真美に話しかけながらアプリを動かした。

「これはね。バス停にQRコードが書かれてるやつ。多分これ、こういう時のためにあるんだと思う。現在地をGPSで登録して、行きたい場所を指定する。そして、待つ」

ヒッチハイクは、道路脇で親指を立てたり、行きたい場所を示した紙を掲げて、相乗りさせてくれる車を探す行為である。乗せてもらう方は目的地に早く着くことができるし、乗せる側も一人でつまらない行程を運転するよりは、誰かいる方が楽しいというくらいのカジュアルな形で成立していた。最近は、ヒッチハイクを装った強盗や強姦があったりと、その危険性も指摘されるようになった。また、運転手が人を乗せるとその安全の責任を負わなければならないことから、トラック会社などではヒッチハイカーを乗せることを禁じるようにもなった。

 このアプリはその利用者を限定したものであり、ギュフに関わる人間だけが利用できるという前提を作っている。内部の人間をほぼ無条件に信頼できるという特殊な状況だからこそできるヒッチハイクだ。アプリにはギュフの内部の人間であるアカウントを持っていなければ利用できないし、雁湖のギュフの敷地には、原則、社員と生徒、そしてその関係者しか入ることができない。ヒッチハイクが利用できるのであれば、利便性が高まるし、また、利用する車の数を減らすことができれば、二酸化炭素の排出を減らし、地球環境への貢献もできるはずだ。

 椥紗が現在地を送り、希望する到着地を登録する。そして、しばらく待っていると着信音がなって、応えてくれるドライバーの存在を教えてくれた。

「うぉ。むっちゃ便利じゃない」

KD0408003百舌陽一郎、白・軽・ワンボックスカー、KD0408003篠塚椥紗という表示が現れ、それを頼りに車を探した。

「あの車じゃない?」

理真美が指さした方向に現れた車は、少し離れたところで停車し、中から人が出てきた。

「じゃあ、私は、計画書書くから、部屋に戻るね」

中から現れたのは、中年の男性である。作業用のつなぎを着て、黒いサングラスをした体格のいい男性がガムを噛みながらやってきて、椥紗は叫んだ。

「いやぁあん。一人にしないでぇ。ね、一緒に行こ、ショッピングモール」

「えぇー、それは無理。ごめん。また」

「とりあえず、最初だけ付き合って。ね、見送るまで」

椥紗は理真美を鷲づかみにして、話さなかった。

「篠塚っていうのはアンタか? 下の名前は、えっと」

「なぎさ、です。あの、ひゃくしたさんですか?」

「もずって読むんだ」

「へぇ、百舌さん。初めて知った。えっと、ギュフの社員ですか?」

「いや、俺は生徒だけど?」

「は?」

「まぁ、そういう反応するわな」

中年の男性は、サングラスの指で上げて言った。

「百舌さんって良い人ですよね?」

「良い人じゃなかったら、どうすんだよ」

「良い人じゃなかったら、泣きます」

「泣いてもどうしようもねぇだろ」

「泣いたらきっと、困ると思うんで」

「いや、困ってんのはお前だろ」

「よし、とりあえずよろしくお願いします」

「切り替え、はええな。瑞穂のモール迄連れて行けばいいんだろ。前乗れ、後ろ荷物あっから」

理真美からすっと離れて、椥紗は車に乗り込んだ。

「タバコ臭いんですけど」

「学校は、構内禁煙だからな。吸いたくなるたび外に行ってんの。車の中では吸ってねーんだけどな、まぁ、吸ってすぐに車に乗るから臭いがついてんのか」

タバコ、それは、椥紗にとってパパを連想させるものである。

「何で、タバコ吸うの?」

陽一郎が視線を向けると、椥紗はつづけた。

「パパが時々吸うの。キセルなんだけど、オシャレだからって」

キセルは、自動販売機やコンビニで気軽に買える紙巻のタバコではなく、江戸時代の浮世絵の中で出てくるようなタバコだ。インターネットで注文することもできるようだが、祥悟はわざわざタバコの専門店まで行って、キセルで使える葉を買ってくる。

「オシャレねぇ」

「そのオシャレっていう言葉には色んな意味が込められているんだろうなって。何か、あるんだよね。まだ私は子供だから理解できないけど、その色んな意味の中には百舌さんが共感できるものもあるかもしれないなって思って」

「行くぞ。そんなかっこいいもんじゃねぇよ。キセルなんてわざわざ使う奴のことなんて、俺がわかるわけねぇだろ。俺は、吸いたいから吸ってる。ただそれだけだ」

妙に距離が近い。今、出会ったばかりの陽一郎にプライベートなことを話す椥紗に面喰った。その感情を悟られないよう、彼はサイドブレーキを下ろして、クラッチに足を掛けた。

「ベルト、してるな」

「はい。よろしくお願いします」

 陽一郎は、ドアのポケットに手をかけて、一粒だけ残ったガムを椥紗に渡した。

「食うか?」

「これって、最後の一個だよね?」

「いや、グローブボックスに新しいのあるから。出したらある」

「じゃあ、もらう。タバコの代わりなんでしょ」

「うるせぇな。イライラすんだよ。吸えないとなると」

「それ、もうタバコ中毒じゃん」

「うっせー」

椥紗は笑った。

「パパも、こんな風にイライラするのかな」

「ファザコンか?」

「わかんない。ただ、会えないから、パパの気持ち、分かるようになりたいの」

「ホームシックかぁ。そんなの探ってもわかんねーよ。自分だってわかんねーんだから。吸いたいから吸う。何かタバコは良くない、良くない、言われるけどな。世間が認めねーことが自分にとって大切なものだったりすんじゃねぇの。共感なんてもらえねぇし、望んでねぇし」

「でも、喫煙所とかって楽しそうなときあるよ」

「未成年なのに行ったことあんのかよ」

「ううん。ガラス張りのところで、何か中の人が笑ってて。何か、大人だなって、良いなって」

「中毒者の社交場だな」

「そうだね」

皮肉を椥紗は真面目に受け取るから、面倒くさいと同時に変な奴だと陽一郎は思った。

「なぁ、鉄砲って興味あるか?」

「鉄砲? 興味…あるかなぁ。かっこいいって思ったことはあるけど。撃たれたら痛いよね。そういえば鉄砲っぽいものを撃つ子知ってる。本物じゃないけど」

「モデルガンかなんかか? サバゲ―とか」

「鯖? 魚の?」

「サバイバルの略。サバイバルゲーム、チームに分かれて、森とかで撃ち合うゲーム。知らないってことは違うってことか。俺がやってるのは、何かを撃つやつじゃねぇ。あ、でも、ちょっとの間鹿撃ちもやってたな」

「何かを撃つんじゃなければ、何を撃ってるの?」

「ずっと同じところを撃ち続けるんだ。説明したら、なんか、つまんねーことやってるみたいに聞こえるな」

「でも、百舌さんは楽しいって思ってるんでしょ」

「ん。まぁ、最初は楽しいだったと思うけど、最後はそうでもなかったかもしれねぇな」

「何それ」

「競技射撃。オリンピックにもあるやつだよ」

その後、陽一郎は色んなことを話してくれたけれども、射撃をやっている人にしか分からないようなことで、椥紗は適当に頷いていた。言ってることをちゃんと理解していないこと、気付いていたかもしれない。それでも、陽一郎は機嫌よく話していた。

(射撃、やってみたいかもしれない)

怖そうにも見えたおじさんが、何だか可愛い。そんな風にも見えた。


 瑞穂のショッピングモールに到着して、陽一郎の車から降りた。双葉に連絡する前に、まず自分の用事を済ませ、財布をカバンに片付ける。

「ATMでお金下したし、よし。まだ12時になってないし、よし。じゃあ、階段を探して、双葉のいるベンチに…、え、ベンチに?」

自分自身から出た言葉に、椥紗は驚いた。ここから、駐車場の方に向かえば、双葉のいる場所に辿り着ける。よく分からないけれども、そういう確信があった。髪が揺れた。

「颯?」

風が通ったときに、それが、双葉がいつも見ているものなのだということが分かった。それは、情報を置いて駆け抜けていく。それは他の人には見えていないものなのだろう。でも、椥紗には見えた。少し前に居て、次にどうすればいいのか知っているようにしてくれた。椥紗は全く知らない場所を颯が導くままに進んだ。エスカレーターで上がって、駐車場の前にベンチがある。そして、そこには、双葉だけではなく、謙人もいた。

「椥紗~こんにちは、元気?」

「うん、元気だよ。デート?」

「そんなんじゃない」

「うぉ、照れてる可愛い~。うにゃ、深い仲なの? って言っても、出会ったの昨日とかなのに、恋愛って突然なのね」

「そんなんじゃないって言ってるでしょ」

双葉は、少し照れながら椥紗の身体を押した。その力は結構強くて、椥紗は少しのけ反った。

「よく、分かったねここが」

「うんっとそれは、多分、颯が、うんっとこれじゃわかんないね。どう言ったらいいんだろ」

「風が教えてくれたんでしょ?」

「そうそう。って、謙人は知ってるんだっけ?」

「話した後にそんなこと言っても仕方ないでしょ。ちょっと不用心じゃないかな」

双葉が不満そうな顔をするが、椥紗にはその理由が分からなかった。

「警戒する必要ゼロじゃないか。風が見えるとかって、話しちゃいけないことなの?」

「いけないかどうか見極めるの、ちゃんとやった? 不用意に話して、気味が悪いって言われるとか、思ったことない?」

「聞いてきたってことは、そういうのあるかもって思ってるってことだから、見えるからって気持ち悪いって思われないんじゃないかなって思ってさ。見えるのって楽しくない? だから、それを共有できそうなら、早くしたいなって」

「楽しい?」

「だって他の人が分からないことが分かるんだよ。優越感じゃん。だから、双葉は見えていていいなって。ここまで来る時に、颯の景色が見えて、それがすごかった。そういうの、いつも見えてるんでしょ?」

興奮する椥紗を見て、謙人は大笑いした。

「なぁんだ、椥紗に聞けばよかったんだ」

「え、何? 隠れた場所で、恋の告白とかそういうのじゃなかったの? っていうか、告白だったら、私、ここに居たらお邪魔ですよね。でも、颯が…」

「もう、違うって言ってるでしょ」

「でも、特別だよね。双葉にとって謙人って」

椥紗に指摘されて、双葉はすっくと立ち上がって言った。

「行こう。お腹すいたし、ごはん、食べに行こう」

「え、颯のこと聞きたいんだけど。話すなら、ここで話す方がよくない?」

「だから、その話をここでしたら、まずいでしょ」

「え、まずいの? 謙人、聞きたそうだし、別に内緒にする必要とか…」

「ある、でしょ」

双葉が感情をさらけ出して話をするのは殆どなかったから、椥紗はそのことにたじろいだ。

「警戒しなくても、僕、知ってるから。先生がいたからね」

「先生?」

双葉が訝しげに謙人を見る。椥紗は、その言葉で閃いてポンと手を叩いた。

「そっか、コーラル。うんっと、珊瑚、だっけ?」

「そう、岩下珊瑚。椥紗を捕まえた同級生が、僕の先生なんだ」


風・土・水・火、それは、四元素と呼ばれる概念で、近代以前のヨーロッパで支持されていたものである。万物はこの四つの元素から構成されているという考え方は、現在でも占星術などに残っている。その元素を自在に操るというのが、魔術や魔法で、それができる人間は魔法使いとか魔術師とか、魔女とかそういう名前で呼ばれる。コーラルこと珊瑚は、この概念をベースに研究をしていて、風・土・水・火、それぞれの力を抽出し、蓄積する方法を作り出すということは既にできるようになったとのこと。そして、最終的には誰でも魔法が使えるようにする方法を作り出そうとしているらしい。それを謙人はシンプルに説明した後、息をついた。

「この四元素は、それぞれの人と相性があって、魔法が使える人でも、特定の力しか見えなかったりするのが普通なんだって。僕は、この四元素が見えるんだ。厳密に言うと、四つには見えてないんだけど、ここにこうあるな、って。この風は、不思議な動きをしているなとか」

「見えるの~。それってすごいよね。でもね、さっきここに来る時に、颯が見えて、見えたっていうか、ああ、あるなっていうか、いるなっていうか。風が言葉を介して教えてくれるとかそういうのじゃなくて、こういうこと伝えたいんだとかそういう風に思っただけなんだけど、「見える」ってそういうこと? それとも、もっと違う感じで……ほら、双葉もそんな感じ?」

「あ、僕も知りたいな」

「椥になら、話す、けど」

「ええ~。いいじゃん、話してよ。絶対に、謙人は話してもいい人だよ」

「絶対って…。そんなの、どうして椥に分かるの」

「分かった。じゃあ、とりあえず、謙人がどんな風に感じているのか、もっと詳しく聞こう」

「もういい。二人で話して。私は、ここで話したくない」

二人が盛り上がっていくのを止められない。そう思った双葉は、エスカレーターの方へ向かった。謙人は、その様子を見て、顔をこわばらせた。

「椥紗、追いかけて。ここで別れよう。ごめん。俺、無理させたかも」

「え、謙人は?」

「俺が双葉の気分害したから、行けない。よろしく」

「うん、じゃあ、双葉追いかける。謙人のせいだけじゃない。双葉のことは、私の責任でもあるから、ちょっと私も強引に進めちゃったし。双葉なら許してくれるって甘えてた、かも。ちゃんと、捕まえるから」

もう双葉の姿は見えなくなってしまっていたが、エスカレーターに乗って追いかけた。慌てていても、エスカレーターで走っていくのは危険だからと、手すりをもって止まるようにした。

 双葉を見つけて捕まえたら、どういう風に話しかけたらいい? どうすればいつものように冷静で、椥紗のことを支えてくれる双葉になってくれる? 

「こういう時こそ、ハグでしょ」

椥紗は確信をもって呟いた。

「お願い。颯、双葉のいるところを教えて。双葉に大丈夫だよって伝えて」

颯を介せば、必ず双葉には伝わる。返事が返ってこないのは、双葉が心を閉ざしているからだ。

「ううん。会いたいって。メールの方がいいのかな」

スマホを確認しても、何のメッセージも来ていない。当てもなくショッピングモールをうろうろしながら、椥紗は双葉に語り掛ける。

「ねぇ、どこなの。いるんでしょ」

ゲームセンター、可愛い雑貨屋さん、キラキラした店の風景が全然目に入らない。ショッピングモールをうろうろするのは大好きだし、ウィンドショッピングも、新しいものをチェックするのも、好きだ。でも、そんなのどうでもいい。

「もう、お腹すいたよぉ。ご飯一緒に食べよう。双葉もお腹すいてるでしょ」

「そうだね。一緒に食べた方が美味しいもんね」

椥紗の後ろから聞こえた声は、かすれていていつもとは違っていた。

「待って、こっち、見ないで。急に涙が出てきて、どうしていいのかわからなくて」

「え、私、そんなにひどいことした?」

「椥のせいじゃない」

やっぱりこういう時はハグしかない。俯く双葉に覆いかぶさるようにして、椥紗は抱きしめた。

「大丈夫。よし、じゃあ、やっぱりさっきのとこ戻ろう。あそこだと、人、いなかったから、見られずに済むでしょ。んっと、それから、何か買ってくる。ハンバーガーなら持っていけると思うけど……」

「フィレオフィッシュ」

「それで、メロンソーダだよね」

何も言わなくても、伝わる安心感。それが構築されるだけの時間を過ごしてきたのだ。

 それでも、風の力のことは、椥紗には理解することができなかった。確かに、颯に呼びかけることで、インターネットのメッセージアプリを使った感じで双葉は椥紗の伝えたいことをわかってくれていたけれども、送信済みになったり、既読が付くわけでもなくて、風の力の存在を少し疑っていた。

「ずっと一緒にいた。辛いときも、楽しいときも、風は一緒にいる。私が私になる前から」

謙人が風・土・水・火の力が見えると話されても、双葉はその考え方に納得できたわけではなかった。風だけではなく、様々な力が、それをみえる人間とかかわりを持っている可能性があってもおかしくないわけで、双葉ができることはただその中の風だけが分かるに過ぎないのだ。

「私がね、こういうの理解できたのは、ゲームとか漫画とかで結構見てるからかな。ゲーム、しよう。風の魔法とか、火の魔法とか、そういうのって、普通に出てくるし、何なら、出せそうな気もする。って言っても私は出せないけど。四元素とか、こういうのね、全部RPGとかで、学んでいくの。ファンタジーとかってね、誰かがゼロから作ったってわけじゃなくて、その作った人が知ってる知識を組み合わせたりして作るわけで、やったことのあるゲームとか漫画とかそういうのが、あってのもの。と、あと体験が組み合わさってって感じだと思うの。双葉はファンタジーには疎いけど、風のことで、いっぱい体験していて、それに、双葉だったら読めばすぐ理解できるだろうし、ね、ゲームしよう」

泣きはらした後の、腫れた目をした双葉に真剣にかけてくる言葉がこれかと思うと、笑いがこみあげてくるしかなかった。好きなフィレオフィッシュの味が、ただ口位に入れているだけの固形物みたいだったのに、魚のフライのサクサクとした感触と、タルタルソースのクリーミーさがいつものように美味しいと感じられるようになった。

 てりやきバーガーを食べ終えた椥紗は、紙袋に手を突っ込んでチーズバーガーを手に取った。ポテトよりもバーガーを食べたい派なのだ。

「春日ちゃんはさ、今の私たちは、テレビとか新聞とか、インターネットとかを介して、色んな情報が手に入るけど、そういうのよりも、いつも、実際に触れることが大事だって言うのね。うちの問題人間のパパが、いっろいろ巻き込んできたりで、家は荒れてたでしょ。その上、学校は不登校になっちゃったとかあるんだけど、それも、大事な体験って言ってくれたの。不登校は良くないことだけど、でも、『社会には不登校の人がたくさんいて、その人たちの気持ちを理解するのに、きっと今経験していることは役に立つときがくる』ってね。『学校で起こる問題以上に、学校で得られることが多いから、学校という制度はなくならないのだ』っていうことで、学校に通うことで得られる学力が心配だから、それはみっちり叩き込まれたけど。結構しごかれてさ、だから勉強が全然できない、とかはないけど、英語は勉強してたのに、ヨーロッパでほとんど使えなかったし。勉強ってしてもしてもきりがないよね。…そう思うとさ、双葉が良い成績をずっと取ってるのって、努力してるからなんだろうなって思う。そりゃあ、双葉はすごいけど、すごい記憶力だったり理解力があったとしても、ちゃんと何かやっとかないと成績が良くなったりしないじゃない」

「裕也君……あ、お兄ちゃん、か」

「裕也君。あ、双葉を雁湖まで、連れてきてくれたイケメンお兄ちゃんね。裕也君って呼んでるんだ」

「……そう」

目がまだ腫れているし、声もどんよりとしていて、いつもの双葉とはずいぶん違っていたけれども、もしかしたら、これが本当の双葉なのかもしれない。

「テストの答えはね、教科書の中に全部あるから、何をすればいいのかさえ分かれば、良い成績を取るのは、そんなに大変じゃないよ」

さらっと言った双葉の姿に、才能の不平等さを痛感させられる。

「裕也君は、中学校の途中から、遠くに行っちゃったけど、颯がどうしているかずっと教えてくれてた。『負けないように』って頑張れたから、良い成績が取れるようになったのかもしれないね」

食べ終えたフィレオフィッシュの包み紙を紙袋に入れた時には、双葉は落ち着きを取り戻していた。

「昨日はね、結構頑張ったんだよ。椥のことが心配で、ずっと探ってもらっていたし」

「じゃあ、昨日のタコ焼きするよっていうメッセージの時、状況分かってたってこと?」

双葉は得意げに頷いた。

「昨日は、色々やってみたんだよ。仲良くなれたらなって、風の力で、みんなの心がもっと打ち溶け合うようにとか、そんな魔法をかけてた。風の力で色んなことするのは、初めてだったから、疲れて頭がクラクラしたよ」

確かに、部屋に入ったときに不思議な匂いがしていたし、謙人が妙に馴れ馴れしかった。

「その場の空気を変えて、そこにいる人間の行動を変えてたってこと?」

「言葉にすると、そうなるけど頭がふわっとするくらいだと思うよ。でも、一つ行動が変わると、その空気は広がっていく」

「それはさ、私のためにしてくれたんだよね」

椥紗はキラキラと目を輝かせながら、双葉を見ていた。

「うん、そうなんだけど、ね」

「だけど?」

「意味あったのかな、って」

「あったあった。だって、謙人がいきなりハグしてきたんだよ。あの、イケメンが。まぁ、それって、恋愛ではなくて親愛だと思うんだけど、まぁ、謙人って、私の好みからすると、ちょっと可愛すぎだし……あれ、双葉?」

椥紗が、楽しそうに話をする横で、双葉は俯いて鼻をすすっていた。

「泣いてる?」

「ううん、大丈夫」

「いや、泣いてるじゃん」

「私ね、振られちゃったみたい」

「は、どういうことよ」

振られるということは、告白という行為があって、それの拒絶があったということ。展開の速さに椥紗はついていけない。確かに、気になるから付き合おうとかそういうのは分からなくもないが、いや、昨日会って告白するというのは、唐突すぎるのではなかろうか。普通なら、軽い気持ちで付き合うとかそういう感じになるはずだ。昨日出会って、今日振られる。出会ってから、24時間くらいの時間の間に、情が生まれて、それが否定されて大泣きする。双葉が大泣き? いつも冷静なはずの双葉が? 恋ってそういうものなの? そんな短時間で、感情が揺れ動かされるようなプロセスを踏んできた? そんなことってありうるのか? 椥紗は頭の中を高速で回転させる。

「ぬおおおおおお。分からぬ。っていうか、時間とか魔法でなんかできるとかある?」

「時間?…私は、風のことしか知らない」

「ですよね~」

相槌を打ちながらも、椥紗は慌ててバーガーにかじりつく。いつもは、椥紗の方が先に食べ終わるのだけれども、双葉との話に夢中でなかなか食事が進まない。

「慌てなくていいよ。椥も気付いていたみたいに、織原君も気付いていた。それだけのことなんだけど」

「それで、『僕のこと好きでしょ?』とか言われたのか。むきー。あいつ言いそうだし。そんな自信満々に自分のこと好きなんて、言えるの、むかつく。あいつ自分の顔がいいの分かっててそういうこと言うから、さらにむかつく」

こういう時こそ、明るく振舞うのがいい。訳が分からなくて、更に双葉が泣くくらい感情を動かされたんだから、深刻な状況ではあることは確かなのだけれども、その雰囲気に飲まれるのが、一番よくない。それは、いつもそばにいた春日伊織から椥紗が学んだことだった。

「っていうか、何で好きなの?」

単刀直入に聞かれて、双葉は言葉に詰まったものの、一息ついて答えた。

「ん。顔、姿かな」

「やっぱね。中身なんて会って一日とかで分かるわけないもんね。双葉って恋愛になると、衝動的になるんだね。意外~」

「そんなことないもん」

「泣くって、よっぽどじゃん。まぁ、いいよ。そういう双葉見れて、嬉しかった」

「嬉しい?」

「だって、私、いつも双葉に頼ってばっかりだから。双葉っていつも余裕でさ、全然助けられてないなって思ってて。昨日親友なのかって言われて、うまく答えられなかった。これで、ちゃんと答えれるね。親友だって」

椥紗は、興奮気味に話して、双葉に覆いかぶさった。

「っていうかさ、顔と身体が、好きっていうのはさ。私が真生様を好きっていってるのとそう変わらないと思うんだよね」

「身体じゃないよ、姿だよ。それから、いつの間に様付けになったの、あのおじさん」

「むきー。真生様の良さを分からんかね。まぁ、身体っていう言葉にエロスを感じてしまうくらいのウブな双葉ちゃんには、理解できないかもし、れ、な、い、けど」

椥紗がからかうように話すと、双葉は腕を振り払った。


「椥が、ませてるだけだよ。お父さんがエロスの塊みたいな人だから」

「まぁ、それは否定しないけどさ」

「もうちょっとデリケートに考えてくれないかな。私は、椥のことを思って、仲良くなるように風を使ってたけど……。そういうことしてたの、気付いてたってことでしょ。織原君が、見えてるなら」

「あれ、織原君って呼んでたっけ?」

「風の力のこと、見えるのかっていう話をしていた時、謙人は『見える』けど、レオンは『見えなくなる』って言ってた。どちらが本当の織原君なのか分からない。だから、織原君」

「謙人なのか、レオンなのかで違うのか。確かさ、レオンって呼ぶの、蒼佑だけなんだよね。もっと、男らしく、自分らしくいけみたいな感じで、指導してたけど。なら、私は、クソイケメンって呼ぶことにするよ。謙人とレオンが違うなら、もうややこしいし、クソイケメンで、通じるから」

「いや、それはだめじゃない?」

双葉が冷静に止めようとしたが、椥紗は止まらない。

「今、思ったけど、なんでイケメンって複数形なんだと思う? クソイケマン? いやこれはなんか変だよね」

「manのAの発音が、アとエの中間の音で、エの方を採用したからでしょ。発音記号も、どっちなのか分からないような形じゃない」

椥紗は、話を聞きながらも、他のことを考えていた。

「そのイケマン、どれくらい魔法のこと知ってると思う?」

「分からない。『見える』しかいってなかったけど、大分見抜かれてる。そんな感じ」

「じゃ、やっぱちゃんと知ってる人に聞いた方がいいのかな」

「知ってる人?」

「岩下珊瑚。私を監禁した同級生。詳しいことはさ、コーラルに聞いてみよう。ってことで。面白そうじゃない?」

嬉しそうに話す椥紗を見て、双葉は安心感を覚えた。

「と、その前に、色々双葉に理解してもらいたいから、ゲーム機買うわ」

「は?」

「とりあえずパパに許可もらうわ。大体、メッセージなら結構すぐに返ってくるんだよね。送信っと。はい、オッケ。とりあえずゲーム機買うから」

「え、返信は?」

「もう返ってきたよ。こういうのは早いの、うちのパパ」

椥紗は、スマホの画面を双葉に見せて、ちゃんと確認を取ったことを証明した。

ゲーム機は、持ち帰り、テレビは翌日到着の配送で。配送を届けてくれたのは、バイトの蒼佑。翌日は、日曜日だったから、テレビが届いた後は接続をして、二人はダイニングで、ひたすらゲームをし続けた。大浴場で、たまたま出会った理真美にそのことを話すと、無茶苦茶あきれられたのと、優等生の双葉がそんなことをするのかと驚かれた。

こうやって、私たちはこの世界の人間になっていくのかもしれない。


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