風の物語 2.『ギュフ』の歓迎
「あはは、まさか、猛吹雪で工事が全然できないとは思わなかったよ」
その年は、悪天候の日が続いて、なかなか工事が進まなかった。工事日程が遅れているにもかかわらず、ギュフのCEO、真生はあっけらかんと笑っていた。
「開学を遅らせちゃう? 5月の終わりから6月って良い季節だし、その方が歓迎会は盛り上がるよ」
「それはありえません」
「あーだめかぁ。日本の高校だしねぇ」
傍らに居るピクシーは、タブレットを見ながら真生に計画を話し始めた。
「期限までの完成は難しそうですが、代替案で四月に間に合わせることは十分に可能です。工期の遅延を補うために、学校で行う予定だった行事を、全てギュフ施設で行えるように手配しています。制服の採寸は全国の各店舗、事前のオリエンテーションはオンライン、何も問題はありません」
「さすがだね、ピクシー君。それで、温泉はいつから使えそう?」
「温泉……。それぞれの個室にはシャワールームを設置しているので、それは後回しに……」
「していいわけないだろ。北海道の素晴らしさの一つは温泉にあると言っても過言ではないよ。天然かけ流しの露天風呂の気持ちよさは、なかなか他で味わえないし、裸の付き合いという文化は、日本の大事な文化の一つだよ」
「裸の付き合いについては、議論の余地がありますので、福利厚生施設として、温泉の設置は優先的に行うようにしましょう」
「そして、一番風呂は僕だから」
「そうなるようにちゃんと仕事してください。特別講師になりそうな社員ピックアップと面接、人を見る仕事は、あなたの仕事ですからね、社長」
「CEOだよ。なんていうの、イメージ的に社長って、貫禄とかそういうのじゃない。僕、もっとフランクで」
「貫禄はなくてもいいですけど、責任は持ってください。会社の信頼に関わります」
「ピクシー君は手厳しいな。こういうところは妖精っぽくないよね」
「そのあだ名は嫌いじゃないですけど、私は、人間ですから」
その横でパソコンで作業をしながら、傍らの女性は笑っていた。彼女の首には、 May Nolan、メイ=ノーランと書かれたネームタグがあった。
来年度に入学する生徒には、封書でIDナンバーと初期パスワードが送られた。雁湖学院からのお知らせは、各々に配布された電子メールアドレスに、送られるようになっている。見忘れを防ぐために、必要な場合は、個人が利用しているアドレスをシステム課に送ればそちらにも転送できるようになっているし、個人のメールアドレスに届くものを全て転送させられるように自分で設定できるようにもなっている。あと、ダウンロードしておいた方が好ましいアプリとか色々あったのだけれども、初めてスマホを手に入れたような状態だったので、後々やっていけばいいと考えていた。
篠塚椥紗と片桐双葉のメールアドレスには、制服採寸のお知らせが届いた。入学試験を経て、双葉が椥紗の家に居ることが当たり前になり、雁湖学院からのお知らせは二人で確認するようになった。春日伊織のアドレスをシステム課に送っておいたので、伊織にもお知らせは届く。ただ、届いたことについては確認するようにはするが、学校からのお知らせには、自分たちで対応するようにと言われた。
双葉が雁湖学院に進学するにあたって、ひと悶着があったがようだが、彼女はその詳細を椥紗に伝えていなかった。ただ、解決するにあたって、双葉の叔母や従妹が助けてくれたようで、双葉が椥紗の家に入り浸っていることを二人が知って、お土産を持たされることが多くなった。
「はい。うちの近所にできたケーキ屋さんのフィナンシェだって。私たちのためにわざわざっていうわけではなくて、叔母さんが、美味しそうだから買ってきちゃったみたい」
「うわー、ありがとう」
「伊織さんにも、だからね。ちゃんと残しておいてね」
「もちろんですよ」
椥紗は手際よくお茶を準備して、双葉をもてなすことができるようになったし、料理も積極的にやるようになって、うまくなってきた。大体は伊織が準備してくれているのだが、今日は、伊織が、泊まりで出張ということで、二人で焼肉をすることになった。その材料が冷蔵庫に切っておかれていて、椥紗はそれを出して皿の上に並べていた。
「今日は何時ごろまで居れるの?」
「うんっと、8時半頃にここを出ればいいかな。叔母さんに言っといたから大丈夫」
双葉が椥紗の家に来るようになった当初は、双葉は部活動に参加しているから、遅くなっているというふりをしていたらしい。今は、隠す必要もなくて、叔母に知らせるようにしているようだが、双葉に詳しいことを聞いたわけではないから分からないけれども、どうやら双葉には母親が居ないようだ。椥紗の親も複雑なので、両親がそろっていないからどうだということはないけれども、それを話したいと思っているのかどうか良く分からないから、事情を深く聞いていなかった。
双葉は成績も良いし、雁湖学院の受験も自分で手配していたし、よくできた中学生だと椥紗は思っていた。それは勘違いだったかもしれないと思った。ホットプレートで双葉に一人で肉を焼かせていたのだが、椥紗の皿にポイと乗せられたものを見て、恐怖を感じた。
「何これ」
「え、肉」
「いや、肉だけど、焼いたよってレベルじゃないよ。まだ赤いし」
「レアだよ」
「レアじゃないよ、生肉じゃん」
「美味しいし、食べれるよ」
双葉は首を傾げていたが、椥紗にはそれが理解できなかった。
「いや、お腹壊すよ。うんっとね。焼肉っていうのはもうちょっと焼いて。今までお腹壊さなかったの?」
椥紗は双葉の皿の肉をホットプレートに戻した。少しずつ色が変わっていく肉を見ながら、双葉はつぶやく。
「確かに、焼肉はそんな色だよね」
「そんな色だよ。もう、家庭科の調理実習はどうしていたの。その感覚じゃめちゃくちゃだったでしょ」
「そうでもないよ。調理実習って班でやるでしょ。私が出来なくても、他の子がやりたいってやってくれるんだ。それで、お願いしていたら、大体うまくできてる」
「じゃあ、家庭科の成績は?」
「勿論、他と同じ。ちゃんと実習記録書けば、5段階中の5しか出ないよ」
「うわ、それじゃ、双葉は成績無双じゃん」
椥紗はのけ反る。
「あ、これ食べてもいいよね?」
双葉がすかさずプレートの肉に箸を向けたので、椥紗が慌てて引き留めた。
「いや、もうちょっと置いとこうよ」
「そこまで時間かけなくても、食べられるし」
「食べられません。いや、ちょっとまって、まさかの、味音痴か。これ、ちゃんと料理作れるようになっとかないと、やばいやつじゃん」
大抵のことは、双葉に相談しようと思っていたが、食に関しては当てが外れたようである。椥紗は寮に引っ越すまでの間に料理の特訓をしておかなければ、食中毒になってしまうかもしれない。
制服採寸のためのお知らせが届いていたので、夕食を終えた後、椥紗はパソコンを開いて、メールの内容を確認した。地図サイトを開いて、一番家から近いギュフの店舗を探していると、双葉がスマホを見せてくれた。
「ReGっていうアプリ落とした? このアプリ使って地図で店舗確認出来たし、登録できそうだよ」
ReGは、ギュフのスタッフの間で使われているアプリで、アプリを通じて、会社内のことを知ることができるというものだった。アカウント毎にサイト内の情報のアクセス権が異なっているが、雁湖学院の学生もギュフの社員やアルバイトと同じアプリを使う仕様になっていた。授業やクラブ活動といったスケジュール管理に役立つだけでなく、ギュフの社内設備のことを調べることや、社内サークルといった組織内での集まりについての情報も知ることができる。ギュフが作る学校なのだから、雁湖学院を独立した組織にするのではなく、相互に関わり合うような工夫が欲しいということで、セキュリティ上のリスクを冒して一元化が図られた。
椥紗は、スマホでReGを起動させて、地図を確認する。
「一番近いのは、小港店だよね。あれ、ここの店舗ではこの週末にバドミントンする集まりがあるらしい」
「うん。そうだね。バドミントンはどうでもいいけど」
椥紗と双葉のアカウントでは、生徒としてのアクセス権しかないが、ギュフで働いているスタッフにしか見られない情報をいくつか見るこことができる。なんだか、大人になったような優越感を覚えた。
一番近い小湊店までは、電車で二駅、徒歩でも30分ほどだったから、二人は歩いていくことにした。ギュフは全国展開しているチェーンだから、大きな駅のショッピングモールにもあることが多い。大きな駅にある店舗でも受け付けてくれるようだったが、伊織からのアドバイスで、郊外型の店舗を選ぶように言われた。大きな駅にある店舗は小さいものが多くて、混んでいて、スタッフが忙しいし、彼らは特殊な依頼に対応できるか分からない。だから、制服採寸というちょっと変わった依頼にも、快く対応してくれるような店舗を選ぶのが良いとのことだった。伊織の推測がどれほど正しいかは分からないが、わざわざそれに逆らうことはないだろうと思って、駐車場付きの郊外型店舗である小湊店を選んだ。
アプリで出せるコードをを試着室前のカウンターにある機械にかざすと、事情を分かっているスタッフがやってきた。スタッフに尋ねて、分かってもらえるのだろうかとか、余計な心配をしなくて済むのは、楽だ。
「はーい。こんにちは。採寸を担当する小港店副店長、佐伯です。よろしくお願いします」
「よろしく、お願いします」
「じゃあ、採寸の部屋に案内するね」
佐伯は、30歳くらいの若い女性で、二人を試着室の後ろのドアを開けて、バックヤードスペースを通って、会議室のようなところに二人を連れていった。やはり制服採寸というのは、特殊な業務だったらしい。煩わしいという感じではなくて、楽しそうに対応してくれるところに、椥紗も双葉も好感を持った。
「じゃじゃーん。来年度の制服はこの製品でーす。ブレザーとスカートは色が紺で校章が刺繍されたモデルです。女子はズボンも可なので、ズボンも試着しようか。うちの店舗の商品を試着してもらって、学校でお渡しになります」
「来年度の?」
「詳しいことは分からないんだけどね、毎年制服を変えて、制服で学年を判別できるとかそういう意見もあるみたい。常識ではありえないような意見も積極的に出していくという形で学校作りをしているから、結構時間がかかってるんだよね」
会議室には、制服と同じモデルの商品が机の上に並べられており、可動式の試着室が備えられていた。
「お姉さんは、学校運営に携わっているということですか?」
双葉が尋ねると、佐伯はニコニコ笑って頷いた。
「うん、そうなの。制服の試着が入ったって聞いてね。新入生に会えるってことで、すっごく楽しみだったの」
佐伯が、ラフな口調で二人に話しかけてくるので、椥紗は面食らって双葉の後ろに隠れた。店員だと思っていた人が、精神的に近い距離に踏み込まれるのは、何だか怖い。
「ひとつ、説明しておくわね。雁湖学院の生徒は、お客様じゃありません。同じものに属している仲間っていう意識で関わりましょうっていうスタンスなの。だから、関わり方は丁寧にしすぎないように言われていて、私は敬語を使わないようにしようって思ったの」
「それは、どうしてですか?」
「同じ目線でギュフをより良いものにするための仲間として接しましょうというギュフの方針。例えば、小港店ではReGで繁忙期の臨時のアルバイトとかも募集するつもりだから、夏休みとかの長期休みに実家に戻っている時に助けに来てくれたらなって思っているの」
「仲間? アルバイト?」
ただ制服の採寸に来ただけなのに、情報が多すぎて椥紗は更に困惑した。
「じゃあ、今日は採寸だから、試着してもらおうか。試着室が一つしかないから、順番でいい?」
「はい。大丈夫です。じゃあ、椥紗からやりなよ」
「あ、うん」
椥紗とは対照的に双葉は落ち着いていて、椥紗は双葉に尊敬の念を覚えた。
佐伯の見立てで、椥紗はブラウスとスカート、ブレザーを試着する。
「あ、ごめん。試着前に確認しておかないといけないんだけど、女性もののラインナップということでいいよね? 希望するなら、二つボタンの男性用ブレザーも可能だけど」
「はい、女性ものでいいです」
「それとは別に男子はネクタイ、女子はリボンが支給されるってあるんだけど、篠塚さんと片桐さんは普通科だから青、ロイヤルブルーのリボンでいい?」
「リボンでいい?」
「色は所属する学科を示すものだから変えることができないのだけど、ネクタイがいいのであれば、変更可能だけど」
「ネクタイ、結べないしなぁ」
「後から注文もできるんですよね?」
椥紗が返答に詰まると、双葉がすかさず助け舟を出す。
「ええ。今日の採寸結果もReGから見られるようになっているから、ステータスを変更したかったら、メッセージを入れればいいよ。また、来てくれたら試着とか対応できるからね」
(自分の好みに合わせて、制服をカスタマイズできる。これはきっと性同一性障害とか、そういうのに対応するためっていうやつかな。なんか進んでる)
椥紗は学校の時代への対応に感心した。
「女子がネクタイっていうのも違和感はないなぁ。どう?」
双葉は、ネクタイを結んで椥紗の方に振り返った。
「確かに。心と身体の性別の違う人のための処置かなとか思っていたけど、別にそうじゃなくても良い感じだね」
「なぁに。賢いのね、篠塚さん。そんな難しいこと考えながら説明聞いてたの?」
佐伯が二人の会話に割って入ってきた。
「スカートが嫌いっていう女の子もいるし、逆にスカートを履きたい男の子もいる。まぁ、まだその欲求を表に出すのは難しいだろうけど。社会に合わせられるように締め付けるのではなく、社会の中でどうありたいか、どう生きたいか、そういうのを考えるのが大事でしょ」
「いやー、進んでるねぇ」
「うちはアパレルも扱っている会社だもの。着る人の好みを満足させるっていう使命がある。でもね、『自由』ってそんなに良いものではないわよ」
佐伯の言葉に、椥紗の背筋がゾクっとした。
寮の部屋はトイレやシャワーの付いている個室で、キッチンやダイニングなどを数人で共有するというスタイルになっている。生活に最低限必要なものは備え付けられていて、
食堂やジム、温泉のある大浴場なども敷地内にある。敷地内の施設は、アプリにチャージされたポイントを使って利用できるようになっており、そのポイントは現金でチャージする他、アプリでのボーナスや、ボランティア活動などでも得られるようになっている。
寮で生活するにあたり必要なものは『ギュフ』の商品であれば、ReGで注文し入居までに部屋に入れておいてもらうことも可能で、椥紗は備付けのものよりも良いマットレスや羽毛布団などをオーダーした。
「私の部屋は111-Aで、双葉は111-B。希望通り、双葉とは同じシェアキッチンで、困ったこといつでも相談できる。ぐふふ」
「ぐふふじゃないよ。当たり前だけど、私は椥紗の身の回りの世話はしないよ」
「ええ、そうですよね。当たり前ですね。まぁ、料理はできるようになってきたので問題はありませんが」
「椥紗。お前、まだアイロンがけできないだろ?」
「ぐぬぅ」
すかさず飛んできた伊織の言葉に加えて、双葉も追い討ちをかける。
「椥紗は不登校でほとんど制服着てないしね」
「その上に、アイロンがけは自分でやってなかったしな」
「そもそも、私は不器用だもん」
「ま、私もできないことあるしね。助け合っていこう」
「助け合い、大事だよね」
「双葉は優しいから、椥紗は甘えっぱなしにならないようにな」
椥紗の高まる気持ちとは裏腹に、雁湖の工事は芳しくなかった。敷地内の建物の完成はギリギリで、未完成のままで4月の新学期を迎えなければならないことになった。新入生が訪問できるようになるのは4月に入ってからで、このことに春日伊織はやきもきしていた。
「はぁ⁉︎ お前、4月は仕事が忙しいってわかっているだろ?」
「だから、アキラさんがヘルプに入るって言ってる。アキラさんは仕事できるし、それは春日ちゃんもわかっているだろ?」
「そういう問題じゃない。4月は新しい入居者が多い時期なんだ。ただでさえヘルプが欲しいのに、私が抜けるっていうのは仕事に支障が出るに決まってる」
「だからって、アキラさんに椥紗の付き添いをさせるっていうのは無理だろ? こっちとしては、アキラさんをフリーにして手伝いをしようとしてるんだ。僕が付き添うっていうのは、ややこしいことになるってことも、君はわかってるだろ?」
「今年は入れ替えが激しくて、こっちは仕事がいっぱいなのに……」
「それは、僕の仕事じゃない。八つ当たりをされても困るよ」
「そもそもうちの会社はお前の会社なんだ。なんで私がこんなに……」
「違うよ。僕の家の会社だ。僕のものじゃない。じゃあ、アキラさんは3月の終わりからそっちに向かわせるから」
「おいちょっと」
交渉してどうにかなることではないと分かっていた。伊織と祥悟が電話をする時は、殆どが問題のある時だ。スケジュールを見ながら、伊織は頭を抱えた。
「椥紗、先に一人で寮に行くことになりそうだが、それでもいいか?」
「ええ⁉︎ 春日ちゃんはきてくれないの?」
「行くけど、2泊が限界だな。こっちでの仕事にアキラさんがヘルプに入るって言っても、私が抜けるのはしんどい。何なら、アキラさんに入学手続きで付き添ってもらっても良いんだけど」
「いや、アキラさんに来てもらっても、どうしていいのかわかんないし」
アキラは祥悟の公私にわたるパートナーで、祥悟と一緒に東京で暮らしている。仕事ができる人だし、祥悟よりも出来た人だから頼りになるけれども、父親のパートナーという関係はどうも気まずい。
「ということで、先に椥紗が現地入りして、後から私が追いかけて引っ越しを手伝うということにしようと思う。空港から寮に直行するバスを手配してくれるから、まず迷うこともないし、スマホを契約するから、もしもの時は学校のスタッフに電話する。なら、一人でも飛行機に乗っていけるだろ?」
シェアしながらとはいえ、一人暮らしを始めるわけだから、他の人の助けは借りず自分のことは自分でやる。自立しようと意気込む椥紗は、頷くことしかできなかった。
春休みになってからは、双葉が椥紗の家に来ることが難しくなり、椥紗は仕事の合間に来てくれる伊織の協力の元、荷造りを進めていった。入寮が始まる4月3日の飛行機のチケットを取ったが、そのことはまだ双葉には伝えられていなかった。
「颯〜。双葉に伝えて。私は3日に飛行機に乗って行く予定」
双葉だけに見える風、颯。椥紗には感じることができないけれども、双葉からPCのメールが的確に返ってくる。颯は存在するのだ。
「3日に到着予定。まだどうやって行くか決まってないから、時間はまだわからないけど」
ここから行くのであれば、飛行機で行くに決まっている。妙な表現を使うのだなと椥紗は不思議に思ったけれども、追求しなかった。
入寮受付は正午からだけれども、椥紗は車で行かないので、開始すぐに行くことはできない。空港から雁湖に直行するバスが、お昼前に出発するので、それに乗れるような便にした。雁湖に直行するバス乗り場は、ターミナルの端っこで、飛行機の遅れなどを考慮して、余裕を持ったスケジュールを組まされたためか、誰もいなかった。
「手伝おうか?」
大きなスーツケースと小さなスーツケースの二つをカートに乗せて押していた椥紗に誰かが声をかけた。
「ほえ?」
振り返っても、誰もいない。乗り場に着いて、二つのスーツケースをカートから下ろすと、また声がした。
「うん、返しとくね」
「あ、はい。ありがとう」
声がしたからお礼を言ったけれども、誰もいない。そして、カートが消えている。
「こんにちは。雁湖学院に行くんだよね?」
「あ、はい」
(今度は人間だ)
椥紗が恐る恐る振り返ったのを見て、声の主は笑った。
「怖くないよ。初めまして。私は龍野理真美。あなたは?」
「私は、篠塚椥紗です」
「内地から来たの?」
「内地?」
「内地は、北海道以外の地域のこと」
「はい。じゃあ、龍野さんは……」
「龍野さんじゃなくて、りーま、って呼んで」
「あ、じゃあ、りーまちゃんは、北海道から?」
「りーまちゃん(笑)、かわいいね。うん。そうだよ」
「どうしてこの学校に?」
「何だか、面接みたいだね」
「あの、すいません」
「謝らなくていいよ。うち、農家だから。ここなら、農業のことも勉強できるし。自然のあるところに住めるって思ったんだ。都会に行くのが怖いっていうのもあったんだけど……、かっこわるいっしょ?」
「そんなことない。私は、ずっと怖くて中学校行けなかったから」
椥紗は勢いよく話した後、口を手で塞いだ。
「あ、と。でも、勉強してなかったわけじゃなくて。多分それなりにできるはずなんだけど」
「そんな、言い訳しなくてもいいよ。篠塚さんには、事情があるんでしょ」
理真美はずっとニコニコ笑っている。これ以上はボロが出るといけないと思って、椥紗は下を向いた。
「あ、バス、来たみたいだよ」
理真美が指さす方から、小型のバスが来て、椥紗は口角を上げるように心がけて、頭を上げた。バスにはもう数人が乗っていたけれども、そんなに混んでなかったので、理真美とは違う列に座った。
窓側の席に座って、外を見るとまだ雪が残っていた。椥紗は今までずっと暖かい地域に住んでいたから、雪のある4月の情景は初めてで、白いだけでも興奮するのに、周りの植生が
鋭くて硬い感じにも心が引かれる。その地面からチョロチョロと流れる水があって、芽吹いている草があって、それがここの春なのだと椥紗は知った。全く知らない場所を走っているのに、心がリラックスしていっていて、居心地を覚える不思議な感覚がする。学校に行く時は、「覚悟をしなければ」と思っていたのに、気負う必要がない。
「歓迎、されてるといいな」
椥紗は呟いた。
1時間半ほどが経って、バスが到着し、椥紗は、スーツケースを受取りに、トランクに回り込んだ。
「椥紗ちゃん、これ、魔除け」
理真美に声をかけられ、椥紗は振り返った。
「魔除け?」
「あれ、知らない? 雁湖ってね、今までに何度か開発が入ったんだけど途中で中止になっちゃったりする『いわくある』ところで、うちのお母さんが磨いたり月の光を当てたりして、パワーを入れてくれたの。お近づきの印に、って感じかな」
渡されたのは、紫色の小石だった。
「これ、アメジストだよね。誕生石、なの」
「そうなんだ。相応しい人に渡せてよかった」
「それで、『いわくある』って?」
「ん、詳しくはわからないんだけど、霊とか妖精とか、精霊とか? 北海道はもともとアイヌの土地だからアイヌの神様かな? まぁ、あるでしょ、内地にも妖怪とかって」
妖怪とかお化けの存在については知っているけれども、ホラーが好きなわけではないので詳しくはない。そういえば、小学校の頃にトイレでお化けを呼び出すような遊びをやったような覚えもあるけれども、実際に見たことはない。
「でも、そういうのってただの迷信だよね」
「あ、信じてないな。そういうおばけから守ってくれる魔除け。魔除けっていうよりただのおまじないって言ったらわかる? うまくいくように、自然のエネルギーのあるところで清めた石って言えば、いいかな。椥紗ちゃんの力になってもらえると思う。これから、よろしくね」
「お化けは、やだけど。うん、ありがとう」
目の前には、簡易の案内板があって、鍵の受け渡しがあるドミトリーオフィスに向かって矢印が書かれていた。椥紗たちと同じように大きな荷物を持った数名、中には母親らしき人と一緒の人が居て、皆同じようにオフィスに向かっていった。
オフィスに入ると、まず大きな掲示板があった。
注意 インターネットはドミトリーオフィスのみで利用できます(6日まで)
大きく赤文字で書かれた掲示に、椥紗が動揺した素振りを見せると理真美が笑った。
「6日まで電波が不安定って書いてあったけど、ここでなら使えるね」
「え、自分の部屋では使えないの」
「ここ、田舎だし。しょうがないよね。でも、調整しているみたいだから、すぐに使えるようになるよ」
「ええ、どこでも使えるのが普通じゃないの?」
「私の家の近くでも使えないところ、結構あるよ。都会でも、電波ないところあるって聞いたよ、違うの?」
「んっと、どうだろう」
そう聞かれても、椥紗は登校拒否をしたし、スマホを持っていたわけではないから、わからない。ただ、家のネット環境は良かったので、インターネットがないという場所で、一人で過ごすということが、不安なのだ。
(ということは、パソコンでネット開くなら、ここまで持ってこないといけないということ? うわぁ。めんどい)
もうすでにロビーでは数人が並んでいて、受付番号をとって二人は待った。10分ほどして、番号が呼ばれて、カウンターに椥紗は向かった。オフィスの受付は、細身の背の高い女性で、スーツを着ていたけれども、幼く見えた。名前を告げると、彼女は奥の部屋に入って行き、封筒と首から下げるホルダーに取り付けられた鍵となるチップを持ってきた。
「スマートフォンはお持ちですか?」
「あ、一応持ってます」
「では、こちらのアプリをダウンロードしておいてください。もしもできない場合は、ソフトウェアのアップロードをして利用できるバージョンにしていただくか、スマホの貸出サービスを利用していただくこともできます」
(そんなサービスあるのか)
「それは、どういったことに利用するのですか?」
「すみません。私は担当ではないので、詳しくは説明できません。封筒の書類と、ホームページの説明を読んで理解していただき、わからない部分は、ガイダンスやメールなどで質問してください。以上です」
強い口調でそう言われて、椥紗は閉口した。そして理真美に愚痴をこぼした。
「なんか、感じ悪くないか」
「たくさん人くるし、大変な仕事だからね。それに、仕方ないよ。慣れてないだろうし」
「慣れてない?」
「だって、今日から仕事始めるわけでしょ? 何かみんな若そうだったし」
「確かに」
受付には3人のスタッフがいたが、全員同い年くらいに見えた。
椥紗と理真美の部屋は同じ棟で、スーツケースを転がしながら、屋根のある渡り廊下を通っていく。雪が積もると車輪のあるものを運ぶことが難しくなるから、雪道を通らなくてもいいように工夫がされている。途中で理真美とは別れて、椥紗は自分の部屋のある区画へと向かう。区画のドアには電子ロックがあって、チップをかざすと自動で開いた。まず、見えたのが大きなキッチンだった。このキッチンは共用で、同じ区画に住む数人と使うことになる。ドアのところで靴を脱いで、備え付けの靴箱において、椥紗は自分の部屋を探した。
プライベートの寝室と洗面所、最低限のものしか備わっていないが、新築の部屋は居心地の良い部屋になるはず。そう思ってロックを解除し、扉を開けると、そこにはブリーチした髪を青色に染めた青年が立っていた。髪を染めているような「柄の悪い人」には関わりたくないと椥紗は思っていたので、嫌悪感を露わにしながら、言った。
「なんで、ここ、私の部屋でしょ?」
「ああ、違う違う。俺、荷物、置いとく仕事、任されたから」
「仕事? そっかじゃあ、お疲れ様です」
「ちなみに俺は、普通科男子部の生徒でもあるから」
「え、配達屋さんじゃなくて?」
「えっと、配達の仕事をしてるから、配達屋でもあるのか。俺は、今、バイト中。注文品を届けるという仕事をするために、1日早めに入居させてもらって、昨日からこの寮に住んでる。俺は、島田蒼佑。ここの区画に知り合いが入居するから、よろしく」
「知り合いって男? いや、てっきりこの区画は女子だけかと、そういう希望出したし」
「知り合いは女だよ」
「それは彼女とかそういう?」
「いや、そうじゃなくて。家が近所というか、妹みたいな」
「え、妹? 高一でしょ?」
「俺、歳が一つ上だから」
「え、高校って同い年が行くものじゃないの?」
「高校は義務教育じゃないから、別におかしなことじゃないだろ。札幌の高校が合わなかったし、こっちの方が面白そうだったから。でも、その学校の入学金とか親に払わせたから、親の援助、もらいたくなくて」
外見からは想像できないくらい、殊勝なやつかもしれない。背も高くて、身体も鍛えているし、格好いいというのはこういうのかもしれない。そう思うと、少し心を開いてもいいのかもしれないと思った。
「あのさ、バイトって、どういうこと?」
「ん、HPに書いてあっただろ。確か奨学金とかのページからリンクしていて」
「って言われても、今、ここ、インターネット繋がらないから」
「あ、そうか」
「それから、バイト中なのに、いいの?」
「ん、仕事量に応じて支払いだから、報酬がちょっと減るぐらいだし。こっからは、バイトじゃなくて、友達としてアドバイスしてもいい?」
「友達?」
「あ、じゃあ、同級生だな」
椥紗が警戒すると、蒼佑は、うまく距離を調整してくれた。蒼佑は、つなぎのポケットからスマホを取り出して椥紗に見せた。
「このアプリ落とした? ReGっていうやつ。これで、学校のこといろいろ検索できる」
「うん。ダウンロードはしたんだけど、採寸で使ったし。でも、どう使うかわからなくて、あんまり、やってない」
「だからか。って、今ここでは使えないけど。ここから検索していたら、この仕事の募集を見つけた。正確にいうと、このバイトはボランティアに近くて、報酬として現金の代わりにポイントがもらえる」
「ポイント?」
「ReGとは別のアプリで、Gpっていうのがあって、仕事をすればそのポイントが貯まるようになってる。現金をGpに変えることはできるんだけど、Gpは換金することができない。まぁ、そういう細かいことはあるんだけど、ここの敷地内では、現金よりもGpの方が使い勝手がいいし、同じようなバイトするよりも割りがいい」
「Gpって『ギュフ』で買い物した時にもらえるポイントのやつ?」
「そうそう、それ。溜まったポイントは次回の買い物時に使えるっていうやつ。ここで仕事をした分は、ポイントとして還元される。どれくらいもらえるかは、仕事によって違うけど」
「使いこなしているなんてすごい」
椥紗が、尊敬の眼差しを向けると、蒼佑は目線を逸らした。
「俺は、金がないから、必死なだけで。あ、いいこと教えてやるよ。このGpは、この敷地内の施設でも使えるようになっているんだけど、まだネットがなくて細かいやり取りができない。なので、ネットが不安定なうちは、ポイントなしで使える施設を提供します、だとさ」
「え、それって」
「全部ではないけど、食堂とか大浴場とか、無料で使えるんだ。どういうものがあるのか全部を把握していないけど」
「大浴場? それって温泉? 露天ある?」
「いや、まだ、俺、行ってないし。多分、温泉じゃないのか?」
「いやっふー。よし、こうなったら、とりあえず探検よ」
急にテンションが上がった椥紗を見て、蒼佑は下を向いた後、笑い出した。
「え、何か面白いことあった?」
「いや、さっきまであれだけ警戒してたのに、急に拳突き上げて喜び出すから、おかしくて」
「だって。私、男の人に慣れてないんだもん。女子校だったし」
「女子校か。じゃあ、名前教えてくれないのも、そういうわけね」
「えええ、ああ。ごめん、私は、椥紗。篠塚椥紗だよ」
「篠塚椥紗か」
「で。名前、何だっけ。ごめん、もう忘れた」
「はぁ? 蒼佑。アイツにもそう呼ばれてるから」
「あ、そうだ。この区画に妹がいるとかなんとか言ってたよね」
「妹じゃないんだけど。っと、残念ながら、そろそろ俺は仕事しないと。成果出さないと稼げねぇからな」
「あ、うん」
「じゃあな、また学校で」
そそくさとその場を後にする蒼佑に手を振って、見送った。そして、椥紗が振り返ると、そこには空っぽの部屋があった。
「とりあえず写真撮って、春日ちゃんに報告、かな」
圏外で、新着メッセージがない状態のスマホをポケットに入れて、ドミトリーオフィスに向かう。すると、3、4人の生徒が集まって騒いでいる。不思議に思って、近づいてみんなが見ている方向を見ると、馬が居た。馬には手綱がついていて、それを握っているのは、椎野真生だった。
「こんにちは。無事に到着したかな」
金髪の男性が笑顔で手を振り、馬と一緒にお出迎えという不思議な光景があった。それを撮っている生徒がいたので、椥紗も同じようにスマホを構えた。
「あ、大勢が見るSNSにアップするのはやめてね。今日、僕、お忍びで来てるから」
(お忍びなのに、何で馬? 目立つだろ)
「あの、椎野さん。ここにはどうして?」
生徒の一人が真生に問いかけた。
「空港から? 早馬で来たよ」
「いえ、早馬は、使者が走らせる馬や使者のことを指すので、代表のあなたが乗ってきたら、早馬にはなりません」
どこからか現れた日本人顔の真面目そうなスーツの男性が真生を嗜める。
「細かいことはどうだっていいよ。早馬っていう響きがいいんだ」
「いえ、馬ではなくちゃんと車できました」
「ちょっと何言ってんの。ここは、演出として馬でしょ」
「社長、それでは困ります。非常識な学校を作るからといって、ここにくる人間が非常識だとは限らないのです。むしろ、あなたとは違って……」
「はいはいはーい。りょうかーい。せっかくこんないい天気なのに、こんなに広いところに来たのにさ。この自然を満喫しないって、あり得ないよね」
「いや、アンタ、お忍びでしょ」
二人のやりとりを見て、椥紗はスマホをポケットにしまった。
「何言ってるのかよくわかんないけど、やっぱり頭がおかしい」
あの綺麗な容姿には惹かれるが、あまり近づかない方が賢明だと思った。ネットのあるドミトリーオフィスに向かおうとすると、真生がこちらに向かって手を振っている。
(私、じゃないよね。……いや、私だ)
周りには椥紗以外誰もいない。真生は、こちらに向かってウィンクをすると、集まっている生徒たちの方を向いてしまった。
(こええええええ。ズキュンってきたよ。絶対営業用なのに……。顔が綺麗な人の破壊力すごいよ)
様々な気持ちが交錯し、混乱する頭を整理するために、椥紗は下を向いて息を整えながら歩いた。
(双葉、この気持ちをシェアしたいよ)
再びスマホを取り出して、メッセージを打とうとするが、電波がない。
「颯、本当に双葉はここにくるの?」
オフィスに近づいて、電波が入っても新着メッセージは入ってこなかった。
(春日ちゃんと双葉にメッセして……)
もう入居手続きは終わっていて、窓口のスタッフも入居する生徒もいなかった。誰もいないレセプションで落ち着きを取り戻したものの、段々寂しさが込み上げてきた。
「椥紗ちゃん」
自動ドアの音がして、理真美が入ってきた。
「どうしたの?」
「いや、何でもない。りーまちゃんこそ、どうしたの?」
「一緒に寮を探検しようと思って、部屋に行ったんだけど、いなかったから、ここかなって」
「よくわかったね。広いのに」
「だって、椥紗ちゃんは、ネットないと生きていけないっしょ?」
「……うん」
他人から指摘されると、恥ずかしい。椥紗は、スマホをいじりながら話題を変えた。
「あのさ、さっき他の人と話してて、ReGってアプリ知ってる?」
「うん。使ってるよ。私の家の近くにギュフはないんだけどね。通販でも使えるから」
「良く使ってるの?」
「アプリ? うーん。使ってるけど、良くではないかな。でも、使えるようにならないといけないんだよね。授業の登録とか……」
「え、何それ?」
「私も良くわからないんだ」
「あと、Gpっていうアプリがあって…」
「もちろん、使ってるよ。それは、買い物するたびにポイントが貯まってお得だからね」
「それも、この寮で使えるみたい。でも、今はインターネットが不安定だから、無料にするとか何とか…」
「無料?」
「そう、無料で、食堂とか大浴場とか使えるって…」
「すごい」
「でも、アプリをダウンロードとか良くわかんなくて、ダウンロードはできるんだけど、どうやって使うのかとか…」
椥紗がオロオロとしていると、理真美は笑った。
「見切り発車だったよね、多分。大学とかでは履修登録をネット上でするって従兄弟が言ってたけど、高校でするっていうのはすごいよね。新設校だし」
「そう…だね」
椥紗がスマホを操作しながら、適当に答えるのを見て、理真美は嗜めた。
「もうおしまい。探検しよう」
「え……」
「ガイダンスあるから、その後でやらないかい?」
理真美は、椥紗の腕を引っ張って、オフィスの外に連れて行った。
「行こう、今日は天気がいいから、外を散歩してもいいよ」
「いや、寒いよ。こんなに寒いなんて思ってなかったから」
「えぇ!? もう暖かいよ。真冬はもっともっと凍れるんだから」
「しば?」
「もっと寒くて、凍えるの。痛いって時あるよ」
当たり前のことだけれども、同じ日本なのに気候が違う。桜が咲いていたのに、日陰にはまだ雪が残っている。外の景色を見ているだけで、不思議な気持ちになる。椥紗にとって、そうなだけで、理真美にとっては違和感がないことなのかも知れないけれども。
理真美が進んでいくから、椥紗はついて行った。 ジムや音楽室、美術室、温室、視聴覚室、談話室、スーパーなど、様々な施設が併設されている。まだ営業が始まっていなくて、立ち入り禁止の場所がいくつかある。
生徒立ち入り禁止 staff onlyの文字が書かれている大きな扉にたどり着いた時、その扉が開いて、蒼佑が中から出てきた。
「こっちは、生徒は立ち入り禁止」
「え、でも、蒼佑出てきたよね。蒼佑も生徒だよね」
「俺、バイトだし。リーダーはギュフの社員だから、仕事の報告に行ってたの」
理真美の様子を見て、椥紗は機転を効かせた。
「あの、こっちは、龍野理真美さん。それで、こっちは蒼佑」
「苗字は?」
「んっと、何だっけ?」
「島田。荷物配達してる時に出会ったんだ。男子部。よろしく、龍野さん」
「よろしく、蒼佑君」
「それで、二人は何してるんだ?」
「んっと、探検、かな。まぁ行きたいのは温泉」
「ババ臭っ。まぁ、北海道の温泉は内地のものとは違うから、わからなくはないけど。とりあえず、俺、案内するよ。それで5時から食堂始まるから、回ったら飯食おうぜ」
「え、温泉は?」
「一緒に入れないじゃん。温泉は場所、案内するよ」
「え、一緒に入るつもりだったの? 椥紗ちゃんエロいー」
理真美に揶揄われると、椥紗は顔を赤くした。
「そんなことない。純粋に温泉に行きたいの。泡風呂とか最高じゃない。固まった身体がほぐれて癒される〜」
「本当にお前、年寄りみたいだな」
「そんなことないよ。普通だよ」
蒼佑が先導して、探検が再開された。理真美も蒼佑も今日出会ったばかりなのに、一緒にいて居心地がいい。中学校の頃の同級生とは、うまくいかなかったのに、どうしてこんなに違うのだろうか。
「へぇ、蒼佑君って離島出身なんだ」
「そう、神威島。親が漁師だから、一緒に船乗ったりしてる」
「うちは農家だから、トラクターに乗ったり、収穫手伝ったり。都会のことは良くわからないから、この学校なら落ち着いて勉強できるかなって思ったんだ」
椥紗にとっては、ついていけない話なのに、二人は椥紗が取り残されないように話をしてくれている。言葉が交わされるリズムがゆっくりというか、二人の態度に余裕があるというか。
「二人とも北海道から来たんだったら、普段もよく温泉行ってたの?」
「うちから一番近いところまで、車で1時間くらいだからなぁ。3ヶ月に1回くらいかな」
「俺は、チャリで行けたけど、まぁ同じくらいかな。家に風呂あるし」
「そんな、勿体無い」
「そんなもんだって。親父はもっと行ってるみたいだけど、老人の憩いの場だし」
「よっぽど温泉が気になるんだね、椥紗ちゃん」
そう言えば、今温泉のことしか話していない。蒼佑は、腕時計を確認して言った。
「それより、メシ行こうぜ。昨日いももちあってさ。そういうのって、内地じゃ食べられないだろ」
「いももち、何それ?」
「なんかどっかの峠で有名なやつらしいんだけど、母さんが弁当に入れてたりしてた」
「じゃがいもと片栗粉のもち。おいしいよ」
進んでいく蒼佑に二人は置いていかれないようについて行った。
(これなら、双葉がご飯を作れなくても、死ぬことはないな)
部屋に共同のキッチンがついているので、自分たちで何とか作っていかなければならないと思っていた椥紗は、胸を撫で下ろした。
夕食を終えた後、一旦解散して、準備を揃えて大浴場の前で椥紗と理真美は再集合しようということにした。先に戻ってきたのは椥紗だった。大浴場の横の休憩室に人がいるようだったので、椥紗は入ってみた。
「こんばんは。また会ったね」
「また?」
「そう、馬に乗っていた時、写真撮ってたでしょ」
「あ、すいません。ダメだったら、消します」
「アップロードするのはなしね。でも、撮ってもらえるなんて、僕そんなに魅力的だった?」
椎野真生は、髪をかき上げて、椥紗を見つめた。浴衣が少しはだけていて、色っぽい。
「あの、寒くないですか? 北海道出身じゃないから、思ったより寒いなって」
「知ってるよ。うーん。だって、温泉って言えば浴衣でしょ」
「は?」
「暑いか寒いかじゃないわけ。今このシチュエーションを最も楽しむことが重要なのね。温泉、浴衣、風呂上がりのリラックスした開放感。都会じゃなかなか味わえないからね」
椥紗がどう答えていいのかわからず、黙っていると、真生は手招きをした。
「よかったらさ、隣に座らない? コーヒー牛乳なら奢るよ?」
「あの、それは、お風呂の後で、まだ、入ってないので」
「あ、そっか。それは残念」
「それに、私、フルーツ牛乳派なので」
「え、何それ」
「コーヒーじゃなくて、フルーツ味のやつです」
「ふむふむ、そういうのがあるんだね。確かに、入浴後にこれ飲むのは美味しいと思うんだけど、でも、これ、コーヒー牛乳って書かれてないんだよね。これって、コーヒー牛乳、合ってる?」
「合ってると思います。コーヒー牛乳って書かれていないこと知らなかったけど」
2000年の雪印集団食中毒事件以降、「牛乳」という表示に関しての規約ができて、生乳100%でない限り、牛乳と表記できなくなった。真生が持っていた便には、デカデカとコーヒーと書かれているだけで、牛乳という文字はない。
「カフェオレとどう違うんだろうね。温泉を教えてくれた友達が、大きな風呂に入ったとは、絶対にコーヒー牛乳って言ってたんだけど。美味しいのはわかるけど、そんな絶対ってものでもないよね。これって、慣習みたいなものなのかな」
どうしてこの人は風呂上がりのコーヒー牛乳について、熱弁しているんだろう。『ギュフ』という会社のトップとは思えない発言に、椥紗はただ黙って聞いていることしかできなかった。
「何で僕がこんなことに関して分析を展開させているのか不思議かい?」
椥紗を見ながら、真生は笑みを浮かべた。
「それはね。温泉がこの雁湖プロジェクトの中核に位置するものだからだよ」
「え、中核?」
たいそうな言葉で、温泉を語られて、椥紗は驚いた。
「温泉は僕の憧れだった。日本の友達に温泉の素晴らしさを語られて、日本に来てから、ずっとずっと、温泉に入りたいと思っていたのに、憧れの場所だったのに、何度断られたか。タトゥがあるとご遠慮くださいって言われるわけ。何度も言われるうちに心には日本海溝のような溝と暗黒が生まれるわけだけど、ある日気付いたんだ。欲しいんだったら、自分で作ればいい。僕が僕のために作るのがいいと」
熱弁する真生に圧倒されながら、椥紗は頷いた。
「今の人間の社会は実にわかりやすい。お金があれば、温泉を作ることができる。お金が欲しければ、人が欲しがるものを作って売ればいい。と言うわけで僕は『ギュフ』の社長になったわけ」
雁湖のプロジェクトは、学校を作って教育に力を入れて次世代の育成や日本社会の活性化に寄与するということではなかったのだろうか。真生はさらに続ける。
「僕はお金に興味はない。栄誉も名声も、どうでもいい。でも、友達が好きなものには興味がある。それを得るのに必要だったから、雁湖プロジェクトを作ったんだ」
「え、あの、教育とかで社会を良くするみたいな志は?」
「ま、ついでかな。ブレスト(ブレインストーミング)してたら、この場所を作るのに教育っていうのが上手く合いそうでね。でも、ま、表向きは温泉よりも教育の方を主張する方が良いっていうことだから、そうしてるだけ」
この人はどうしてこんなことを自分に話すのだろうか。椥紗はただ圧倒されながら、話を聞いていた。
「あ、これ、オフレコの話ね。馬の写真と同じでSNSにアップロードするのはなし」
「あの、そんなことしないですけど、でも、これって、話して良いことなんですか?」
「うーん。あんまりよろしくないかもね。ま、学生である君が話したところで、それを信じて聞いてくれる人はほとんどいないだろうけど。こんなこと、他の人には言わないよ。君は別だよ、篠塚椥紗さん」
真生は椥紗をじっと見つめて、名前を呼んだ。会社という大きな組織を束ねている人が、たかだか一人の生徒の名前を覚えている。その違和感に混乱しながら、また椥紗は黙った。
「あー。椥紗ちゃん、いたいた。って、え、社長さん? じゃなくて理事長?」
その沈黙を破ったのは、理真美だった。
「こんばんは。どれでもいいよ〜。『ギュフ』のCEOで言ってしまえば、社長だし、雁湖学院の理事長だし。うんっと君は……」
「あの、初めまして、龍野理真美です。技術科で」
「ああ、そうだった。農家の子で、起業する計画とか書いてたよね」
「はい、そうです。覚えてもらえているなんて」
「あまり会ったことのない人に名前を呼ばれたり、自分のやっていることを指摘されたりすると、好意的な印象をもつだろ。これが僕の人身掌握術。僕は人間が大好きでそういうの得意でさ。そのおかげで会社を大きくできたとも言えるよね。ま、龍野さんの名前を覚えていない訳で、説得力は薄いだろうけど」
入学試験の受験者の回答を覚えているという時点で、優秀な人だということが分かる。こんな頭脳をもっていれば、さまざまな言語を習得するのも容易だろう。
「贔屓するのは良くないと思ってるんだけど、篠塚さんのことは、名前、覚えちゃうくらいだからかなり特別だよ。僕、君のこと好きだな」
「え、それってどういう」
予想しなかった言葉に、椥紗は動揺して言葉を失い、理真美は慌てふためいた。
「ああ、ごめん、勘違いした? 恋愛とかそういう俗物的な愛じゃない。僕の好きというのは、人類万人に対する普遍的な愛だよ。この愛で僕は社長になったんだ」
「ああ、そういう愛ですか」
理真美は胸を撫で下ろし、椥紗は、冷静になってつぶやく。
「愛深いなぁ。愛って一言で言っても色んな愛があるよね」
「確かに、愛が他人を傷つけたり、時には殺したりする。愛が大きければ大きいほどそのリスクがあったりする。そういうものは愛って言わないって人も居るけどね。僕はそれも愛だと思ってる。僕は、人間全てに愛を注ぐ為にここにいるからね、そういう愛を抱かないように気をつけないと、とは思っているけどさ」
「愛、人間全て、なんか神様みたい」
「あはは。そんな大それたものじゃないよ。でもそうあろうとはしてるかもね。人間全体に奉仕するなんて、神でもなければできないだろうから」
大きい話だけれども、面白い。椥紗は、真生の話を聞きながら、心音が速くなるのを感じた。
「それで、龍野さん、何か僕にお話があるの?」
「え、あの、はい。どうしてそれが?」
「君の顔を見ていたら分かる。かわいいね。そんなに固くならなくていいよ。今、僕はただの温泉を楽しんでる人だから」
「でも、椎野さんとお話ししたくて、そんなことが最初からできるとは思わなくて、うまく言葉にできるかわからないんですけど」
「ふぅん。それって、社長としての僕に話があるってこと? 興味深いね。今、オフだけど、教えて? アドバイスできそうなことがあったらするから」
「はい。あの、私、学校の生徒で、畑作りたくて。授業でも畑は作れると思うんですけど、学校以外のところで、ちゃんとやりたいというか、農業高校とかで作ったものを売るとかは聞いたことがあるんですけど、安く提供するじゃなくて、無農薬とか有機栽培とかそういうのでブランド化してとかできないかなとか、ああ、うまく説明できない」
落ち着いているように見えた理真美が、必死になって説明する姿を椥紗は見つめていた。真生は少し考えた後、口を開いた。
「学校の範疇で言うなら、クラブってことでもできるだろうけど、ただ作ることだけではなくて、お金のことも考えて、採算の取れるものをやりたいってこと、かな?」
「はい。あの、私、地元を元気にするような仕事が作りたくて、若い人はみんな街から出て行くって言ってて、それをなんとかできるようなことがあるなら、試してみたいなって」
椥紗は理真美の話を聞きながら、その志の高さに驚いていた。
「ブランドっていうなら、『ギュフ』のブランドを使うことも可能だと思うし、在学している3年間は、「高校生が作った」とか商品名に入れれば、興味を引くかもしれない。ま、ブランドを使うなら、ちゃんとプロセスを踏んでもらわないといけないし。商品化できるくらい大掛かりなものにするなら、場所も必要でしょ。土地を使うのは構わないんだけど、理由もなく使わせることはできないからね。どういう意図で使うか、計画を出してもらいたいな。叩き台があれば、色んな意見を取り入れやすいし。ま、大変だけどね。でも、面白い計画だから、うまくいくと良いなって思ってる。メンター制度あるから、メンターに相談してくれてもいいし。地域の活性化って、ただそこに工場を作ればいいという訳ではなくて、そこに住んでいる人との友好な関係があってこそ成り立つものだからね。面白いことができたら、それをそのまま故郷に持って帰れば良いじゃん」
「メンター制度?」
椥紗の問いに真生はすかさず答えた。
「学校のこととか、進路のこととか、家や友達といったこととか、なんでも相談できるようなお兄さん、お姉さんみたいな人。うちの社員なんだけどさ。君たちのちょっと先輩にあたる若手社員にやってもらうんだ。こっちで担当を決めているんだけど、自分の相談したいことに合わせて、他のメンターにも相談できるようにしてる。ガイダンスの前後でメンターとの面談日ってあったでしょ。まぁ、君たちの入学試験の解答とか見させてもらって、誰と誰が合うかなとか考えたりするの、すっごく面白くてさ。多分、気にいると思うよ」
話を続けようとする真生に金髪の美女が近づいてきた。
「マオ」
「イェス。あ、ごめん、お迎えが来たから僕は行くね。話ができて楽しかった。じゃね〜。Good Luck」
崩れた浴衣を整えて、真生はそそくさと出ていった。まるで嵐のようだった。
椥紗と理真美はしばらく呆然としたが、本来の目的である入浴を思い出し、大浴場へと向かった。
「すごーい。大きいねぇ。こんな温泉初めて見た」
「そうなんだ。道内だったらこれくらいのところ結構あるよ。内地にもあるって聞いたけど、スパワールドとか、大江戸温泉物語とか」
「う……ん。よく知らないけど」
CMとかで名前はよく聞くけれども、実際に行ったことはない。北海道の田舎の子がどうしてこんな名前を知っているのだろうか。
「本格的な大きさだから、掃除大変そうだね」
「掃除?」
「大きい施設って、維持していくのが大変なんだよね。土地はあるから作ることはできるんだけど、保つことが難しくて断念しちゃうんだ。会社員の人は忙しいから長期休暇取れなくて、都会から離れているとなかなか来てくれないんだよね。」
理真美は経営者目線で物事を見ている。
「りーまちゃんは、どんな学校生活送ってたの?」
「どんなって、普通だよ。私の家は田舎だからね。生徒の少ない学校だったけど」
「学校は楽しかった?」
「人数いないからね。違う学年の子と同じ教室で授業受けたり、運動会は町の人も一緒にみたいな感じだったけど。楽しかったな」
「全然、想像つかないや。中学受験とかした?」
「中学受験? ああ、良い学校に行くために進学塾に通うっていうのでしょ。テレビで見た。そんなの都会だけだよ。町には中学校が一つしかないから、どこに行くかは、もう決まってた」
「良い大学に行くために受験するとかそういうのないの?」
「もともと田舎は大学に行くことに興味ない人が多いんだ。でも最近はそうでもないかな。都会の学校まで遠いしね。大学に行くというのはすごいことだし、偉い人に馬鹿にされないようにとか、地元の意見を通すには必要なことだし、新しい技術を取り入れるのに専門的な知識があればいいかもしれないけど、都会に行ったら帰ってこない子供が多いから、結構複雑なんだよね」
「学校には、先生がいるでしょ。生徒はいなくても、いるんじゃないの?」
「先生はいるけど、時々来てくれる先生も入れて5人くらいだよ。あ、でも、オンラインの時間もあったから、もっと先生はいたのかな。中学校の美術の授業で、近くで工房やってる木彫り細工の有名な人が来てくれてね。そういうのは楽しかったかも。都会はいっぱい友達ができるっしょ。いいよね」
中学校の間はあまり学校に行っていなかったから、友達は双葉しかいない。学校に行く代わりに、春日伊織が勉強を教えてくれていたから、それなりには勉強はできるけれども、中学受験を目指していた時ほど、熱心に勉強していたわけではない。
「人はいっぱいいたよ。でも、友達ができるってわけじゃない」
「椥紗ちゃんは中学受験したんでしょ?」
「うん。受験して、中高一貫の女子校に行ったけど、合わなかった。小学校の高学年の時、電車に乗って塾に通ったのにさ」
「通うんだ。また違う友達ができそうだね」
「うーん。そうでもなかった。志望校ごとにクラスが分かれていて、周りのみんなは同じ中学校を目指すライバルだったから。仲良くしても、どっちかが受かって、どっちかが落ちたら気まずいし」
「でも、普段はそんな意識しなくても良いっしょ」
「毎週テストがあって、毎月大きなテストがあって、それでクラス分けがされて、成績が上がったとか下がったとか、わかっちゃうんだよね。うちは、親よりも、お爺ちゃんが成績をすごく気にしていてさ。ま、もう死んじゃったんだけど」
浴場には、椥紗と理真美以外誰もいなくて、椥紗は自分の思っていることを気兼ねなく話すことができた。居心地が良くて、受け入れられているような感じがして、椥紗は不思議な気持ちになった。
入浴の後、理真美と別れて自分の部屋に向かう時にはもう辺りは真っ暗だった。
「太陽だんだん落ちてきて、くーらいくらい真っ暗闇。ひとりぼっちは辛いから、電気をつけて元気だそう。ほーらほーら、明るいね。心の中もぽっかぽか」
共用のリビングに入り、靴を揃えながら自分自身を鼓舞するために歌っていると、扉が開いた。
「あ、やっほー」
「うひょぅ」
突然現れた双葉に、椥紗は、息を飲み、歌と踊りを止めた。
「声がするなって思ったら、帰ってきたんだね」
「いや、聞いてた?」
「声は聞こえたけど、何かしゃべってるなって」
「うん。それでいいよ。って、双葉、何で今まで連絡くれなかったの」
「ごめんね。携帯の電池無くなってて、連絡できなかった」
「でも、そっちは大体こっちのことわかってたんでしょ」
「うんっと、大体は」
双葉が返答を渋っていると、中からもう一人が出てきた。
「初めまして。私は片桐裕也、双葉の兄です。いつも妹がお世話になっています」
精悍な顔立ちの青年は、椥紗を見て一礼した。
「じゃあ、俺は戻るから」
「はーい。ありがとう」
笑顔で手を振る双葉に椥紗は迫った。
「ちょい待て、イケメン兄がいるなんて聞いてないよ」
「イケメンではないと思うけど。あれ、言ってなかったっけ?」
「イケメンパラダーイス」
「ねぇ、何言ってるの?」
「中学女子校の私には刺激が強すぎる〜〜〜」
「って言いながら、椥、殆ど行ってないでしょ」
「今日ね、大浴場に行ったら、真生さんがいて、あと、蒼佑っていう人がいて、双葉のお兄さんまでイケメンで、もう、うんっと、色々顔がいい人いっぱいなの、ね。すごくない、すごくない?」
「うーん。よくわかんないけど、とりあえず椥が興奮していることはわかるよ」
双葉は、リビングのソファに座って言った。
「あの、さ、ありがとうね」
「何が?」
「家を離れる機会をくれて。裕兄は、家を出てるから、久しぶりに一緒にいて、すごく楽しかった。離れていても、家族だったんだって思った」
ニコニコと笑いながら話す双葉を見て、連絡が来なかった理由を察した。
「それは、よかったじゃん」
「うん。色々あるの。別に椥だけじゃないんだよ、家が変わってるの」
あまり自分のことを話してくれない双葉の言葉に、椥紗は驚いた。
「裕兄のことは、考えないようにしてた。だけど、学校辞めたら、状況が変わってさ、前よりも深い話ができた。だから、ありがとう」
「いや、私何もしてないじゃん」
「そう思ってるならそれでいいけど」
「それよりさ、今日は何回も会ったんだよ。真生さんに。馬に乗ってたり、湯上りだったり、何かいい匂いしたり」
また興奮し始める椥紗を、双葉はあしらった。
「いい匂いって。居たんだ。椎野真生」
「なんかさ、双葉って真生さんに対して、当たり強くない?」
「おじさんじゃない。高校生を恋愛対象だと見ているなら、犯罪だからね」
「そういうのじゃなくて、別に、何かしたとかそういうのじゃないどころか、学校作ってくれて、こんな広い寮を作ってくれて」
「んー。悪い人ではないんだろうけど、何だかねぇ。まぁただの杞憂だったらいいんだけどね。不思議なことに、ここ、颯がうまく動けないみたいなんだよね。椥の伝言も半分くらいしか受け取れなかったし、ま、用心したほうがいいかも」
椥紗は忠告を受け取ったものの、どう用心していいのかわからないし、適当に受け取った。理真美に蒼佑に双葉、不登校の椥紗にとって親しくなれそうな人が現れたことが嬉しくて、彼女の頭には、他のことを考えるような隙間はほとんどなかった。