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ハガキ 風の物語  作者: 伊諾 愛彩
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風の物語 1.椥紗と双葉

 中学校三年生になった時、毎日学校に行くということはもう当たり前のことではなくなっていて、平日の朝9時に家に一人でいることの方が普通という生活になっていた。本来なら学校に行っているはずの時間に外をうろうろすると、色々と面倒くさいことになると言われていたのと、その時間に監視員と名乗る人間が家にやってくるから、篠塚椥紗はおとなしくその人間の訪問を待っていた。

「おはよう。勉強の準備はもうできているか?」

そこに現れたのは、父親の友人の春日(かすが)伊織(いおり)だった。彼女は、椥紗に常識を教えてくれる教師でもあった。椥紗の住んでいる部屋と同じ建物に伊織のオフィスがあって、彼女は椥紗の面倒を見てくれていた。伊織は、椥紗の家が経営している会社の一員でもあったから、椥紗の世話も仕事の一つだと思っていたのかもしれない。

 父親の祥悟(しようご)は柔軟な考え方の持ち主で、「学校に行きたくなければ、行かなければいい」と主張したが、それに反発したのが、友人の伊織だった。行きたくない原因のある場所にわざわざ行く必要はないが、憲法上の権利として認められている教育の機会を椥紗から奪うのは、あってはならないことだと意見したのだ。伊織は正義感の強い性格をしていたせいか、あるいは、椥紗のことを可愛がっていたからなのか、父親である祥悟と椥紗の教育について、激しい議論を展開した。その結果、椥紗は伊織の監視下で不登校生活を送ることになった。

「篠塚、篠塚椥紗は居るか?」

生徒、篠塚椥紗の家のリビングで、春日伊織はまるで教師のように彼女の名前を呼んだ。

「時間厳守だろ? 開始までに準備をして椅子に座っておく。約束したよな」

「はーい。ごめんなさい」

ヘラヘラとした答え方に、苦言を呈しようと思ったが、伊織は椥紗の顔を見て、踏みとどまった。からかっているのではなく、何か良いことがあった。そんな表情だった。

「どうした? 椥紗」

「へへへぇ。見て、見て。学校創設だって。すごくない? いいよね、春日ちゃん」

「いいよね?」

椥紗は、A4のカラーの冊子を持っていて、それを伊織に見せつけた。

「じゃじゃーん。行きたいなって思う学校の学校案内です。知ってる? 雁湖学院、あの、ギュフっていう会社が作るっていう学校の」

知ってるも何も、そのカラーの冊子が椥紗の家に届くように申請したのは、伊織である。

「知ってるよ。それで、何が『いいよね?』なんだ?」

「うん、っと。高校のことなんだけど」

「高校?」

「だからね、今、学校に行けないなら、高校どうしたらいいんだろって考えててさ」

「高校、行きたいのか?」

「うんっと、今の学校の高校には行きたくないけど、他の高校ならどうかなって」

自分から高校に行きたいなどと言い出すとは、「悪くない」かもしれない。伊織は、椥紗の居るテーブルの前に腰を掛けた。

「まだ、詳しくとか調べていないんだけどさ。違う学校に行くなら、受験しないといけないわけでしょ。それで、調べてみたんだけど、進学校と呼ばれる中高一貫校だと、内申点が不利になるから、高校受験には良くないみたいで……。高校に行くべきだとは思うのね。でも、今の学校の高校に上がるとか、ありえないし、だとしたら、どこかを受験しないといけないわけなんだけど……」

椥紗なりに色々考えているわけだ。伊織は、必死で話す椥紗を見ながら、ふっと息をついた。

「そもそも、今の学校の高校に上がれるかどうか分からないけどな。中高一貫といっても、高校に進学の際に評価はされるだろう。学校に行かなくなって、まだ数か月だし、課題は提出しているし、オンラインミーティングとかはしているけれども、進学は難しいと思うけどな。それで? そのパンフレットをなぜ私に見せるんだ?」

「それで、ね。……あの、この学校とかどうかなぁって思ってね」

椥紗がそろそろと冊子を差し出すと、伊織は受け取って冊子をめくった。祥悟は椥紗のやりたいことに対して、金銭的な援助を惜しまないけれども、伊織は色々と口を出す。私立の中高一貫校に行くために、中学校受験のための進学塾への通学費用、学校に入るための受験費用、入学金や授業料などは、ずっと公立の小中高と通った伊織から見るとバカ高い散財のように思えた。椥紗の父親や母親は、お金に困ったことがなく、金銭の管理能力が低く、金銭感覚もずれている人間だったから、伊織のきっちりとした性格を頼っていた。

「やっぱダメかな? お金かかるだろうし」

「お金は、そんなに問題じゃないだろ。お前の親はそういうの気にしないんだし。ちゃんと読んだのか? そのパンフレット。雁湖(かりうみ)学院があるのは、北海道だぞ?」

「北海道」

「しかもど田舎。ギュフが作る雁湖学院……。コンセプトは面白そうだし、寮費や授業料なども抑えられるから、お金を気にすることはないが、ただ、本当に何もないところだぞ」

椥紗は生まれてからずっと、都会暮らしである。家族の事情で、一時的に海外で暮らしたことはあるけれども、北海道に行ったことはない。

「何もないことはないよ。何もないってどういうことなのかな。少なくとも学校はあるわけで、今の生活にはないものがそこにはあるんでしょ?」

椥紗が必死で主張するのを、伊織は黙って聞いていた。

「今はさ、学校の人とか、会いたくない人がいるから、外に行くのもちょっと嫌だなって思うし。そういうものもなくなるってことでしょ。嫌なものもなくなるっていう意味なら、何もないというのも悪いことじゃないと思うんだ」

「そうだな。ただ、私は一緒に行けないぞ」

「それは……」

伊織には会社員としての仕事がある。椥紗の家が経営している会社だからといって、おいそれと引っ越しができるわけではない。問題が起こったときに頼れる存在が、居なくなることに椥紗の顔が曇った。

「まぁ、ネットで話せるし。日本国内なら、1日あれば帰って来ることもできるだろうし。お前、母親の有佐さんと一緒に海外で暮らしたこともあるわけだし。嫌になったら、飛行機に乗れば、半日もあれば帰ってこれるだろ。この雁湖っていうところ、空港からは近いみたいだし」

「って、全部解決してるじゃん」

「ん。ちゃんと考えているか、試してやろうかなと思ったんだけど、それよりも、冒険をしたいと思っている子供の好奇心を阻害するのは良くないかなぁって」

伊織は、椥紗の提案に対して大いに賛成してくれるらしい。そして、椥紗の顔は明るくなった。

「じゃあ、次にすることは?」

「んっと、お母さんとパパに伝えることだね」

「祥悟は、多分電話には出ないだろうから、メールかメッセージの方がいいと思うけどな」

「分かってるよ。そうする」

二人が承諾することを分かっているけれども、伊織は手順を踏むことを大切にしていた。椥紗の家族は遠く離れたところで暮らしている。だからこそ、家族との関係を一層大切にするべきと考えていた。椥紗はスマートフォンを持っていなかったから、ネットに繋がっているタブレットを使って、メッセージを書き始める。その様子を見て、伊織は唇を綻ばせた。

 椥紗の家族は、複雑で、父親と母親は夫婦ではない。父親の祥悟は実の父親であるにもかかわらず、椥紗は中学生になるまでそのことを知らなかった。母親の有佐とは、椥紗が幼いころから一緒に暮らし、ごく普通の母子家庭としてやってきていた。しかし、祥悟が実の父親であることを告白し、本当の母親ではなく伯母であることを知った。叔父であったはずの祥悟が父親で、母親であったはずの有佐が伯母であるという事実を知ったのだが、椥紗の成長や教育に関して、二人は相談しながらやってきていたから、椥紗は祥悟のことをパパ、有佐のことをお母さんと呼んでいる。

 椥紗の家の仕事は、亡くなった祖父を中心に経営されていて、そのサポートとして娘の有佐が働いていた。父親の祥悟は、家を継ぐことを嫌悪していたらしく、東京で全く異なる仕事をしている。祖父が生きていたころに比べて、帰ってくる回数は増えたけれども、椥紗のいる家には殆ど戻ってこない。有佐は可もなく不可もなく家の仕事をしていたが、家の仕事のことを最も理解し、その才能があったのは、祥悟の友人の伊織だった。

 祥悟は、姉の有佐がアーティストとしての夢を諦めて、家の仕事を手伝うようになったことを、惜しいと思っていた。だから、有佐を繋ぎとめるその父親、即ち椥紗の祖父の束縛がなくなったのを機に、有佐がまた夢を追いかけられるようにヨーロッパへの移住を勧めた。移住当初の椥紗は、母親に付いていって居たのだが、言葉の問題などで数週間で現地の学校に通うことを断念し、日本に戻ってきた。学校に籍を置いたままの渡航だったが、帰国後、学校内でのいじめに遭い、不登校を余儀なくされて、現在に至る。

 実の母親が誰なのかとか、そういうことを問い詰めたくとも祥悟はごまかして、詳しいことを話してくれないし、強く出れば出るほど、彼は逃げてしまう。椥紗が不登校という状況に追い込まれても、父親は楽観的で放任主義を決め込みどうしようもなくなる。その間に入ってくれたのが、ただの友人の伊織だった。

 春日伊織が、椥紗の面倒を見るという覚悟を決めることで、円満におさまって今がある。けれども、椥紗はそのことを少し気がかりにしていた。

「あのさ、もしも私の世話をする必要がなくなったらさ。もっと気楽になるから。なんだろ、ねぇ、春日ちゃんは結婚したりしないの?」

「何だ、突然。ハラスメントか?」

「私がいなくなれば、彼氏とか出来て、女性としての幸せとか手に入るとか思ったりしない?」

椥紗が思い切って発した言葉に、伊織は驚いた顔をした。

「何だお前。かなり、古臭い考え方してるんだな」

椥紗が慌てると、伊織はフッと笑った。

「私は、今のままがいいと思ってるんだよ。お前の世話をすることになったのも、面白い縁だったなと思ってる。傍に居なくなってしまうのは寂しくなるかもしれないが、そうすれば他にやりたいことが見つかるかもしれない」

伊織には、誰かに頼って生きていこうという考えは全くなくて、一流大学卒業、教員免許取得というかなり優秀なスペックを持っていた。椥紗の世話をすることで、教育に関する知識が活かされる機会が得られたし、彼女は今の状況に満足している。自立した女性であるがゆえに、一般企業ではうまくいかず、試しに今の仕事場で働き始めて、自分の才能を磨くことができた。そんな強い伊織のことを椥紗は信頼していた。

 そんな伊織が支持してくれているのだから、計画は前に進めていくべきだ。椥紗は、次に伝えたい人間に向けて、メッセージを発した。

「ねぇ、(はやて)。双葉に伝えて。私、雁湖学院っていう学校が気になってて、それで、受けようかなって思ってる。また、話、しようねって」

それは、最後に登校した日だった。成績が良くて、自分には手に届かないところにいると思っていた同級生が、椥紗に話しかけてくれたのだ。そして、彼女は颯という名前の風を教えてくれた。会いたくなったら、颯に話しかける。颯は風だからどうやって話しかけていいものか迷ったけれども、窓を開けて、伝えたいことを声にした。椥紗はこの時初めて、颯に向かって、メッセージを発したのだった。


 片桐(かたぎり)双葉(ふたば)は、椥紗と同じ中学校に通う唯一の友人だった。友人だけれども、友人になってからの時間はまだ浅いから、あまり良くは知らない。双葉はいつも学年一位の成績を取っていて、頭の良い同級生ということで椥紗は彼女のことを知っていたけれども、双葉が平凡な椥紗のことを知っていたのかどうかは良く分からない。双葉は、物静かな生徒で、クラスのグループに入っているというところを見たことがない。彼女が距離を取っているというよりは、全員から一目置かれていて、近寄りがたいという感じだったのかもしれない。休み時間は、本を読んでいる姿を見る事が多かった。噂だけれども、文学的な才能があって、演劇部の顧問の先生に頼み込まれて、脚本を書いたとか、優秀だという話に事欠かない生徒だった。

 そんな生徒に話しかけられるわけがない。ましてや、いじめられている生徒が接点を持てるわけがない。卑屈なことを考えている時に、双葉は椥紗に話しかけてきた。

「篠塚さん?」

それは、最後に学校に行った日の最後の出来事だった。校舎を出て、校門までの間にある前庭で、彼女はベンチで微笑んでいたのだ。職員さんが手入れをしていたから、前庭の小さな植物園はいつも奇麗だった。学校の中に居場所はなかったけれども、そこは違うような気がして、椥紗は双葉に近付いていった。

「私の名前、知ってるんだ?」

「知ってるよ、篠塚椥紗さんでしょ?」

「本当に。まさか、片桐さんに覚えていてもらえるなんて」

「クラスメートだから。それに、闘ってるの見てたから」

「見てた?」

双葉は、何もない上の方に向かって手を伸ばした。

「本当は、もっと前に話しかけるべきだったんだと思う。でも、何も出来なかった。篠塚さんが一人で闘ってるの、知ってた」

そのまま校門の方に向かって、学校を後にしようと思っていたのに、最後に居場所が見つかったような気がした。

「もう、学校に来ないんだ?」

「どうかな。分からないや。中学校は卒業しないといけないから、また、来ないといけないと思うんだけどね。でも、色々あったし、しばらく休んで、落ち着くまで考えようって、思って」

「そっか。お疲れ様、だね」

寄り添うように双葉が話しかけてくれるのが嬉しくて、椥紗は目じりが熱くなってくるのを感じた。慌てて、腕で目を拭うと、双葉はその腕を握って、瞳を閉じた。温かい感情が、流れ込んでくるようだった。

「ごめんね」

双葉は、助けを求めている人を見て見ぬふりをするのことの残酷さを知っていた。知っていたのに、何もできなかった。その引っかかっていた感情を補う言葉を口にした。どうして、椥紗がいじめられていたことに、双葉が謝るのだろう。双葉は自分の手の届かないところに居る優秀な生徒で、何も関係ないのにと思っていた椥紗は、突然の謝罪に驚いた。

「そんな、だって、片桐さんが何か出来たとかそういうのじゃないし、他の人とうまくいかなくなったのは、私も悪かったところあるだろうしさ」

「それ、良くない優しさだよ」

ヘラヘラと作り笑いをして、答える椥紗に、双葉は少しきつい言葉を投げかけた。

「自分を傷つける人に対して、いい顔する必要なんて、なかったと思う。相手が攻撃してきているのに、平気な顔をしているから、もっと傷つけてくる。篠塚さんは、強いから、それも許そうとする。だから、どんどんその攻撃が強くなって、受け止めきれなくなった。……そんな人たちと、一緒にいることなかったのに」

椥紗が答えに詰まった。

「神様は、そういう人たちのことも許してくれるのかもしれない。でも、私たちは、神様じゃない。だから、全てを受け入れることなんて出来ないと思う。離れればいい。そう言えなかった。ごめんね」

双葉はいつも椥紗のことを見てくれていたのかもしれない。それは、優しさだったのかもしれない。双葉も一人ぼっちで、椥紗と同じような孤独を感じていたのかもしれない。椥紗は一人になりたくなくて、誰かに近付いていった。双葉は、それを受け入れて休み時間は一人で本の世界に入っていっていた。同じ社会の中に生きていて、何か良くない雰囲気を悟っていた同志だったのだ。一人じゃなかった。最後の日に、椥紗は大事なことを知ったのだった。

 二人が通っているのは、中高一貫の女子校で、男子の目がないせいか横柄な態度をとる女子生徒も居るような学校だった。伝統のあるお嬢様校というので、表向きの世間の評判はいいのだが、寄付金を多額にすることでで入試の点数を改ざんしてもらったとか、大学への推薦の権利を融通してもらっただとか、そういう噂も出てきていたような学校だった。実際にそれは、行われていたらしく、それを当てにしている生徒も居た。椥紗をいじめていたのは、その類の生徒だったのだ。彼女は、親が学校に多額の寄付をしているようで、教師への態度も不遜で、「問題」のある生徒だったが、学校側が強く出ることができなかった。椥紗の振る舞いが気に入らなかったのだろう。ある日、ロッカーを開けると、自分のコートがズタズタに切り裂かれていたり、教科書が故意に汚されていた。それだけではなく、突然上階からバケツの水をかけられたり、持ち物が隠されたりなど、「いたずら」ではすまされないようなことが何度も起こったのだった。初めて事件が発覚した時、教師たちは真剣に取り合ってくれていたが、その首謀者が分かると、彼らはそれらのことはなかったように振舞うようになった。

「それは、篠塚さんの思い違いじゃないですか?」

いじめの証拠は揉み消され、教師たちもそれを無視するようになっていった。椥紗が、声を上げると、学校の生活指導教諭に呼び出され、椥紗に非があったと咎めるようになっていた。被害妄想のある生徒、そんなレッテルが貼られて、いじめに関わっていないような生徒にも避けられるようになったし、いじめがあることを知っていた生徒たちは、自分に被害が及ぶのを恐れて、極力椥紗と関わらないようになっていった。

 学校に行かなければならないという常識は、どれほど大切なものだろうか。確固としてあった常識も、昨今では揺らぎのあるものとなっている。けれども、学校に行かなければ経歴は手に入れられない。経歴、それは社会の中で生きていくのに大事なピースとなるものだ。経歴は、その人そのものを表すものではないし、誰かがその人に仕事なりを依頼するときに、どれだけの知識や経験があるかということを元に、するのだろうけれども、実際にその人が持っている知識や経験を示すことができるのだろうか。小さな社会であれば、その周りにいる人たちの話を聞いて、把握することができたかもしれない。だが、今の世界広い。この世界の中で、その人のことを知っている人はどれくらいいるだろう。だから、経歴だとか、そういうものを指標にする。指標となる経歴をお金で買う。それだってありうる。折角受験に合格して入学したのに、学校に行かないということは、手に入ると考えられていた経歴をみすみす手放すということだ。

 椥紗が伝統のある中高一貫校に入学した背景には、公立中学校に入学するよりも、よりよい教育や経験を得られるというのがあった。残念ながらそれは、違っていた。いじめられている状態では、精神が安定した状態で授業を受けることは困難だし、良い人間関係を築くこともできない。それでも、学校に通い続ける意味があるとしたら、それは経歴のためだ。椥紗の祖父は経歴を大切にしていた。だからこそ、椥紗に中学校受験をさせたのだ。だから、通い続ける意味はあった。そんな祖父の考え方に対して、父親の祥悟は否定的だった。椥紗が学校に行くことが楽しくないならば、学校に行かせるべきではない。良く言えば革新的、悪く言えば、無鉄砲で無責任だった。

 一方、双葉は椥紗のようにこの学校に期待をして入ったわけではなかった。ただ、周りの人間が勧めてきたからという理由しかなかった。家にいることがあまり好きではなかった双葉にとって、中学校受験のために、塾に通えるということは、むしろ心地のいいことだった。与えられた問題を教えられたとおりにやっていけば、分からないことは殆どない。テスト出る問題は、答えがあるから、ゲームをやっているような感覚でテストを受けていた。

「ねぇ、片桐さんは、ここで何をしていたの?」

しばらく考えた後、双葉は椥紗の問いに答えた。

(はやて)と話してたの」

「颯?」

双葉は腕を椥紗の前に差し出して、何かを見せようとしたのだけれども、椥紗には何も見えなかった。

「颯は、ここにいる風の名前。私ね、風と話ができるんだ。今、ここにいるのが、颯っていう名前の風。颯が、篠塚さんのことを教えてくれてた。私ね、知ってたんだ。篠塚さんにいろんなことがあったってこと」

何もないものを見せられて、何でも知っているかのように言われても、ピンとした実感が浮かない。

「颯が、『椥紗が苦しんでる』って言ってた。颯の方が私よりも親身になってる」

双葉が笑ったのは、それを苦々しいと思っていたからだろう。そんなことよりも、椥紗にとっては、自分の下の名前が双葉の声で呼ばれたことにドキドキして、温かいものが流れ込んでくるような気がした。

「椥紗、いいね。あだ名で呼んでよ。私はさ、双葉って呼んでいい?」

「いいよ。あだ名なら、椥、でもいい?」

「いいね。その方がもっと仲良しな感じする」

興奮している椥紗を見て、双葉の何もしなかったことに対する罪悪感が一瞬で消えてしまった。椥紗は双葉に迫って尋ねてきた。

「連絡先、聞いてもいい? 私は、まだスマホ持ってなくて、でも、家からだったらiPadあるから。今日折角良い感じになれたのに、でも、しばらくここには来ない方が良くて。だから、連絡できるように」

「お揃いだね。私もスマホ持ってないんだ。でもね、椥が颯に伝えてくれたら、私はわかるから。会いたくなったら、颯に、風に話しかけてくれたらいいから」

双葉はそう言っていた。だから、椥紗は、颯に話しかけた。


 その翌朝7時に、椥紗の家のオートロックのインターホンが鳴るなんて思っていなかったから、椥紗は、突然の呼び出しに驚き、ベッドから飛び出して受信機の方に向かった。

「はい?」

「おはようございます。片桐双葉です。椥紗さんいらっしゃいますか?」

こんな朝早くに双葉がやってきたこと以上に、颯に伝えたメッセージが、双葉に届いていることに驚いて、椥紗は返答に困った。

「椥からお誘いがあったから、来たんだよ。また、話しようねって、颯に言ったでしょ?」

「いや、だからって、まさか昨日の今日っていうか。夜中だったからほぼ今日だったし。だから、まだ7時間くらいっていうか」

「迷惑だった?」

「いや、そういうのじゃなくて。こんなに朝にくるとは、思ってなくて」

「だって、私、これから学校に行くから。まだ寝てるかな、とは思ったんだけど、遅刻もできないし」

「ごめん、まだパジャマだから、ちょっと待ってもらうかも」

「じゃあ、ここで待ってるよ」

「外で待たせるわけには行かないから、上がってきて」

椥紗の家には、椥紗しか住んでいない。世話係を任されている伊織が、家事をやってくれているから、整ってはいるけれども、椥紗自身が誰かを向かい入れたことはなかったから、どうしたらいいのか、慌ててしまう。とりあえずは、パジャマを部屋着に、いや、部屋着ではなく、誰かを迎えるなら外に出ていく服を着るのが正解だろう。クローゼットで一番最初に目に入った上下を着て、キッチンに向かった。

(こういう時ってお茶とか出すもので、お茶はどこにあるかわかるけど、お客様用のカップとかあったっけ? それからお菓子? いや、スリッパ?)

ピンポーン。椥紗が次にやるべきことを考えている間に、部屋のインターホンが鳴った。

(どうしよう、どうしよう。ってまずは、家に入ってもらって……)

そういう心配は杞憂だった。扉を開けた時、そのことがすぐに分かった。

「おはよう。元気だった?」

双葉は、まず椥紗をしっかりと抱きしめた。

「おはよう」

「照れてる?」

「そうじゃなくて、びっくりして」

椥紗は、双葉のことをよく知らない。いや、知っているけれども、知っている双葉は学年主席の、いや、学年どころでなく全国でトップを取るような天才で、不登校で落ちこぼれのような椥紗に急に抱き着いてくるようなイメージは全くなかった。

「こんなに早く、会えるとか思ってなくて。なんか、服も変だし」

よく見ると、服が全身トマトのように真っ赤だ。

「ごめんね。でも、早い方がいいと思ったんだ。雁湖学院に行くならね、そんなに悠長にしている時間はないと思うんだ。試験があるから」

さすが、全国模試でいつも上位に入る人は違う。合格して入学するまでにどうするべきか、先のことを計画するのが早い。

「ありがとう、双葉。私のことなのに」

「違うよ。私たちだよ」

「へ?」

「私も学校辞める。私も受けるから。椥がいくなら、私も行く。昨日、入学金と寮費、諸経費を計算したの。また入学金とかそういうのこのまま今の学校にいき続けたらどれくらいかかるかと、学校をやめて雁湖学院に入るとどれくらいかかるか。比較してみたら、雁湖学院にいく方が安い。調査書はいらないし、北海道まで行かなくても試験が受けられる。だから、家にばれずに入学できそう。んっと出来れば、試験の時に、椥の家のネットを使わせてもらいたいんだけど」

つい数時間前に風に向かって話したことが、ものすごいスピードで前に進んでいる。そもそも、諦めていた高校進学をどうにか出来ないかと気軽に手に取った高校案内のパンフレットについて、双葉と話をしてアドバイスをもらおうと思っていただけなのに、椥紗以上に双葉が興奮している。

 立ち話というのは申し訳ないと思って、椥紗は双葉に部屋に入るように促そうとしたが、彼女は時計を見て中に入るのを拒んだ。

「ごめんね。今日は、部活の朝練をするっていうことで、家を出てきたから、私は学校行ってくる。また放課後、話そう」

「うん、それまでに、色々調べておくよ」

双葉は慌てて出て行った。椥紗が颯に告げた後に詳細に調べたのだろうか、だとしたら、十分に寝ていないのではないだろうか。双葉は椥紗には想像もつかないほどアクティブで、カッコいい友達だった。


 雁湖学院の創立をメディアに公開する少し前辺りから、ギュフのCEO椎野真生は、教育についての持論を語るようになっていた。その持論を、動画チャンネルで、ギュフ椎野チャンネルというのを作って公開していた。検索エンジンでギュフを検索すると、ギュフが紹介する新商品だったり、ユーザーのレビューサイトが出てくるけれども、椎野真生の名前を検索すると、教育関係の動画が良く引っかかる。

「学校というのは、今では当たり前にあるものだが、それは当たり前のものなのだろうか。人類史の中でいえば、近代化によってもたらされた比較的新しいものだといえる。近代は科学技術が発展し、文明が発展した時代で、西洋から起こった革新的な出来事が世界に波及した。それは、世界のどのような場所でも、もちろん、日本でも革命は起こった。人々は、より自由に、便利に暮らすことが出来るようになった。電気や水道、ガスといったライフラインから、鉄道をはじめとする交通網、テレビや新聞といったメディア、選挙制度をベースにした民主主義政治。歴史上それまでは、多くの人々が、誰かに仕えるという被支配者、極端に言えば誰かの奴隷だったが、平等という礎になる概念が近代には打ち込まれて、人々はなべて自由で豊かになった。しかし、人々を富ませた技術は戦いにも用いられた。大きな戦争、日本を例に挙げると、太平洋戦争を経験して、大空襲や原子爆弾の投下を経験した。幸せになれるはずだった革新は、荒廃をも生み出した。戦禍を経験した人類は、戦争という手段を取らないように努めているが、争いは未だに現れて、今まで以上に人々を恐怖に陥れる」

(なんか仰々しい動画だな)

当たり前のことを言っているだけだけれども、SF映画とかアニメのオープニングの壮大な前説を聞かされているような演出で、ただ凄いと思いながら見ていた。ナレーターの声も第二次世界大戦中とか、それ以前のアナウンサーのような感じだった。

「人間ってさ、そろそろ変わるべきだと僕は思うんです。だから、考え方の根本からを変える。となると教育かなぁって思って」

突然画面が森の中に切り替わって、スラッとしたシルエットの画像と共に、椎野真生の語りが出てきた。バックミュージックは、水の音そしてそれを追いかけるようにピアノの単旋律で始まり、ストリングスといった様々な音が入ってきて、オーケストラを形成する。最初はシルエットだった青年にカメラがどんどん近づいていき、包み込み様な形をしている掌までアップされたときに、広告が映し出された。

「新規入学生募集、雁湖学院高等学校(女子普通科、男子普通科、芸術科、技術科、通信科)」

この文字と、ホームページとQRコードが映し出されていて、長い割には特に情報のないただの広告かと次の動画をクリックした。

 特集、企業が作る学校とは? ゲスト、ギュフCEO椎野真生。ワイドショーで特集されたものを編集したような動画だった。

(え、これ椎野真生の公式じゃないの? ファンの人が集めただけの動画っぽい)

想像していたよりも作りの荒い動画で、停止しようかどうか迷ったが、うっすらとテレビ局のマークが映っているしと思いそのまま動画を流していた。画面に現れたのは、肩の下くらいまである薄い茶色の髪をおろし、両耳に合計7つのピアス、指や腕にも装飾品、そして露出の高い服を着ていて、そこから見える身体の部分の数カ所にタトゥーのようなものも見える。いかにもアーティストという風貌で椎野真生が現れた。

 学校案内のパンフレットやHPでは、余計な装飾品をつけず、髪を結ってスーツを着た写真が掲載されていたから、お堅い教育業界とはかけ離れた姿というのは、まるで別人のようだった。

「えへへ。こんにちは、お呼び下さりありがとうございま~す。椎野真生で~す」

猫のようなポーズをして、キャピキャピとした仕草で登場した真生に、番組の司会者も唖然としていた。

「あの、本当に椎野真生さん、ギュフの代表の……」

「はーい。そうだぉ。ってね」

「男性の方ですよね?」

「そうですよ。性別の確認、良くされるんです」

「でしょうね、とても線が細くて、おきれい……」 

「でも、すっごく失礼な質問じゃないですか? それ、確認する必要あります? 男か女か、そんなの大事ですか?」

司会者の女性が申し訳なさそうに肩をすくめる。それを見て、真生はにっこりと笑って答えた。

「でも、僕は男性の身体で、男性の心を持っているし、それは隠すことじゃないと思っています。皆さが疑問に思っていることにはお答えしたいので、答えまーす、にゃん。なんならぁ、脱いでもいいですよん?」

破天荒な振る舞いは、CEOどころか、一企業人としても危うい。椥紗はその動画を見ながら、最初はどう反応していいものか困っていたのだけれども、だんだんおかしくなってきてプッと一つ目の笑いが吹き出すと、そこから堰を切ったように笑いが止まらなくなった。


 東京の自宅で真生が、会議を横目にタブレットを操作しているのを見て、秘書のピクシーは、その肩を掴んで鬼のような形相で睨んだ。

「真生さん、あーたねぇ、何を見てるのかと思ったら、大暴れしてお蔵入りになったVTRですかい」

「ふふふ。まだ、怒ってるんだ。あの時のこと」

「あの時のことは、もう怒ってませんよ。今、会議をしているにちゃんと聞いていないことを怒ってるんです」

「真面目だねぇ。今は、会計課の内部での小さなミスについての報告だろ。その内容は、会計課の課長に任せてるし、既に報告内容も把握している。僕はぼやーっと聞いていれば大丈夫な時間だから、リラックスして聞いてたんだよ」

「マオ、つぎは、だいじ」

「了解。ちゃんとメイも会議を聞いてくれてるし、抜かりはないって」

真生といつも一緒にいるもう一人の秘書、金髪の美女はメイ=ノーランという。英語をはじめ、様々な言葉に堪能なのだけれども、日本語はあまり話せない。けれども、状況を理解する能力に長けていて、日本語で行われている会議の内容も殆ど理解している。ギュフの店舗が展開しているのは日本国内が中心だけれども、少しずつ海外進出を考えているし、製品や材料の調達となると、海外との交渉が必要で語学力は欠かせない。

 椎野真生は、父親が日本人、母親が外国人のハーフで、祖父母の代までさかのぼると、日本とアイヌとイギリスとデンマークの血が混ざっているので、英語と日本語が使いこなせるし、日常会話程度に使える言葉も幾つかある。グローバルな企業の顔として、ふさわしい素養を身に着けている。傍から見れば、エリートなのだが、本人は堅苦しく振舞うことを好んでいない、が、会社が大きくなるにつれ、そうも言ってられなくなってきていた。彼の自宅は、くつろげる空間で、例え仕事をしていても素の自分が出せる場所となっている。ピクシーとメイは、会社のこともさながら、彼の心の平穏を守る使命も追っていた。


 色々と動画を見たもののの、どうやって入試対策をしたらいいものか、椥紗はパソコンの画面に向かって渋い顔をした。

(良く笑ってすっきりしたけれども、結局何もわからなかった。なんで、ギュフが学校を作って。それよりも、学校を作る人がスケスケの、ピアス開けまくりの、いや、これってどうなんだ? でも、ギュフって環境にやさしくて、良い製品作ってるし。そもそも、真生さん、普段は、ピアスしてないし、奇麗なお兄さんなだけだし。でも、タトゥーが微妙にエロい)

モニターの前で唸っていると、扉が開いて誰かが入ってくる音がした。

「椥紗、片桐さんが来てくれてたぞ。お前、音、鳴ったの聞こえなかったのか?」

伊織と双葉の来訪に慌てて、パソコンを閉じた。

「何やってたんだ?」

「うんっと、ギュフのこと調べてた。動画とか見ながら」

「それだけ集中してたってことか。調べようとすることは悪いことじゃないが、ネットの動画を見ても入試のために得られるような事はあまりないんじゃないか。ま、今日はたまたま自宅に居て、呼び出しに気付けて良かったよ。じゃ、私は仕事に戻るから」

伊織が同じマンションに住んでいるのは何かと心強い。

(あれ、私、双葉に春日ちゃんの部屋番号教えてたっけ? そもそも、私、うちの住所、双葉に教えたことあったっけ?)

引っかかるようなことが浮かんできたが、双葉が重そうな学校のカバンを持ったまま立っていたので、くつろぐように促した。

「とりあえず荷物適当に置いて。こういう時は、飲み物、用意するもんだよね」

「ありがとう。でも、気を遣わないで。手順を踏まずに来てしまったから」

「手順?」

「椥に聞くっていう事せずに、颯の知っていることを元に、ここに来ちゃった。びっくりしたでしょ」

「そっか。それで、うちの家知ってたんだ」

素直に納得する椥紗を見て、むしろ双葉の方が驚いた。そのことをあまり見せたくなくて他の話題を振った。

「ギュフの資料、印刷してる。頑張ってたみたいだね」

「あはは。とりあえず、ね。真生さんの出ている番組とか、ネットの記事とかそういうのを集めてみたって感じかな。なんかよくわかんないんだよな。高校は、ギュフの雁湖プロジェクトっていものの一つらしいんだけど、そのプロジェクトは環境にいいとか、持続可能とか、エコとかそういう方向の話で、何でそこに高校っていう感じになってる」

「なぜ知ろうとするの?」

「だってさ、試験対策ってそういうことでしょ? 受けようと思ってるならその学校のことを知るのが大事じゃない」

「ふぅーん。それって、合わせようとしている?」

「合わせる?」

「椎野真生さんや雁湖プロジェクトのことを調べて、何になるの?」

「だってさ、試験対策ってそういうことでしょ? 私、雁湖学院に入学したいんだよ?」

「ホームページもまだ工事中みたいな学校だから、調べているのがそっちの方にいってしまうのは分かるんだけど、やってることが、高校入試のためというよりは、ギュフという会社のことを調べているような気がする。まず募集要項を読んだ?」

「読んでない。募集要項なんて、大体書かれていることは同じでしょ」

「そうかな。本当にそうかどうか、確認する。これが、一番にやるべきことだと思う。パンフレットあるよね?」

「うん」

「コピーさせてもらってもいい?」

椥紗とは違って、双葉は周りの人間に転学したいと考えていることをを告げていない。学校ではいつも本を読んでいるおとなしい生徒として見られている。優秀な成績を修め、何の問題もない生徒だと思われていたから、彼女が心の中で納得できないものを抱えていることに誰も気付いていなかった。

 この世界で幸せになることは、良い会社に就職して、安定した収入を手に入れ、家族を持ちというライフコースを辿ることみたいなひな形があって、双葉の家族もそれを望んでいるのだろうと考えている。だから、学校を辞めることを考えているなんてことが知られた場合、面倒なことが起こるかもしれない。

「コピーあるよ。A3もできるやつ。コンビニみたいにいいやつじゃないけど」

父親の祥悟は、ガジェットが好きだから、主に椥紗一人しか使っていないような家でも大抵のものはそろっている。

「使わせてももらってもいい?」

「勿論。あ、パンフレット、双葉のも送ってもらうように春日ちゃんに頼もうか。あ、双葉の家じゃなくて、うちか、春日ちゃんの家に届くようにすればいいから」

双葉は、椥紗の腕を抱きしめるように強くつかんだ。

「大丈夫、大丈夫。って、私に言われても説得力ないだろうけどさ」

学年で一番頭がよくてカッコいい双葉が自分を頼ってくることが、不思議だったし、それ以上に嬉しかった。椥紗は他の人に合わせようとする方がうまくいくと思っていたけれども、意外と自分のペースで誰かを助ける方が合ってるのかもしれない。

「募集要項ってそんなに大事なのかな。中学受験の塾に行ってた時さ、大事なことって、他の受験生よりも優れているってこと示せって言われたと思うのね。1点でも多く取れって、何度も何度も見直せって」

「見直すことは大事だと思うし、全てが間違っているとは思わないけれど、雁湖学院の入学試験で出る問題が受験生全員の答えが同じになる問題ではないと思うんだよね。ホームページで見ただけだから、はっきりとしたことは言えないけれども、他の人よりも優れていることを示すのに、中学受験の方法が使えるように思えないんだよね」

やっぱり、双葉は頭がよくて、ちゃんと色んな事を考えている。

「その意図を汲むために、まずは、学校が出している情報を頭に入れる。募集要項を読んだら、違うの、分かる。椎野真生とかギュフは学校にかかわりの深い人物だけれども、そのことを知るのは後で良いと思うな」

双葉は、効率的にことを進める方法を捉えるのが上手い。好奇心が強くて、意識が散漫する椥紗とは大違いだ。双葉は、コピーされた募集要項にざっと目を通して、鉛筆で丸を付けた。

「ここね。受験は、第一次試験、第二次試験を行う。第一次試験は、提出した資料による審査。指定期日(10月末日)までにインターネットを介して送信できる媒体(ファイルの形式については別紙に記載する)にて自己PRを送ること。容量は問わない。第二次試験は、オンラインによる面接。第一次試験に提出されたものを元に、質疑応答を行う」

「自己PRって、何? 夏休みの自由研究的なものをすればいいの?」

「良く分からないでしょ。少なくとも、普通のペーパーによる入試とは違うということが分かる。雁湖学院とか、ギュフとか相手のことを調べるのではなくて、それよりも、自分に何ができるかということに焦点を当てた方がいいと思う」

「何ができるか。って言われても、不登校の私に何ができるかって言われてもさ」

「だから、考えるの。考えて纏める。それが試験なんだから」

泣きつく椥紗を、双葉は突き放すそぶりを見せたが、気持ちは寧ろ真剣に寄り添うつもりでいる。

「ねぇ、そもそも、どうして雁湖学院を受験しようなんて思ったの?」

「え、それは面白そうだなって」

「どうして面白そうって?」

「ん。それは、話すようなことじゃないと思うんだけど」

話すのを渋る椥紗に、双葉は詰め寄る。

「ん、いやぁ、それはね、椎野真生が、イケメンだから」

椥紗は恥ずかしそうに白状すると、早口になって、詳細を話し始めた。

「あのさ、あのさ。エロくない? もともとね、すごくきれいな人だなって思ってたんだけどね。かなり薄い茶色の目とかがね、かっこよかったり。さっき見てた動画ではね、鎖骨のタトゥーがチロチロ見えたり見えなかったりするのが、エロい」

「んっと、ただ、椎野真生のファンになっちゃったってことね」

「そうなんだけど、別に付き合いたいとかそういうのではなくて、同じ空気を吸いたいというか」

「それが、ファンでしょ。エロスねぇ。椥紗のお父さんも大概だと思うけど」

ポロっと飛び出した言葉に、椥紗は疑問を抱いた。

「ねぇ、どうして、パパのこと知ってるの?」

「それは……」

「あ、そっか。颯のせいか。風だもんね」

不思議なくらい、椥紗が颯のことを受け入れている。

「パパ、最近はモデルみたいなこともしているみたいだけどね。モデルってかっこよく見せるのが仕事だから、エロいかなぁ。家族だとね。そういう目で見ないじゃない」

双葉が驚いて黙っていると、椥紗が手を引っ張ってきた。

「椎野真生は、鎖骨もいいけど、やっぱ、顔かな。ねー。イケメン正義でしょ」

「私は断然、顔も椥のパパの方がいいと思うけど」

「でも、仕事しかできない、男好きだからねぇ。で、真生様の鎖骨についてどうエロいか書けば、通ると思うかね?」

「それは無理でしょ」

非常に生産性のない会話だった。こんなことを話していたって、何も前に進まないのに、いつまででもこうやって楽しい時間を過ごしていられるような気がする。

「ねぇ、これが友達なのかな」

「そう、かもね」

一人ぼっちという同じ境遇にいる二人が一緒に居る。それで世界がこんなに変わる。残念ながら、その時間はあっけなく終わる。双葉が椥紗の元に居られるのは、限られた時間だけなのだ。夕方五時のアラームが鳴ると、双葉は荷物を急いでまとめて、まるでシンデレラのように家を出ていった。双葉には双葉の、どうしようもならないものがあるのだろう。


 双葉が椥紗の家にやってきてることを、双葉は親に話すことができないのだ。不登校の生徒と仲良くすること、それは倫理的に正しいことかもしれないけれども、必ずしもそれは良いことと取られるとは限らない。双葉の家族はそれを、面倒なことと捉えるようなきらいがあった。篠塚椥紗を雁湖学院高等学校に合格させて、不登校生活に終止符を打たせる。この目標に向かって、片桐双葉は椥紗の面倒を見ている春日伊織とタッグを組んで勉強を教えている。今はうまくいっている、けれども自分も一緒に転学を目指していることがばれたら、どんな家族ルールが作られるか分かったもんじゃない。

 友達のためとはいえ、椥紗に入れ込む双葉のことを、伊織は心配していた。椥紗をサポートするという上では、彼女の存在は心強いが双葉の献身が度を過ぎたもののように感じていた。

「これはやっとくから、双葉さんは帰る準備をして……」

「あの、一つ聞いても良いですか?」

「ん?」

「どうして、春日さんは私のこと双葉さんって下の名前で呼んでくれるようになったんですか?」

「あ、嫌だったか? なら、片桐さんって呼ぶようにするけど」

「そうではなくて、理由が知りたいんです。最初は片桐さんって呼んでくださったけど、下の名前を知ってからすぐに双葉さんって呼んでくださるようになりましたよね。それには、何か意味があるのかなって」

「昔、誰かが言ってたのを参考にしてるだけだよ。『日本では大体の夫婦が男の姓を選ぶから、子供の頃につけられた女性のあだ名って、名字からつけられたものだと、今の名前からかけ離れてるものって、結構あるよな。だったら、最初から、下の名前で呼んでさ、結婚してからも自分の名前に近いあだ名がつくようにした方がいいんじゃねぇの』って」

「だから、夫婦別姓が良いんじゃないのとか、考えているんですか?」

「いや、私は、ちょっと違うな。日本が夫婦別姓じゃないのには、そうである経緯があるんだろ。それを、考えずに利便性とかそういうので議論しているから、積極的にそうなればいいとか思ってはいない。ただ、結婚した場合、女性は相手の姓を選ぶことが多いだろ。なのに、名字で呼ばれること多い。一生モノの名前よりも手放してしまうものの方で呼ばれていることが当たり前になっていて、それに小さな抵抗を示して、名前で呼ぶようにしてる」

「なのに、どうして、椥からは、春日ちゃんって呼ばれてるんですか? 椥紗も伊織さんって呼べば良いのに」

「あれは、父親の祥悟が絶対に私を苗字で呼ぶって宣言しているからな。その影響だろう。私は、結婚するつもりがないし、パートナーになる人間が現れても、春日の苗字のままでいくつもりだから。死ぬまで春日伊織だから、問題ないし、そのままにしてる。アイツは私以上にややこしいこだわりを持っているからな」

「結婚するつもりがない……どうしてですか?」

「私のこだわりなんだよ。もしも、結婚したいようなパートナーが現れたら、籍を入れずに事実婚ということにすればいいし、外国国籍の人と結婚するなら、苗字は変わらない。誰と結婚するかによって変わる自分は想像できないし、あまり好きではないから」

強い人だ。自分で自分の生き方を決めてきた。自信を伊織の言葉に垣間見た。選択的夫婦別姓については、ニュースで騒がれているが、そんなのに振り回されない生き方をしているように思える。今ある環境で自分がどう生きるか、どう生きたいか。それは、双葉に突きつけられている問いでもある。

「あの、だったら、双葉さんじゃなくて、双葉って呼んでもらえませんか? さんがついていると、距離を感じるので、親しい関係で色々教えてもらいたいから」

大学に入って、就職して、誰かと結婚して子供を産んで、誰にでもある幸せな人生を歩むことが、双葉の理想だった。そうなるために、敷かれているレールの上を着実に進んでいくことが、正しいと思っていた。でも、そうじゃない。自分で道を作っていく、そんな生き方を考えてもいいのかもしれない。

「椥紗から聞いたけど、全国レベルの模試で常に上位の成績を取っているらしいな」

「ええ」

「だったら、別に椥紗に合わせる必要はないんだぞ。今の学校が合っていないんだったら、高校受験をすればいいし、わざわざ北海道に行くことなんてないじゃないか。双葉を不合格にする高校なんてまずないはずだろうし」

「まるで、生徒指導の先生みたいですね」

「……そうか。椥紗の場合は、祥悟が、いや、アイツの父親が椥紗をこのままの学校に通わせることを嫌がっているところがあって、不登校が長引いているところもあるような気がしてるんだ。私は、椥紗の家族ではないから、肝心なところがわかっていないからなんとも言えないのだけれども」

双葉は、颯の助けで、椥紗がどのようないじめに遭ったのかを伊織以上に知っている。何人かの女子が、まるでストレスを発散するかのように椥紗の持ち物を傷つけたり、隠したりしていることまで知っていたから、椥紗以上に本当のことを知っているかもしれない。椥紗のことを最初の方から気にしていたわけではなかったから、攻撃してくる女子生徒たちが、なぜ椥紗をターゲットにするようになったのかということは、分からない。証拠がなければ、現場に居合わせなければ、彼女たちがやったという事にはできない。教師は、警察官でもなければ、検察官でもない。それなのに学校内で起こる事件を些細な事として対処しなければならないというのは、酷な話だ。教師は、自らが学んできた学問を生徒たちに伝えるために学校で教えることが仕事なのに、社会から過度な期待が寄せられてしまっている。

「私は、椥と一緒に高校に行ける事、それが楽しいだろうなって思ったんです」

自分自身でも不思議なくらい、双葉には迷いがなかった。

「理屈では、うまく説明できないけれども、惹かれる方を選ばないと、後悔する。そう、思ったんです」

「そうか。なら、いいんだが」

伊織を説得するために出てきた言葉に、双葉自身が納得させられた。頭じゃない、心が正しいと思う方に進むことは、悪いことじゃない。それに従うことは、怖いことじゃない。

 

招待状 篠塚椥紗様

招待状 片桐双葉様


 その郵便書簡、葉書が来るのは、必然だったのかもしれない。椥紗と双葉は、課題提出と試験に向かって共に手を取り合い、そして、休みの時には一緒に遊んだ。二年以上、お互いに一人で過ごしていた時間を埋めるかのように、お互いの好きなことを話したり、くだらないことを話したりした。

「あーもう、進学希望届けを出さなかったってことで、呼び出しだよ。家族は納得したけど、まさか学校がこんなに粘ってくるなんて思わなかった」

いつものように学校帰りに家にやってきた双葉は、椥紗に愚痴をこぼした。

「双葉は、大学の合格通知持ってきてくれる生徒だからじゃない。合格実績とかそういうの」

(椥紗の学校嫌いは結構深刻かもしれないな)

双葉は椥紗の話をいい加減に聞きながら、ファイルに挟んでいた招待状を出して、笑った。家族や教師たちによる無言の圧力、良い子にならなければならないという縛りから解放された場所で過ごせる招待状だ。そうあるべき自分から抜け出せる良い機会になるかもしれない。そう、思ったのだ。












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