二人の瞳
腕の中で静かに寝息をたてる幼馴染を起こさぬように、慎重に歩いていると、応接室の方から物音が聞こえてきた。
ジュリアを抱きかかえたまま、エルニーヤは順路を変更して応接室の扉のノブにそっと手を掛けた。
肩で押すようにして、ゆっくりと扉を開けると、閉めてあったはずの窓が開いており、そこから入り込む風に煽られて、白いカーテンが暗闇で大きく揺れていた。
「・・・・・・」
窓の外から覗く、月明りに照らされた部屋。その中には、二つの影があった。
エルニーヤは、黙ってその影を見つめる。
一つは、応接室の窓側のソファに横たわった影。もう一つは、そのソファの傍に佇むマントを纏った影。
ふと、マントの影の主がこちらを向いた。その拍子に、被っていたフードが滑り落ちる。
月の光によって、淡く冷たい明るさに包まれた部屋の中で、彼の銀色の瞳が露わになる。
思わず息を飲むほどの、美しい輝きに、エルニーヤはふっと微笑を浮かべた。
「・・・・・こんばんは」
「・・・・・・」
エルニーヤの挨拶に、マントの影の主は無言を貫いた。
薄暗さに目が慣れてきた頃、銀色に輝く瞳以外の顔のパーツが朧げに確認できるようになる。覗く表情のないその顔は、酷く見慣れたものだった。
暫く向き合ったまま、雲の行方で時が過ぎるのをじっくりと感じていると、徐にマントの主がフードを被り直しながら、くるりとこちらに背を向けた。
そのまま窓から去っていこうとする彼を、エルニーヤは咄嗟に呼び止める。
「その子と、話せたかい?」
エルニーヤはそう言いながら、ソファに横になる少女に視線を向けた。
ソファに横たわったもう一つの影は、遊園地を満喫して疲れ果てたヴェガ。心地よい夢を見ているといいが、彼女の頬には涙の跡が光っている。
エルニーヤに問いかけられたマントの主は、数秒ヴェガを見つめた後、結局は何も口にすることなく窓の外へと消えた。
部屋に残されたエルニーヤは、肩に入っていた力を抜いて、ふっと息を吐く。
ヴェガに近づこうとしたところで、腕の中のジュリアが小さく身じろぐ。
「まったく。お姫様二人は、手が足りないよ」
自嘲気味に笑いながら、エルニーヤは空いたままの窓を見つめた。
夢を見るのは、あまり好きではない。
良い夢であった試しが、ほとんどないからだ。
泣きながら飛び起きたことも、少なからず経験済みである。
それと比べれば、今日は未だ良い方だったのかもしれない。
瞳は濡れていたが、飛び起きることなく目を覚ますことができた。
「う・・・・・体が重い・・・・」
全身に感じた鈍い痛みに、ヴェガは昨日の出来事をつらつらと思い出していた。
母に連れられてやってきた遊園地。いきなりここが自分のホームになると言われ、困惑しながら遊園地を回っているうちに、はしゃいでアトラクションを楽しんだ。
夕方は歓迎会を開いてもらい、緊張もしたが幸せな気持ちになることができた。
その後、鐘の音が聞こえてきて・・・・
「あれ、私その後、どうしたんだっけ・・・・?」
記憶を遡る途中で、頭の中がぼんやりとしてしまう。
ヴェガは何とか半身を起こして、昨夜の記憶を呼び覚まそうと眉間に皺を寄せた。
確か、鐘の音が聞こえた後、急にあの時計塔に行かなければと思い、マリナの制止を押し切って歓迎会の会場を抜け出した。
静まる遊園地の中を走り抜け、時計塔に着くと、二階にある鏡と向き合ったのだ。
更にその先の記憶を辿ろうとしたところで、足に鋭い痛みが走る。
「痛いっ」
ヴェガは顔を顰めて、右足をさすった。
そこで、包帯で手当てされていることに初めて気が付く。
昨日は慣れないヒールの靴で無理をした。足が痛いのは恐らくその所為だろうが、手当をした覚えは全くない。
考えているうちに、自分が未だ昨日のドレスアップした姿のままだということにも漸く気が付き、通りで堅苦しいはずだと軽く肩を回す。
今は何時だろう。どこに行けばいいのだろう。何をしたら良いのだろう。
ふっと頭に浮かんだ疑問に、ヴェガは自分の存在の危うさを思い知らされた様だった。
頭を振って、暗い気持ちの払拭に努め、ヴェガはとにかく着替えを始めた。
すっかり疲れた様子のドレスを脱いで、一人掛けソファの背にそっと掛ける。
淡い水色のワイシャツに、深い青のフレアスカートを着て、年季の入った姿見に自分を映す。
鏡と向かい合った瞬間、昨夜の光景がフラッシュバックした。
そうだ。昨夜、あの鏡の中に引かれて“夜の遊園地”に辿り着いたのだ。
エメラルドと名乗る可愛らしい少女、気さくなピザ屋のトム、眠り落ちるヴェガを抱えて歩く誰か。
思い出してみれば、全てが夢の中の出来事の様に思えてくる。ヴェガは現実との境目が分からずに、ぼうっと鏡と見つめ合った。
どれくらいそうしていただろう。止まったヴェガの時間を動かしたのは、ドアを鳴らす軽やかなノックの音。
「ヴェガ?起きているかい?」
険の無い人の良い声で、来訪者はエルニーヤだとわかる。ヴェガは、はっと我に返ってドアに歩み寄った。
「え、ええ。起きているわ」
答えながら、ゆっくりとドアを開く。開いた先にいたのは予想違わず、昨日と同じ胡散臭い笑みを浮かべるこの遊園地の案内人。
彼はヴェガの姿を見て直ぐ、無遠慮に笑ってきた。他人の顔を見て笑うとは、どこまで失礼な男だ。
「何よ?」
むっとしてエルニーヤを睨めば、彼は笑いを引っ込めて、ヴェガの髪にその長い指をすっと滑らせた。
嘆かわしいことに、エルニーヤはこういうことを事も無げにやってのける。いちいち気に留めていては心臓がもたないので、ヴェガは努めて平静を装う。
知り合って未だ浅いが、ヴェガにとっての彼の苦手なところだ。
ヴェガの髪に指を通したエルニーヤは、失礼にも再度笑いを漏らした。
「髪がすごいことになっているよ。梳かしてあげようか?」
「っ!!・・・・・自分でやるわ!」
ヴェガは赤面して部屋の中に引っ込んだ。
散々鏡と向き合っていたというのに、盛大に乱れた髪に気が付かないとは、どうかしていたとしか思えない。
髪を梳かし、ついでに顔も洗おうと部屋に取り付けられた洗面台に向かう。
化粧をしたまま寝てしまっていた罪悪感ごと顔を洗い流し、一つ深呼吸をしてみる。他に可笑しなところがないかを姿見でチェックし、一人掛けのソファの背に掛けていたドレスを持って、もう一度部屋のドアを開けた。
廊下には、エルニーヤが変わらず立って待っていた。
こちらを向いて、白々しく「あれ?」と声を上げる。
「顔も洗ってきたんだね。次はそこを笑おうと思っていたのに」
「あなたって、実は性格悪すぎるんじゃないの?」
とんでもない発言をするエルニーヤに、ヴェガは怒りを通り過ぎて呆れた声を漏らす。
ヴェガが大きく溜息を吐くと、エルニーヤが嬉々として笑みを浮かべた。
「冗談だよ。あんまり僕の言うこと、本気に捉えない方が良い」
「自分で言うセリフじゃないわね・・・・・」
エルニーヤはいけしゃあしゃあと笑うばかりで、取り繕うということをしない。
素直と言えば聞こえはいいが、要は遠慮がないのだ。
良い性格をしていると、ヴェガが皮肉に思っていると、エルニーヤは「さてと」と漸く本題を持ち出してきた。
「準備ができたことだし。一緒に朝食でも如何でしょう?」
雑に畏まるエルニーヤの誘いに、ヴェガはすっかり時間の存在を忘れていた事実に思い当たる。
エルニーヤ越しに見える廊下の窓からは、随分と明るくなった空が見えた。
「・・・・・そういえば、今って何時?」
恐る恐る尋ねると、エルニーヤはスーツのポケットから懐中時計を取り出した。
エルニーヤの大きな手で覆われたそれは、ヴェガの目からは確かめることができない。
時間を確認した彼が、ふっと笑みを漏らす。
「十時二十三分。ぐっすりだったね、良い夢は見れた?」
「・・・・・・」
皮肉られているのだろうかと、ヴェガは無表情で口を閉じた。
恨めしい気持ちでエルニーヤを睨めば、彼は漸くフォローの言葉を口にする。
「でも、食堂は空いているだろうから、丁度良いさ」
そう言ってウインクをかますエルニーヤは、やっぱり面倒な男なのだと思う。
勿論、彼は純粋に食事の誘いをしに来てくれたのだろう。それに対して素直に応じられない自分は、随分と可愛くないことだろうと、ヴェガは自嘲した。
「せっかくだけど、食事は要らないわ。お腹空いていないの」
「体調悪い?」
俯きがちに誘いを断れば、エルニーヤは真剣な顔をずいっと覗かせてきた。
慄いて一歩後退ったが、彼の紺青の瞳に捕まったような妙な感覚に、体も声もフリーズする。
たっぷり時間を空けてから、ヴェガは小さく口を開けた。
「・・・・ちょっと寝すぎちゃったみたい。心配ありがとう」
「食堂は何時でもやっているから、気が向いたら行くと良い」
目を線にした笑顔のエルニーヤの言葉に曖昧に頷きながら、ヴェガは手にしていたドレスの存在を思い出す。
「あ、ねえ。昨日借りたドレス、皺になっちゃって・・・・クリーニングに出したいんだけど・・・・」
ヴェガの相談に、エルニーヤは「ああ、それね」と視線をドレスに向けた。
「サーヤに返せば、まとめてやってくれるよ。みんなそうしているからね」
「そう・・・・」
ヴェガは少しだけ肩を張った。
皺になったドレスは、あちこち歩き回った所為か、裾のところが少し汚れていた。
申し訳ない気持ちから押し黙っていると、エルニーヤが気を遣って手を差し出してきた。
「何なら、預かろうか?」
「ううん。自分で返したいから。昨日と同じところにいるかしら?」
エルニーヤの気遣いはありがたいが、直接返して謝りたい。
ヴェガの問いかけに、エルニーヤは頷き返してきた。
「そうだね、この時間なら、いると思うよ」
それだけ聞ければ充分だ。後は一人で平気だと告げれば、エルニーヤはそれ以上何も言っては来なかった。
こちらに背を向けて去っていこうとするエルニーヤを、ヴェガは咄嗟に呼び止める。
「そうだ。ねえ、エル」
「何だい?」
くるりと身を翻したエルニーヤとヴェガの視線がぶつかる。
すると、不思議と喉元まで来ていた言葉がつっかえてうまく声にならなかった。
「どうかした?」
優しく促してくる、エルニーヤの深い色の瞳。ヴェガは視線を逸らすことで漸く口を開けることができた。
「あのね、私、昨日どうやって自分の部屋に戻ったか覚えていなくて。もしかして、あなたが運んでくれた?」
ぼやけた記憶の中で、エルニーヤに抱えられて運ばれていた光景が蘇る。
眠気にほとんど意識を預けていたが、あの顔は確かにエルニーヤだったように思う。
何故か高鳴る鼓動を落ち着かせながら、ヴェガはエルニーヤの回答を待った。
彼は、紺青の瞳を僅かに揺らがせていた。
「・・・・・いや、僕は昨日、歓迎会の後は直ぐに部屋に戻ったよ」
いつもの嘘っぽい言葉ではないが、確実に何かを隠している。そう思ったが、追及はできなかった。
これ以上聞かないで欲しいという、エルニーヤの心の声が聞こえた気がした。
ヴェガは慌てて「ああ、そうなの」と話を打ち切った。
「変なこと聞いてごめんなさい」
「いいや。きっとすごく疲れていたんだろう。今日はゆっくり休むといい」
「ありがとう」
エルニーヤの異変に気付かぬふりをして、彼の背を見送る。その後ろ姿から、ほっとした様子が窺えた。
暫く、呆けたままエルニーヤの消えた廊下の先を見つめる。
本当は夜の遊園地についても聞いてみたかったのだが、とても聞ける雰囲気ではなかった。
ヴェガは沢山の疑問を胸に留めたまま、ドレスを返却する為に部屋を後にした。