夜の遊園地
今まで感じたことのない、浮遊感に似た感覚が全身を覆い、ヴェガは思わず目を瞑った。
鏡越しに合わせた手に引かれたのだが、一体どういう状況になっているのか、理解が追い付かない。
全身に力を入れて固まったヴェガを溶かしたのは、暫くして聞こえてきた少女の鈴の音の様な声。
「ヴェガ!」
はっきりと呼ばれた名前に、ヴェガは、はっとして目を開ける。そしてそのまま、目の前に広がった景色に目を見開いた。
先ほどまでいた埃臭い、古びた時計塔の中ではない。目前に開けた空間はガランとしてどこまでも広がっており、更にその先は得体の知れない暗闇に覆われていた。およそこの世の空間とは思えない淡泊な景色。そして向かい合うのは、摩訶不思議な鏡ではなく、エメラルドグリーンの瞳が美しい可憐な少女。
「ヴェガ!やっと会えたっ」
ヴェガは、声を上げてはしゃぐ少女をぽかんと見つめ、それから早々に自分の身に起きている現象について考えようと大きく深呼吸をした。吸い込んだ空気は心なしか冷えており、頭の中の混乱を少しだけ落ち着かせた。
しかし、答えを導き出すには程遠い。この状況を説明できるだけの情報は、圧倒的に欠けている。
黙り込むヴェガに、少女は不安そうにその表情を曇らせた。
「ヴェガ、どうしたの?具合悪いの?」
見ず知らずの少女にまで心配されてしまい、ヴェガは呆けつつも首を横に振って、漸く言葉を発した。
「・・・・・ここはどこなの?あなたは、誰?」
疑問は上げればきりがない。とりあえずそこまでで質問を止めたヴェガに、少女はニコリと微笑む。加えてくるりと可愛らしくその場で一回転したことで、身に付けていたフード付きのマントが翻った。
「ここは、昼と夜の遊園地を繋ぐゲート。わたしは、ここのゲートウェイ係っ」
少女は溌剌に答えてくれた。開けた空間で、その声が異様に響き渡る。
少女の回答は、ヴェガの求めるものからは程遠い、現実味のないものだった。だが、不思議と恐怖は感じられない。少女の明るさもあるのだろうが、ヴェガは時計塔を目指した瞬間から、どこか楽観姿勢になっている。
ヴェガはそのことを自覚しながら、落ち着いて状況の理解に努めた。
「どうして、私の名前を知っているの?」
「だって、ここに来られるのは、ヴェガだけだって言ってたから」
少女は即答する。
誰が言っていたのか。聞こうとしたところで、続いた少女の声に遮られる。
「あ、わたしの名前はエメラルド。エメでいいよっ」
少女━━━━エメラルドはばっちりウインクを決ながら自己紹介をする。完全にペースを持っていくエメラルドは、とても楽しそうにくるくると回ってヴェガに微笑みかけてきた。長年の友人を前にしたようなその雰囲気は、邪気が無くあどけない。
彼女がここで何をしているのかは知らないが、ヴェガを鏡の中へ引きずり込んだのは、恐らく彼女であろうと予測が付く。あのひらひらと楽しそうに舞う手に引かれて、ヴェガは今ここにいるのだと。
一人はしゃぐエメラルドに、ヴェガは思い切って質問を続けた。
「あなた・・・・・エメは、ここで何をしているの?」
努めて友好的な態度をとるヴェガに、エメラルドは純粋に友好的だ。動き回っていた足を止め、ヴェガの顔を覗き込むようにして前のめりになる。
「何って、ヴェガを待ってたんだよ!夜の遊園地に行くんでしょう?」
目をキラキラとさせるエメラルドの言葉は、友好的ではあったがやはり簡単に理解できるものではない。
ヴェガが「夜の遊園地?」と大きく首を傾げて尋ねると、エメラルドはぴょんぴょんと跳ねながら、自分の後方を指さした。
「あのゲートの向こうが、夜の遊園地だよ」
エメラルドが指す方へと視線を映せば、何故今まで気が付かなかったのかが不思議なほどに、真っ白で無機質な造りの大きなゲートがそびえ立っていた。
ゲートの向こう側は例によって闇に包まれており、その先の様子を窺い知ることはできない。
警戒心からゲートを睨むヴェガに向かって、エメラルドは更にはしゃいだ声を上げる。
「さぁ!そろそろ夜の遊園地に行こうっ」
「ちょ、ちょっと待って」
ヴェガの腕を子供の様な強引さでぐいぐいと引きながら、ゲートへ向かおうとするエメラルドを、ヴェガは戸惑いながらもなんとか引き留めた。
「行くって、あのゲートの中に入るの?夜の遊園地って何?」
とてもではないが、得体の知れない闇へと続くゲートをくぐる勇気はない。既に得体の知れない鏡の中の世界に入ってしまった身で言えることではないが、流石に躊躇ってしまう。
困惑した様子のヴェガに、エメラルドはどういう訳か、自信ありげに胸を張った。
「大丈夫っ。私がちゃんと、夜の遊園地に連れていくから」
「・・・・・」
会話になっていないと思うのは、自分だけだろうかと、ヴェガは第三者の意見を聞きたい気持ちになった。勿論、この場にはヴェガとエメラルドの二人しかいない為、確認する術はないが。
ヴェガが沈黙している間に、エメラルドに再び強引にゲートの前まで連れて来られる。
大きなゲートと、向こう側の闇の世界に、ヴェガはごくりと生唾を飲み込んだ。
足を踏み込めば、二度と戻っては来られなさそうな深い暗闇に肩を強張らせるヴェガに対し、エメラルドはまるで心を読んだように「大丈夫だよ」と囁く。
「帰りもちゃんと、私が必ず昼の遊園地に送っていくから。心配しないで、楽しんできてよ」
先刻までの幼い表情を引っ込めた、エメラルドの大人びた表情と声に、ヴェガは逆に緊張を高めた。
それから暫く見つめ合い、エメラルドのその新緑の瞳に見惚れるうちに、心のうちの不安が溶ける様な錯覚に陥った。
ヴェガは遂にぎこちなく、ゆっくりと頷いた。
心臓が激しく音を立てて、鼓膜にまで辿り着く。
自分が緊張しているのを実感しながら、ヴェガはぎゅっと目を瞑って足を踏み出した。
「楽しんでね!」
明るく可愛らしいエメラルドの見送りの声が、ヴェガの背を最後に押した。
「━━━━━━っ」
今日二度目の浮遊感の後、露出した肌が外の空気を感じた。
更に聴覚が捉えたのは、賑やかな人々の声と、風に流れる静かなメロディ。
続いて、食欲をそそる香りを鼻が捉え、ヴェガは思い切って目を開けた。
「!!・・・・・・」
視界に広がる光景に、ヴェガは声もなく驚いて固まった。
先刻までの現実味の無い異空間とは違う。
レンガ調の石畳の道の両側には、オレンジ色のライトで照らされた屋台が並び、行き交う人々は一様に幸せそうな笑みを浮かべている。少し先には、昼間に見た様な遊園地のアトラクションも見えた。
そう、ここは遊園地だ。日中に満喫した遊園地の景色である。
違うところと言えば、時間帯が夜間であること。そして夜更けになっても、アトラクションがライトアップされて未だに稼働していることである。
不思議なことに、夜の遊園地はどことなく格式高い雰囲気を醸し出しており、ヴェガはなんとなくそわそわした。それから、ぶるっと体を振るわせる。
肌を掠める冷涼な風はリアルで、ドレスアップしたヴェガには少しだけ寒い。何か温かいものでも口にしようかと、ヴェガは恐る恐る屋台の群れへと足を向けた。
数ある屋台のうち、大きな窯が目立つ屋台の売り子と目が合った。ヴェガは吸い込まれるように、そちらへと足を向ける。
「いらっしゃい」
ヴェガを呼び込んだのは、アッシュグレイの髪色をした狐目の青年。弧を描く口元から覗く八重歯が特徴的だ。
その青年の後ろの窯の方から、香ばしい匂いが漂ってくる。その香りから、ヴェガは当たりをつけて青年へと問いかけた。
「ピザの屋台?」
「そうだよ。丁度焼けたところなんだ。食べていってよ」
青年はそう言うと、ゆるりと踵を返して窯の前に立った。彼の背に隠れてしまい、窯の中を窺うことはできない。どうにかして見ることができないかと、ヴェガは背伸びをしたが、結局覗き見ることはできず、諦めて青年の戻りを大人しく待つ。
少しの間をおいて、青年が香ばしい匂いを纏ってヴェガの前に再び現れた。その手には、チーズがふんだんに使われた、マルゲリータピザが。
青年は慣れた手つきで、丸いピザをピザカッターで丁度良いサイズに切っていく。そして、そのうちのワンピースを、ヴェガに手渡す。
咄嗟にそのピザを受け取ったヴェガは、きゅうっと鳴るお腹の音に、自分が空腹であったことを思い出す。歓迎会では、沢山の料理が並んではいたが、気後れしてしまって飲み物しか口にしていなかったのだ。
空腹である事実を自覚すると、手にしたピザがありがたさから光り輝いて見えてしまう。焦げ目さえも食欲をそそり、思わず涎が垂れてしまいそうになるのを必死に我慢した。
一呼吸置き、ゆっくりとピザを口に運ぶ。一噛みすれば、焼けたチーズとトマトソースが口内で混ざり合い、程よい噛み応えの生地との相性の良さに脳が歓喜する。
「おいしい!」
声に出して歓喜すれば、狐目の青年は更に目を細めて自慢げに「だろう?」と笑う。
昼間も思ったが、遊園地で働く人たちは本当に愛想が良い。“裏側”である歓迎会では、派閥争いという生々しい場面を目の当たりにしてしまった訳だが、彼らも遊園地内に入ればもっと違う態度なのであろう。
愛想の良さに欠けるヴェガにとっては、見習いたいばかりである。
妙なところで感慨に耽りながらピザを完食すると、青年がフレンドリーに会話を続けてくる。
「見ない顔だね。ここは初めて?」
「ええ・・・・」
そもそも、ここがどこであるのかということすら、よくわかっていない。
青年の問いかけに、ヴェガは曖昧に頷いて俯いた。自分の在処もわからない己のことが、酷く滑稽に思えてしまう。
そんなヴェガの様子をどう思ったのか、青年は少し身を屈めてヴェガに視線を合わせてきた。
「俺はトム。君は?」
トムと名乗った青年は、小さく首を傾げてヴェガの回答を促した。ヴェガは躊躇いながらも口を開ける。
「・・・・ヴェガナーデ」
控えめに名乗れば、トムは「良い名前だね」と卒なく返して緩く微笑む。
彼はどこかの無神経な案内人とは違い、人の枠にずかずかと入っていくタイプではないらしい。かといって、どこかの生意気な少年の様な棘もない。非常に出来た大人に見えてしまうが、見た目はヴェガより少しだけ上ぐらいと見える。
人は年齢では無いのだと学んだところで、ヴェガの後ろに次の客が並んだ。
急いでその場を去ろうとしたところで、代金を払う術がないことに気が付く。
ヴェガがさっと顔色を変えると、トムは肩を揺らして笑った。
「お金は良いよ。支配人にでもツケとくから」
気にするなと頷くトムの言葉に、少しだけ疑問が浮かぶ。“支配人”とは、誰のことか。
「支配人って・・・・エルのこと?」
「何言ってるんだ?エルニーヤさんは、案内人だろ」
どうやら、エルニーヤのことはこの夜の遊園地でも知られているらしい。トムに聞きたいことは他にもあったが、これ以上営業妨害するわけにはいかない。ましてや、ピザ代も払っていないのだから。
急いでその場を去ろうとするヴェガに、トムは最後、早口に声をかけてきた。
「俺は基本的に、ここにいるから。困ったことがあればいつでもおいで」
「ありがとう」
一人で彷徨う様にしていたヴェガのことを訳アリと思ったのか、親切な言葉と共にトムがさりげなく手を振ってくる。
このさりげなさ、エルニーヤにも見習ってほしいと、ヴェガはここにいない無神経な案内人のことを考えた。今頃彼はどうしているだろう。
エルニーヤだけではない。歓迎会を突然抜け出したヴェガのことを、マリナはきっと心配してくれている筈だ。ビウやアレイは気にはしていないだろうが、迷惑をかけているかもしれない。
戻ろうかと考えたが、戻り方がわからないことに気が付いて不安が大きくなった。エメラルドは大丈夫と言っていたが、どうやって彼女の元に行けばいいのかもわからない。急に寂しくなったヴェガは、気を紛らわせようと一人で遊園地を見て回ることにした。
いちいち美しいアトラクションも、煌びやかなショーも見どころたっぷりだったが、どれも遠目から文字通り見て回るだけになる。
この世界に、自分は恐ろしく似合っていない。
結局アトラクションの一つも乗れず、歩き疲れたヴェガは、ぽつんと置かれていたベンチにそっと腰かけて足を休ませた。
よく考えれば、時計塔に行くまでにヒールの高さにやられて既に足は限界だった。現実離れした展開に気を張っていて一時的に忘れていたが、ここにきて疲れと痛みがどっと襲ってくる。
ついでに睡魔にまで見舞われ、ヴェガはゆっくりと瞼を閉じた。少しの間休むつもりだったのだが、一度閉じた瞼は意思に反して貝のように開くことが困難となる。
遊園地の奏でる様々な音色を遠くに感じながら、ヴェガは徐々に意識を手放した。
心地の良い時間だった。夢心地の気持ちよさに、全身の鈍い痛みもどこかへおいていくような感覚に陥る。
そもそも、今日の出来事全て夢だったのではないかとさえ思えてくる。
遊園地に暮らすなんてことは実は巧妙な嘘で、次に目が覚めれば、見慣れた自宅の天井に挨拶する日常に戻っている。朝寝坊をして母親に小言を言われ、それを朝食をとりながら聞き流す。ついでに父親が亡くなったことも悪い冗談で、家族三人でまた普通の毎日を送るのだ。
本当にそうだったら良いのにと、ヴェガは夢と現実の狭間に一筋の涙を流した。
体に響く規則的な振動に、ヴェガはうっすらとその瞳を空ける。夜の空気を感じながら、“誰か”に抱えられながら移動していることに気が付く。
通常であれば、驚いて飛び起きているところだが、未だ夢を見ているような気になっているヴェガは、そのままの状態で自身を運ぶ人物の顔を窺おうと、閉じていこうとする目を必死に凝らす。
微睡の中で垣間見えたフードの下の顔は、表情は無いが見覚えがあった。
「・・・・エル?」
「・・・・・・・」
ヴェガの掠れた呼びかけに、無言を貫く彼が誰であるのか確かめるべく、ヴェガは一生懸命睡魔と戦ったが、健闘虚しく意識は再び闇に落ちていく。
体の揺れだけを最後まで感じながら、ヴェガは緩やかに完全な眠りについた。
執務室に籠って仕事に没頭していると、時間が経つのをうっかりと忘れてしまう。
それは今日も例外ではなく、はっとして視線を書類から変えて、部屋の時計を見上げると、深夜の一時をすっかり過ぎていた。
そろそろ休もうかと思いつつ、きりの良いところまではやってしまいたいという精神が働く。
あと少し、と思って手元の書類視線をに再び戻したとき、ノックもなしに執務室のドアが開く。
「こんばんは、ジュリア」
「・・・・・」
いけしゃあしゃあとそんな挨拶をしてくる輩は、この遊園地では一人しかいない。
ジュリアは盛大なため息の後、鋭く睨みを利かせた。
「忙しい案内人様が、こんな夜更けに何の御用?」
「いやー、今日も本当に忙しかった」
ジュリアの嫌味をストレートに受け取ったエルニーヤが、へらへらと笑いながらこちらまで歩み寄ってくる。
この男とまともな話をしようとしても無駄だ。ジュリアはもう一度息を吐いてから、目の前の仕事に向き直る。それでもエルニーヤがどうでも良いことを一人で話し出すので、容赦なく聞き流していると、唐突にジュリアに問いかけてきた。
「パーティー来なかったね。ずっと仕事してたの?」
「行く意義がないもの」
冷たく返せば、エルニーヤは「ジュリアらしいね」とまた笑う。
確かに、自分らしいと言える。ワーカホリックの自覚は無いが、生産性のないパーティーに参加するより、少しでも仕事に時間を割く方が有意義であるだろう。そんなつまらない考えを持っている所為か、パーティーに参加したところで交友相手もろくにいない。
寂しいとは欠片も感じたことは無いが、今の自分に満足しているかと聞かれれば、頷くには少しだけ躊躇いがある。
「ジュリア?」
珍しく呆けていると、エルニーヤが身を屈めてジュリアの顔を覗いてきた。
いきなりの至近距離に、ジュリアが少しだけ仰け反ると、エルニーヤはその長い指で優しく髪に触れてきた。
「疲れているんだね。もうお休み」
「誰の所為だと・・・・・」
最後まで文句を言いつつ、一度睡眠をとった方が仕事の質が上がると思ったジュリアは、渋々頷いた。
書類を整理し、車椅子を移動させようと身じろいだ時、いきなりふわりとエルニーヤに抱きかかえられ、流石のジュリアも動転した。
「━━━きゃっ・・・・・何!?」
「眠いだろう?部屋まで運ぶよ」
この男の言動は、本当にいつもよくわからない。こちらが上手に回ろうとしても、のらりくらりと交わされて、いつの間にか主導権を握られている。
惑わされてしまう実情に、ジュリアはいつもやきもきさせられているのだ。
「あなたって、本当によくわからない・・・・・」
「ははっ。君程、僕のことをわかっている奴はいないさ」
確かに、エルニーヤとは幼いころからの仲である。しかし、ずっと一緒だったわけではない。再会した時、彼は確実に変わっていた。一体何があったのか、ジュリアには知る術もなければ、聞く勇気もない。
あなたって、やっぱりよくわからないわ。
そう思いながら、エルニーヤの腕の中で、心地の良い揺れに眠気が増してく。
「お休み、ジュリア」
「・・・・・・」
瞳に口づけられ、ジュリアはすっと眠りに身を任せた。