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開演

 お気に入りのワンピースを着た。


 ライトグリーンが目に優しい、母が似合うと褒めてくれたお気に入りのワンピース。鏡に映る自分を見つめて、ヴェガナーデは茶色のブロンドの髪先を指で弄んだ。


「ヴェガ?ヴェガナーデ?早く降りてらっしゃい」


 階下でする声は母親のもの。厳格な声の端に、疲れたような声色が混じっている。


 ヴェガは、目の前にある鏡の中の自分と向き合ったまま、呼び掛けには応じなかった。反抗したわけではなく、ただ単にまだここでこうしていたかったから。外はとても良い天気なのに、ヴェガの胸中は曇りというより雨が降りしきるようだった。


「ヴェガナーデ?」

 再三の呼びかけに、ヴェガは意を決して、鏡台の上に置いてあった大きなハサミで自身の髪を切った。腰まであった髪は、肩にぎりぎりかかるくらいの長さになる。雑に切り終えたヴェガは、床に落ちた髪をそのままに部屋を出た。


 ヴェガの父親は有名な建築士だった。数々の賞にも輝き、仕事に精を注ぐ父親のことがヴェガは大好きだった。自慢でもあった。広い屋敷はその父親が二番目の傑作だと言って建てたもの。では一番はどこなのかとヴェガが聞くと、父親は優しく微笑んではぐらかした。


 ずっと気になっていた。屋敷はヴェガにとっては一番の父親の建築物。しかし、当の父親は二番と言う。ヴェガは父親の一番の傑作を知りたくて、見たくて仕方がなかった。いつか絶対に父親から聞き出そうと、ヴェガは心に決めていた。

 

 しかし、大好きだったその父親は、三か月前に病に倒れ、駆け抜けるようにして亡くなった。悲しみはヴェガと母親を襲い、あっという間に屋敷は売られることになってしまった。それは、ヴェガの悲しみを倍増させた。

 

 だって、大好きだったのだ。父親も、屋敷も、今までの全てが。


完全に無気力になったヴェガの最後の希望こそが、あの父親にとっての「一番の傑作」。それを見ることができたなら。ヴェガは、そこに何かがあるはずだと信じることで自身の精神を保っていた。


 ただし、一番の傑作について確かな情報は一つもない。

唯一、父親がくれたヒントは、


「ヴェガはもうそれを知っているよ。だって、ヴェガにとっての一番だから」

 

ヴェガはその一番を知らない。




 階段を下りて玄関に向かうと、荷物を運ぶボーイに指示を出す母親の姿が見えた。ヴェガが近寄っていくと、気配に気が付いた母親が振り返って目を見開いた。


「まあヴェガ!どうしたの、その髪!」


 靴を鳴らして駆け寄ってきた母親は、驚いた顔のままヴェガの不揃いな毛先に触れた。こげ茶色の地味な服を着た母親は、本当はそんな色好きではないはずなのに。ヴェガはそんな些細なことに、気持ちを暗くした。


 瞳を伏せたヴェガに気が付いた母親が、触れていた毛先からヴェガの肩へと手を下す。


「ヴェガナーデ。辛いのはわかるけれど、ずっと悲しいままではいられないの。わかるわよね?」

「わかっているわ」


 ヴェガがそっと、母親の手にその手を重ねれば、母親はぎゅっとヴェガを抱き寄せた。


「大丈夫よ。あなたが行くところはね、昔お父様が創設に携わったところなの。私たちが困っているのを知って、声をかけてくださって」


 そこまで言って、母親はヴェガからゆっくり離れて、握った手に力を込めた。ヴェガも同じように握り返

す。もうこの屋敷に戻ってくることはないのだ。


「さあ、いらっしゃい」


 見事に切り替えを済ませた母親の後について、屋敷前についていた車に乗り込む。父親が生きていた頃に乗っていた、車内がゆったりとした車ではなく、ヴェガと母親と付き人の三人が乗ったらぎゅうぎゅうの車だ。ヴェガはこれ以上気持ちを暗くすることが馬鹿馬鹿しくなって、ずっと窓を見つめていた。不機嫌面の自分の顔が映り込み、母親が苦言を呈するのも無理もないと、妙に納得する。


 車が発進し、見慣れた屋敷が遠のいていく。同時に父親との思い出が薄れていくようで、ヴェガはそれが耐えられないと思った。


 住宅街を抜けた車は、賑やかな街の通りに入り、車窓に映る景色は雰囲気をがらりと変える。曲がりくねった道を器用に進む車が、ゆっくりと停車した。運転手がドアを開ける。


「さあ降りて」


 母親に押し出されるようにして車から出ると、ヴェガの目はカラフルな看板をつけたゲートに釘付けになる。ゲートの前には多くの人が群がっており、その賑やかさは今までにヴェガが経験したことのないものだ。人の群れは、そのゲートの中へと続いている。


 ヴェガはゲートにつけられた看板に書かれた文字を、小声で反芻した。


「シャンヴァ・・・ローズ?」

「とっても賑やかな遊園地ね」


 ヴェガの荷物を持った母親が、ヴェガの隣に立ってそう言うのと同時に、ゲートの中から楽し気な悲鳴が上がる。


 ヴェガは、なんだか自分が酷くここにそぐわないような気がして肩を竦めた。こんなにも気持ちが落ち込んでいるときに、この賑やかさは痛い。既に帰りたくなったが、もう自分には帰るところはないのだと思い出して、更に落ち込んだ。


 沈痛な面持ちのまま、周囲を見回してみる。道向かいには、赤レンガ調の高層ホテルがそびえ立ち、レストランやブティックも並んでいる。一帯の賑やかさは、ヴェガの人生の中では確実に一番のものであった。


少しして視線を戻し、看板の文字を凝視していると、途絶えることのない人の波に逆らって、こちらに向かってくる人影が気になった。顔がはっきりわかるような距離になると、母親がその人影向かって軽く手を上げた。黒のダブルスーツを着た、端正な顔立ちの男である。


「お待ちしておりました、婦人にお嬢さん」


 目の前まで来たその男は、そう挨拶して器用に微笑んで見せた。ヴェガにとっての男の第一印象は、胡散臭いだ。


「遊園地の案内人、エルニーヤといいます」


 爽やかに名乗ったそのエルニーヤという男は、遊園地の賑やかさがとても似合うオーラを放っていた。一方で、ヴェガが放つオーラは暗く、エルニーヤとの対比が凄まじい。何も言うことのないヴェガの代わりに、口を開いたのは母親である。


「今回のことは、本当にありがとうございます。娘をよろしくお願いします」

「ええ勿論」


 エルニーヤとの間で簡単な挨拶を済ませると、母親は荷物から手を放してヴェガに向き直った。


「今日からここがあなたのホームよ。一緒にはいられないけど、元気にやるのよ」


 ヴェガは溜まらず母親に飛びついた。


「・・・・心配しないで、しっかりやるわ。お母様もお元気で」

「ヴェガ・・・・」


 数秒抱き合って、ヴェガは母親から離れる。再び車に乗り込む母親の背中を見送り、車が見えなくなるまでその場に立ち尽くした。本当はいつまでだってそうしていられたのだが、エルニーヤがゆっくりと隣に来て、


「荷物はスタッフに運ばせるので、お嬢さんはそのままどうぞ。遊園地を案内しますよ」


 と進言してくるものだから、ヴェガも無視しきれなかった。荷物をスタッフに預け、エルニーヤに続いて、ゲートをくぐろうとしたところで壁にぶつかる。


「おお?なんだなんだ?迷子か?でっかい迷子だな」


 ぶつかったのは壁ではなく人だったらしい。飛びのいて見上げれば、ヴェガの遥か上に強面な男の顔があった。驚いて固まっていると、こちらの様子に気が付いたエルニーヤが大股で引き返してきて、強面の男と向き合った。


「どうかしたかい?」

「んん?なんだ、エルニーヤさんのお連れさんか?趣味が変わったな」


 無遠慮にそう言って豪快に笑う男にヴェガがむくれるのを見て、エルニーヤが苦笑する。そのまま、ぽんぽんと肩を叩かれ、なんだか諭されているようで気に食わない。


「彼は門番のビウ。顔は怖いけど、性格も悪いけど、いい奴だよ」

「よろしく、お嬢ちゃん」


 よろしくするつもりはないが、適当に頷いておく。


 まだ何か言われるのだろうかと思ったが、ビウは忙しいらしく、すぐに仕事へと戻って行った。エルニーヤがヴェガの顔を覗き込む。


「さあお嬢さん、僕らも行こうか。中は楽しいよ」


 実際、遊園地の中は外で感じた賑やかさを、二乗したぐらいの盛り上がりを見せていた。目に映るのは人ばかりだが、様々なアトラクションも見える。ゲート近くは食べ物や飲み物の屋台が多く、おいしそうな匂いがヴェガの鼻をくすぐる。お腹が減っていたわけではないのに、ぎゅるっと小さな音がした。騒音の中、見事にその音を聞きつけたエルニーヤは軽く笑い声を上げる。恥ずかしいのとむかついたのとで、ヴェガはエルニーヤを静かに睨んだ。しかし、エルニーヤはどこ吹く風だ。


「恥ずかしいことじゃない。お腹がすくのは生きてる証しさ。何か食べるかい?」

「結構です」


 はっきり断ったが、エルニーヤは都合の悪いことは聞き入れない便利な耳を持っているようで、一人で勝手に屋台の列へと駆けていく。取り残されても困るので、ヴェガはエルニーヤを追いかけるしかない。ひょっとして、そのことをわかっていて行動しているのではないかと思うと、術中に嵌ったようで多少面白くなかった。


 ヴェガがエルニーヤに追いつくと、彼はヴェガを覗き込むように腰を折る。


「お嬢さんは、嫌いなものはあるかな?」

「ないわ。強いて言うなら『お嬢さん』って呼ばれることかしら」


 それとなく皮肉ると、エルニーヤはわざとらしく首を傾げて見せた。


「じゃあ、なんて呼べばいいかな?僕はまだ、君の名前を聞いていないけど」


 ヴェガの名前など、事前に母親から聞いているくせにそんなことを言う。相手の方が一枚上手だったかと、勝手に敗北感を覚えたヴェガだったが、ここでへそを曲げては小さな子供と同じなので、なんとか大人のふりをする。


「ヴェガナーデよ。ヴェガでいいわ、よろしくね、案内人のエルニーヤさん」

「こちらこそ。僕のことはエルでいいよ」


 してやられた感は拭えなかったが、根に持っていてもしかたがないので、ヴェガはこれでよしとした。

少し歩いたところで、やや前を行くエルニーヤが、クレープの屋台の売り子に声をかけた。ピンク色の、ふりふりのエプロンドレスを着た女性である。


「やあマリナ。順調かい?」

「ええ順調よ。後ろの子はだあれ?」


 プレートの上で手慣れたようにクレープの皮を焼いていくマリナという売り子の女性は、その少しきつめな目つきでヴェガに視線を送ってきた。エルニーヤが優しくヴェガを前に押し出しながら紹介してくれる。


「新しい仲間だよ。ヴェガ、彼女はクレープ売りのマリナだ。マリナ、この娘にクレープを頼むよ」

「ヴェガナーデです。初めまして」


 ヴェガがぎこちなく微笑めば、マリナは目を線にして笑顔を見せてくれた。とてもいい人そうで、ヴェガはほっと肩を撫で下ろす。その横で、エルニーヤが悪戯な笑みを浮かべた。


「マリナもいい奴だから、いろいろ相談に乗ってもらうといい。年も君より上だから。いや、僕よりもずっと上だから。なのにこんなフリフリの服・・・・」


 言い終わる前に、エルニーヤの顔面めがけて焼き立てのクレープの皮が飛んでくる。投げたのは勿論マリナだ。


「熱いっ」

「本当に余計なこと言いの案内人ね!あなたに食べさせるクレープはないわ!」


 ヒステリックに怒り出したマリナは、今度はプレートをエルニーヤに投げつけようとする。唖然とするヴェガの左腕を、投げつけられたクレープの皮をそのまま食べながら、エルニーヤが引いて駆け出す。


「ああおいしいね、マリナのクレープ・・・・の、皮」

「あなたって、ちょっと変わっているわよね・・・・」


 エルニーヤに腕を引かれて走りながら、ヴェガがぼそっと呟く。ちょっとどころか、かなり変わっている気もするが、エルニーヤも流石に初対面でそこまで言われる筋合いはないだろうから言わないでおく。


 若干クレープに後ろ髪を引かれながら走っていると、後方からマリナが二人を呼び止めた。


「待ちなさい!」


 まだ怒っているのだろうかと、恐る恐る首を後ろに回すと、マリナがクレープを片手に追ってきていた。ヴェガがエルニーヤに掴まれた腕を引いて足を止め、彼女を待つと、マリナは聖母の如き微笑みを浮かべた。


「余計なこと言いの案内人にあげるクレープはないけど、あなたには食べてもらわなきゃ。今日から遊園地の仲間になるんだもの」

「ありがとう」


 マリナからクレープを受け取り、その甘い香りを近くで堪能すると、自然とヴェガの表情も綻んだ。そのまま一口頬張れば、生クリームとフルーツの甘さが、香ばしい皮に包まれているのが感じられて美味しかった。ヴェガの腕を離したエルニーヤが、耳元で囁く。


「おいしいだろ?マリナのクレープは世界一さ」


 そういうことは、本人に聞こえるように言えばいいのに。どうもこの男は、言ってはいけないことと、言うべきことの判断基準が他人とずれているらしい。


「とってもおいしいわ」

「本当?また食べにいらっしゃいね。他にも沢山種類があるから」


 ヴェガの素直な感想に機嫌を良くしたマリナは、そう言うとくるりと体の向きを変えた。


「もう戻らないと。ちゃんと仕事して頂戴ね、案内人さん」

「はいはい、お仕事頑張ってね」


 エルニーヤがひらひらと手を振るのに合わせて、ヴェガも遠慮がちに手を振ると、マリナは「またね」と言いながら手を振り返して、屋台へと戻って行った。マリナの姿を見送りながら、ヴェガはもう一口クレープを齧る。


「さて、マリナに仕事をしろって言われちゃったからね。君を遊園地の隅から隅まで案内しないと!」


 宣言するとともに、エルニーヤが軽やかなステップで人ごみを縫うように進んでいく。またもや追いかける羽目になったヴェガは、口元についたクリームを親指で拭いながら足を踏み出す。


 出店の群を抜けると、いよいよ遊園地らしいアトラクションが目を引くようになる。左手には可愛らしいデザインのコーヒーカップやメリーゴーランド、右手奥には様々なタイプのジェットコースターが悲鳴を飛ばしている。真正面の一番奥にある大観覧車は、遊園地のゲートを通る前から見えていたが、近くで見るとより大きく感じられるから不思議だ。


 一人立ち尽くして遊園地の賑やかさに身を置いていると、視界の隅からひょっこりエルニーヤが顔を出す。


「せっかく遊園地に来たんだから、何か乗るかい?」

「え、ええ・・・・」


 エルニーヤの提案に素直にのるのも癪だったが、魅力的なアトラクションに、ヴェガの心は半分持っていかれていた。


 ヴェガの了承を受けると、エルニーヤが大げさな身振りと手振りで、遊園地のお勧めスポットを教えてくれる。


「メリーゴーランドは女性や子供に大人気。ジェットコースターはタイプが沢山!垂直落下型に回転型、超高速型、フライング型、マウス型。ああ最近スタンド型もできたんだった。他にもいろいろ・・・・あとはアトラクションじゃないけど、噴水広場とかも人気だよ、さあどれにする?」

「沢山あるのね。迷っちゃうわ」


 ヴェガの台詞に、エルニーヤがうんうんと頷く。押しどころが多すぎて、エルニーヤもお勧めを絞り切れないらしい。なぜか楽しそうに悩むエルニーヤの横で、ヴェガは今のうちにと、マリナからもらったクレープを食べた。最後の一口を頬張ったところで、急に何かを閃いたように、エルニーヤがぽんっと一つ手を打った。


「ああそうだ!迷う必要はないね、全部乗ってしまえばいいんだから!」

「ええっ全部?」

「そうと決まれば、まずは一番近いところから行こうか!」


 驚きに目を丸くするヴェガの腕を、再びエルニーヤが引く。目指す先は、どうやらパステルカラーが可愛らしいメリーゴーランド。エルニーヤに強引に連れていかれながらも、ヴェガの心は密かに踊っていた。


 メリーゴーランドには子供や女性の行列ができていたが、エルニーヤはそれを追い越して、小さなシルクハットを被った恰幅の良いおじさんの前で止まった。エルニーヤに気が付いたそのシルクハットのおじさんが、ハットを片手で取り、恭しく一礼をする。


「これはこれは、案内人殿」

「やあ。調子はどうだい?・・・・ああ、まあそれはまた今度でいいや。ちょっとこの娘を乗せてあげたいんだけど、次の回転でいけるかな?」


 早口で捲し立てながら、エルニーヤはヴェガの腕を離したその手で、ヴェガを示す。シルクハットのおじさんは二つ返事で頷いたが、不思議そうな顔でヴェガを窺った。


 それはそうだ。いくらエルニーヤが遊園地の案内人という地位にあったとしても、いきなり見ず知らずの少女を、優先してアトラクションに乗せることには疑問があるだろう。

そもそも、案内人というエルニーヤの役職がどの程度の階層にあたるのかが、よくわからない。


 シルクハットのおじさんと見つめ合う形で止まってしまった時間の流れを、エルニーヤの軽い声が再開させる。


「ああ、彼女は、以前話したヴェガナーデ」


 シルクハットのおじさんが目を見開く。


「では彼女のお父上が、この遊園地の創設に携わった!?」

「うんうん。それそれ」


 大袈裟に頷くエルニーヤを横目で眺めつつ、ヴェガは咄嗟に微笑んだ。半分は愛想笑いだったが、半分は父親に対する誇らしさからきた笑顔。なにより、亡くなってからも父親の偉大さを知る人物が、身内以外にいてくれたという事実が、純粋に嬉しかった。


 父親が健在の頃は親切にしてくれていた人たちも、今ではヴェガたち家族のことなどすっかり忘れてしまったかのように、音信不通になってしまった。ヴェガが友人だと思っていた幾人かも、ヴェガが今までのような暮らしを続けていくことが困難だとわかったあたりから、それとなく離れていった。父親との永遠の別れに続いて、その仕打ちはヴェガにとっては苦痛だった。それから、ずっと暮らしてきた大好きな屋敷が、狡い大人たちに奪われると決まってからは、もう何も感じなくなってしまったが。


 だからこそ、今この瞬間が、少しだけヴェガの沈んだ気持ちを引き上げてくれる。特別扱いしてほしいわけではなく、ただ父親が積み上げたものを、それを父親が積み上げたのだとせめて覚えていてほしい。


 感慨に耽っていると、シルクハットのおじさんの丸い手が伸びてきた。握手を求められている。反射的にヴェガも手を差し出した。


「いやいや光栄ですよ、お嬢さん。さあどうぞお乗りください。お父上が作り上げたメリーゴーランドに!」


 客が入れ替わるタイミングで、シルクハットのおじさんが、閉めていた低い柵を開け放つ。ヴェガはエルニーヤにエスコートされ、パステルピンクの飾りが可愛らしい木馬に跨った。


「じゃあね、ヴェガ。楽しんで」

「あなたは乗らないの?」


 ウインク一つで離れていこうとするエルニーヤを、ヴェガは呼び止めた。ここまできて乗らないなどという選択肢があるのか、と。


 エルニーヤは数秒停止して、それからあの胡散臭い笑みを浮かべた。


「僕が乗ったら、頭がおかしい奴と思われないかい?」

「頭がおかしいとまでは言ってやらないけど・・・・そうね、違和感はある」

「だろう?ほら、クレープの包みは僕が捨ててきてあげるから」


 外から見ても内から見ても、完全少女趣味のメリーゴーランドだ。背の高い立派な大人の男であるエルニーヤが、淡い色の木馬に跨って回る姿はできれば想像したくない。顔立ちが良い分、目立ってしまうことも目に見えている。


 ヴェガはエルニーヤの言い分に素直に納得して、クレープの包みを渡した。追及から逃れることに成功したエルニーヤは、少しだけほっとした様子で、やっぱり無理やり乗せてやれば先刻までの敗北感が帳消しにできたかも、という意地の悪い考えがヴェガの心を掠めたが、結局逃げるように去っていくエルニーヤの背中を無言で見送った。


 安全に客が乗っていることを確かめた後、いよいよメリーゴーランドが動き出す。


 久しぶりの感覚に少しだけ緊張していたヴェガは、木馬から天井まで伸びている金色の棒を両手で握り締めた。


 上下に軽く動きながら回っていく感覚に、ヴェガは既視感を覚えた。勿論、メリーゴーランドに乗ったのは初めてではないので、その感覚があっても不思議ではないのだが、それ以上に不確定な感覚が、ヴェガの中で小さく渦巻いた。


 呆けた顔で乗っていたヴェガの耳に、小さい子供の嬉しそうな悲鳴が聞こえてくる。はっとして首を回すと、斜め後ろのゆり籠に、母親と座って揺れている少女が満面の笑みを浮かべていた。木馬に跨れない小さな子も乗れるように数個だけある三人掛けのゆり籠はリボンで周りを巻かれたようなデザインが可愛らしく、ヴェガはその少女の姿も含め、朗らかな気分になった。


 顔の向きを前に戻すついでに、回る景色の中からエルニーヤを探してみる。大勢の客に紛れることなく、その不思議な存在感を放つ彼を見つけるのは簡単だった。向こうはずっとヴェガを見ていたのか知らないが、すぐに目が合って手を振られる。手を振り返そうかとも思ったが、そこで自分が多くの客から視線を浴びていることに気が付いた。それは決してヴェガ単体に向けられたものではなかったのだが、周りで同じように木馬に跨っている少年少女たちは、ヴェガの半分くらいの年と見える子がほとんどで、自分を客観視するとなんとなく恥ずかしくなった。メリーゴーランドの列に並んでいる人の中には、子供以外にも女性が複数いたのだが、偶然小さな子供たちばかりの回だったらしい。


 なんとなくいたたまれず、俯いたヴェガの視界の隅で、エルニーヤが振っていた手を止めて人差し指を一本、ぴんと立てた。恐らく、上を見ろと言っている。

 上がどうかしたのかと見上げると、今感じていた恥ずかしさなど一瞬で吹き飛んだ。


「綺麗・・・・・」


 思わずそう声が漏れる。ステンドガラス風の天井は、一緒に回りながらその色を変えていく。凝ったデザインには父親らしさを感じた。建築する全てのデザインを父親が担当していたわけではないだろうが、この天井部分はきっとそうだろうと、ヴェガは感覚でわかった。


 回転が止まり、係員に誘導されて柵の外へ出ると、エルニーヤが少し離れたところで待っていた。


「楽しかったかい?」


 ヴェガが近づくと、エルニーヤはそう言ってお伺いをたてた。ヴェガはゆっくりと頷いた。父親が作り上げたものに触れたことで、もう一度その存在を確かめることができた気がする。ヴェガは救われた思いだった。


 胸がいっぱいで言葉を失くしてしまったヴェガを、エルニーヤは優しく微笑んで見守ってくれる。


「あの天井は、君のお父さんのアイディアだよ」

「・・・・・うん、わかってる」


 エルニーヤから告げられた真実は、ヴェガの予想のとおり。それでも他人から言葉にされると嬉しかった。ヴェガの心は今、この遊園地に慰められつつある。微笑んでエルニーヤを見上げると、彼は「さあ」と手を鳴らした。


「まだまだアトラクションは沢山あるからね。次はジェットコースターにしよう!一押しがあるんだ!」


 ヴェガよりも楽しそうに、妙なステップを踏みながらジェットコースターのエリアへと向かうエルニーヤをヴェガは追いかけた。今度は仕方なくではない、心からこの遊園地を楽しみたいという気持ちがある。




 賑やかさを増す人ごみを縫うようにしてエルニーヤを追いかけていくと、辺りの騒がしさが一層際立った。ジェットコースターに乗った人たちの悲鳴が、ヴェガの心拍数を上げていく。


「ヴェガこっちだよ、おいで!」


 人の群れに押し流されながら、エルニーヤの声がする方へと足を向ける。人が並んでいるすぐ横の小屋に、凭れるようにして待っているエルニーヤを見たときだけは、ヴェガも思わず眉を顰めた。


「ねえ、エル」

「なんだい?」

「そんなところで待つくらいなら、私を迎えに来てくれれば良かったじゃない?私、必死で人ごみを抜けてきたんだけど」

「ああごめんよ。だって君は腕を引かれるのが嫌そうだったから」

「・・・・・・」


 エルニーヤの言う通り、腕を引かれるのはあまり好きではなかった。強く引かれて痛かったわけではない。子ども扱いされているようで、多少おもしろくなかったのだ。それをエルニーヤは簡単に見抜き、今こうして堂々とヴェガと向き合っている。ヴェガは改めてこの男の難解さを知ることとなった。


「ま、いいわ。次からは置いていかれないようにするから」

「うん、そうしてくれるといいかな」


 エルニーヤの笑顔が勝ち誇ったように見えてしまうのは、ヴェガの勝手な都合である。


「それより、今度は何に乗せてくれるの?ジェットコースターって言ってたけど・・・・」


 ヴェガが促せば、エルニーヤはすんなり話題を変えてくれた。


「沢山あるけど、全部乗ったら君の首が飛んじゃいそうだからね。お勧めは“マウスター2”さっ」

「“マウスター2”?」


 反芻するヴェガにもわかるよう、エルニーヤが長い指先で目当てのジェットコースターを指し示す。その先には黄色のレールの上をなかなかのスピードで走っていく、色とりどりの小さなコースターがあった。規模はあまり大きくない。他のジェットコースターに比べると、落差や回転などの特殊さもなさそうだ。ヴェガは説明を求めてエルニーヤの顔を見つめる。


「レールの上を、ネズミになった気持ちで走れるコースターだよ。直角に曲がったり、細かく上下にデコボコしたりで、結構楽しいんだ」

「“2”ってことは、二代目なの?」

「その通り。前は一人乗り用だったのを、二年前にリニューアルして二人乗りにしたんだ。ジェットコースターは、君のお父さんは携わってないんだけど、楽しめると思うよ」


 エルニーヤに背中を押されて、“マウスター2“の列に近づく。このジェットコースターは他と比べて一回転が速いようで、すぐにヴェガの番が回ってきた。


「じゃあ、楽しんできてね」


 メリーゴーランド同様、そう言って逃げようとするエルニーヤの腕を、ヴェガはがっちりと掴んで離さなかった。強引に引っ張って、エルニーヤを列に組み込ませる。


「このコースター、リニューアルして二人乗りにしたんでしょ?だったら二人で乗らないと損じゃない」


 正論を述べるヴェガに対して、エルニーヤが何事かを言おうとする前に、ヴェガは掴んだ腕を更に引いた。


「それとも、エルも腕を引かれるのは嫌いなの?」

「・・・・・わかったよ」


 根負けしたエルニーヤが苦笑するのを眺めて、ヴェガは清々しい気持ちになった。気分のいいまま二人乗りのコースターに入り込み、説明されるがままシートベルトを装着する。隣で狭そうに収まっているエルニーヤをそれとなく確認し、自然と笑みが零れた。


「ヴェガが楽しそうで、なによりだよ」


 諦めたような声色を滲ませ、エルニーヤは柔らかくそう言った。確かにそうだ。遊園地に来るほんの数時間前は気持ちも塞がり、とてもここを楽しむ余裕はなかった。それがあっという間に覆され、今はこうして進んで遊園地を楽しもうとしている。


「・・・・そうね、楽しいわ」

「ところで、忠告が一つ」

「?」


 スタート位置にゆっくりと進むコースターに、密かに胸を高鳴らせるヴェガは、エルニーヤの言葉に首を傾げた。忠告とは一体なんだ。


 スタート位置に辿り着いたコースターは、そこで一度動きを止める。エルニーヤは漸く“忠告”を口にした。


「このコースター、笑いすぎにご注意を」

「はぁ?━━━━っわ!」


 ヴェガが聞き返すのと同時に、コースターがいきなりトップスピードで動き出した。そして、真っすぐ進んだと思った矢先に壁にぶつかったように止まって、九十度右に向きが変わり、再び猛スピードで直進。何度もそんな動きを繰り返し、時には波打つような動きやスピンが混じって、上半身が前後左右に振り回される。


 想像以上の体への衝撃に、ヴェガは断続的に悲鳴を上げ、その間隔が狭まるうちに爆笑へと変化した。


「きゃーーーーー・・・・・あっはははははっ!」

「ははっ」


 壊れたように笑うヴェガにつられて、エルニーヤも笑いだす。胡散臭さの抜けた、爽やかな青年のそれだ。ヴェガはそのことに少しだけ驚いて、それからすぐにまた笑いだす。


 時間にしておよそ一分弱。コースターのスピードがゆっくりになった頃には、ヴェガの腹筋は崩壊寸前だった。笑いつかれて、顔の筋肉も悲鳴をあげている。


「楽しめたかな、ヴェガ?」

「え、ええ・・・・とっても」


 ぐったりしてしまったヴェガを、エルニーヤが手を引いてコースターから降ろしてくれる。ヴェガは無意識に自らの手を委ねていることに気が付いて、大慌てでその手を解こうとしたが、混雑するジェットコースター付近ではぐれないようにと、エルニーヤの手を掴む力は強い。しかたないと胸中で妥協してみるも、周りで手を繋いでいる男女は、確実に恋人の関係が成り立っているのが明らかで、自分たちもそう思われているかと思うと、多少たじろいだ。


 ジェットコースターの行列を超えた頃、ヴェガはやっと口を開いた。


「ねえ、エル?」

「なんだい、ヴェガ」


 覗き込むようにしてヴェガを窺うエルニーヤは、そう言いながらぱっと手を離した。


「なんだい?」


 近い距離で、端正な顔立ちの男の藍色の瞳に、困った顔のヴェガが映っている。「手を離して」と言おうと思った矢先に離され、挙句何事かと聞かれてしまっては、困るのは当然のことである。

これは逆襲だ。ジェットコースターに無理やり乗せられた腹いせだ。エルニーヤは上手に知らないふりをしていたが、ヴェガからすれば白々しい質問だ。こちらが言うことを見越して先に手を打ったとしか思えない。


「え、ええと、その・・・・とても楽しかったわ」

「それは良かった」


 にっこり笑うエルニーヤ。ヴェガは屈辱を感じた。


 結局、楽しかったと言うしかない状態に追い込まれてしまったわけだ。まんまと、エルニーヤの思い通りにことが運んだことが、たまらなく悔しい。


 でもまあ楽しかったのは事実だからいいか、とヴェガが不本意ながらも溜飲を下げていると、エルニーヤは既にヴェガとの舌戦を勝ち逃げして、その視線は他へと向いていた。


「やあ、ガウル」


 呼びかけに、先刻エルニーヤが立って待っていた小屋の傍に座る人影が、顔を上げて反応した。毛むくじゃらの男の顔に、ヴェガは一瞬息を飲む。エルニーヤは特に気にする風もなく男に近寄って、親し気に話し出す。


「今日も絶好調みたいだね」

「おかげさんでね」


 労われた男は、しゃがれた声で応えながら立ち上がる。幾重にも纏ったマントの様なものを重たそうに引きずって、徐に顔をヴェガに近づけた。ヴェガは瞳を大きくして固まる。しばらく向き合ったままでいると、毛むくじゃらの顔の中に、黒光りする瞳を見つけることができた。


 周りの喧騒から取り残されていく感覚の中、漸くエルニーヤが助け舟を出してくれる。


「彼はガウルだよ。全てのジェットコースターのメンテナンスをしているんだ」


 滑らかな紹介が終わると、ガウルはぐるっと体の向きを変えて、今度はエルニーヤに顔をぐいっと寄せた。そのままキスしてしまうのではないか、という勢いと距離に、ヴェガは小さく悲鳴をあげた。


「エルさん、あんたがここに来るなんて珍しいなあ。いつも忙しい忙しいってんで、顔も忘れるところだったよ」

「ガウルは目が悪くて顔覚えも悪いから、喋る時に顔を近づけてくるけど、気にしないであげて」


 顔をこれでもかという距離まで近づけてくるガウルをやんわり手で制止しつつ、引き攣った笑みを浮かべるエルニーヤに、ヴェガは可笑しくなった。エルニーヤは変人だが、それ以上に可笑しな人が、この遊園地にはまだまだ沢山いそうな気がする。


「そういえばさ、ガウル。今日は閉園後にヴェガの歓迎会をやるんだけど、話いってる?」

「んん?ヴェガ?歓迎会?」


 やっと顔を引いたガウルが、初めて聞く単語を反芻して眉を顰める。とにかく、エルニーヤの話は、彼のところへは伝わっていないことはわかった。というよりも、ヴェガ自身、今の話は初耳且つ、驚きである。


 ヴェガはエルニーヤの袖を小さく引いた。


「ねえ、歓迎会って?」


 尋ねれば、エルニーヤは器用に胡散臭い・・・・“やってしまった顔”を作った。


「ああいけない。これ、サプライズだった!またマリナに怒られちゃうやぁ、あっはははっ」

「あなたってそういう人・・・・」


 悪びれない様子のエルニーヤにヴェガは脱力しながらも、嬉しさを隠しきることはできなかった。会ったこともなかった人たちが、自分の歓迎会を計画してくれていたなんて、嬉しくない訳がない。しかしエルニーヤの前で照れるのも恥ずかしくて、ヴェガは色が変わっていく自身の顔を俯かせた。


 お願いだから、今だけは顔を覗き込んでこないでほしい。


「と、いうわけで!ネタ明かししちゃったのは、マリナには内緒ねっ」


 ばっちりウインクをかますエルニーヤは、ヴェガの顔を覗き込んではこなかった。それはそれで、全て見透かされたうえで大人の対応を取られたようで、なんとなく面白くない。人の親切心を面白くないと感じてしまうヴェガはきっと、周りからしてみればきっと可愛くない人間なのだろう。だが、それがヴェガナーデという人間なのである。そう簡単に人は変わることができない。


 そしてそんな捻くれ者の少女を窘めるでもなく、滑稽だと笑う訳でもない男がエルニーヤというわけだ。


「それじゃあガウル、閉園後はグランドホールに来てね」

「おうおう。点検終わったらな。ほうら、仕事だ仕事ぉ」


 ガウルが油で黒くなった手を、ひらひらと振りながら人ごみに消えたので、ヴェガとエルニーヤは静かに見送った。


「楽しい奴らばかりだろう?」


 ふと、エルニーヤがそんなことを言ってきた。ヴェガは息を吐き出すような自然さでふわりと笑顔を浮かべる。


「ええ、とっても」

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