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ひとりぼっちと一匹オオカミの約束を

作者: 空想家



「あら、おばあさん、なんて大きなお耳」


「おまえの声が、よくきこえるようにさ」


「あら、おばあさん、なんて大きなおめめ」


「おまえのいるのが、よくみえるようにさ」


「あら、おばあさん、なんて大きなおてて」


「おまえが、よくつかめるようにさ」


「でも、おばあさん、まあ、なんてきみのわるい大きなお口だこと」


「おまえをたべるためにさ」


 こういうがはやいか、おおかみは、いきなり寝床からとびだして、かわいそうに、赤ずきんちゃんを、ただひと口に、あんぐりやってしまいました。



 『グリム童話・赤ずきん』より抜粋



 1.



 気がつけば「オオカミ」として生きていた。


 物心がつく、とでもいうのだろうか。

 ある日、ふとした拍子に、自分が「()()()()()()()」ということを認識した。

 それまで自分が何者であるかなんて知らなかったし、そもそも何かを知ろうとする明確な「意識」すらなかったように思う。ただただ本能の赴くままに生きていたと言っていい。


 だからたぶん、その時になって初めて、自我って奴に目覚めたんだと思う。


 それから(おれ)は、考えることの楽しさを知った。

 思考する、ということは言葉以上に価値のあることである。

 現に、己は今までよりも遥かに多くの物事について考え、経験し、識ることができた。周囲を取り囲む「森」という場所のことだったり、「湖」と呼ばれる大きな水溜まりのことだったり、はたまた「人」など天敵から身を隠すための方法だったりと、様々だ。


 思考によって獲得した知識によって、これまで幾度も命の危機から生き延びることができた。


 他方で、同胞である狼たちは、己のような思考力を持たない。彼らはろくに喋らないし、細かく考える頭もないから本能のままに生きている。群れの長には従順で、腹が減れば獲物を狩り、疲れれば丸くなって眠る。変な奴等だと思うけれど、実際に異端なのは自分の方なのだということにも、薄々気がついていた。


 それでも己は生きている。

 オオカミとして、自由気ままに生きている。


 そうして長い時間が過ぎた。

 日が巡り、季節が巡る。俺たち狼が縄張りとする森では、春から夏にかけては木々が青々と生い茂り、多様な動植物が姿を見せる。秋から冬にかけては、積雪により森の色合いが白くなるにしたがって、多くの動物たちがその姿を隠す。狼たちは、季節の移り変わりを休むことなく目にし続けるのだ。


 思考を獲得してから、十数度目かになる冬のこと。

 例年と同様に、森は雪に閉ざされる。まるで動物の骨がそのまま屹立するかのような針葉樹が立ち並ぶ中、己は招かれざる来訪者の存在に、木の幹に隠れ息を潜めていた。


「あれは――人、の女?」


 悟られぬように小声で呟く。

 視線の先には、森の中では滅多に見ない「人」の姿がたしかに存在していた。

 頭に赤い頭巾を被り、手にはバスケットを持っている。背丈は小さい。おそらくまだ子供なのだろう。


 それにしても、何故こんな森の中に。

 何か事情かあるのだろうが、はたして。疑問に思っていた時だった。人の様子に変化が現れた。脅えた様子で数歩後退り、動揺のあまり手から滑り落ちたバスケットが、雪上に転がる。


 何があったのか。


 人の視線は、どうやら一直線に森の奥へと向けられているようだった。

 己が見つかったわけではない。不思議に思い、そちらに目を向けると――ああ、なるほど。同胞の気配がする。


 怯えた様子の人間に対して、その姿を現し、鋭利な牙を剥く二頭の狼たち。

 こうなってしまえば、人は一貫の終わりだ。そもそも人とは、徒党を組み、知恵を使うことによって生態系の頂点に君臨する存在である。それが武器も持たず、仲間もいない状態で獣に遭えば、当然に形勢は逆転する。


 強者と弱者。

 食うものと食われるもの。


 非常な現実。

 このまま何もせず見ていたら、まず間違いなくあの人の子は酷い目に遇うだろう。

 さて、どうしたものか。そう考えるよりも先に、体が動いていた。不思議なことに、己の体は()()()()()()()()()したのだ。


 己はそのまま、人と狼、両者の間に割り込む。

 突如乱入する存在に、双方は呆気に取られた様子だった。


「我が同胞たちよ、ここはどうか牙を納めてくれないか。そして人の女よ、安易にここへ近づくな。今すぐに立ち去れ」


 己が言葉を話したことに、人間の子供は酷く驚いた様子だった。

 狼たちは威嚇するように唸ったが、これでも俺は森のオオカミたちの中では古株であり、知恵者として異端視されながらも一目置かれている。縄張り意識の強い狼だが、同じ森に住まう仲間としてこれまでも何度か共闘したことがある。

 それが彼らにも分かったのだろうか。最後まで不本意そうだったものの幸いにも争いには発展せずに狼たちは去っていった。


 それを見届けて、今度は人へと向き直る。

 改めて見れば、やはり人の子供だった。背も小さく、頭身が低い。赤頭巾に隠れて見えなかったが、その顔には怯えと戸惑いが滲んでいるようだった。そんなことよりも驚いたのは、この人が少女であることだった。


「お前はなぜ……」


 こんな所にたった一人でやって来たのか。そう問おうとする前に、少女は緊張で張り詰めていた糸がほどけてしまったかのように気を失ってしまった。

 力なく倒れるその小さな体を咄嗟に受け止める。少女の体は驚くほどに軽かった。目を覚まさない少女を見下ろして、途方に暮れる。もうじき日も暮れる。吹けば消えるような命だ。放置すれば、一晩も保たないのは明白だった。


「どうしろってんだよ」




 2.



 ぱちぱちと薪の爆ぜる音がする。

 微睡む少女の意識は、ゆっくりと覚醒へと向かう。

 少女が瞼を開くと、そこには見知らぬ天井が映っていた。


「やっと、起きたか」


「っ!?」


 まさか返事を返されるとは思っていなかったのか。

 少女は泡を食ったかのような顔で、勢いよく半身を起き上がらせる。


「っ!」


 息を呑む少女。

 大きく見開かれた瞳が、まっすぐ己を見ている。

 起きたらオオカミがすぐ傍にいるシチュエーション。誰だって驚いて当然である。


「悪かった。すまん」


 それだけ言って少女の傍を離れる。

 やはり柄にもないことはするべきではなかった。

 そもそも自分はオオカミなのだから、先程の行動はむしろ褒められたものではなかろう。あの場面では、人を襲うのが常道だ。


「なんでかね、勝手に体が動いちまったんだよな……」


 長く生きていれば、そういうこともあるのか。

 いまいち納得できなかったが、過ぎたことは仕方ない。これからのことを考えよう。


 さて。

 少女についてだが、一度助けてしまったからには、責任くらいは負ってやるべきだろう。せめて無事に森の外へ帰してやるくらいの甲斐性はある、つもりだ。

 無論、獲物が少なく飢えに困っている状況なら、少女を食らうのもやぶさかではないが、今は別段食料にも困っていない。

 何の事情でこの森に入り込んだのかは、後で問いただすとして――まずは腹ごしらえとするか。


 再び少女の前に姿を現すと、どうやら幾分か気分が落ち着いたらしい。


「ほら、腹減ってるだろ。肉だ、食え」


 そう言って粗末な器に入れた食料を手渡す。

 動物の肉を干物にしただけの簡素なものだが、これが保存もきいてなかなか旨い。

 少女は躊躇いながらもそれを受け取り、恐る恐る口に含む。肉が硬く歯応えがあるせいか、咀嚼する度に少女の眉に皺が寄るが、不味くはないのだろう。吐き出すことはなかった。


「食べながらで構わないから、聞いてくれ。己は見ての通りオオカミだが、別にお前を食らう気はないし、仲間たちの餌にするつもりもない」


「……」


 己の言葉に、少女は無言で首を傾げた。

 不思議なもの(・・・・・・)を見る目が向けられる。

 そうか、いきなりこんなことを言っても信じられないな。

 たしかに、どこの世界に人語を操り、人を助けるオオカミがいるものか。


「まあ、いい。じゃあ質問だ。お前のような人間の子供の、それも女が、なぜこの森に入ってきた?」


「……」


「おい、何か答えろ」


「……!」


 まさか、まさかとは思うが。

 もしかして。


「お前、喋れないのか?」


 少女はその質問に、首を縦に振った。

 ようやく自分のことを伝えられて安心したのか、その顔には少しばかり安堵の色が浮かんでいる。

 おいおい、流石に警戒心が薄すぎるだろう。お前の前にいるのは、人間も平気で食らうオオカミなのに。それにしても――。


「なんてこった」


 人の子供。それも女。

 更に喋れないとくれば、益々きな臭くなってきた。

 まさか、口減らしのために捨てられたんじゃないだろうな。


「お前、親はいるのか?」


 少女は頷く。


「親の所に帰りたいか?」


 少女は暫し逡巡した後に、控えめに頷く。

 だが、その表情には隠しきれない陰りが見えた。


「お前は、親に……」


 捨てられたのか、と。

 その先を言うのは残酷に過ぎる気がして、口をつぐむ。

 代わりに自分の分として持っていた干し肉を少女に差し出す。


「己には、お前の事情は分からん。ただ、お前を助けた身として、己には責任がある。帰りたいなら森の外まで送ってやるが、どうする?」


「……」


 少女は、否定も肯定もしなかった。


「考える時間が必要か、わかった。明日まで待とう。今晩は、己の家に泊まっていけばいい。それまでにどうするか考えてくれ」


 少女は暗い表情で一つ、頷いた。




 3.



 それから己は少女と話をした。

 そうはいっても少女は喋ることができないので、己が一方的に話し、少女が相槌を打つという偏ったものだったが、しかし、暇を紛らわせるくらいの意味は成していた。


「――あれは二巡前の冬のことだったな。お前さんも知っての通り、ここいらは冬になるとよく雪が降る。今みたいにな。その極寒の中を、同胞たちが素っ裸で駆け回るもんだから、己もたまには真似しなけりゃならない。でないと舐められるからな。あれは地獄だったぜ」


 少女は己の話に真剣な様子で耳を傾ける。

 楽しい話をすれば顔を綻ばせ、怖い話をすれば顔を青ざめさせ、悲しい話をすれば顔を悲痛に歪める。

 喋ることはできなくても、決して感情がないわけではない。むしろ少女の年頃なら、好奇心旺盛のはずだ。その証拠に、少女からは、何かを伝えたいという強い意思が感じられた。


「なんだ、どうした?」


「……!」


 もどかしそうな少女は、身振り手振りでなんとか言いたいことを伝えようとする。己は落ち着くように言って、少女の澄んだ翡翠の瞳を見据えた。

 喋れない相手と意志疎通することは難しい。言葉を話せない同族たちと共に生きてきたから、何度もその壁にぶつかった。そして今となっては、相手の目を見るだけで、だいたい何を言わんとしているかを察せるようになった。


「もっと、己の話が聞きたいのか?」


「……!」


 首が千切れるのではないかと心配になる勢いで、首を縦に振る少女に思わず苦笑する。

 そして今度は、森に潜む熊から命からがら逃げ延びた話をしてやることにした。


 やがて夜の帳が下り、森は暗がりに包まれる。

 小屋は暖炉の灯りに淡く照らされている。いつもなら火を嫌う同胞たちに配慮してすぐに火を消すのだが、今日に限っては、そうできない。

 冬の寒さは、人間には毒だからだ。己でさえこんなにも寒く感じるのだから、火に薪をくべてやらないと、少女が凍え死んでしまうかもしれない。


 気遣いを知ってか知らずか、少女は段々と己に気を許しているようだ。

 どこか眠たげな様子の少女に、本棚から持ってきた絵本を読み聞かせてやる。時折森にやってくる人間たちの持ち物を集めておいてよかった。人間たちは狼を見ると一目散に去って行くため、しばしば森に持ち物は置き去りにしていくのだ。

 その中でも、己にとって興味深かったのは本の存在だ。同族たちは腹の足しにもならない本をわざわざ集めたりはせず、己の行動をまったく理解できない様子だったが、まさかこんなところで役立つとは思いもしなかった。



 ✳︎ ✳︎ ✳︎


 貧しい木こりの男が、大きな森の近くに小屋をもって、おかみさんとふたりのこどもとで暮らしていました。ふたりのこどものうち、男の子がヘンゼル、女の子がグレーテルといいました。しがなくくらして、ろくろく歯にあたるたべものを、これまでもたべずに来たのですが、ある年、国じゅうが大ききんで、それこそ、日々のパンが口にはいらなくなりました。木こりは、晩、寝床ねどこにはいったものの、こののち、どうしてくらすかかんがえると、心配で心配で、ごろごろ寝がえりばかりして、ためいきまじりに、おかみさんに話しかけました。


「おれたち、これからどうなるというんだ。かわいそうに、こどもらをどうやってくわしていくか。なにしろ、かんじん、やしなってやっているおれたちふたりの、くうものがないしまつだ」


「だから、おまえさん、いっそこうしようじゃないか」


 と、おかみさんがこたえました。


「あしたの朝、のっけに、こどもたちをつれだして、森のおくのおくの、木こぶかい所まで行くのだよ。そこで、たき火をしてやって、めいめいひとかけずつパンをあてがっておいて、それなりわたしたち、しごとのほうへすっぽぬけて行って、ふたりはそっくり森の中においてくるのさ。こどもらにかえり道が見つかりっこないから、それでやっかいがぬけようじゃないか」


『グリム童話・ヘンゼルとグレーテル』より抜粋



 ✳︎  ✳︎ ✳︎


「――まずこんなことで、心配や苦労はきれいにふきとんでしまいました。親子三人それこそうれしいずくめで、いっしょになかよく、くらしましたとさ」


 絵本を読み終わる頃には、少女は静かに寝息を立てていた。

 警戒心が乏しすぎる。そんな可愛い寝顔を晒して、もしもこの己が、腹を空かした恐ろしいオオカミだったなら、お前を食べてしまっているところだ。苦笑して、手近にあった毛布を少女の小さな体にかけてやった。寝床は取られてしまったので、仕方なく椅子の上で夜を明かすことにする。


 久々に、愉快な夜だ。

 眠りに落ちる際、ふとそんなことを考えた。




 4.



 翌朝。

 窓の外を見れば、どうやら雪も降り止んだようだ。

 だが肌を刺すような寒さに変わりはない。軽く身震いして、椅子から立ち上がる。すると毛布がぱさりと床に落下した。己は驚いて、寝床を見やる。


 そこには、毛布もかけずに震えながら眠る少女の姿があった。

 己は慌てて毛布を拾い、少女の冷え切った体に被せてやる。そうすると少女の表情も幾分か和らいで、そのことに安堵する自分がどうにもおかしかった。


「子供のくせに、気を遣いやがって」


 悪態を吐くが、悪い気はしなかった。

 その事実に苦笑しつつ、朝食の準備をする。

 冬の時期は森の動物のほとんどが姿を見せなくなるため、食事は基本的に保存食になる。周りの狼たちはこの時期、食料確保にずいぶんと苦労しているようだが、己は冬に備えて準備を怠らないため余裕がある。とはいえ食糧も無尽蔵ではない。いつもなら干し肉を齧るだけなのだが、今日は少女もいる。どうせなら少し奮発してやろうと、冬になる前に収穫しておいた果実などを雪の下から掘り起こす。


 人はよく果実の収穫のために森に入るため、好物なのだろうと考えての行動だった。

 興味本位に己も口にしてみれば、これがなかなかどうして美味い。噛むと芳醇な甘味が口内を充たすのだ。狼たちは肉の方を好むが、己にとって一番のご馳走は果実だった。


 暫くすれば少女も起きてきて、眠い目を擦りながらぺこりと挨拶をする。試しに果実を差し出すと、ぼんやりと寝惚け眼でそれを受け取り、そして小さく一口。


「……!」


 少女は目を大きく見開いて、夢中で果実をかじりつく。どうやらお気に召したらしい。その姿に満足して、己も果実にかぶりつく。

 一人と一匹の無言の朝食は、静謐な時間だった。しかし、そんな時間はいつまでも続かない。


「それで、一晩寝て考えたか?」


「……」


 己の問いに少女は俯き、小さな震える手を握りしめる。

 事情を想像することはできる。しかしながら、何もしてやることはできない。人の問題は、あくまで人のものだからだ。オオカミの出る幕ではないし、人同士のもめ事など犬も食わない。腹の一つも膨れやしないのだから。


「お前は、帰るべきだろう。ここは人のいるべき場所じゃない。同胞たちは、隙さえあればお前を噛み殺してしまうだろう」


「……」


 少女が何かを訴えるようにこちらを見つめる。

 その瞳には明確な絶望の色が滲んでいる。嫌な目だった。そんな目を向けるなと、己の中に焦りのようなものが生まれかけたが、理性で蓋をしてあくまで冷静に言葉を続ける。


「森の外まで案内しよう。準備をして、ついて来い」


 それだけ言って、背を向ける。

 少女の視線を背に感じたが、己の意思の硬さにとうとう諦めたのか、ごそごそと身支度を始める。

 ずきりと、何かが痛んだ。胸のあたりを押さえるが、外傷は見当たらない。なんだ、なんなんだ、これは。己は未だかつて経験したことのない痛みに戸惑いを隠せなかった。


 まさか、己が少女との別れを惜しんでいるとでもいうのか。


「馬鹿馬鹿しい……」


 己はオオカミ。

 人と獣は決して交わらない。

 故に、()()()()()()()()()()()


 何かがひび割れていく。

 気づいてはいけないことに気づきかけている。

 後戻りできないところへ踏み出そうとしている。


 そんな予感があった。




 5.



 白銀世界を、少女と二人歩く。 

 会話はない。さくさくと、足が雪を踏みしめる音だけが世界を彩る。

 少女の歩みは遅く、気を抜くと置き去りにしてしまう。何度も振り返り、歩みを合わせてやる必要があった。仮に一度見失えば、次に見つけたときには獣に襲われて命なき肉塊になってしまっているに違いない。


 自然界において彼女は、あまりにも弱く、小さく、儚い命だった。

 少女がこれから辿る未来を想像すれば、いっそのこと、ここで死んでしまった方が楽なのかもしれない。


 己の脳裏に、そんな考えが浮かんだ。まさにその時だった。


 ドン、という音が白銀世界に響き渡ったのは。


 歩みを止めた己と少女は、何が起きたのかと慌てて周囲を見回す。

 すると、針葉樹の陰に、()()()()()()()()()()()()()()()が咲いていることに気づいた。


 否、それは()などではなかった。


「ど、どうして……」


 力なく投げ出された肢体。

 灰色の毛皮は赤黒く変色して見る影もない。

 それは――()()()()()()()()()()であった。

 そして視界の端に鉄の筒を構えながらこちらを注視する「人」の姿を確認して、先ほどの音が銃声であったということをようやく理解する。


「どうしてなんだ……」


 呆然と呟く己の手を、少女が握った。


「……!!」


 何かを叫ぶ「人」に対して、己がとった行動はただ一つ。

 逃走。逃げることだけだった。オオカミとしての矜恃など、誇りなど、そこには何もなかった。ただこの場から一刻も早く逃げなければならない。それだけが思考を塗り潰していた。


「……!!」


 誰かが、何かを叫んでいたが耳には入らなかった。

 力の限り足を動かした。前へ前へと。どこをどうやって走ったかはまるで覚えていない。

 とにかく少しでも遠くへ逃げることだけが頭にあった。そうしてどのくらい疾走しただろうか。

 混乱する頭がようやく幾分か冷静さを取り戻して、ようやく足を止める。そして無意識に少女を抱えていたことに気づいて、驚きのままに雪上へと落としてしまう。

 雪塗れになった少女は、緩慢な動きで立ち上がると汚れのない瞳でこちらを見る。何か言いたげに、こちらを見ている。その目は、こちらのすべてを見透かすようで、気味が悪かった。


「やめろ、そんな目で己を見るな。やめてくれ……」


 同胞が死んだ。

 それ自体は、よくあることだ。

 自然界において狼は強者だが、死は常に隣り合わせだ。

 死んだのは、ただそいつが弱かったから。それ以上でも、以下でもない。同情などしない。憐れみなどしない。


「ちがう、ちがう、来るな、こっちへ来るな!!」


 よくあること。そうだ、()()()()()()なのだ。

 だが、同胞の死を目にした己は、どうだ。どうだった?

 あの時、己を充たした()()は、何だ。あの感情には、なんという名がつくのだったか。足下がぐらぐらと揺らぐ。衝撃が脳を揺さぶる。だめだ、決して認めてはならない。認めてなるものか。


「……」


 少女は何も言わず、ゆっくりと、歩み寄ってくる。

 己は後ずさることしかできなかった。名もなき獣は、誇り高きオオカミは、触れれば壊れてしまうような人の少女を、心底恐れていた。


「やめろ、やめてくれ…」


「……」


 少女は止まらない。


「お願いだ…」


「…ぅぶ」


 少女は柔らかく微笑んで。

 そして気がつけば、少女の小さな身体に抱きしめられていた。


「だぃ、じょぅぶ、こわく、なぃ、よ」


 たどたどしいそれは、初めて聞く少女の声だった。

 こちらを安心させるような、柔らかい、優しい声音だった。

 なんだよ、話せるのかよ。強張っていた全身の力が抜けていく。


「はは、ははは……」


 乾いた笑い声とともに、両の目から塩辛い水が流れる。

 たしか、それは「涙」と言った。いつか読んだ人の本に書いてあった。人は悲しい時に涙を流すのだと。喜びを感じたときにもそれを流すのだと。感情を持つ「」だけが、涙を流すのだと。



  ✳︎ ✳︎ ✳︎


 認めよう。

 あの時。同胞の亡骸を目にした時。

 己は確かに「()()」したのだ。

 同胞の死を悼むのでもなく、嘲るのでもなく、弱者が強者の死に安堵するかのように。


 あの時すでに、己はどうしようもなく終わっていたのだ。


  ✳︎ ✳︎ ✳︎


 己は、()ではない。

 己は、()()()()ではない。


 己は――どうしようもなく、()だった。




 6.



 一番初めの記憶は、誰かの悲鳴から始まる。

 それが誰なのかは分からない。ただ悲痛に、切実に、何かを必死で叫ぶのだった。

 己は何かに強く抱かれて、訳も分からず泣きじゃくっている。肌を刺すような寒さの中で、懐かしい温もりに包まれている。視界には、雪を降らせる乳白色の曇天だけが、ぼんやりと映っていた。


 ずっと、この記憶の意味を考えまいとしてきた。

 オオカミの己には必要がなかったから。

 しかし、いつも脳裏には、この記憶が焼き付いて離れなかった。まるで呪いのように、じくじくと思考を蝕んでくる。


 考えてはならない。考えるべきではないと遠ざければ遠ざけるほどに、記憶は強く、高らかに、その存在を、意義を、主張する。覚めたくない夢からの覚醒の予感によく似たそれは、現状に甘んじる己に、このままではいけないという焦燥にも似た不安を与え続けてきた。


 嗚呼、そうだ。


 今なら分かる。

 あの時、誰かは、己に、こう言ったのだ。


 生きて、生き延びて――と。


 だからきっと。

 これは忌々しい記憶などではなかった。

 己はきっと、誰かに、確かに、愛されていたのだ。


「本当は、どこかで気づいていたんだ」


 ぽつり、ぽつりと、己は、告白する。


「思考も、容姿も、体躯も、己は狼たちとは似ても似つかなかった。成長すればするほどに、その実感は強くなっていった。己だけが家屋で過ごし、本を収集し、人に興味を示す。明らかに異端だ」


 狼たちから向けられる奇異の視線には気づいていた。

 己が、おかしいのだということも。


「だがそれでも、それでも己は、オオカミで在りたかった。己の居場所は、初めからここにしかなかったから……」


 少女は、己の告白を静かに聞いている。


「オオカミですらなくなった己に、居場所なんてないんだ……」


 ずっと、誰かに聞いて欲しかった。

 誰かと話したかった。悩んでいるのだと。つらいのだと。しかし同胞たちは語らない。本の文字も、知識は与えても語ってはくれない。

 

 己はずっと一匹オオカミだった。

 ひとりぼっちだった。


「己は、これからどうすればいい。どうすれば……」


 縋るように、救いを求めるように、呟く。

 それを受けて、少女は眉根を寄せて、苦しそうに言葉を吐き出す。


「ゎたし、は、おやに、すてられ、ました……」


「ゎたしが、ぅまく、はなせなくて、ちからも、ょわくて。むらは、まずしくて、ゎたしの、いばしょ、どこにも、ぁりません、でした。ひとりぼっち、でした」


「ぁなたの、くるしみ、かなしみ、ゎかり、ません。でも、わかりたい、と、ぉもいます」


 飾らない本音。

 擦り切れるような痛々しい声で、少女は言う。


「ぁなたの、そばに、ぃたい、です」


 それは、あまりにも重く、切実な言葉だった。

 愛に裏切られた少女にとって、居場所をなくした少女にとって、その願いに込められた想いは、いかほどのものであろうか。

 これはきっと偶然の巡り合わせだ。森を彷徨い一人死にゆく定めの中で、己と出会わなければ、少女は救いを求めることもなく死んだのだろう。少女と出会わなければ、きっと何も考えずオオカミで在り続けたであろう己と同じだ。


 だが、少女はたしかに、居場所を求めたのだ。

 それをたまらなく嬉しく思う己もまた、希望を持ってしまった。期待してしまった。どうしようもなく、縋るしかなかった。ひとりぼっちと一匹オオカミは、互いに互いを求めるしかなかった。 

 

「わたしの、いばしょに、なってくださぃ」


「己の、居場所になってほしい」


 だからこれは、約束だ。

 比翼の鳥のように、ひとりでは決して生きていけない己と少女との、愚かな約束だった。

 


 そして。


 気がつけば、狼たちに取り囲まれていた。

 皆、目が血走り凶暴になっている。同胞が「人」に襲われて気が立っているらしい。その射殺すような視線は、少女のみならず、己にも向けられている。人を自覚した今の己は、もはや彼らにとって同胞などではなく、獲物でしかないのだろう。


 覚悟を決めなければならない。

 狩りも、力の強さも、同胞たちに勝ったことのない己には、勝ち目などないに等しいだろう。


「森の外まで連れて行くという約束、どうやら守れそうにない。すまない」


「……!」


「合図をしたら、己の指さす方向に全力で走れ。後ろは振り返るな、いいな?」


「ぃ、ぃや、です。ぁなたは……」


「もちろん、同胞たちと話をつけてから後を追うよ。ここは任せてくれ」


 むろん、少女にも分かっているはずだ。

 今の状態の狼たちを相手にして、無事でいられるわけがないことを。

 ここで別れれば、きっと二人が逢うことはもう二度とないということを。


 少女との約束は、守れないかもしれない。

 だが、たとえそうだとしても、己は逃げるわけにはいかない。逃げて、逃げて、逃げ続けてきて、その果てに行き着いた場所がここなのだとすれば、もはや逃げ道などありはしない。それに、何より――


「これでも己は、オオカミだったんだぜ」


「……!」


 少女は、やがてこくりと一つ頷いて、赤色のずきんを差し出す。


「これを、きっと、かえしにきて、くださぃ」


「はは、こりゃあ負けらんねえな」


 確かに赤ずきんを受け取る。

 死ねない理由が、また一つ増えた。


 狼が吠える。

 人も吠える。

 それが双方の合図だった。


「行け!」


 合図とともに、己は狼たちに向かって駆ける。

 少女が駆け出したことを気配で悟る。そうだ、それでいい。

 後ろは振り返らない。きっと心残りができてしまうから。かつての同胞たちが己へ向けて殺到する。狙いはすべてこちらへ向いている。たとえ一匹たりとも、ここを通しはしない。


 死を強く予感し、恐怖に足が竦みそうになる。

 

 だが、己はもう大丈夫だった。

 かつて生きろと願ってくれた誰かのために、足を奮い立たせる。

 自分が死ねば、きっと悲しむのであろう少女のために、足を前へと踏み出す。


 その結末は――

 



 7.



 幾年月が過ぎて、季節は再び冬を迎えていた。

 北欧の地方都市にも、深深と雪が降り続けている。

 その日は、年に数度行われる大市で、街の広場には数多くの商店が軒を連ねていた。


 その中の一つで、女は働いている。

 着の身着のまま街に出て、死にものぐるいで生きてきた。裕福ではないが、なんとか生活できるまでになったのは、ひとえに女が諦めることなく生きようと足掻いてきたからに他ならない。

 

 彼女を支えているのは、昔に交わした、ある一つの約束だった。

 その約束は、未だ果たされることないままだ。


 店の軒先に客の姿を見つけて、女は自分が長く物思いに耽っていたことに気づいた。


「なにか、ぉもとめ、です、か?」


「ああ、うん。ではこの赤色のずきんをいただきたい


「は、はい。あの、ぉ金を……」


「ああ、すまない。実は、一文無しなんだ。これで、いいかな?」


 そう言って男は、懐からぼろぼろに古びてくすんだ「赤いずきん」を差し出した。

 驚いた女は、男の顔を見上げる。そして、柔らかな笑顔を浮かべるのだった。





 ◼︎おしまい◼︎

狼の世界は、きっとこんなに優しくあるまい。

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