龍の耳にて1
幻のリリカシア、アマリエの物語です。
舞台は西のリカドを離れ、龍の島唯一の魔術師の塔、龍の耳となります。
龍の耳の塔は「リリカシア=アジャ·アズライア」の日記百二十四日目から百三十三日目の舞台となります。
ざわりと強い風がアマリエの髪を散らす。風は潮の香を運んでくる。ずっと海辺の街で暮らしていたアマリエにとっては、懐かしくも近しい香りだ。崖の下の海を眺めて、色も浪も違う海の、香りだけが似ていることを不思議に思った。潮の香をのぞけば、重い湿気と土の香りを運ぶ風は、故郷とまるで似ていない。
ここは東の涯の龍の島。
アマリエの故郷リカドからは、世界で最も離れた場所だ。
龍になぞらえられる列島の北側に、龍の耳と呼ばれる魔術師の塔がある。アマリエはその塔の塔主を勤めるべく、はるばる赴任してきたのだ。
季節は夏なのに、高い所に立つ塔では朝晩は少し肌寒かった。塔の立つ山にもその麓にも、アマリエの知らない植物が多く自生している。塔の薬草園も、よく手入れされていて素晴らしかった。
アマリエの得意とするのは医療魔術。中でも調薬を特に学んだ。だからつい、薬草などに目が行くけれど、本当はそれはもう終わった事なのだ。アマリエが調薬を必死に学んだのはたった一人のためで、その人はもういないのだから。
自分の存在意義とまで思い定めた人を喪ったアマリエは虚ろで、ずっとそれでいいと思っていた。その人の眠る霊廟を守って静かに暮らすつもりだった。
そんなアマリエをここに送り込んだのは、その人の嫡母に当たる人だ。
「悪いんだけど、ちょっとアジャを手伝ってやってくれる?」
アジャというのはアマリエの後輩に当たる上級魔術師であり、アマリエの大切な人の弟の魔術妃だ。国内の魔術師を束ねるのが役割のリリカシアは他国の魔術師の塔との交流にも心を配る。魔術師の少ない龍の島唯一の塔に助けがいるということで、派遣する上級魔術師を探していた。
龍の耳の塔は薬草の栽培と薬種の研究に力を入れているのだという。それはアマリエの最も得意とする分野だ。しかも暫定塔主的な立場の魔術師の実妹が実は申し子なのだという。
申し子、というのは魔術の取り込みと行使に、体質的に極端に特化している者を呼ぶ言葉だ。余りに多くの魔力を扱ってしまうために、魔術師の位階の低い間は暴走が多い。魔術師というのは位階によって使える術に制限がかかるのだが、位階が低い間は魔力がその術の許容量を超えてしまいがちになるからだ。
それほど多い存在ではなく、アマリエの知る申し子はアジャだけだ。そもそも申し子の魔術師などいない国の方が多い。
そんな珍しい存在である申し子は、当然教育が難しい。力が強すぎるために、普通の魔術師教育ではうまく導く事ができない。アジャも試行錯誤の末に自分の魔術の使い方を確立したのをアマリエは見てきた。
申し子が上級魔術師になるのはほとんど必然だ。
強すぎる魔力を使いこなすためには高い位階が必要になる。しかし龍の耳の申し子はすでに中年になろうというのに初級の位階にとどまっている。
放ってはおけないとアジャは言った。
申し子の初級魔術師は無能だ。
普通に術を使えば、ほとんど全てが暴走する。
導く上級魔術師がいないことで、龍の耳の申し子はその暴走ばかりを繰り返す状態のまま、年月を重ねてしまったらしい。
今まで大きな事故はなく済んでいるようだったが、それはどう考えても危険な状態だった。
応急処置としてアジャ自身が、魔力を分散して逃しながら術を発動する方法を、龍の耳の申し子に教えていたが、そのままでいいというものでもない。
アマリエは上級魔術師として塔主となり、その申し子を導く役割を任されて、はるばる赴任して来たのだった。
リカドと龍の島が友好国であり、リリカシア=アジャが龍の島の首脳である神威の宮達とごく親しいからこそ、可能になった派遣だった。