黒猫と浪人
目の前を黒猫を通り過ぎた。幾分急なことであったので、椎名はたたらを踏んだ。黒猫は椎名青年の方を向いてニャアと鳴き、無造作に横を通り過ぎた。黒猫の体は痩せぎすであったが、その動きは緩慢で、堂々としていた。椎名は暫しその動きに目を奪われた。一歩一歩を過度に確かめることなく歩くその様は絶対者のもの。猫という小さき生物ながら、その様は威厳に満ちていた。椎名は数瞬の後に用事を思い出し再度歩き出した。
信号機を目の前に椎名はパーカーを深く被り直した。信号は赤く点っており、椎名は足を止めていた。今日、彼は予備校で答案を返された道中であり、駅へと向かう所であった。返された答案は彼の目標たる大学での平均点には遠く及ばず、余り芳しい結果とは言えなかった。惨めだった。今回積み上げた努力がそれしきであったと吹聴されたような気になった。答案を見ると、何やら気恥ずかしさが体を擦った。煩悶が喉奥を貫いた。
信号が青になり、ヒトの波が動き始めた。物思いに耽っていた彼は後ろからせっつかれ、それで初めて歩き出した。後ろのヒトの舌打ちが聞こえないフリをして、誰とも目線を合わせないようにヒトの波に割り込んだ。何人かのヒトは途中で割り込んできた彼を一瞬見つめたが、すぐに目を逸らした。しかし、誰も声を荒げたり、舌打ちしたりすることはなかった。通行するヒトは彼を一瞥することはあれど、彼の興味を持つことはなかった。これが最善だ、そう彼は自嘲した。ヒトの波はスクランブル交差点から駅の方へと流れていった。
ホームで電車を待ちながら、彼は英単語帳に目を走らせていた。その眼は緩く単語と単語の間を流れていた。これは一応受験生である彼の体裁を守るために必要な行為であった。たとい誰も見ていないとしても、自身の尊厳を守るためには必要なことだった。駅に目当ての電車が到着するまで十分。彼は誰とも会話を交わすことなく、ただ単語帳だけを見ていた。
やがて、電車が到着し、ヒトの波は電車へと流れ込んでいく。今度はすんなりと彼もその波に入り込み、電車のドア付近に陣取った。ヒトの高い波は彼を無造作に揺らし、そのスペースを奪っていった。空気を吸うことすら難しく、椎名青年は鉢の中の金魚の気分を味わうことになった。階段の側のドアから入ったのが不味かったのか、ドアを閉める直前にも数人のヒトが入ってきていた。
―――シーナじゃん!久しぶり!
声の方へと顔を向けると、緩くウェーブした黒髪が目に入った。茶色がかった切れ長の眼が印象的な女性であった。
―――久しぶり……
誰かはわからないながら、椎名青年は言葉を返した。椎名青年はお世辞にもヒトの名前を覚えるのが得意とは言えなかった。しかしながら、まじまじと目の前の女性を見るとどことなく見覚えがある。そうして暫し考え、彼女の肩に下げられた黒いケースを見て、うすぼんやりとある旧友の名を浮かべた。
―――若菜、か?
―――あたり!何か一瞬間があったけど、もしかして私のこと忘れてた?
―――いやいや、昔と印象違うからな。
若菜の追及に、椎名青年は口元を歪めた。名前は出てきたが、苗字はすっかり忘れてしまっていた。確か高校の時の同級生であったはずだ。その頃は教室の端の方を好むようなどちらかといえば根暗な部類の生徒であったような記憶があった。はっきり言って、名前が出ただけでも行幸であった。シーナ。そんな風に少しばかり角ばったイントネーションで彼の名前を呼ぶヒトは珍しかったので記憶に残っていたのかもしれなかった。
―――あれ、そんなに変わった?私。
―――変わったさ。なんか全体的に見違えた。
―――ん。まァ、大学入るときに少し髪型変えたからね。そのせいかも。
そう言って、若菜は快活に笑った。
―――シーナはどこに入ったんだっけ?
その質問は好奇心ですらなく、一種の定型句のようなものだった。相手の近況を把握するための、ありふれた一言。しかし、その一言が今は胸に突き刺さった。今自らの現状を自らの口で知らせることほど恥じることはない。顔が火照ったように熱くなり、心臓の鼓動が早まった。それらを無理に抑え込み、表情を取り繕い、言葉を絞り出す。それは紛れもなく数瞬の出来事であったが、彼にとっては永遠にも等しい時間であった。
―――今は、予備校に通ってる。
―――あァ、なるほど。
その一言で理解したのか、若菜はそれ以上追及してはこなかった。椎名青年は少しばかり疲労を感じた。何よりも知り合いに気を使われるのが心苦しく、不愉快であった。彼の所属していた高校の生徒の大多数は現役で大学に進学した。だが、彼はできなかった。胃の中に苦いしこりが沈殿していた。
―――イヤ、まァ。入れなかっただけだ。今年入るさ。
椎名は苦笑して、平静を装って見せた。若菜はそんな彼を見て安心したようだった。
―――それで?若菜はどこに入ったんだっけ?
―――私は名邦大。音楽を勉強したくてね。
―――そういや、そうだったか。
椎名は自らの記憶力の悪さを恥じた。彼が予備校と家を往復する日々で忘れた思い出は数多い。
―――シーナは相変わらずね。皆見た目は変わるけど根本は何も変わってない。
変わってない。喉の奥に刺さった小骨のように、椎名青年にこびりついた一言。自分は何も進めていないのではないかと自問することは数多い。しかしながら、他のヒトにそれを指摘されるのはひどく心ざわめくものであった。
―――そういう、若菜は変わったね。
―――覚えることはたくさんあるし、楽じゃないけど、やっぱり楽しいからかしらね。どうにかこうにかやってこれてる。
椎名の鼻先で、若菜の肩に掛けられた黒いキャリーケースが揺れていた。椎名はその大きさに違和感を覚えた。
―――若菜がやっていたのは、確かコントラバスじゃなかったか?
若菜と話すうちに、椎名の脳裏に或る日の記憶が去来していた。確か、吹奏楽部のコンサートのことであった。彼は友人と興味本位で見に行った。美人のクラリネット奏者がいるとか、そんなくだらない理由であった。彼女はステージの比較的端の方に陣取り、自分の身の丈程もある大きな楽器を全身で操り、重厚感のある低音を起こしていた。彼女は背が低く、椎名青年とは頭一つ分ほど身長の差がある。そんな体つきであの巨大な楽器を操るのは難しかろうと思ったことを彼は思い出した。それを告げると、若菜は驚いたような顔になった。
―――シーナは私の進学先も覚えてなかったのに、そんなことは良く覚えてるね。
―――馬鹿にしてンのか。
―――いやいや、褒めてるんだよ。他のヒトが見てないところを見てるのは才能だって。
若菜はゆるりと頭を振った。
―――どうも私にはあの大きさの楽器を操るのは辛いものでね。今はフルートやってる。
―――そうかい。部活は楽しいか?
―――しんどい……けど。止めてないところを考えるに、やっぱり楽しいんだろうね。
そこまで喋って、若菜は口を止めた。
―――もうこんなところまで来てた!いっけない!シーナ、またね! 」
電車のドアが開く。彼女は椎名に一言かけると、押し合いへしあい、扉の外へと出ていった。また。そんな次があるのかも不確かであるし、彼としては会わないことを望んでいた。彼らのようなヒトを見ると、自らがひどく惨めな存在に思えてならない。彼らは勉強以外の才覚にも溢れている。対する自分にあるのは机に向かう才能に対する惨めな自尊心のみであった。一応部活動は行ってきたものの、並程度の才しかないと自認するばかり。そしてその自尊心は受験失敗によって打ち砕かれた。惨めな自尊心から自尊心を差し引けば、残るものは惨めなおのれ自身でしかない。他者と比較されることのない、独りの世界。多数のヒトに囲まれながら独りで居られることに、椎名青年は一抹の寂しさとともに安堵した。
家の付近の駅で降り、椎名は一人、帰途についた。空模様は夏を象徴する激しい夕立。肌にはりつく服に彼は少しばかり苛々した。傘を持っていなかった。さして急ぐような用事もなかったし、雨の中を歩いて帰るというのも煩わしいものだと感じた。だから、雨が止むのを待つことにした。駅の中にある、客入りもまばらなバーガーショップ。その店内に入ると、揚げ物を作る独特なにおいがした。
―――いらっしゃいませ。
おそらく二十代前半であろう店員のいつも通りの定型句。
―――コーヒーのSサイズを一つ。
―――かしこまりました。
徹底的に事務的なやりとりに終始し、そこに余計な会話は含まれない。ヒトのパーソナルスペースを阻害せず、誰も傷つけないやり取り。椎名青年は安堵した。やがて出てくるコーヒーをトレイに乗せ、窓際のカウンター席へと向かう。まだ中高生が来る時間には少し早く、客の入りは少ない。何の気なしに周りを見渡すと、仕事の合間を縫って来たらしい若い男女が何やら話していた。椎名青年の二つ隣りには会社員らしい疲れた雰囲気の男性がハンバーガーを食らっていた。
―――ねェ、リュージってさ、今彼女いるの?
―――今はいねェ。
―――え!?マジ?サキ振ったの?
―――違ェよ!あっちに振られたの!
元気なことだと椎名は思った。他のヒトに対して興味を持ち、また自らに興味を持ってもらうことの何と苦しいことか。椎名青年はいたたまれなくなり、数分でコーヒーを飲み干すと席を立った。雨は幸いにして止んでいた。
次の日もまたあくる日も、椎名にとっては大差ない平凡な日々であった。予備校と家を往復するだけの淡い日々。そして、毎日のように椎名は猫を見た。黒い痩せぎすの猫はスクランブル交差点の端、縁石の上に腰かけ、じっと信号を眺めていた。ヒトは慣れているのか猫に注意を払うものはいなかった。猫もまた、ヒトを気にすることはなかった。椎名はそんな猫の姿が幾分うらやましいことのように思えた。
或る日のこと。椎名は気だるい体を引き摺って予備校へと向かった。いつもの路線で数駅行ったところで降り、駅前の交差点へと向かう。いつも通りというのは椎名にとってひどく楽なものであった。ヒトゴミを慣れた動きでかきわけ、交差点を渡る。その交差点の側。縁石に当たる部分に黒い塊が見えた。
猫の死体。車に轢かれたのか、轍が体の一部に走っていた。他のヒトは猫の死体なぞ見えていないかのように早足で交差点を渡り切っていた。椎名青年の足は自然と猫の方を向いていた。強引に流れに逆らい、猫の元へと辿り着いた。そのまま服が汚れることも気にせず、猫の死体を抱え、近場の公園へと向かった。意外と、猫の死体は軽かった。
公園に着き、公園の隅に猫の死体を降ろした。猫の死体を連れて来たのは良いのだが、彼は何一つ地面を掘るものを持ち合わせてはいなかった。途方に暮れて周囲を見渡すと、砂場に誰かが置いていったらしいスコップが一本落ちていた。これ幸いと椎名は掴み、猫の死体の元へと戻った。何故急にいつものルーチンから外れて猫の死体を埋めるなどという行動に出たのかは彼自身良く分かっていなかった。ただ、無心に地面を掘った。この猫の死体は誰にも相手にされなかった。マザー=テレサも良く言ったものだ。好きの反対は無関心。興味が無いものにヒトは目もくれないのだ。あの場にいたヒトの群れは一人としてこの猫に気付けない。何故自分がこんな要らぬお節介を行っているのかは椎名自身、よくわかってはいなかった。
椎名青年が猫を埋めるのにおよそ十分。いくつかの石を積んだだけの粗末な墓に椎名青年は手を合わせた。
―――ねぇ、おにいちゃんはなにをしてるのぅ?
幼い声であった。後ろを向くと、ワンピースを着た少女が立っていた。
―――向うの通りで猫が死んでいたからな。埋めていたんだ。
―――そっか。あたしもおいのりしていい?
―――あぁ。きっと喜ぶだろ。
少女は椎名の隣に腰を下ろし、ゆっくり手を合わせ、目を閉じた。数瞬後に目を開け、椎名青年の方へと目を移した。
―――おにいちゃん。
―――なんだい?
―――このねこ、どんなねこだったぁ?
少女に問われ、彼は暫し黙考したが、彼が知っている猫の様子はその容姿だけであった。毎日姿を見てはいたものの、彼にとっての猫は背景のようなものだった。
―――黒い毛並の、痩せてる猫だったな。
猫の容姿を伝えてやると、少女は顔をくしゃくしゃに歪めた。椎名青年は少女の変化に驚き、どうにか宥めようと手を差し伸べた。
―――くろちゃんだ。
―――え?
―――そのねこ、くろちゃん。かんづめがすきでね?よくたべるの。でもぷらいど?がたかいのか、わたしがさわろうとしてもにげちゃうの。
―――君が飼っていたのかい?
―――ちがう。ままがね、のらねこだっていってた。
少女は墓の方をぼんやりと見つめると、呟いた。
―――そっか。くろちゃん、いなくなっちゃったんだ。
黒猫はもう動かない。墓の下で眠るのみ。少女の頬を涙が伝った。目を泣き腫らし、口元を震わせる。
―――……………………。
椎名には返事ができなかった。彼はこの黒猫とさしたる交流があったわけではない。せいぜい見かけた程度だ。少女と猫の間の繋がりなど、推し量ることしかできなかった。彼は少女にかける言葉がなにひとつない。今日猫を埋めたのだって、きまぐれ以外の何物でもなかった。少女はさめざめと泣いたが、数分後に今までの様子が嘘のように立ち上がったので彼はひどく驚いた。
―――もう、良いのか?
―――だいじょうぶ。それと、おにいちゃん。それ、わたしの。
少女に指さされ、椎名はスコップを足元に置いていたことを思い出した。スコップを拾い上げ、少女へと差し出した。
―――ありがとう。勝手に取って、ごめんな。探してたんだろう?
―――ひとのものをとったらどろぼうなんだよ?
―――それはごめん。
頭を下げると、少女はにんまりと笑い、椎名からスコップを受け取った。