結・川島鶴美
浅慮→あさはかであること。
偕老洞穴→老夫婦。長く共に過ごしている夫婦。
いくらかの時間が過ぎた。日も沈み始め、辺りが暗くなってきたところで初めて、ああ、さっきまでは日があったのかと思い返す。こんな事を考えている時点で普通ではない。異常だ。
私は、この普通ではない場所を、夢の世界だと思っていた。睡眠中に見た幻想世界。脳が記憶の整理をするついでに見る、現実から構成された非現実。そういうものだと思っていた。
だが違う。ここは天国だったのだ。いや、寺院なのだから、天国というのはおかしいか。極楽浄土と称するべきだろうか。それにしては些か華に欠ける。輪廻転生の輪の中かもしれない。だとしたら人間道だろうか。そうであって欲しい。家畜道は、願わくば勘弁だ。人の命をいくつも救ってきたのだから、多少の悪戯心は見逃してくれないだろうか。恩人に恩を返せなった事、友を救えなかった事は、見逃してくれないだろうか。
こんな事を願っている時点で、こんな浅慮を抱いている時点で、それらも全て帳消しか。
肌寒くなってきた。風はいっそう強まり、このまま世界ごと消し飛ばしてしまいそうだ。
「…………?」
世界を消し飛ばす? いや、違う。
私は顔を上げた先で、世界が崩落している様を見た。何かの比喩ではない。地盤沈下が起きたかのように、墓地の奥のほうが崩れていくのだ。落ちていくのだ。
「なっ……!」
私は立ち上がった。夢の世界ならばともかく、あの世でこのような事が起きるのか? そのような話、仏教でも宗教でも聞いた事が無い。死後の世界で起きる事など勉強しているわけではないが、これから死に逝く事が確定してしまった人の不安を少しでも解消するため、そういう概念を学んだ事はあった。その知識の中に、このような現象は有り得ない。
何が起きているおかはわからない。だが、とにかく逃げようと思った。逃げなければならないと感じた。墓地の奥から崩壊しているようだ。少しずつこちらへ近付いてくる。まずは墓地から出なければならない。
私は一目散に走った。すぐに膝が痛くなったが、それでも構わず走った。墓地から出ると、庭も崩壊を始めていた。世界の終わりを告げるように、どこにも逃げ場など無いのだと言外に伝えてくるように、寺の本堂さえも崩れていく。
どこか、どこか無事なところは無いか。まだ崩壊が始まっていないところは無いのか。そうやって辺りを見回すが、どこもかしこも均等に崩れていく。
振り向くと、墓地はもう既に消え失せていた。どうやらここが優先的に消えたらしい。私の思い出と共に、崩れ落ちたらしい。
後ろ髪を引かれるような心持ちで、私は無事な場所を探すために走った。枯れた桜が、枝をへし折りながら落ちていくのが見えた。小さな池が水を失う様を見た。祭莉が座っていた場所は少しだけ持ちこたえ、だが、最後には砕け散って砂のように舞っていった。
比較的崩壊の遅いように見えた廻廊へ脚を踏み込む。だが、すぐ隣の本堂も崩れ始めているため安心など出来ない。私は走った。どこへともなく走った。
参道が見えた。境内の入り口が見えた。千鶴子が結婚式を執り行った場所だ。そこを突っ切るべく走り抜けようとしたら、参道が崩れ、境内が落ちた。私も崩壊に巻き込まれかけたが、間一髪、なんとかそこを通り抜ける事が出来た。
私はさらに走った。今になって、最初の場所へ戻ろうとしているのが解った。
そうやって崩壊を隣に走り続けていた時だ。
「こっちよ!」
声がした。庭のほうから、どこかで聞いた事のあるような、少し枯れた、しかしよく通る声。ひどく懐かしい声。
私がそちらを向くと、庭の真ん中に屋根付きの休憩所が見えた。そこで一人の女性が立っていて、こちらに手を振っている。見るからにその場所はまだ崩壊していない。崩壊が始まってもいない。まるで崩壊が、その場所を避けているかのようだった。
私っはそちらへ向かった。躍起になって足を進めた。
そして、私は再会した。
「…………千鶴子!?」
辿り着いたその場所に居たのは、歳を取った千鶴子だった。いや、そこはかとなく千鶴子とは違う気がするが、千鶴子と瓜二つだ。千鶴子が歳を取ったらこおうなるのだろうとしか思えない、そんな感じの女性。
その女性は振っていた手を降ろし、不機嫌そうに頬を膨らませた。見た目の年齢では四十か五十くらいに見えるが、そういうどこか幼い仕草も様になっている、と思った。
「私のお母さんがどうかしたのかしら」
意地悪に言われ、そして同時に、思い出す。ああ、そうだ、こいつは山下千鶴子の娘だった、と。そこだけを思い出す。
「まったく、どうしようもない方ね。おっちょこちょいで、早とちりが酷い」
そう言いながら、そいつは椅子に座った。私はその正面に立つ。ここがいつ崩壊するか解らない以上、常に警戒はしていないといけないと思ったからだ。本当は脚を休めるため、こいつの隣に座りたかった。
名前は、そうだ。思い出した。鶴美だ。はて、下の名前はなんだったろう。千鶴子の娘だから山下? いや違う、千鶴子は嫁に行ったのだ。確か飯塚家に嫁入りしたはずだ。ならば娘も飯塚だろうか。飯塚鶴美。いや、なぜか違う気がした。
「呆けているようなので、私が説明するわ。始めに言うけれど、ここは天国ではないわ。そして夢でもない」
と、鶴美は言う。
「あまり時間が無いから、思い出していないようだけれど暴露するわね。私の名前は川島鶴美よ」
意味ありげに言われたため、首を傾げてしまった。川島? どこで聞いた苗字だろうか。
鶴美は呆れたように嘆息し、続けた。
「あなたの名前は、川島誠。私の夫であり、七十歳になってもお医者様を辞めないはた迷惑なお人」
はた迷惑とはなんたる言い草か、とは思ったが、そこよりも合点した箇所があった。鳴るほど、こいつが私の妻だったのか。どうりで、懐かしく、そして愛しい。
……懐かしい? 妻なのに、懐かしいのか?
「流石に、気付いたかしらね」
早速、と、鶴美は姿勢を但し、俺と向き合う。
「順に、あなたの全てを説明するわ。そして、あなたの現状と、あなたがやるべき事も、全部説明する」
俺は、何がどうなっているかも解らないまま、いや、きっと解らない事が多すぎて逆に冷静になってしまっているのか、無言のまま頷いた。
「まず、あなたは私の母、山下千鶴子の妊娠と結婚を機に、私の母と疎遠になった。姉のような存在だった母を失ったあなたは、非行を繰り返すようになった。そこで祭莉さんと出会った」
きっと、彼女には俺の口から話したのだろう。きっとそうだ。そうに違いない。
「祭莉さんを見届けた事をきっかけに勉強に励むようになり、そしてあなたは医師になった。そこで亜衣さんと出会った」
亜衣さん、という改まった名称を聞いて、はっとする。そういえば、俺の年齢と鶴美の年齢は、それこそ一回りも違うはずだ。鶴美がもし、千鶴子が結婚する原因になった子であったとしても、私とは十五以上離れているはずだ。だとしたら私は、なかなかに若い娘を嫁に貰ったということか。いやそれよりも、そうか、鶴美は千鶴子の娘なのか。
「亜衣さんの手術に失敗したあなたは自身の実力不足を痛感し、修行に出た。戻ってきたのは三十九の時。私が二十四の時よ」
何故だろう。理由は解らないが、寒気がした。空気が酷く冷たい。それに、心なしか吐き気を感じる。
聞きたくない。そう思った。鶴美のその言葉が、台詞の連続が、まるで死神のカウントダウンのように感じた。
鶴美はその、不気味なカウントダウンを、淡々と続けた。
「私の母は私を身ごもって、父と結婚するとほぼ同時に、地元を離れていた。だから私にとってあなたが生まれ育った町は初めての場所だったのだけれど、親の都合で――飯島千鶴子がこの世を去った事をきっかけに、私は父の元を離れて、祖父母を頼るためにこっちへ来たの。そこで、あなたど出会った」
その理屈はおかしい。だからやめろ。それ以上言うな。その理屈を成立させっるな、と、何故か心が拒絶する。きっと、忘れている記憶を思い出したくないのだろう。千鶴子が死んだという事実から、目を背けたかったのだろう。
それでも鶴美は言う。言葉を紡ぐ。
「父は、DVが酷かったの。私にも、母にも。でも、それは仕方の無い事だった。未熟児だった私を、十六歳という年齢でありながら帝王切開でなんとか産み、代償にそれ以上子供を産めなくなってしまった母と、未熟児だったが故に、そこから巻き返す事が出来ずに、虚弱体質としての運命を背負ってしまった私。……まっとうに愛するには、些か欠陥が大きすぎたもの」
違う。そんな理屈は通用しない。それでも愛するべきだ。同等に愛しむべきだ。いや、欠陥があるからこそ、大事に見守ってやるべきはずだ。千鶴子の夫は、それを放棄したというのか。あまつさえ、守るべき相手に暴力を振るっていたというのか。
確か、鶴美の虚弱体質は血に関する事だったはずだ。最近やウイルスを駆除する白血球の数が常人の四分の一以下しかなく、病気に対する耐性が殆どなかった。それこそ、二十歳まで生きれた事が奇跡だと言える程に。
「入退院を繰り返していた私を、祖父母は支えてくれたわ。父とは大違いだった。私もこのままでは駄目だと思っていたけれど、体質には勝てなかった」
そこで俺と出会ったのだと鶴美は言う。
「私の体質は循環器系に関する欠陥。外科医であるあなたにはなんの関係も無かった。にも拘わらずあなたはしょっちゅう私のところへ来てくれた。といってもあなたは、殆ど全ての患者にそうしていたみたいだけれど」
綺麗な事のように語るのは辞めて欲しい。それはただ、休憩中に勉強がてら他の部署にも顔を出していただけなのだ。。結局自分のためだった。患者のためではなかったのだ。
「お医者様本人であるあなたは知らなかったかもしれないけれど、実は担当医さんに弱音を吐くとかって、出来ない人、多いのよ。あなた、患者さんの弱音聞くこと、多かったでしょ? それはあなたが、その患者さんの担当医じゃなかったからよ」
確かにそういう節はあったが、考えてみれば確かに、自分のために頑張っている担当医には、弱音は吐きにくいかもしれない。
そうか。だから鶴美も、俺に弱音を吐いてきたのか。
「私が吐いた弱音を真摯に受け止めてくれるあなたに、私の心は惹かれて行った。まぁ、それはあなたと結婚する前に、私から言ってあることだけれど。ちなみに、婚約を持ちかけてきたのもあなたのほうだったのよ?」
それでも、記憶の無い私には、初めて聞く情報だった。
しかし何故だ。傍から聞けば美談だというのに、俺と生涯の妻との出会いだというのに、何故俺は、これ以上思い出したくないと思っているのだろう。
「……やめろ」
ああ、そうか、解ってしまった。
解ってしまえばもう、聞きたくないと思う事に疑問は無かった。そう思う事が当たり前だと思った。
でも、けれど、鶴美は言う。はっきりと、しっかりと、その事実を俺に伝えるため、続ける。
「私とあなたは結婚した。偕老洞穴を誓いあった。あなたが私を延命する代わりに、私はあなたの補佐をする。どこからどう見ても不平等な約束だけれど、どうしてかしらね。あなたに甘える事に、抵抗はなかった」
当然だ。私はきっと、鶴美に千鶴子の面影を追っていたのだろう。愛していたのか恋していたのかは解らないが、守りたいと思うのは当たり前のことだ。千鶴子のように、祭莉のように、亜衣ちゃんのように、失うわけにはいかなかった。失いたくなかった。
「あなた」
途端に、鶴美の声が優しい口調い変わった。
「奇跡が起きても二十歳までしか生きられないと言われていた私に奇跡が起きて、あなたと出会うまで生きながらえる事が出来た。そして、そのおかげで五十まで生きる事が出来た。これを幸せと言わずに、何を幸せと言うのかしら」
俺は、何も言えずに俯いた。半身を裂かれるような気分だった。
「私が死んだ歳は五十。あなたは七十。もう充分。十二分に生きたわ」
自分は満足だったと、彼女は言う。
けれど。
「けれど、あなたはまだ、死ぬべき人間じゃない」
鶴美の掌が差し出される。それは握手を求めるものではなく、俺の胸元を辿り、そして俺の頬に触れた。
「あなたなら助けられる人間というが、まだ居るはずよ。私の母のように偶然で死ぬ人を、祭莉さんのように悲劇の元に散る人を、亜衣さんのように不幸のせいで逝く人を、私のように宿命的に去る人を、あなたなら救える。だからお願い。もう少しだけ頑張って」
俺はきっと、彼女の、鶴美の死が耐えられなくて、薬を呑んだのだ。
俺が愛した人は誰しもが死ぬ。私は彼女らの誰しもを救えなかった。もう疲れたのだ。沢山の人の命を救ってきたのだから、全部帳消しにして、全て終わらせようと思ったのだ。
「お前の居ない世界に、これ以上居る必要性がどこにあるというのだ……?」
頬に触れている冷たい温もりをもっと感じるため、俺は彼女の掌に、自分の掌を重ねた。その手はやはり冷たかった。冷たいのは、どちらの手だったろうか。
「世界に必要性を見いだせなくても、世界があなたを必要としている」
そんなものは奇麗事だ。そんな虚勢を張ろうとして、自分の喉が震えている事に気付いた。そこで、ああ、泣いているのだな、と、初めて気付く。
「いやだ……。一人にしないでくれ」
なんとか搾り出した弱音。
ずっと戦ってきたのだ。ひとつでも多くの命を救うために頑張ってきたのだ。その道は殆ど一人だった。孤独だった。祭莉が標を立て、亜衣ちゃんが背中を押してくれたが、結局歩いてきたのは俺一人だった。途中から鶴美が支えてくれたが、手術台では結局一人だ。
それがどうしようもなく、嫌だと思った。
「大丈夫」
鶴美は微笑み、小首を傾げて目を閉じた。
「あなたが一人なんかじゃないってことは、きっともう、すぐに解るから」
鶴美が消える。そう直感した私は、重ねていた掌をさらに強く握った。そして腕を引き、抱きしめようとした。
だが、間に合わなかった。
『もう少しだけ、歩いてみて』
その言葉を最後に、俺は空を抱きしめた。酷く虚しい、空虚な感覚。
前のめりに倒れそうになったが、構わないと思った。このまま倒れてしまおう。そして全て忘れよう。全て放り投げよう。そう思った。
しかし、世界がそれを認めなかったかのように、俺が倒れきるより先に、世界が崩壊した。
真っ暗な世界で、誰かが私の名を呼んでいる気がした。
その声はどんどん大きくなり、次第に黒の視界が光を取り戻していく。
途端に、強い吐き気に襲われた。胃と胸が痙攣し、何かが一気に押し出されてくる。
わけもわからないまま、私はそれを吐き出した。呼吸する暇も無いほどの激しい嘔吐。
「先生! 先生大丈夫ですかっ!」「おい手を止めるなもっと吐かせろ!」「先生はもうお歳なんですから、無茶したらどうなるか――」「構うな、死なせるマシだ!」
いくつもの罵声に似た声が鼓膜を揺らす。脳にまで響いて、吐き気が増した。頭ががんがんする。水のような吐しゃ物が、薬品の混じった嫌な匂いと共に、私の口から溢れ出る。
その声の主達が誰なのかはすぐに解った。私の病院の後輩達であり、私の教え子達だ。
「先生、なんでこんな事をっ」「泣いてんじゃねぇよ! 今はとにかく先生を助けろ!」「水が足りないもっと持ってきて!」「これ以上薬で吐かせようとしたら逆効果になるかもしれない! 口の中にホースごと突っ込もう! それで吐かせるんだ!」
慌しく吐き捨てられる、暴言のような言葉達。そのどれもが、私を救うためのものなのだと思えた。
ああ、苦しい。死にたいほどに辛い。終わらせたいほどに痛い。苦しすぎて涙が溢れる。
ある人は、死んでも構わないと私に言った。自分は死んでもいいから、他の人を助けてやってくれと。
ある人は、死にたくないと思えた。それだけでも素晴らしい事だと讃えた。生きていたいと思える程度には、この世界は美しいのだと。
ある人は、生きていられた。それだけの事が奇跡なのだと称した。
そして私は自殺するために飲み込んだ薬を吐き戻しながら、精一杯押し出しながら、思った。死すべくして死ぬ人間などは居ない。誰しもが皆、生きるべくして生きているのだと。そうでなければならないのだと。
それが、偕老洞穴の元に交わされた、鶴美との契りなのだと。
お読みいただきましてまことにありがとうございます。根谷司です。
至らぬ文章にここまでお付き合いいただいて光栄の至りです。僕の持ちうる限りの語彙をぶち込もうと考えていたのですが、やはり短編では無理でしたね。などというどうでもいい意見は放っておきまして。作品説明を。
この物語のタイトルは廻廊洞穴の契り、でしたが、そもそも廻廊洞穴なんて言葉は存在しません。ただの駄洒落です。元の言葉は偕老洞穴です。偕とはつまり共にと同じ意味で、「老いても偕に洞穴で過ごす」という言葉なのです。あまりメジャーではないかもしれませんが、四文字熟語で実際にあります。
このお話は、お医者様がお医者様になった理由と、なってからの挫折と、その終わりを書いたものになっております。演出が多分、ちょっと特殊なのでそれっぽくないかもしれませんが、言ってしまえばそんな単純なお話なのです。お楽しみいただけたでしょうか。何かを感じて頂けたらクリエーター冥利に尽きます。
さて、では最後にもう一度。ここまで読んでくださり、真にありがとうございました。雰囲気はかなり違いますが、他作品でもお会いできたらと、切に願っております。
ではっ!