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転・佐久間亜衣

寂寥(せきりょう)→もの寂しい様

閑散(かんさん)→ひっそりとしている。静か。

執刀(しっとう)→医師が手術を行なう事。治療のため体を切り開く。

 廻廊のほうに戻る気にはなれなかった。風が吹いている今だからこそ気付いたのだが、この夢の中の世界は、いささか情緒に欠ける。せっかく風が霧を晴らしたというのに、これでは意味が無い。


 少しでも情緒を求めた私はきっと、千鶴子と、そして祭莉との別れを悲しんでいるからだろう。私の人生のほんの一部の出来事かもしれない。それでも記憶を失くした私にとっては、それらが全てだった。それしか確かなものが無かった。そんな寂寥(せきりょう)感に包まれた心を少しでも誤魔化したかったのだろう。だから私は、廻廊には戻らず、庭を歩いた。


 なにも見えない、というわけではない。壁ばかりだったのだ。先ほどの枯れた桜の木の向こうにあった墓地へと続く道以外は無く、寺全体が漆喰(しっくい)の壁に囲まれていた。私は墓地のほうへ向かっていった。そこしか見えなかった。そこへ行けば何かが変わると思った。


 祭莉が消えたからか、祭莉に纏わる光景も消えてしまったようだ。埋葬中の喪服達は居なくなっていた。どこか侘しいような、閑散(かんさん)とした墓地があるだけの空間。私はそこへ足を踏み入れて、進む。


 やはり見覚えがある。祭莉の埋葬の際に来た事のある墓地なのだから見覚えがあって当然だ。それに、私はきっと、何度も祭莉の墓参りにも来ていた事だろう。不吉な話かもしれないが、ここは私にとっての、馴染み深い場所だったのではないだろうか。そう思い、祭莉の墓石の前に立った時だった。


『ああ、死にたくないな』


 そんな言葉が、脳裏を過ぎった。


『先生、私、死んじゃうんですか……?』


 どこからともなく聞こえたのではなく、記憶の隅から蘇ってきたのだ。その言葉を言ったのは少女だった。転落事故を起した小学生の女の子が居て、私はその子と知り合いだった。私の年齢は、確か三十半ばくらいだったと思う。


 私は、こう答えた気がする。確認のため、その言葉が口から漏れた。


「大丈夫だよ。私が守ってみせるからね」


 そうだ、転落事故で病院に運ばれてきた彼女は重傷だった。始めの手術で一命は取り留めたものの、内臓、骨、筋肉の至るところが危険な状態で、まだ幼かった事もあり、手術は数回に渡って行なわれる事となった。その執刀医が、私だったのだ。


 少女の名前は、そうだ、思い出した。


 私は後ろに振り返る。


佐久間亜衣(さくまあい)ちゃん、だね」


 振り返った先に居た、墓石の前に佇む少女。私はその子に確認した。少女は悪戯に成功したかのように笑うと、ゆっくりと頷く。


「はい。覚えててくれたんですね」


 彼女に関する事は、全て思い出した。


 私は祭莉の一件以来、猛勉強して外科医になったのだ。手術はまだ十回程度しかこなしていない私だったが、運ばれてきた時間に開いていた外科医は私しかおらず、救急車で運ばれてきたこの少女、佐久間亜衣を私が執刀(しっとう)することとなる。今の時代はその限りではないが、私の時代では日本の医師は三十歳以上にならないと手術台に立つ事が出来なかったのだ。だから、当時三十半ばだった私も、執刀医としてはまだまだ新人も同然だった。言ってしまえば、私には荷が重い患者だった。


 一回目の手術に成功し、一命を取り留めた亜衣ちゃんはしかし重傷で、負傷している内蔵の数も、砕けている骨の数も、生きているのが不思議なくらいだった。成功したのが奇跡のようなものだった。一度に治療しきれなかったのは、一重に血の問題だ。輸血にも限度がある。体力的にも連続執刀は難しい状態。手術は数回に分けて行なわれる事となる。


 体力と輸血状況と、怪我の状態。そのバランスを見極めつつ、いつ手術するかを決め、手術をし、戻し、また回復を待って。その繰り返し。


 私は、四度目の手術で失敗した。


 佐久間亜衣は、死んだ。


「先生には、いっぱい迷惑かけちゃいましたね」


 眼の前の亜衣ちゃんは、少し癖のある猫っ毛を風に揺らしながら苦笑する。


「迷惑だなんて。むしろ逆だ。まさか、君に会えるとはね」


 迷惑だなんて思っていない。私が初めて死なせてしまった命。私が始めて助けられなかった命。それが今、私の目の前にある。


 これが夢なのだおという事は解っている。本当は亜衣ちゃんは、私を恨んでいる事だろう。手術の待機中に弱音を吐いた亜衣ちゃんへ、私は約束をした。必ず助けると断言したのだ。しかし私は、彼女を救えなかった。恨まれて当然だ。


 だが、ここが私の夢の世界だから、彼女はこんなにも柔らかい笑みを浮かべているのだろう。


「ううん、迷惑はかけちゃいました」


 亜衣ちゃんは首を横に振る。


「そんなわけが無いじゃないか」私は言いながら、彼女へ歩み寄った。「君のために頑張っていた時間は僕の誇りだった。そして、君を救えなかった事が僕の(いましめ)めとなった」


 これがもし、本物の亜衣ちゃんとの再会だったなら、こんな事は言えなかっただろう。言えるはずが無かっただろう。しかし、私は言う。私の夢の中だからこそ私は続ける。


「私には救えない命が沢山ある、と、君が教えてくれたんだよ。君を死なせてしまった後、私はこれまで以上に勉強をした。数年だけど海外にも渡ったよ」


 外科医としての技術を向上させるため、私はボランティアの医師団員として、被災地や紛争地に赴き、執刀を続けた。一日に十回以上の手術をした日もあった。そうやって私は、三十歳が終わる頃にこちらへ戻ってきた。


 その後のことは思い出せないけれど、亜衣ちゃんのおかげで救えた命が沢山あったことは確かだ。亜衣ちゃんの命は救えなかったけれど、その経験を活かせた事が唯一の救いだった。私への慰めだった。自己満足だったとも言えるかもしれない。


「知っていますよ」


 亜衣ちゃんは頷いた。


「ここからずっと見てましたから。私が死んだ後に先生がすっごく頑張ってくれてた事は、知ってますから」


 そう言って、自分の後ろにある墓石を撫でる亜衣ちゃん。彼女の体も、祭莉と同様、ここに埋められているのだ。知人が何人(・・)も眠っているから、私はこの場所を馴染み深いと感じたのだ。そして、亜衣ちゃんの言う『ここ』というのは、墓石の事だろう。墓の中から見守っていてくれていたと、彼女は言ってくれているのかもしれない。


「あのね、先生」亜衣ちゃんは、流し目でもって墓石を眺めながら続けた。「あの転落事故って、実は、いじめだったんですよ」


 それは、私の知らない事実だった。や、事実なのかどうかは解らない。なにせここは私の夢の中だ。私の無自覚な妄想である可能性のほうが高い。


「同級性達もあそこまでするつもりは無かったとは思うんです。でも、いじめって大抵そうですよね。向こうはこっちのことなんてなんも考えてない。だからエスカレートしてくんです。だから、自殺なんてしたくなっちゃうんです」


 確かに亜衣ちゃんは、少し後ろ向きな性格をしていた。だからといって、これはあまりにも酷すぎる。私の妄想を自重させたい。


「毎日が嫌だったんです。パパとママも、お仕事から帰ってきたらつまらなそうにしてる。仕事が嫌だとか弱音吐いてたり、パパとママで喧嘩してたり」


 大人になるって楽しくないんだ。そう思ったと、亜衣ちゃんは言う。


「大人になるって嫌なことばっかりなら、今しか楽しくないんなら、今が楽しくないわたしって、どうしたらいいんだろう」


 そこで微かに、彼女の声が震えた。


「そう思ったら、死ぬしかないなって。……だから私、飛び降りたんです」


 親からは、転落事故だと聞いていた。橋の上から谷に落ちて、岩場の上で転がっていたと。親も、亜衣ちゃんの真実を隠していたという事だろうか。見てみぬふりを決め込んでいたというのだろうか。これが本当ならあまりにも(むご)すぎる。


「一回目の手術が終わって目が覚めた時、ああ、助かっちゃったんだ、って、ほんとはがっかりしたんです。せっかく勇気を振り絞って飛び降りたのに。怖くて寒くて暗くて辛い中、頑張って橋からおっこちたのにって。パパもママも、表面上ではわたしの心配してくれてたけど、ほんとはわたしの心配じゃなくて、治療費とか自殺した子供の親だとか、そういう世間体ばっか見てたのも知ってます」


 酷いのが私の妄想なのか真実なのかは、今の私には解らない。どちらにせよ悔しくなって、私は拳を握った。思わず力が入った。


 しかし彼女は、笑って続けた。


「先生だけが、わたしの命を見てくれていました」


 私は何も言えなかった。彼女の笑顔が、あまりにも美しかったから。純粋で無垢で、輝いていたから。


 違う。違うんだ、と、私は首を横に振る。しかし、言葉が出てきてくれなかった。まるで喉に砂でも詰め込まれたかのような感覚がする。


 私は、君のような、亜衣ちゃんのような、世間を冷たく見てきた子供の目を知っていたのだ。日泉祭莉という女性と同じ目をしていたから、どこか、何かを諦めている目をしていたから、だから救いたいと思ったのだ。私は君だけを見ていたわけでは無い。買いかぶらないで欲しい。単に私は、亜衣ちゃんを助ければ祭莉への手向けとなるのではないかと考えていただけなのだ。酷いものだ。きっと、私のそういうところが、亜衣ちゃんの居た境遇よりもずっと酷い。


「先生のおかげなんです」亜衣ちゃんは続ける。「先生がわたしを思ってくれたから、少なくともそういういふうに振舞ってくれたから、わたしは死にたくないと思えたんです」


 鼻先が熱くなった。何がが喉の奥からこみ上げてくる。嗚咽が漏れそうになる。吐き気にも似ていた。泣きそうになっているのか、と、なんとなく思った。


 ふと、亜衣ちゃんの瞳に一滴の雫が零れた。私はきっと、それを見てもらい泣きしそうになっているのだろう。きっとそうだ。そうに違いない。


「先生はわたしに、生きていたいと思わせてくれました。それでも駄目だったけど、わたしは死んじゃったけど、でも、わたしが生きていた世界は、生きていたいと。そう思う事だって出来る、素敵な世界なんだってことを、先生は教えてくれたんです」


 亜衣ちゃんの頬を伝う涙の量はどんどん増えていき、ついに顎から地面に落ちた。


「先生は頑張ってくれた。わたしの後もずっとずっと頑張ってくれた。もうばてばてになって、休みたいって思ってるかもしれません」


 それはもう、定年しても仕事を続けているくらいなのだから、私も心のどこかで、もういいだろう、と思っている節はあったかもしれない。記憶が曖昧なため定かではないが、自分で言うのもおかしなことかもしれないが、もう充分だ、とは思っているかもしれない。


 震えた声で亜衣ちゃんは続ける。


「でも、先生はとても素敵な人です、沢山の人の命と心を助けてあげられる人です。だから先生、お願いです。先生はまだ、ここには来ないで下さい」


 そして、必要以上に潤んだ瞳が私を捉える。真っ直ぐこちらを見つめている。その双眸(そうぼう)は潤んでいてなお力強く、幼さに反して凛々しかった。




「――先生はまだ、死なないで下さい」




 その台詞と共に、ある光景がフラッシュバックする。


 三つの薬品が眼の前にある。私はどうやら、それを服用したらしい。


「…………え?」


 入れ物を見ただけで、それが何か解る。現代では殆ど使われていない催眠鎮静効果のあるブロムワレリル尿素、吐き気止めに使われる事の多いナウゼリン、入眠効果のあるハルシオン。治療用の組み合わせ、では、ないだろう。どれもその場凌ぎの薬品でしかない。そもそもブロムワレリル尿素は、一定量異常含まれている薬ならば市販が禁じられるレベルの薬品だ。毒にもなる。


 私はそれを、吐き戻さないための吐き気防止の薬と、苦痛を忘れるために強制的に眠り続けられる薬を、一緒に、まとめて――呑んだ。


 記憶の中の意識が薄れ、景色がフェードアウトしていくと平行して、夢の世界に戻ってくる。


 そこにはもう、亜衣ちゃんは居なかった。私は三度、一人になった。


「……私は、」


 その場に膝を着き、さっきまで亜衣ちゃんが立っていた場所をただ眺めながら呟く。






「――私は、自殺したのか」



 


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