承・日泉祭莉
滑稽→無様で笑える様。
冤罪→濡れ衣。
揶揄→冗談や皮肉で相手をからかう事。
私はちゃんと、千鶴子の事を忘れる事が出来たのだろうか。それはひとつの不安だ。私が誰かと結婚していたのは解る。知っている。誰なのかは解からない。少なくとも千鶴子では無い誰かだ。けれど、千鶴子に想いを寄せたまま他の誰かと結婚したのだとしたら、それは道徳的ではない。相手の気持ちを踏みにじっている。非道だ。千鶴子を忘れようとして他の女性を捕まえたのだなどとのたまうならそれは諸悪だ。そしてなにより、滑稽だ。
そんな不安と、被害妄想のような怒りを感じながらも、私はその廻廊を進んだ。前へ。前へと意識して歩いた。しかし、そもそも私はどちらが前なのかを知らない。本当にこちらが前なのだろうか。私は本当に、進む事が出来ているのだろうか。
急に怖くなって立ち止まった時だった。
「よ」
と、快活な声が聞こえた。廻廊の外から。つまり庭のほうから。
見てみるとそこには、すらりとした体系の、長い金髪の女性が居た。二十歳くらいの女性だ。外人、というわけではなく、おそらくきつく脱色した結果の金髪だろう。ところどころに痛んで枝毛が跳ねていた。
その女性は大きな石の上に座って、こちらに背中を向けている。顔だけはこちらを向いて、後ろ手を振っていた。
「……えっと」
誰だっただろう。少しすれば思い出すかと思ったけれど、なかなか記憶は蘇らない。私は彼女に、どんな挨拶をしていたのだろう。そもそも本当に彼女も私の知り合いなのだろうか。私は廻廊に立ち尽くし、しばし考えた。
だが、女性がそれを認めなかった。
「なにしてんの。早く来いよ」
石の上から手招きをしてきたのだ。なんとなく後ろを見てみたが、私以外には誰も居ない。正真正銘、私を呼んでいるようだった。
ならば仕方あるまい。私は廻廊から出て、庭に足を踏み込んだ。芝生の庭だ。その感覚を足の裏で感じて初めて、自分が跣なのだと知った。しかし芝生が良い具合に湿っていることもあり、不快感はそんなに無い。むしろ、少し気持ち良いくらいだ。
私が女性の座る石の近くまで行くと、女性は向こうを見ていた。私とは反対側にある池を、もしくはそのさらに向こうにある、枯れた桜の木を眺めているのかもしれない。
「どうして、そんなところに座っているんだい?」
聞くと、女性はつまらなそうに答えた。
「好き好んで座ってると思ってんのか?」
それはどこか皮肉のような口調で。
「そんなところに座ってるからには、好きで座っているのではないかい?」
差し障りない返答をしたつもりだったが、女性は振り向くと同時に、仇でも見るかのような目で私を睨んできた。
「それ、あたしの脚が動かないの解かってて言ってんの? 喧嘩売ってる?」
「ええ! そうなのかい!?」
素で驚いてしまった。こんなところに一人で座っている人間が体の不自由な人だなんて、誰が思うだろう。
「そうなのかいって……」女性は呆れ果てたと言外に告げるような嘆息をして、続けた。「あんたは知ってるはずだろうが。あたしが事故ったこと」
心外だ、冤罪だ、と主張したいところだったけれど、如何せん私には記憶が無いため、主張する材料が無い。千鶴子の時のように都合の良いタイミングで思いだすということも無いようなので、私は早々に白状した。
「記憶が無いんだ」
言うと、女性は三白眼で私を睨んで、次に、噴き出して笑った。
「あっはっは! なんの冗談だそりゃ! 事故ったあたしと張り合おうってのかい!? あんた、そんなに愉快なやつだったか!?」
それこそ心外だった。よしんばこれが冗談だったとしても私の冗談がいつもつまらないと揶揄されているようなものだし、記憶が無いというのは本当なのに信じてもらえないという事が、信頼されていないという事がショックだった。
「残念ながら冗談じゃなくてね。すまないけれど、君の事も解からない」
言うと、女性は「ふーん」とどうでも良さそうに鼻で息を吐き、体を捻ってこちらを向いた。
「じゃあ、あたしらが付き合ってた事もわすれたんだ?」
「え!?」
なんともとんでもない事を聞いてしまった。しでかした、とでも言うべきか。こう言ってしまうとなんだが、この女性の雰囲気は千鶴子と正反対だ。落ち着いた清楚な雰囲気だった千鶴子とは違い、こちらは活発そうで、挑戦的な雰囲気を醸し出している。金髪ということも相まって、どちらかといえば不良といった感じだ。
まさか私は、千鶴子の事を忘れるため、この人を犠牲にしたのか? 確かに美人ではあるが、私が彼女を好きになるとは、少なくとも外見の上では、有り得ないと思うのに。
しかし、女性は腹を抱えて笑った。
「かーはっはっは! あーっ愉快だ! 冗談だっつの! あたしらが付き合うとか有り得ないし! なに、まじで記憶無い!?」
どうやら、私は遊ばれたようだ。ということは、そういう扱いを受ける程度には親しい仲だったという事か。
私が不愉快に感じて黙っていると、それを察したのか、女性はわざとらしい咳払いをしてから、「しゃーねーな」と人差し指を立てた。
「あたしの名前は日泉祭莉。ここの住職の娘であり、あんたの大学でのマブダチさ」
「マブダチ?」一瞬意味が解からず首を傾げる。「ああ、親友という意味か。君と私が?」
すぐには信じられずに聞き返すと、女性は目を見開いて、大口を開けた。
「はっはっは! ひーっ、こりゃだめだ! 私!? あんた今そんな一人称を素で使ってんの!? 傑作だ! ちょーウケる!」
流石に笑いすぎではないだろうか。確かに、男である私が私と呼称するのはおかしいかもしれないが、これでも定年を越えてなおしばらく働き続けた男なのだ。職場での一人称が私生活に馴染んでしまうのは、仕方ない事だろう。
……そうか、私は、定年を越えても働いていたのか。今思い出した。はて、なんの仕事をしていたのだったか。流石にそこまでは思い出せなかった。
「あー笑った笑った」祭莉は笑いすぎて滲んできた涙を指で拭った。「とにかく今は、一番大事なことを思い出させてやんねーとな」
言って、祭莉は桜の木のほうを指差した。私はそちらへ視線を向ける。するとそこには、黒い衣服を纏った人達が居た。枯れた桜の向こうへと歩いていっている。
「あたしらは、こう言っちゃなんだが荒れてた。あんたは親の金で、あたしは親の反対押し切って始めたバイトで稼いだ金で、遊びまくってた。バイク転がして行きたいところ行って、好きなように生きてた。クラブだなんだ、毎晩通ってたんだぜ」
霧が少しずつ薄くなり、枯れた桜の向こうも見えるようになってきた。だが、まだはっきりとはしない。
「ある時、あたしは事故った。峠を越えようっつってドライブ行って、運転ミスって大怪我。んで、病院に運ばれてこの様。脊髄やっちまって脚が動かなくなった」
見ると、祭莉は俯いていた。悲しくて俯く、というより、自分の足を戒めるように下を見ていた。そして続ける。
「しかも骨の欠片だのなんだのが血管やら神経に入り込んじまって、大手術が必要になった。成功率は五分以下。失敗したら即死。手術しなけりゃそのうち欠片が心臓に届いて心臓を傷付けて死亡。そういうことになっちまった」
「そんな……」
そこで、記憶が少しだけ蘇る。蘇ったのは、今の医療技術であれば、そこまで低確率にはならない、という事だ。だが、そんなことは関係無い。今は定年を越えている私が大学生だった頃となれば、医療技術も大幅に変わっている事だろう。現代医療の話など、祭莉にとってはなんの気休めにもならない。気晴らしにはならない。
「んでさ」と言って、祭莉は自分の脚を抱きしめた。「あたしとあんたはこんな話をしたんだ。死ぬのは怖いけど、自分の非行のせいでこうなったんだ。だからしゃーねーってあたしが言って、そんなわけあるかってあんたが言うんだ。助かる。お前は絶対に助かるって、あんたは何回も言い聞かせてくれた」
弱い風が吹いた。その風に霧が運ばれていく。祭莉の金髪が美しく靡く。
「手術を受けるって覚悟したあたしは、あんたに頼んだ。あたしが死んだら、手術が失敗したら、ずっと逆らい続けてた、ずっと反抗してた親に、ごめんなさいって伝えてくれって」
したらさ、と、祭莉は顔を上げる。
「あんたはこう言ったんだ。『そんなもんは自分で伝えろ』って。『手術成功して生きて戻ってきて、苦しいリハビリを繰り返してるうちに、俺が医者になってお前の手伝いしてやるから』って。それまで頑張れって、あんたは言ってくれた」
あの時は嬉しかったな、と呟きながら、祭莉は前を見た。枯れた桜があるほうを。さっきまで人だかりがあったほうを。霧が晴れたその先を。――寺の裏手にあった、小さな墓地を。
黒い服、つまり喪服を着た人だかりは、調度、埋葬の最中だった。その中に、涙を流す私の姿があった。まだ若い頃の私は泣きながら、誰かに謝っている。ごめんなさいと、何度も謝っている。きっと、誰かの代わりに、誰かの親に謝っているのだろう。
きゅう、と、胸が締め付けられるような感覚がした。
「あたしは言った。『その努力は、他の人のため使ってやってくれ』って。あたしみたいな非行娘のためじゃなくて、どっかに居る、本当に困ってるやつに使ってやってって。あたしの代わりに、そいつを助けてやってって」
どこか誇らしげに、祭莉は続ける。
そして、枯れた桜が色づいた。
ピンク色の花びらが突然現れて、激しく宙を舞う。それは皮肉にも、彼女の心と呼応しているかのようだった。
「あーっ、ひっさしぶりに話して、楽しかったー」と、金髪を風になびかせながら、祭莉は伸びをする。「あたしの埋葬もそろそろ終わるけど、調度、言いたいとこまで言えたからいっか」
桜の花びらが祭莉を包み込む。
彼女を隠すように。
彼女をどこかへ連れて行くように。
彼女を奪い去るように。
私は、彼女に向けて手伸ばした。桜の花びらの向こう側へ消えていこうとする彼女へ向けて、真っ直ぐ。
しかし、間に合わなかった。
『とりあえず、あんたがすっげぇ良いやつだったって事くらいは、思い出せたかい?』
その言葉を最後に、日泉祭莉は桜の向こうへと消えた。
残ったのは、最後の花びらを散らせて再び枯れた桜の木と、花びらの絨毯だけだった。