起・山下千鶴子
作風上、少々難しい漢字や非常用漢字が出てきますので、辞書を引かなくて良いよう、念の為意味を。
・邂逅→初めて出会う。
・廻廊→寺院など広い建物の外側に沿うようにして作られた、屋根付きの廊下。
・玉虫色→濁った虹色。色々と混ざって曖昧な色。
・洞穴→洞窟と同義。ほらあな、とも読む。
・如何せん→残念ながら。
・引き振袖→足元を引き摺るように作られた振袖。和式の結婚式で新婦が着る。
・角隠し→和式の結婚式で女性がする被り物。被らない場合もあるが、語源のひとつに『鬼嫁にはなりませんよ。角なんてありませんよ』という意を込めたものだ、という説もある。
もし意味が解からない漢字や言葉等が他にもありましたら、ご報告頂ければ幸い。それもここに書かせて頂きます。
随分と長い事、一人で歩いてきたように思う。何十年も走っていたように感じた。ほんの数時間前から進みだした気もする。私には、何十年も前に夫婦の契りを交わした妻が居る。だからきっと、一人で歩いてきたという事は無いのだろうけれど、何故かそう認識していた。
記憶が朧げなのは、おそらくここが夢の中だからだ。
夢だと思った理由は単純で、記憶が削ぎ落ちているからだった。何も思い出せない。自分が何歳なのかも解からない。ただひとつ、既婚である事だけを知っていた。残念な事に、誰と結婚したのかは不明である。そもそも、今まで私がどんな邂逅を交わしてきたかさえも覚えが無いのだ。
曖昧なのは記憶だけではなく、風景もそうだった。廻廊だ。寺の廻廊だろうか。とても大きな庭の見える、長い廻廊。その庭には池があり、小川があり、玉虫色の鯉が泳いでいた。石の小橋があるところまでは見えるが、その先は濃い霧のせいで見えない。
だがそれでも、見覚えのある景色だった。しかし、どこで見たのかは思い出せない。ただ少なくとも、現実で見た時はもっとはっきりとした景色だった事だろう。こんな濃い霧、私は生涯で見た事が無い。……などと言って見たが、その生涯の記憶が無いのだから、見た事が無いのも当然か。ともかく、私が今居る廻廊は、その濃い霧のせいで酷く暗かった。まるで洞穴の中に居るみたいだ。
その廻廊を少し歩いてみた。そうすれば、ここがどこかなのか思い出せるような気がしたのだ。どうせ夢なら、せめて少しは楽しもうと思ったのだ。
少し歩くと、セーラー服を見に纏った、三つ編みの女の子が立っているのが見えた。彼女は私のほうを見て、優しく微笑んでいる。
「こんにちわ」
と私は会釈すると、三つ編みの女性は微笑みを保ったまま答えた。
「そんな畏まって挨拶する仲では無かったでしょ」
おかしかったのか、楽しそうに笑っている。
そうだ、思い出した。彼女の名前は山下千鶴子だ。私の年上の幼馴染で、同じ中等部の学び舎で勉学に勤しんだ仲だった。とはいっても学年が二つも離れていたから、教室こそは違ったけれど。しかしだとしたら、どうして彼女は若い姿で、それこそ学生の時そのままの姿で現れたのだろう。私と二つしか歳が違わないのなら、それ相応の、シワだらけの顔になっているはずなのに。
「懐かしい顔だと思っただけだよ」湧き出た不自然をなんとか抑えてから私は答えて、彼女と同じように微笑んだ。「相変わらず、綺麗な三つ編みだね」
そして、挨拶代わりにいつも言っていた台詞を言った。これも今、思い出したのだ。
「うふふ、ありがとう」
口元に手を当て上品に笑う。そうだった。彼女はそういう女性だった。学生ながらに恋していたな、と、なかなか淡い記憶まで蘇ってきた。確か私の初恋だったはずだ。
「いやー焦った焦った」私は、頭を掻きながら笑って言った。「如何せん記憶が無くてね。君の事を忘れかけてしまっていた。調度、今思い出したんだよ」
思い出す事が出来たから言えた冗談だ。それを聞いた千鶴子は目を見開いた。
「それはいけない。急いで思い出さなくてはね」
そして彼女は、私の手を取ってその廻廊を進んだ。彼女にとっても縁のある場所なのだろうか。だとしたら、ここがどこかと聞いてみるのも手かもしれない。
「千鶴子。ここがどういう場所なのかを、君は覚えているかい?」
その問いに、千鶴子は振り向く事なく、嘆息した。
「そんなことも覚えていないの?」
覚えていなければならない事だったのか。ここはそんな重要な場所だったのか。そういう事も忘れてしまったのだから、仕方ないではないか。だからそんな悲しそうな顔はしないで欲しい。
「すまない。急いで思い出すから、許しておくれ」
それにしても、と、引かれる手を見て、私は思った。この手の暖かさは妙に懐かしくて、そしてとても幸せだと。
もしかしたら。もしかしたらである。私が生涯を誓った女性は、この人だったのではないだろうか。
しかし、
「ここは、私と貴方が決別をした場所なの」
と、俯き紡がれた千鶴子の台詞に、私は一瞬、呆けてしまった。そうか、生涯を誓い合ったのはこの人では無かったのか。私の初恋は、道半ばにして終わってしまったのか。
ふと、彼女は立ち止まった。そしてようやく振り向いた彼女を見て、驚いた。お腹が膨らんでいるのだ。服装はまだ、中等部のセーラー服であるにも関わらずだ。歳は、十五だったと思う。
「ちょっと、考え無しの人と交際してしまってね。こうなってしまったの」
立ち尽くしている彼女は、真っ直ぐと前を見ていた。私もそちらへ視線を運ぶと、何時の間にやら、沢山の人がそこに居た。この寺の正面なのだろう。大きな参道を避けて、皆同様に砂利の上に立って、境内のほうを見ている。少し目をこらして人だかりを見てみると、なんたる事か、学生時代の私が居るではないか。まだ若い私は、悔しそうに唇を噛み、無理矢理の笑みを浮かべながら、周りに倣って境内を見ている。だから私も境内のほうを見た。
境内の扉が開くと、その人だかりが一斉に拍手した。中から現れたのは、立派な袴を纏った男性と、着物姿の千鶴子が並んだ姿だった。千鶴子は足元を引き摺る引き振袖に角隠しを被っている。つまり結婚式だ。違和感があったのは千鶴子のお腹だ。そちらも、隣の千鶴子と同様、膨らんでいた。子供を身ごもってからの結婚。出来婚、というやつのようだ。繰り返すようだが、彼女はまだ中学生である。いや、結婚しているということは、十六にはなったのか。
そんな憤りを感じながら、私と千鶴子は傍から、結婚する千鶴子とそれを見届ける幼い私を見ている。それはどこかむず痒く、そしてどこか恥ずかしかった。
「ふふ、貴方、面白い顔してる」
千鶴子が言った。
「そうだね。私も私が、面白いと思う」
子供ながらに未練があったのだろう。千鶴子と結婚する相手の男に嫉妬していたのだろう。けれど、幸せになろうとしている千鶴子の未来に祈りを寄せるくらいはなんとか出来たのだ。そういうジレンマに焼かれたかのような表情を、幼い私はしていた。なかなかに愉快な面持ちだ。
和服の千鶴子と隣の男は参道を歩いていく。人だかりはそれに続くようにして、寺の出口へ向かう。これから角を落としに行くのだろう。
「えっと、おめでとう、と言うのは今更かな?」
なんとなく沈黙を気まずく感じてそんな話を持ち出すと、千鶴子はおかしそうに笑う。
「向こうの貴方もちゃんと言ってくれたし、本当に今更だし、嫌味になるから、遠慮して欲しいかな」
そうか、嫌味になるのか。だとしたら、当時千鶴子が交際していた相手が、あの結婚相手が考え無しの男でなければ、少しは脈があったのだろうか。
「さ、私が案内出来るのはここまで。あまり大した事は思い出せなかったみたいだけれど、ここから先の貴方を私は知らない。私達はこれから、一度も再会しないの。だから、さようなら」
そう言って、千鶴子は私の背中を押した。行け、というのなら、行かなければならないのだろう。私と千鶴子は、きっと何十年も前にさよならをしたのだ。今改めて悲しくなったのは、私がそれ以外の記憶を持っていないからだろう。心の大半を千鶴子が占めているから、千鶴子への気持ちを大きく感じてしまうのだろう。その程度の、ことなのだろう。
「ああ、そうだね。ありがとう。世話になったよ。今も、昔も」
当時の私は、この言葉を言えたのだろうか。とても世話になった、姉のような存在だった私の初恋の相手に、ちゃんとお礼を言えたのだろうか。
「それは、あの頃に聞きたかった言葉」
千鶴子はやはり、笑うのだった。優しく、柔らかく、穏やかに笑うのだった。どうやら私は、当時の、昔の私は、千鶴子にありがとうを言えなかったらしい。
それを改めて言えたのなら、ちゃんと伝える事が出来たのなら、それだけでもこの夢には、意味があるように思えた。心残りがあるとしたら、長い事溜め続けた、お世話になったという恩を、ひとつも返せなかったことくらいだろうか。