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鈴は一斗の右手を両手でつかんで、ぶんぶんと上下に揺すった。一斗は呆然とするばかりで、全く抵抗できない。
なんで近づいてくる?
おれがあやかしだって分かってないのか?
混乱して止まりかけていた思考が動き出す。
「……おまえさ」
「あ、ごめん!手、痛かった?」
「そうじゃなくて、普通怖いだろ?」
「怖い?何が?」
「おれのことだよ!髪見て分かんないのか?人間じゃないんだ」
手を離し、鈴は心底不思議そうな眼で一斗を見た。一斗の頭からつま先でじっくりと見てから、うーんと唸る。
「人間じゃないから、怖いの?」
「お前だけじゃない。みんなそうなんだろ」
ついつい声が大きくなる。
鈴は大声に一瞬びくりとしたが、明るい声できっぱりと言った。
「あたしは、関係ないと思う。人間とかあやかしとかそういうこと。人間じゃないから怖いとか、そういう風には思わないよ。あなたって、可愛い弟みたいだし」
「な……なんだよそれ、おかしいだろ?」
「おかしいのはそっち」
鈴は、お腹を抱えてケラケラと笑いだす。
なんなんだよ、コイツ。
一方で、一斗の頭の中は混乱しっぱなしだった。
これほど敵意のない人間に出会ったのは初めてだ。なにをどうしていいか分からず、ただ戸惑うしかなかった。
「あ、そうだ!」
唐突に、鈴がパチンと掌を合わせる。一斗は驚いて、勝手にぴくりと身体が跳ね上がった。
「あたし、縁さんに用があるんだった!あなたのせいで、時間食っちゃったじゃない」
頬をぷうっと膨らませる。ここに来た目的を忘れていたようだ。
「おれのせいにすんなよ」
ムッとする一斗を見て、鈴は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「ごめんごめん、冗談だよ。それで、縁さんは?」
「父さんなら……」
縁側でごろごろしていると告げようとすると、気だるげな声が割り込んだ。
「騒々しいな。鈴、何か用事か?」
いつの間に起き上がっていたのだろう。縁が二人の元へのそのそとやってくる。
縁に気付いた鈴は、抱きつくような勢いで縁の前に駆け出した。
「縁さん!あのねっ、父様が刀を預けてるから、受け取って来いって。それで来たの」
「ああ、少し待て」
玄関の戸を開け、家の中へ。数十秒と経たずに一振りの刀を手に持ってくる。黒鞘に、控えめな銀の文様が施されている長刀だった。
それを鈴の目前に付き出し、顎をしゃくる。鈴が両手で鞘を握ったのを確認してから、ぱっと手を離した。
「持ってけ」
「きゃぁっ!」
しっかりと両手で握ったにも関わらず、ずしりとした鉄の重みで、あやうく地面に落としそうになる。
それを見て、縁が低い声で笑った。
「大事に扱えよ。研ぐのも楽じゃないからな」
「そんなこと言ったって、重いんだもん」
縁は鼻で笑ってから、やりとりを遠目で眺めていた一斗を扇子で手招いた。
「一斗、お前が運んでやれ」
「なんでおれが!」
一斗は、すかさず抗議の声をあげた。
縁は、大きなため息をひとつ。顔をしかめて首を横に振る。
「女、子どもには優しくしろと、日ごろから教えているだろう?」
「父さんが行けばいいだろ!」
「暑いのは嫌なんだよ」
「ふざけんな、鍛冶師のくせに!」
一斗は、殴りかかりそうな勢いで縁に食ってかかった。
「ぐだぐだ言わずに、さっさと行け」
縁は、追いすがる息子を半眼で見降ろし、扇子でしっしと追い払う。
そのままさっさと玄関をくぐると、いきり立つ息子を無視して、後手にぴしゃりと戸を閉めた。
「!?」
一斗は、反射的に後ろにのけ反った。危うく手を挟まれるところだった。
ばくばくと音を立てる心臓が落ち着くまで数十秒。閉められた戸に飛びつき、どんどんと叩く。
「父さん、開けろよ!」
「しつこい。お前は家を壊す気か?」
「開けろ~~~!!」
戸をこじ開けようと、全身の力を引き手に集中させる。しかし、大人と子供の力の差は歴然だった。どんなに力を込めても、戸はびくともしない。
「はぁー……はっ……。ちくしょー、見て……ろよ」
ぜいぜいと肩で息をしながら考えた。
もうこうなったら、捨て身の突進しかない。
そのまま一発ぶん殴ってやる。
もし一斗の頭が冷静なら、縁側に回るとか、裏口から入るとか、他の方法をあれこれと考えただろう。だが今は、怒りが沸点を超えたまま、腹立たしい父親を殴ることしか頭にない。
臨戦態勢の一斗がゆっくりと玄関から距離を取っていく中、鈴は申し訳なさそうに声をかけた。
「ねぇ、一斗」
「なんだよ!黙ってっ……あっ、そっ、えっと……」
急に大量の冷水をぶっかけられたように、一斗の頭が冷えていく。玄関の戸と格闘する勢いのまま、鈴を怒鳴ってしまった。気まずすぎる。
ごめんと言えずに固まる一斗を、鈴は上目づかいで見上げた。
「頼んじゃだめかな?」
「……」
館に行くのは嫌だ。
父親の言いなりになるのも、気に食わない。
しかし、この目、自分を頼るような弱々しく甘えた声音が、一斗の男心をくすぐった。
これは断ってはいけない
というか、断れない
この子を放っておいたらダメだ
手を貸すべきだ
「貸せよ」
刀をひったくると、肩に担いだ。
自分の背丈ほどある長刀だが、普段から父親に手伝わされて、薪やら刀やらやたらと重いものばかり持たされている。けして軽い物ではないが、館に運ぶくらいはできそうだ。
「さっさと行こう」
「ありがと」
鈴は屈託のない笑みを浮かべて、歩き出した。どこかむすっとした表情を浮かべながらも、一斗も後に続いた。
閉ざされた戸の向こう側。
足音も、騒々しい声もなくなってしばらくした頃、縁は少々立て付けの悪くなった戸を開けた。
外は相変わらずの暑さだった。子どもの足で歩いても、十五分ほどで着くだろう。
「……ふん」
珍しく面白そうに縁が笑った。息子の小さな成長を楽しむような眼差しを浮かべて。