チャイナマーブル
踏切の前で呼び止める声に振り向いた。そこに懐かしい顔が笑っていた。
「アキ?……あ、やっぱりアキくんや。久しぶりやねえ。」
カタコトの関西弁。六年ぶりの再会。僕が大学時代に付き合っていたリンだった。
「なんか……また日本語下手になってへん?」
「仕方ないやん。卒業した後ずっと中国やったんやから。」
「そうか……六年やもんな。仕方ないか。」
初めて彼女と言葉を交わしたのは十年前、まだ大学に入学したての頃だった。学食で二九○円の中華そばを食べていた僕に彼女は突然声をかけてきた。
「なあ、アンタうまそうに食うとるけど、そんなん本当の中華そばちゃうよ?」
中国から美人の留学生が来ていると男子学生の間では既に評判になっていた。僕も彼女の顔を知ってはいたが、専攻も違い、また目立つ方でもなかった僕には縁のない人間だと勝手に決め込んでいた。端正な顔立ちに不釣り合いなカタコトの関西弁。僕は突然の彼女の言葉に驚いて、まるで何かで突然口を塞がれたかのように、ピタリと箸を止めた。
「食わへんの?のびるで。」
「いや、……食うけど」
彼女は、無理に学食のまずい中華そばを流し込む僕を楽しむように眺めていた。
次に会ったのは、大学の中庭にあるベンチで僕がウトウト眠っている時だった。だらしなく開いた僕の口に彼女が何かを放り込んだ。
「ハハハ。」
「何これ……アメ?」
「大きい口開けて、眠っとったから。」
「いきなりこんなん放り込んで、喉つまらせたらどうするんや?」
「プレゼントやん。怒んな。」
僕が少し怒ると彼女はそう言って笑った。そして彼女は僕の隣に座りこう続けた。
「なあ。何かの縁やし、あんた、大阪、案内してや。」
「え?」
「私まだどこも行ってへんねん。友達もおらんし。良かったらどっか連れてってや。」
「……いいけど。」
留学してきたばかりの彼女の寂しさも手伝ったのか、僕達が男女の仲になるのにそう長い時間はかからなかった。とにかく三ヶ月もたたないうちに、僕らは学内でも公認のカップルになっていた。それから四年間、いちいち思い出を数え上げればキリがない。徐々に日本にも慣れ、男友達の増えていく彼女に少しヤキモキさせられたが、僕達の関係は概ね良好だった。
卒業を間近に控えた四回生の冬。彼女の部屋で甘栗を食べていた僕に、彼女は静かに切り出した。
「なあ。」
「ん?」
「やっぱり、私、戻らなあかんのやって。」
「え?」
「国に。」
予測はできていた。心のどこかで日本に残ってくれるのではないかという淡い期待もあったが、それがただの期待であると言う自覚も持っていた。
「ごめんな。」
「……うん。……仕方ないよな。」
「仕方ないねん。」
当たり前に予定調和の別れ話。
「向こうに家族おるし、やっぱり家族、大事やし。」
「うん。」
「親の金で来とるから。」
「うん。」
「また、いつかどこかで会えたら……笑って会おな。」
卒業式の三日後、彼女は故郷へと帰っていった。
空港で、僕らは最後に握手をして別れた。
それから六年が過ぎたが、手紙のやり取りなどは全くなかった。彼女は住所も教えてはくれなかったが、しかしそれは逆に僕の助けとなった。少しでもやりとりが続いていたなら、僕は未練を抱えたままその後の人生を過ごさなければならなかっただろう。それが彼女の優しさだと、僕はそう思う事にしていた。
「変わってへんね。」
彼女は昔と変わらない笑顔でそう話す。
「…そうか?ふけたやろ?」
「ううん。変わってへん。」
「……。」
「私は?」
「……変わってへん。」
「へへ。」
彼女の笑顔が照れ笑いに変わる。その仕種も昔のままだった。
「私の勤め先がな、日本の会社と取り引きがあって。今回は通訳代わりで来てるねん。」
「その日本語で通訳?」
「結構評判いいねんで。」
「ふーん。」
「信じてへんやろ?」
「うん。」
カタコトの関西弁の通訳に思わず苦笑いする取引先の日本人の表情が容易に想像できた。
「アキはあれからどうしてるの?」
「アルバイト雑誌の営業やってる。」
「アルバイト?」
「いや、アルバイト雑誌作ってる会社の、正社員。」
「ややこしいな。」
「うん。」
そう言って二人笑い合う。懐かしい感覚だった。六年のブランクが開いても、不思議と違和感は無い物なんだなと思った。
「なあ。」
「ん?」
「私と別れてから、何人くらい彼女できた?」
「四人……かな?」
「へえ、結構多いな。今は?」
「今はおらん。」
「そうか……私みたいないい女はなかなかおらんやろ?」
「うん。」
「……真面目な顔してそんな風に返されたら、どう言っていいのか分からんわ。」
「お前は?もう結婚とかしてんの?」
「ん……どう思う?」
「結婚してるな。」
「どうやろ?」
「きっとバリバリの七三分けと太極拳と自転車の良く似合うナイスガイな中国人や。」
「なんやそのイメージ。偏見や。」
電車がやってきて踏切を通過する。僕らは会話を止めてそれを見送る。鐘の音が止んで遮断機がゆっくりと上がった。
「んじゃ……そろそろ行くわ。」
「うん。」
「元気でな。」
「そっちも。……元気でな。」
そして僕は彼女に背を向け歩き出した。僕が渡り終えたところで、間隔の狭い踏切は再び、カン、カン、カン、と鐘をならし始めた。振り向くと、彼女はまだ僕を見送っていた。変わらない彼女の笑顔。僕は何か声をかけようと思うが言葉が思い浮かばない。電車の音が近付いてくる。彼女は笑顔のまま、大きな声でこう言った。
「再見!」
そして彼女は僕に背を向け、再び彼女の人生を歩き出した。
あの日、彼女が僕の口に放り込んだのはチャイナマーブル。
噛み砕くには硬すぎて、口の中でなかなか減らない。