プロローグ
「第8回幻冬舎ルネッサンス セカンドライフ小説コンテスト」で最終選考に残った作品
幽霊坂で、ひとつのわらべ唄が流行っていた。
――指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲~ます。
というのは各地に伝わる、子供たちの約束を守るためのわらべ唄だ。
だが、幽霊坂ではこう唄う。
切っ~た、切っ~た~指切っ~た。嘘ついたら~階段から蹴落とすぞ~
切っ~た、切っ~た~指切っ~た。嘘ついたら~包丁で刺し殺すぞ~
切っ~た、切っ~た~指切っ~た。嘘ついたら~牢屋に閉じ込めるぞ~
随分、怖い内容だが、もともと指切りの唄は怖い内容だ。指を切る、針を千本飲ませるなど、嘘をついた罰にしては重すぎる。
指切りは、もともと江戸時代の遊郭にあった習慣で、遊女が惚れた相手に小指の第一関節から切り離して送ったことが由来となっている。指切りの後に続く、“げんまん”とは一万発の拳骨のことで、拳骨の万発や針千本の千本は、数が多いことを現わしている。針千本は魚ではなく、裁縫の針を千本ということだ。
要は小指を切り落とし、ぼこぼこに殴って、いっぱい針を飲ませてやるという意味なのだ。十分に恐ろしい内容だ。
だから、幽霊坂の指切りの唄が特にひどいという訳ではなさそうだ。ただ、罰が少し具体的なだけだ。
この奇妙な指切り唄が流行ったのは、幽霊坂にある侍従屋敷で起きた事件が原因だろう。幽霊坂にあるひときわ大きな屋敷は侍従屋敷と呼ばれていた。
屋敷の当主だった日野駒子が出羽の戦国大名、最上義光の子孫を称していたからだ。最上義光は受領名として出羽侍従を称していた。この為、最初、出羽侍従屋敷と呼ばれていたものが、短くなって侍従屋敷となった。
侍従屋敷には最上義光の血を引くという、昭和の大女優、春野駒子が住んでいた。そもそも屋敷が侍従屋敷と呼ばれるようになったのは、春野駒子が住んでいたからだ。春野駒子は「自分は最上義光の子孫であり、駒姫の生まれ変わりである」と公言していた。
駒姫の悲劇については、知る人が多い。
駒姫は最上義光の次女として生まれた。長じると輝くような美しさを放つようになり、東国一の美女と呼ばれた。その噂は京にまで届いたと言う。時の関白、羽柴秀次はその噂を聞きつけ、是非、側室にと望んだ。義光は秀次の要求を固辞し続けたと言うがどうだろう。
結局、義光は秀次の要求を断り切れずに、娘を差し出すことにした。
ところがその直後、秀次は豊臣秀吉の勘気をこうむり、高野山に幽閉された。謀反の疑いをかけられたのだ。
結局、駒姫が京に到着したその日に切腹となり、駒姫もそれに連座し、処刑が決まってしまう。だが、駒姫は、他の正室や側室と違い、秀次と顔すら会わせておらず、実質的には側室というより他人に等しかった。
義光は徳川家康の力を借り、助命嘆願に奔走し、秀吉も事情を聞かされて駒姫の処刑を取り止めるよう早馬を出すが、一足遅く、駒姫は三条河原で処刑された後だったという。
駒姫は僅か十五歳で花の生涯を終えた。
これが人口に膾炙した駒姫の悲劇である。
そして、駒姫の生まれ変わりを称した昭和の大女優、春野駒子にも悲しい悲劇が訪れる。芸能界だ。美人女優は数多いるとは言え、駒子の美貌は際立っていた。ドラマの脇役でデビューを飾ると、次回作では銀幕デビューを果たした。任侠映画で侠客の娘を鬼気迫る演技で演じ、単なる美人女優ではないことを世間に知らしめた。
侍従屋敷を手に入れたのも、この頃のことだ。古びた屋敷を二階建ての巨大な洋館に改装して、深窓の姫君のように暮らした。
そして、結婚だ。
当時、人気絶頂だったにも係わらず、突然、結婚を発表して周囲を驚かせた。相手は阿舎利大志、阿舎利工業、現在はアゼリ・グループとなっている、輸送機器メーカーの創業者だ。阿舎利工業のテレビ・コマーシャルに出演したことが縁で二人は知り合った。
当時、大志には妻と娘がいた。泥沼不倫の挙句、大志は妻と離婚し、駒子と再婚した。大志は世田谷にあった豪邸を妻と子供に明け渡し、駒子が住む侍従屋敷へと移った。侍従屋敷は二人の愛の巣となった。
そうまでして一緒になった二人だったが、その結婚生活は短かった。
駒子は急性骨髄性白血病を発症、七カ月の闘病生活を送り、肺炎を併発して亡くなった。享年二十七歳、臨終の言葉は「侍従屋敷へ・・・」だった。
駒子亡き後、大志は再婚し、三人の息子が生まれた。再婚相手が女優であったこと、再婚が駒子の死から二年後であったことから、心から駒子を愛していなかったと責める人間が多かったが、大志は駒子との思いでの詰まった侍従屋敷に死ぬまで住み続けた。
さて、大志亡き後、会社は長男の志経が継いだ。
志経は大志を凌ぐ経営センスの持ち主だった。阿舎利工業は志経の代に躍進を遂げ、アゼリ・グループへと発展した。今時珍しい、モーレツ型のワンマン社長だったようで、部下に厳しく、独断専行が多かった。但し、業績が右肩上がりで伸びて行き、従業員の賃金も右肩上がりにアップして行った時期だ。批判が表に出ることは無かった。
全身全霊を込めて会社の経営に打ち込んでいたようで、志経は独身で浮いた噂ひとつ無かった。そして、子供の頃から育った侍従屋敷に住み続けた。
志経だけでなく、弟の志功、志尊も、侍従屋敷に住み続けていた。
その志経が五年前に死去した。
事故だった。侍従屋敷内の階段から足を踏み外して転落、階段の手摺に激突した衝撃で首の骨を骨折し、亡くなった。
階段には頑丈な手摺があり、一階の登り口にある親柱と言われる手摺を支える太い柱は石造りの立派なものだった。
転落の際に、そこに首をぶつけたようだった。
志経の突然の死に、関係者は皆、ショックを受けた。だが、その死を惜しむ声は多くなかったようだ。その、あまりに狭隘で猛烈な性格から、人望は無かった。
侍従屋敷の周囲では、住民の間、特に子供たちの間で、指切りの唄との符号が話題になった。
切っ~た、切っ~た~指切っ~た。嘘ついたら~階段から蹴落とすぞ~
志経は指切りの唄の通り、階段から落ちて亡くなった。
人は駒子の祟りだと噂したが、志経は大志と後妻の間の子供だ。駒子と血縁はなかった。
駒子が使用していた侍従屋敷の寝室は、駒子の死後、大志が密閉してしまった。長い間、開かずの間となっていた。屋敷の中で最も日当たりの良い場所にあることから、「勿体ない」と志経は封印を解いて、改装してしまった。駒子が大事にしていた寝室を、最後の時まで戻りたがっていた寝室を改装してしまったことから、駒子の恨みを買ってしまったと噂された。
そして侍従屋敷のある坂で幽霊が出ると噂になった。駒子の怨念か、志経の亡霊か分からないが、塩見坂と呼ばれていた坂道は、何時しか幽霊坂と呼ばれるようになった。
さて、アゼリだが、会社は弟で、当時、取締役になったばかりだった志功が継ぐことになった。志功は兄と違って温厚な性格で、人を怒鳴りつけたりするようなことは皆無だった。だが、経営の才は持ち合わせていなかったようで、右肩上がりで成長を続けていたアゼリ・グループは志功の代になって失速が目立つようになった。それでも、志経時代からの有能な部下が支えとなり、五年の間、大過なく会社を運営して来た。
人付き合いが苦手なことは、この兄弟共通の性格のようで、志功も独身、しかも侍従屋敷に住み続けていた。
末弟の志尊は「プロのゲーマーになるんだ」と言って、侍従屋敷を出たものの、三十手前で定職につかず、やはり独身だった。
こうして侍従屋敷には志功が一人で暮らしていた。




