数秒で砕かれた勇気に押されて
憩いの大樹の下で、隣の夕夏はあの頃のように澄んだ目で、鏡でこの世界を映していた。そんな姿を含めて俺は自分の鏡で世界を映していた。
「……ふぅ。うん。だいぶいい感じ」
「戻ってきた?」
マスクで厳重にガードをした夕夏は、その首を縦にコクコクと振った。マスクをしているせいで目元がフォーカスされてくっきりと見える。目じりが上がっているその目がマスク下に笑みを浮かべると、俺の心臓をぐっとつかんで離さなかった。
少し前までは、鏡に残るその曇りが拭いきれずにいた。それにずっと苦しんでいたのを知っているからこそ、こうしてのびのびと曇りなき鏡で世界を映せているのを見るととても暖かな気持ちになった。
「……なんか、変に懐かしい気分になる」
「ん、どーしたのさ急に」
「あいや、うん。なんか、ね」
ふと、あの銀杏が降るこの木の下を思い出した。まだ入って間もないころ。サッカーをやめたことにまだ罪悪感とかを感じていた頃だ。
あの頃はずっと、サッカーを捨てたという自戒に苛まれていた。自分が一番不幸だという顔をしていて、見る人から見ると中々痛々しい人だっただろう。
「ずっと苦しむものだと思ってたから」
「苦しむ?」
「サッカー辞めて、ずっと後悔すると思ってた。けど夕夏がいてくれたからすぐに乗り越えられた」
あの時、出会ったのが夕夏で良かった。勧められたのが文芸部で良かった。あの頃はそう思えなかったけれど、今は素直にそう思える。
「だからまあ……ありがと。夕夏」
そういうと、夕夏はマスクで隠した顔をフイッと背けてしまった。
「え?」
「……ないで」
「ん?」
よく聞き取れなくて、耳を近づけた。すると、夕夏は手で俺の顔をグイッと遠ざけた。
「い、今こっち見ないで!」
押し上げられるようにつぶれる俺のほほ。恥ずかしそうな仕草で俺の顔を押す夕夏。そんな今ある当たり前が、今はなんだか楽しく思えた。
「あの、先輩夕夏は?」
「夕夏ちゃん?見てないけど……」
ひばり先輩は不思議そうにそう答えた。という事は、先輩が来た方とは逆側に逃げたのだろう。
「あ、ありがとうございます!じゃあ俺もう行きます!」
そういい、俺はひばり先輩の来た方角とは真逆のほうに走り出そうとした。
すると、袖に少し重みを感じた。その感じた重みに、俺は足を止めた。
「……あの、ひばり先輩?」
ひばり先輩が
「……あ、のさ」
少し俯いて、うっすらと見える目がきょろきょろと動いているように見える。頬は夕日のせいか紅くなっていて、その顔には鏡で見たことのある見覚えを感じた。
あのさ、と言ってからどれほど経っただろう。日差しは全然動かないし、時の流れが重たく感じる。やがて、その空気に耐えかねたのか、話題を振ったひばり先輩が重々しく口を開いた。
「……私、じゃだめ?」
「……」
「私……私は、香月くんのことが好き」
それは、ひばり先輩の勇気をいっぱいに詰め込んだロケットのような言葉だった。玉砕覚悟というにふさわしい言葉。思わず、この心臓が跳ねてしまった。
「先輩?」
「香月くんが必死になって、誰かを助ける姿をたくさん見てきた。本当に、色々な人に手を差し伸べて、私にも手を差し伸べてくれた。優しくて、人のことを一番に考えられる香月くんが、いつの間にか大好きになってました」
きゅっと袖を握った手に力が入っていく。逃げ出さないように、じゃない。もし一縷の望みがあるのなら、その望みを手放さないようにだった。
きっと俺は、少しでも悩んであげるべきだった。先輩の夢を、幻を。少しでも守ってあげるべきだった。ちょっとの希望くらいならあったのだと。完全な負け戦なんかじゃなかったんだと。
「ごめんなさい。先輩の思いには、応えられません」
「っ……!」
だけど、俺はそんなことできなかった。一瞬でもひばり先輩が横にいる想像ができたなら、そういうことも考えられたのだろうか。
なんて、言い訳を考えながら、俺は掴んでいる手をそっと引きはがした。先輩は、多分泣いていた。
「その……嬉しいは嬉しいです。だけど俺は……」
と言葉を言いかけると、先輩はその頭をフルフルと横に振った。
「……夕夏ちゃんね、さっきすれ違ったよ」
「え?」
先輩は、裾を引っ張って自分が歩いてきた方向に引っ張った。
背中に手を当ててグイグイと押す。震える手で押しながら、少し上ずった声で言葉をぶつけてきた。
「泣いてたからさ。だから、香月くんがまたヘタレなことしたんだって思って。君の背中押すために、わざと演技したんだよ?」
「……はは。そんなこと、する必要あります?」
そう聞くと、先輩は俺の背中を突き飛ばした。
「だって、いつまでたっても本音伝えないんだもん。だからここは、私の勇気も貸してやろうかなって思って」
「……そうですか」
「ほら、行った行った!早くしないと夕夏ちゃん帰っちゃうよ~?」
俺は、ひばり先輩がそう話している間、振り返ることができなかった。ただその言葉を、背中できちんと受け止めていた。
「……ありがとうございました。先輩」
ひばり先輩が、一体どういう顔をしていたかわからない。でも一つだけ、顔を見なくたってわかることがあった。
「……本当のことは、最初だけしか言えてないじゃないですか」
自転車に乗り込み、自分史上最も早い時を超える勢いで漕ぎだした。
ひばり先輩が静かに泣く部室を一切振り返ることせずに。




