強くなったと、ただ錯覚していただけだった
一週間をかけて、俺たちはそれぞれ見てきた「挫折」をノートにまとめた。ある時のそれは、希望が見えるもの。ある時のそれは、地獄の底に縛り付けられるもの。自分とは違う類の挫折の数々は、俺の価値観に多少なりとも変化をもたらしたように思えた。
今日はそんな挫折の数々を見せ合う日。夕夏や先輩の見てきた挫折の数々も、俺とは違うものばかりだった。
「……なるほど、何もできないことに対する自己嫌悪に似た挫折……。こういうのもあるのね……」
「香月、やっぱ挫折に関してのアンテナ高いんだね。読んだら確かにって思うことがたくさんあるよ」
三人でノートを読んで意見を取り込む。夕日の差すこの時間は、挫折にうってつけなようにも見えた。
妙な感覚だ。見て、理解して、考えて。取り込めば取り込むほど、挫折というものの実体はぼやけていくよう。濃い霧が、手を伸ばせば伸ばすほど空気に溶けて薄まっていく。
その感覚に思わず二人を見た。どうやら俺とおんなじ感覚らしく、皺寄せた眉間が、この作業の難しさを物語っていた。
「ぶちょー、どうです?」
「そうねぇ……うん。なんというか、理解したものが次の理解に押しのけられるみたいな……。終わりのない迷宮みたい」
「挫折って言っても、状況が違うだけじゃなくって、感じ方も違いますからね」
「ぶちょーのノートも香月のノートも、言ってることはわかるんだけど、でもいまいち理解しきるまでは踏み込めないんだよねぇ……」
どうやら、俺含め三人とも、挫折が何かをつかむことができなかったようだ。先輩の力になりたいと思っているのは本当だが、本気で見出そうと思って見つめるそこに、路頭に迷うような顔をした俺たちが顔を見合わせているだけだった。
「う~ん……。やっぱり、話を聞くとかそういうのじゃなくって。自分で経験しないとだめなのかな……」
困り果てたような顔をして、顎に手を当てて唸った。
先輩はそういうが、俺はそれをお勧めできない。サッカーがなくなったあの時。あの絶望に満ち満ちたような挫折は、あの少しの期間を見るに堪えない地獄に変えた。あの地獄を味わうと知っていて、人にそれを勧めることはできない。できるわけない。
夕夏の顔を見てみたが、同じように険しい顔をしていたからきっと同じようなものなのだろう。
そう思ってふと、夕夏の過去の挫折が気になった。
バレーをやめたことは知っているし、そこから恩師に出会ってその挫折を乗り越えたのも知っている。だが、そもそも挫折してしまった理由が何なのか。恩師に出会って、どんな会話から挫折から立ち直ったのか。そんな夕夏の過去は、俺はなんにも知らない。
そのことが、ちょっと寂しくて。けどそれに踏み込みたくはなくて。聞くか聞かないかという二者択一の状況で、結局俺は踏み込まない事を選択し続けた。
「……香月?どうしたの、そんな遠く見つめちゃって」
「え、ああいや……」
ただこの状況では、俺が踏み込まないのは悪手極まりない。俺と先輩とで比べれば、その問題に踏み込むべきは圧倒的に俺だ。部長の先輩と、部活動を共に過ごす相棒ともいえる仲間。聞きづらい話を切り出してくれと頼むなら、誰だって後者を選ぶに決まってる。
だから多分。先輩に協力するのなら、俺は夕夏に挫折の経験について聞かなければいけないのだ。聞かなくちゃ、いけないんだけど……。
「……」
「あの、香月くん?具合悪いなら、帰っちゃってもいいからね?」
「え、?あ、大丈夫です……」
心ここにあらず、と言った返答をしてしまった。心はこの瞬間、夕夏に嫌われたくないという気持ちでいっぱいだった。夕夏にそんなことを聞いて。古傷をえぐるような真似をして夕夏に軽蔑されたくない。自己保身の気持ちを抱く自分に嫌気を覚える。
「……こーなったら、あたしが奥の手を使うしかないですね……」
「奥の手?って何?」
ひばり先輩の問いに夕夏は、大きく息を吸った。
「……あたしの、挫折。その経験は、このノートのどこにもなかったから。もしかしたら……」
そういう夕夏の手は、震えていた。
そういう夕夏の口は、震えていた。
そういう夕夏の目は、それでも決意に満ちていた。
「……夕夏、ごめん」
「ちゃんと聞いて。じゃないと許さないから」
夕夏は俺を見ることなくそういった。
俺が勇気を出せなかったから、夕夏を余計に傷つけてしまったかもしれない。でももう後悔でしかない。我ながら、何と情けない。
「……あれはですね。中学三年生のころの話です」
夕夏は、そうして口を開いた。
それは聞くもおぞましい、地獄のような挫折だった。




